汀の島

小貝川リン子

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七月第三週④

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 翌日の放課後も、汀は学校から走って帰ってきた。俺は、四時前には宿に戻って待っていた。汀は、帰るなりすぐに制服を脱ぎ捨てて、タンクトップとハーフパンツに着替え、島草履を突っかけた。
 
「今日はねぇ、島の名所に案内してあげる!」
 
 汀は、裏庭にある物置小屋から自転車を運び出し、後ろの荷台に乗るようにと、俺に顎をしゃくって示した。一昨日俺が借りた自転車と同じものだった。
 
「これ、お前のだったんだな。勝手に借りて悪かったな」
「いいよ。ばぁちゃんもたまに乗ってるし。でも、お客さんに貸すことはあんまりないから、他の人には言わないでね。岳斗さん、ばぁちゃんに気に入られたね」
「つーか、俺が後ろ乗るの? 逆のがよくねぇ?」
「でも、岳斗さん道知らないじゃん」
「いや、教えてくれたら全然行けるし。ほらほら、場所変われ」
 
 俺はハンドルを握り、サドルに跨った。汀は、渋々ながら、荷台に横座りで腰掛けた。
 
「それじゃ、とりあえず真っ直ぐ行って」
 
 宿を出発して、自動車がすれ違うのは無理そうな細い道を道なりに走る。突き当たりで右折して、またしばらく道なりだ。島内には小さな集落が四つあるのだが、桃原荘があるのは一番西の集落であり、隣の集落までは少し距離がある。視界は開けていて、見えるのは一面畑ばかり。途中、農業用の広い貯水池があった。
 
「水、濁ってんな」
「こんなもんでしょ。あっ、そこ左」
「どこ」
「そこだってば」
「ここか?」
「違う違う、次の道!」
「もっと正確に案内しろよ、迷うだろ」
「岳斗さんがよそ見してるせいでしょ。そこだよ、建物があるとこ」
 
 車体をふらつかせながら、俺は左折した。隣の集落に入ったらしいが、掠める程度ですぐに抜けた。するとまた、風景は畑一色になる。道は緩やかな上り坂で、荷台が重かった。
 
「そろそろ見えるよ」
 
 突然、汀が自転車を飛び降りた。反動で車体が揺れた。汀は、自転車を追い抜いて駆けていく。
 
「ここだよ! 海以外で唯一の観光スポット」
 
 単調な視界に突如現れたそれは、何というか、何とも言えないものだった。石垣と同様、珊瑚の石灰岩をうず高く積み上げた何からしいということは分かった。城跡の地図記号のような形をしている。階段状のピラミッドのようでもある。ただ、高さはあまりない。集落の外れにあり、比較できる建造物は見当たらないが、平屋の民家よりも低いと見える。
 
「ここから登れるんだよ」
「マジで? 崩れない?」
「へーきへーき」
 
 盛られた石に沿って、緩い螺旋を描くようにして階段が作られている。階段もまた、珊瑚の石を積み上げて出来ている。汀は平気だと言うが、俺は姿勢を低くして、一歩一歩慎重に登った。階段といっても手摺りはないし、角度は急だし、そもそも石を積んで作っているから、足下が凸凹していて安定しない。
 
「やーい、岳斗さんのビビり」
 
 汀がにやけた顔で揶揄う。
 
「別にビビってねぇし」
「ふーん」
「いや、ほら、あれだよ。もし崩れたらさ、島の人に怒られちゃうだろ」
「崩れないって。ちゃんと手入れしてるもん」
 
 頂上には、これといって特筆すべきものはなかった。方角を刻んだ古い石板と、香炉のような平皿があるだけで、周囲は雑草が生していた。落下防止のための柵で囲われているわけでもなく、ただの平坦な台の上という感じだった。
 
 しかし、見晴らしは最高だった。周囲に何もないから、遠くまで見通せる。内陸側は、だだっ広いサトウキビ畑が続いており、その向こうに民家の屋根が見えた。海側へ目を移せば、弧を描く水平線の彼方に、微かに島影が見えた。汀は海を指差した。
 
