君のいない八月

小貝川リン子

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第二章 初めて

第二章 初めて②

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 いってらっしゃいのチューと、歩のあの言葉を糧に、俺は猛烈に仕事に励んだ。長谷川さんには驚かれるし、「彼女と約束でもしてるの?」などと揶揄われた。別に彼女じゃないし、約束もしていないけど、家であいつが待っているから、俺は早く帰らなければならない。
 近年稀に見るスピードで仕事を終わらせ、俺は帰路に就いた。珍しく土産を買って帰ることを思いつき、途中のコンビニでプリンを二つ買った。
 歩と食卓を囲んで、土産のプリンを食べて、お酒なんかも飲んじゃって、最高にいい気分で床に就いた。今晩はいい夢が見られそうだと、そんなことを思いながら俺は目を瞑った。
 ふと、傍らで何かが動いた。歩がトイレに起きたのだろうと思ったが、どうやらそうではないらしい。刺すような視線を感じて、俺は目を開けた。
 
「どした。眠れねぇの?」
「……」
 
 オレンジ色の豆球がやけに眩しかった。逆光で歩の表情は見えなかったが、どこか思い詰めた様子でもあった。
 
「あゆ――」
 
 ああ、まただ。まずいな、と思った時にはもう遅く、唇が重なっていた。
 歩の両手が俺の頬を包む。温かくて柔らかい、滑らかな掌。少年時代と比べれば、重ねた年月の分だけ筋張っていたり骨張っていたりするが、この温もりと肌触りが俺は好きだった。
 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして唇を啄まれる。餌をねだる雛鳥のような可愛らしいキスだが、歩の唇が触っているだけで気持ちよくて、俺はもうどうしていいか分からない。いっそのこと、一生このままでもいいや。歩の唇だけを味わって、一生を終えたい。
 と、そんな呑気なことを考えていた時だ。普通、俺の唇をなぞるにとどまるはずの舌が、突然、その境界を越えてこちら側へ入り込んできた。ぬるりと俺の口内を一周する。
 俺は思わず歩の胸を叩き、押し返そうとした。しかし、馬乗りに乗られていては分が悪い。歩は頑として離れず、唇も離さず、舌を絡ませる濃厚なキスをした。
 
「っ、んっ……んんっ……!?」
 
 まるで溶けかけのチョコレートみたいな舌触り。熱くて甘くて柔らかくて、一瞬で消えて無くなってしまいそうで、だけど永遠に溶けることはない。
 舌を絡めて、唇を吸われ、吐息さえも呑み込まれる。次から次へと唾液が溢れてしょうがない。口の端を伝った唾液は、歩のものでもあったのかもしれない。
 舌を入れるキスってこんな感じなの? 俺の想像を遥かに超える熱量だ。ぬるぬるで、ふわふわで、頭の中までふわふわしてくる。腰の辺りには電流が走り、じんと熱く痺れてくる。
 このままでは本格的にまずい。キスの海で溺れてしまう。快楽の大波に押し流されそうになる理性を、俺は必死に手繰り寄せた。これ以上遠くまで流されてしまったら、それこそ手遅れだ。
 
「っ、は……っ」
 
 快感にやられて力が入らないが、力が入らないなりに全力で、俺は歩を引き剥がした。二人の間を結ぶ糸が、夜の明かりに照らされていやらしく光った。やがて音もなくぷつりと切れる。
 情けなくも息切れを起こした俺の呼吸音だけがうるさく響く。茹蛸みたいに真っ赤にのぼせているのは俺だけだ。歩の表情は、相変わらずの逆光でよく見えない。暗い影が落ち、冷えた空気を纏っている。
 
「おまっ……な、何だよ急にィ。そんなに俺が好きかよ、恥ずかしーやつだな。今朝もなんか変だったしさぁ。急にアクセル全開過ぎんだろ。追突事故でも起こすつもりですかっつーの」
「……」
「な、もう寝よーぜ。お前も眠みィだろ? ほら、おやすみおやすみ」
「…………やっぱりか」
 
 そそくさと寝る姿勢に入った俺だが、歩の渇いた声に顔を上げた。暗がりの中で、初めて視線が絡んだ。潰れた左目は開かない。唯一残った右目には、諦めと自嘲の色が滲んでいた。唾液に濡れた唇を歪ませて、歩は俺を見下し嘲笑う。
 
「……大した慈悲だな」
「は……? え、なに……」
「とぼけるなよ。頼まれもしねぇのに厄介者を背負い込んで、感謝されりゃ満足か? 何がしてぇのか知らねぇが、てめェのくだらねぇオナニーに巻き込むんじゃねぇよ」
「おなに……なんか、お前が言うとめっちゃエロく聞こえるわ」
 
 とぼけたわけでもなく素直な感想を吐露したら、鋭い眼光に睨まれた。
 
「てめェに期待したおれが悪かったのかもな」
「え、ちょ、なんでそんなこと言うの」
「実家に帰らせていただきます」
 
 歩は三つ指をついて頭を下げた。
 一瞬、時が止まったように感じた。視界が狭くなり、意識が遠のいて、耳鳴りが酷くなって、やがて無音になった。
 はっと我に返った時には、歩は少ない荷物をまとめ始めていた。俺は大慌てでその荷物を引っくり返す。
 
