君のいない八月

小貝川リン子

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第二章 初めて

第二章 初めて④

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 精も根も尽き果てて、泥のように眠った。目が覚めた時には、カーテンの向こうはすっかり明るかった。チュンチュンと雀が鳴いている。
 
「――遅刻ッ!?」
 
 瞬時に脳が覚醒した。俺はガバリと起き上がった。急いで時計を確認する。まだ遅刻ではないが、もう家を出ないとまずい。
 
「歩! お前なんで――」
 
 起こしてくれなかったのか、なんて咎める権利は俺にはない。というか、歩に起こしてもらっていたことの方がおかしいのだ。大人なら自力で起きなくては。
 俺の隣で、歩も泥のように眠っていた。素っ裸のまま、薄手の布団を腰の辺りに掛けている。朝の光を受けた白い肌は目の毒だった。
 
「んん……准?」
 
 俺がじっと見つめすぎたせいだろうか。赤く腫れぼったくなった瞼がゆるりと開いた。昨晩泣かせすぎたせいだ。ぼろぼろ零れる涙がもったいなくて、頬や瞼をべろべろ舐めた。しょっぱいのに甘い味がして、それを歩に伝えると真っ赤になって怒られた。
 
「おはよーさん。俺もう行かねぇと」
 
 立ち上がろうとしたが、どうも腰が痛くていけない。今までどんなに重い荷物を持っても腰を痛めたことなどなかったのに、セックスというのは凄まじい運動量だ。
 
「……どこに?」
 
 歩は不思議そうな目をして言った。
 
「どこって、仕事」
「……お前、今日休みだろ」
「……」
 
 そうだっけ。そうだったかも。言われて思い出した。今日が休みだから、昨夜は珍しく晩酌をしたのだった。それで、その後はこいつと初めての……
 俺は起こしかけた体を布団に沈めた。歩は含み笑いを浮かべて俺を見つめる。
 
「てめェの予定も管理できねぇとはな」
「るっせぇ。たまたまだろ。お前こそ、なんで俺の休日を把握してんだよ」
「じゃなきゃ誘わねぇよ」
「……」
 
 えっと、それってどういう意味? 俺が今日休みなのが分かっていて、こうなることを予想していたから、昨晩仕掛けてきたってこと? どこまで計算ずくなんだよ、こいつ。
 
「へェ~? そーんなに俺としたかったんだ~? 歩くんってば、顔に似合わず情熱的ねェ」
 
 皮肉ったつもりだったのに、歩は何も言い返してこないどころか、余裕たっぷりに微笑んだ。
 
「そうだよ。てめェに抱かれたくてしょうがなかった。なのに、てめェが全然その気にならねぇから、なりふり構っていられなくなった」
「っ……」
「本当はもっと早くにこうなりたかった。愛されるセックスはいいもんだな。あんなに気持ちよかったのは初めて――」
「だああああ! やめろやめろ、それ以上言うな! 恥ずかしすぎて蕁麻疹出るわ!」
「んだよ。てめェも昨日、似たようなこと口走ってたろうが」
「い、言ってた? んな恥ずかしーこと、言ったかなぁ!?」
「童貞は好きな人に捧げるって決めてたとか、ガキの頃からおれのことしか見てなかったとか」
「うわあああ、やめてやめて! もうやめて! 素面で聞くと恥ずかしすぎる!」
「昨日も素面だったろ」
「酒入ってたし!」
「酔うほど飲んでねぇだろ」
「いやだから、エッチ中って酔ってる感じになるじゃん! お前ン中すげぇ気持ちいいし、てかお前可愛すぎるし、エロすぎだし、色々口走っちゃうじゃん。セックスであんな感じになるとか、俺ァ全然知らなかったしよォ……」
 