「あそこ、西表島」
「ああ、あれだろ。ヤマネコがいるっていう。ここから見えるんだな」
「岳斗さん、行ったことある?」
「ねぇな」
 
 汀は、縁の部分に足を投げ出して座った。
 
「昔はここで、海を通る船を見張ってたんだって。船が通ったら、狼煙を上げるの。そしたら、あそこに見える西表島とか、それよりもっと東にある他の島にも順番に伝わっていって、最終的に石垣島まで届いたらしいよ」
「本当かよ。結構離れてるだろ」
「ほんとだよ。学校でも習ったもん」
「だとしたら、昔の人は大したもんだな」
 
 どちらにしても、歴史的価値のある遺構だということには変わりないだろう。若干崩れかけている感じからして、古い時代に造られたものだということは明白だった。
 
「しかし、唯一の観光スポットがこれかぁ……」
「あーっ。今の、聞き捨てならないな」
 
 俺が呟くと、汀はむっと頬を膨らませた。
 
「高いとこ、楽しいじゃん」
「高いったって、そんなに高くねぇし」
「岳斗さんが高いとこ苦手だからでしょ」
「いや、そんなの関係なくさぁ……。島の人の前でこんなこと言っちゃ悪いけど、大分ショボいぜ」
 
 汀は、ますます頬を丸くする。
 
「分かった! そんなに言うなら、おれのお気に入りの場所、もう一か所連れてってあげる」
 
 立ち上がり、尻を叩いて泥を落とした。
 今度は、自転車の漕ぎ手を交代した。汀が前で、俺が後ろだ。正直不安しかないが、汀が譲らなかった。仕方なく、俺は荷台に跨った。
 
 汀の細い腕に、一般的なママチャリのハンドルは太すぎる気がした。小さい尻に対してサドルが分厚すぎるし、短い足は地面にぎりぎり届かない。しかし、体幹がしっかりしているのか、ふらつくことなく漕ぎ出した。
 
 緩やかな坂を下り、集落を抜け、貯水池の脇を通り、その後はひたすら、畑の間を縫う細い道を進んだ。熱い風が吹いて、サトウキビがざわめいた。比較的新しい、アスファルトの道路に出たかと思えば、すぐにまた、石ころと砂利ばかりの細い道に入る。集落からかなり離れて、島の最南端へ近付いてきた。鬱蒼とした草むらのそばで、汀は自転車を停めた。
 
「ここから歩くよ」
 
 自転車を降りてからが、結構長かった。道らしいものは一応あるが、完全に獣道だ。ジャングルのように生い茂る草本を掻き分けて、時々顔に当たる草葉を跳ね除けて、歩くしかなかった。
 
「まさか、ハブとか出ねぇだろうな」
「島にハブはいないよ。岳斗さん、またビビッてる」
「ハブは誰でも怖いだろ」
 
 緑のトンネルの向こうに、ようやく明かりが見えてきた。出口だ。薄暗い草藪から顔を出すと、眩しい太陽が網膜を焼いた。
 
 目の前は断崖絶壁で、その先は雄大な海だった。峻険な岩場に荒々しい波がぶつかり、白波となって砕け散る。覗き込んでみて、その迫力に足が竦んだ。右も左も、この辺り一帯は切り立った崖になっているらしかった。あの美麗なニシの浜と本当に同じ島にあるのかと疑いたくなるような、荒涼とした風景だった。
 
「岳斗さん、こっちから下りられるよ」
 
 汀が手招きをする。俺は耳を疑った。
 
「はぁあ? お前、冗談は感心しないぞ」
「冗談じゃないよ! ほんと、こっちから下りられるんだってば」
 
 崖の下には、確かに、坂道らしきものが続いていた。道というよりは、険しい岩場だ。落っこちたら大怪我では済まないだろうが、岩場を伝って下へ下りることは不可能ではないように見えた。
 
「行かないの?」
「いや~……」
「怖いんだ」
「いやいや、俺はスニーカーだからいいけど、お前サンダルだし、危ねぇぞ」
「大丈夫だよ。今までに何回も来てるもん。小学生でも自力で下りられるのに、岳斗さん、小学生以下じゃん」
「おン前、大人をバカにするのも大概にしろよな」
「じゃあ行けるよね。大丈夫、気を付けてれば落ちないから」
 