「てめェ、何すんだ」
「それはこっちの台詞なんだけどォ!? 何だよ、実家に帰るって! 帰る家なんかねぇくせに!」
「……家くらいある。ないなら見つけりゃいい」
「そーいうこと言ってんじゃねぇのよ! なんで急に出てく出てかないの話になってるわけ!? 意味わかんねぇんだけど!?」
「別に急じゃねぇよ。ずっと考えてはいた」
「はああああ? だったらお前、さっきどういう気持ちでキスしてきたわけ!? 朝っぱらからハート飛ばしてベタベタ甘えてきたのは、一体どーいう了見なんですかァ!? 俺ンこと試してんだろ! 絶対そーだろ! 骨抜きにしたらどーなるかって、楽しんでんだろ!」
「ハートなんか飛ばしてねぇよ。気色悪りィこと言うな」
「いーや、絶対してました! ハート乱舞してましたァ! じゃあなに? 何が不満なんだよ? あんなエッロいキスしてきやがったくせに、なんで急に出てくとか」
「だからだろうが!」
 
 歩が大声を張るのは珍しい。俺が一瞬怯んだ隙に、歩は俺の胸倉を掴み上げた。
 
「てめェこそ、どうしておれのキスを受け入れた? 何のためにおれをここに住まわせてる? その気もねぇのに期待さすようなことすんな。惨めになる」
「な、なんでって、そりゃお前……いちいち言わすなよ。分かんだろ」
「……」
 
 歩は唇を噛みしめた。艶めいた唇に赤い血が滲むのがもったいなく感じて、舐めたくなった。
 
「……あの時のあれは、その場限りの方便だったのか?」
「えと、どの時のどれ……?」
「おれも男だ。てめェの言い分も理解できるつもりでいる。だが……」
 
 罷り間違っても涙一滴零してなるものかと、歩は固く歯を食い縛る。
 
「汚れた体は抱けねェか」
 
 怒りでも悲しみでもない。それは絶望の表情だった。虚ろな微笑みを湛えて、歩は俺から手を離す。
 
「引き際は弁えてる。てめェのお荷物にはならねぇよ」
 
 じゃあな、と離れていく白い手を、俺は追いかけた。捕まえて、指を絡めて、握りしめた。歩が振り払おうとするから、より強い力で引き寄せた。
 
「バカお前。ホントバカ」
「あァ?」
「なんでそう早とちりして、自己完結するわけ? 俺、んなこと一回も言ったことねぇじゃん」
「言われなくても行動で分かんだよ、バカ」
「おい、バカにバカって言うな。余計バカになんだろ」
「てめェが先に言ってきたんだろうが」
「いやさ、真面目な話……俺はお前のこと、その……だ、抱きたいって、思ってるんだけど……?」
「口から出まかせなんざ信じねぇ」
「なんでそーなんの!? めちゃくちゃ本気なんですけど!?」
「だったらなんで今まで手ェ出してこなかった。いくらでもチャンスはあっただろ。おれはてめェからキスの一つももらった覚えはねぇぞ」
「いや、その、それはその……」
「おれがあそこまでしてやってんのに乗ってこねぇっつーことは、答えは一つだろ。じゃなきゃ、不能のインポ野郎だ」
「んなわきゃねェーだろ! 言っとくけどなァ、俺のアレはさっきのエロキスでギンギンだから!」
 
 歩は訝るような目をする。これ以上隠し通すことは不可能だと悟った俺は、とうとう腹を括った。
 
「ダセェからバレたくなかったんだけどよォ……」
「……」
「実は俺、まだ童貞なんだよね」
 
 嘘だろう?といった様子で、歩は目を丸くする。笑われなかっただけありがたいと思うしかない。
 
「……女には困ってねぇとか言ってなかったか……?」
「うん。めっちゃウソ。見栄張りました」
「高校時代に年増女に捕まったりとかは……?」
「ねーよ! 何そのホラー展開!?」
「中学時代に避妊の概念もなくヤリまくったり……?」
「だからしねーって! 俺のイメージそんなんばっかか?!」
 
 歩は、呆れ半分安堵半分といった様子で笑った。
 
「なんだてめェ、童貞だからキスの一つもできなかったのか」
「そーだよ! 悪りィかよ、クソ」
「ファーストキスはさっさと済ませたのにな」
「そ、そーだネ……」
「忘れちまったか? あの時はお前からだったな」
 
 歩が遠い目をして微笑む。あの冬の日のこそばゆさが蘇る。
 ファーストキス。覚えているに決まっている。可愛がっていた野良猫がいなくなった日のことだ。こいつの涙を止めたい一心で、衝動的にキスをした。
 
「お前、ガキの時分の方が積極的だったな」
「考えなしだっただけだろ」
「かもな」
 
 歩の機嫌が直ったことに、俺はひとまず胸を撫で下ろした。こんなことなら、下手に誤魔化そうとせずさっさと打ち明けてしまえばよかった。つまらないプライドに邪魔された。
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