 思い返すと、昨夜の熱がぶり返す。体が熱く火照ってくる。俺は、薄手の掛布団を取り払い、歩に覆い被さった。
 
「ふふ、朝っぱらからお盛んなこったなァ」
「お前のせいだぞ。責任取れ」
「童貞のくせに口だけは達者だな」
「いやもう童貞じゃねぇから! お前で卒業したからね! つかお前こそ、昨日俺にあんだけ泣かされたくせに、なんでそんなに強気なわけ? どっから湧いてくんの、その自信?! トロ顔でヒィヒィアンアン言いながら、ベタベタ甘えてきたくせによォ」
 
 明け透けな物言いで揶揄うと、歩はむっと頬を膨らませた。怒らせただろうか。でもそんな顔も可愛い。軽い蹴りか平手が飛んでくるかと身構えたがそんなことはなく、歩は頬を染めて俺の唇を受け入れた。
 
 *
 
「あれぇ? 准ちゃん、なんか雰囲気変わったんじゃない?」
 
 職場での昼休憩時、早速長谷川さんに見つかった。
 
「なんか、男ぶりが上がったっていうか、磨きが掛かったっていうか? 一皮剥けたっていうかね!」
 
 普段はぼけーっとしているくせに、こんな時だけ目敏いおっさんだ。ただスケベなだけだろうか。
 
「一皮剥けたってのはつまりね……ああ、つまりそういうこと? なんだよ准ちゃん、やっとかぁ~」
 
 長谷川さんは勝手に納得し、俺の肩を叩いた。食べかけの弁当を覗き込む。
 
「おっ、またまた愛妻弁当じゃ~ん! いや~、お熱いねぇ、めでたいねぇ。今度お赤飯炊いて持ってってあげるよ」
「あああもう! うるさいっすね! 俺なんも言ってないっしょ! つか何すか、お赤飯って!」
「こういう時はお赤飯でお祝いしなくちゃでしょ。初めてのアレなんだからさ」
「は、初めてぇ? 何がぁ? 俺のナニはずっと前からアレですけどぉ?」
「やだなぁ、とぼけちゃって。だってさぁ、准ちゃん、」
 
 長谷川さんに耳打ちされて、俺は思わず立ち上がった。顔が火を噴くんじゃないかってくらいに熱い。ついでに、勢い余って椅子を蹴り倒したものだから、周囲の視線がこちらへ集中した。
 
「べっ、べべ、べつにそーいうわけじゃ……! てかなんで知って……?!」
「だって准ちゃん、夜の遊びは誘っても絶対来ないじゃない? 潔癖なだけかと思ってたけど、意外に純情派なんだね。おじさん感動しちゃったよ」
「や、そりゃ、たまたま……」
「大事にしなよ? ようやくできた好い人なんだからさ」
「……」
「オレは嬉しいよ。准ちゃんにもようやく、大切にしたいと思える相手ができたんだなぁって」
「……言われなくても、そのつもりですよ。今度こそ、大切に……」
「ふ~ん……元鞘とか? あっ、幼馴染か!」
 
 全く、今日はやけに勘の冴え渡るおっさんだ。わざわざ訂正するほどのことでもなく、俺は綺麗な焼き色の出汁巻き卵に齧り付いた。
 
「今度オレにも会わせてよ。ついでに、年上好きの若い子でも紹介して」
「いや、アンタ結局それ狙いかよ!? 何が年上好きの若い子だ! いねーよ、んな都合のいい存在!」
「あくまでもついでだから! 准ちゃんの友人として、准ちゃんの恋人には挨拶しなきゃでしょ? そのついでに、年上彼氏募集中の可愛い女の子と知り合えたらなぁって、ホントそれだけだから!」
「んな下心満載のおっさんに誰が紹介なんかすっかよ! 他当たれや!」
「頼むよ准ちゃん。そろそろ独り身は寂しいんだって。オレももういい歳だしさぁ」
「そんなんアンタの都合だろーが! 大体、相手は自分で見つけるもんだろ!」
「見捨てないでくれよォ。オレの春はいつ来るんだ~。人生が冬になっちまうよォ~」
 
 憐れなおっさんだが、俺にしてやれることはない。唐揚げを一つ分けてあげた。
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