汀の島

小貝川リン子

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プロローグ

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 南国の太陽をそのまま切り取ったような、目が覚めるほど鮮やかなハイビスカスの花が、今年も咲いた。日当たりの良い二階のバルコニーで、プランターの土がひたひたに濡れるまでたっぷり水をやると、花は一層生き生きとして、艶やかにその身を開く。これが、毎朝欠かせない私の日課である。
 
「あなた。そろそろ」
 
 白い格子のフランス窓を開けて、妻が言った。大判のストールを肩に掛け、ペットのペルシャ猫を抱いている。ふさふさとして上品なホワイトの毛並みと、宝石のようなブルーの瞳が特徴的な、妻の愛猫である。私は、妻に軽く口づけをして、オーダーメイドであつらえたスリーピースのスーツに着替えた。
 
 ボディの曲線が都会的で美しいレクサスのSUVを運転して、私は、都内のとあるハイエンドホテルへと赴いた。三階の宴会場は、既に賑わいを見せていた。私が会場を一周する前に、すっきりとしたシルエットのブラックスーツに身を包んだ若い男が、いそいそと浮き立つような足取りで、こちらへやってきた。
 
「た、高峰先生ですよね? いやぁ、お会いできて光栄だなぁ」
 
 彼は名刺を差し出した。このパーティを主催する出版社の社員で、今春、別の部署から文芸誌の部門へ異動してきたらしかった。私は、無機質な笑顔を張り付けた。
 
「私事で恐縮なのですが、私、ずっと昔から先生の大ファンで、本も全部買って読んでます。それで、あのぅ、よろしければ、サインをいただけないでしょうか」
 
 レザー製のクラッチバッグから彼が取り出したのは、先月刊行したばかりの、私の著書だった。私は、差し出されたペンと単行本を受け取って、表紙の裏の、真っ白な見返し部分に、素早く丁寧にサインを書いた。彼は、わざとらしいほど恭しく本を受け取ると、ぺこぺこと頭を下げた。
 
 今日の主役は、私ではない。つい先日、めでたく新人文学賞を受賞した、新進気鋭の高校生作家のための祝賀会だ。彼は、初々しいブレザー姿で壇上に立ち、金の屏風を背にして、慣れない挨拶の言葉を一生懸命述べている。時折、困ったようにマイクを握りしめ、司会者の方をちらちらと見ては、照れ笑いを浮かべて頭を掻く。
 
 私は、シャンパングラスを片手にそれを見ていた。担当編集が、皿に料理を盛り付けて持ってきて、「次回作も期待していますよ」などと腰を低くして急かした。作家仲間とも当たり障りのない世間話をし、互いに世辞を言い合った。ダイヤモンドを無数に散りばめたような豪奢なシャンデリアが、高い天井にいくつもぶら下がり、縦にも横にも広い宴会場を、人工的な輝きで照らしていた。
 
 パーティから帰ると、妻が花壇に水を撒いていた。無地のロングスカートに紺のブラウスを合わせて、日除けにツバの広い帽子を被っている。
 
「おかえりなさい。早かったのね。梓も、ピアノのお稽古から帰ってきてるわ。すぐお夕飯にしましょ」
 
 玄関を開けるその音に、娘がすかさず反応して、「パパ!」と高らかな声を発した。元気よく私の胸に飛び込んできて、今日あった出来事を楽しそうに話し始める。
 
「こーら。あんまりパパを困らせないの。あなた、先に着替えた方がいいわ。皺になるといけないもの」
 
 私は、ジャケットとカバンを妻に預け、ネクタイを程よく緩め、腰を入れて娘を抱き上げた。所謂“高い高い”である。娘は、金切り声に近い、甲高い声で笑った。きゃらきゃら笑う娘を、リビングのソファに勢いをつけて寝かせ、さらに脇腹をくすぐってやれば、娘は涙を浮かべて大はしゃぎする。「もう、二人ともそんなに騒がないの」と、妻は呆れながらも微笑む。
 
 猫にごはんをやって、家族三人でダイニングテーブルを囲んだ。献立は、オニオングラタンスープに、生ハムとアボカドのサラダ、メインディッシュは昼過ぎから煮込んだビーフシチューで、薄切りのバゲットをつけて食べた。私にだけサーモンのマリネが用意されており、娘が欲しがるので、二切れほど食べさせた。デザートは、妻お手製のプリン・ア・ラ・モードだった。
 
 しばしの食休みを挟み、私は娘を風呂に入れた。まだ柔らかい髪を洗ってやり、湯船で十まで数え、体を拭いてやって、ドライヤーをかけた。入れ替わりで妻が入浴し、その間に私は娘を寝かし付けた。お気に入りの童話を諳んじてやれば、すぐに寝てくれる。そうこうするうちに、妻はパジャマに着替え、リビングのソファで寛ぎ始める。
 
 私は、二階のバルコニーへ出た。晴れた夜空を見上げても、星は一つも見えない。目が覚めるほど鮮やかに咲いていたハイビスカスの花は、萎んでいた。しわしわに萎んだ花殻を、私は、ガクごと茎から摘み取った。そして、水差しでたっぷりの水をやる。これが、私の毎晩のルーティーンである。
 
「あなた」
 夜風に誘われて、妻がバルコニーへ出てきた。
「寒くない? 湯冷めしちゃうわ」
 カーディガンを、私の肩にそっと掛けてくれた。
 
「あなた、そのお花だけは、特別大事にお世話するわよね。結婚する前から大事にしていたもの。昔に比べると、随分大きく成長したけれど、やっぱりあなたのお世話のおかげかしら」
 
 妻は、意味もなく微笑んだ。この花を、私が手に入れ育てるに至った経緯を、この女は知る由もないし、今後知ることもないだろう。私は、彼女に軽く口づけをして、寝室へと誘った。
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