 汀は意地の悪い笑みを浮かべて、岩場を下り始めた。ここまで煽られては、俺も後には引けない。厳つい岩々にしっかりと掴まりながら、一歩ずつ慎重に下りた。軍手を持ってくればよかった。これはある種のアドベンチャーである。少年の時分なら、異様に張り切って興奮して、落下はせずとも怪我はしていたかもしれない。
 
 ようやっと下り立った崖の下は、猫の額ほどのビーチになっていた。砂はさらさらの白砂で、足首まで沈んでしまうほどふかふかしていた。背後はもちろん崖、左右も崖に挟まれている。まさに秘境だ。視界にあるのは、鮮やかな青だけ。何色と表すのが適切だろうか。空は深いコバルトブルー、海は爽やかなターコイズブルーとでも言おうか。浅瀬に、珊瑚礁の影がくっきりと映る。沖合いの波が、太陽を浴びてギラギラ煌めいた。
 
「プライベートビーチっぽいでしょ。観光客には全然知られてないんだ。島の人はみんな知ってるけどね」
「俺、観光客だけど」
「うん。だから、岳斗さんだけ特別だよ。他の人に言いふらさないでよね」
 
 汀は、足だけ波に濡らした。流れが速いので、遊泳は禁止なのだそうだ。
 
「昔、波に攫われて帰ってこなかった子供がいたんだって。いくら探しても見つからなかったのに、数日経ってから、ここの浜に死体で打ち上げられてるのが見つかったって」
「おい、変なこと言うなよなぁ。こんなに綺麗なのに、嫌な気分になるだろ。もしかして、幽霊とか出る?」
「うそかほんとか、分かんないけどね。海で死ぬ子供なんて、昔はいっぱいいただろうし」
 
 俺は、岩場の陰で休憩した。柔らかい砂が、疲れた体を包み込む。汀もじきに水遊びをやめて、俺の隣に来た。
 
「あの岩、ハート形に見えるよね」
「そうかぁ?」
「うん。ほら、こう」
 
 波打ち際に佇む岩の輪郭をなぞるように、汀は空中で指を動かした。そう言われると、多少無理があっても、ハート形に見えないでもない。
 
「ハート形ねぇ……。案外ロマンチストなんだな、お前」
「それ、いい意味?」
「別に、悪い意味で言ったわけじゃねぇけど」
 
 ふと隣を見れば、汀がじっとこちらを見つめていた。随分と真剣な眼差しだった。
 
「何。喉渇いた?」
 
 汀は答えず、首を振った。
 
「岳斗さん。ここ、観光客も来ないけど、島の人もあんまり来ないんだ」
「へぇ。やっぱ幽霊のせい?」
「ううん。ここね、特にここの岩陰ね、周りから見えないようになってるでしょ。上から覗き込んでも見えないでしょ。だから、昔は、男女がこっそり逢引する場所だったんだって」
「逢引なんて、難しい言葉知ってんな」
 
 汀は、膝を抱えて三角座りをした。
 
「昔、琉球の王子が島に来て、島の若い娘と恋に落ちたんだって。でも、身分が違いすぎるでしょ。結婚なんてできっこないし、気軽に会うのも憚られるわけ。だから、ここの岩陰で、人目を忍んで逢瀬を重ねてたんだって」
 
 汀の小指が、俺の小指に触れた。
 
「……それで、王子様はどうなったんだ」
「娘を置いて、琉球に帰ったよ。いつか必ず戻ってくるって言い残して。でも、いつまで待っても帰ってこなかった。王子との間に生まれた赤ちゃんを抱いて、娘はずっとずっと一人ぼっちで……」
 
 小指がそっと絡まった。俺は、何となくまずい雰囲気を感じ取っていた。今聞かされた昔話も妙だし、汀の纏う空気がさっきからずっと変だ。この閉ざされた空間に二人きりでいるのが、そもそも良くない。
 
 汀はふと顔を上げ、じっと俺のことを見つめてきた。何か言いたげに、桃色の唇が震えている。それを言わせてなるものかと、俺は勢いよく立ち上がった。
 
「帰るか」
「……うん」
 
 汀は、俯いて頷いた。
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