君のいない八月

小貝川リン子

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第一章 巡り逢い

第一章 巡り逢い⑦

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 思い出したことがある。俺の死んだ母親のことだ。あの夏の日よりももっとずっと以前から、俺の手は血に染まってしまっていた。
 物心ついた時から父はいなかった。母は心を病んでいた。彼女はある晩思い立ち、幼い息子と心中を決意した。部屋を密閉し、練炭に火を入れたところで、寝ていたはずの息子が目を覚ました。
 彼女は迷わず息子の首に手を掛ける。先に息子を楽にしてやり、自身も後から追う覚悟だったことだろう。しかし思わぬ反撃に遭う。
 母に殺されかけた少年は、死に物狂いで抵抗した。渾身の力でもって彼女を撥ね除け、死へと誘うその空間から這う這うの体で逃げ出した。
 ビール瓶を振り下ろしたあの瞬間、まるで電撃を浴びせられたかのように、過去の記憶がまざまざと蘇った。灰皿で歩を殴った瞬間、手に伝わるあの感触を、俺は既に知っていた。懐かしいとすら感じたのだ。
 俺が母を殺したのか、放っておいても一酸化炭素中毒で死んだのか、今となってはもう分からない。誰も教えてはくれなかった。どちらにしても、俺は罪人だ。子供を裁く法がなかったというだけの話で。
 
「……だからお前、あんな廃墟みてぇな施設に入れられてたのか」
 
 隣のベッドに寝ていた歩が言った。
 
「盗み聞きかよ。エッチ」
「てめェが勝手にぼそぼそ喋くってたんだろうが。たまたま聞こえちまっただけだ」
「背中、痛くねぇ?」
「別に。てめェの方が重傷に見えるぜ」
「大したことねぇよ。掠り傷みたいなもんだ」
 
 ここは病室だ。白い天井に白いカーテン。硬めのベッドに清潔なシーツ。俺と歩は二人仲良く入院した。
 四階の高さから転落したが、植木や植え込みがクッションになり、軽傷で済んだ。あの男は別の病院に収容されているらしい。詳細は知らないが、命に別条はないようだ。
 
「……おれは、お前が生きていてくれて嬉しい」
「……なに急に」
「ただの独り言だ」
「何それ。つか、俺が前に言ったやつじゃん」
「覚えてるのかよ」
「覚えてるに決まってんだろ。お前こそ、よく覚えてたな」
「……たまたまだ」
「しっかし、我ながらいいこと言ったよなぁ。結構じーんと来ちゃうよね。お前もそうだった? あん時、ちょっとは俺を見直したろ」
「……知らねぇ。寝る」
「えっウソ、怒った? 今ので怒っちゃったの?」
 
 勢い付けて体を起こそうとすると、ひびの入った骨が痛んだ。歩はすっかりそっぽを向いてしまったが、黒髪の隙間に覗く耳が仄かに色付いていた。
 
「……准」
「うん?」
「……ありがとな」
「……」
「それと、悪かった。あの時、嫌がるお前に無理矢理あんなことをさせて、おれの人生に巻き込んだ」
「謝るなよ。俺の方こそ……」
 
 歩の左目から永遠に光を奪った。生涯癒えぬ傷を負わせてしまった。そのことに関して負い目がある。後悔もしているし、責任を感じてもいる。しかし、同時にこうも思う。
 離れ離れになった俺達を繋ぎ止め、再び結び合わせたものは、この傷だったのではなかろうか。互いが互いの人生に深く踏み込み過ぎたから、もう二度と離れることはできないだろう。そう思えば、全ての哀しみも過ちも、きっと無駄ではなかったはずだ。
 
「……歩。お前にまた会えて、俺は本当に嬉しいよ」
「……」
「おやすみ」
 
 窓の向こうは晴れた空が広がっている。一羽のツバメが羽根を光らせ大空高く翻る。おやすみ、と歩の小さな声が聞こえた。
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