君のいない八月

小貝川リン子

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第一章 巡り逢い

第一章 巡り逢い③

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 全ての悲劇の始まりは、やはりあの事件であろう。中学に上がる年の冬、歩の母親が亡くなった。
 歩はしばらく学校に来なかった。俺が歩の顔を見たのは、卒業式が終わり、春休みが明け、入学式が終わってからのことだった。歩は、華奢な体格に合わない学ランを着込んで、小川の畔に座り込んでいた。
 
「ケツ、痛くねぇの」
 
 俺が隣に座ると、歩は目だけを動かしてこちらを見た。
 
「制服、汚れるんじゃね?」
「……それはお前も同じだろ」
「俺はどうせすぐ汚すからいいんだよ」
「……かもな」
 
 少し会わないうちに、歩はずいぶん大人っぽくなっていた。それは決して良い意味ではなく、感情という感情が全て錆び付いて動かない、壊れて捨てられた絡繰り人形のような、生気の失せた表情をしていた。
 
「まーたお前とおんなじクラスになっちゃったんですけど。これで何年目? さすがに飽きるっての」
「……一クラスしかねぇのに、どうやって別のクラスになるんだよ」
「やだぁ、歩くんったら知らないのぉ? 中学は二クラスあるんですぅ。お隣の小学校からも人が来るからさ。同級生が急に二倍だぜ。びっくりだよな」
 
 得も言われぬ不安を掻き消したくて、俺はぺらぺらとくだらないおしゃべりを続けた。手元に転がっていた石ころを拾い上げ、川に向かって投げ入れる。
 
「ぱっと見た感じ、色んなやつがいたぜ? 仲良くなれるかは分かんねぇけど。まぁ、人生には適度な変化が必要だって、偉そうなババアがテレビで言ってたしな。新しい友達ってのも、たまにはいいもんだよな。あ、お前部活はどうすんの? 俺はどうせ帰宅部かな~。お前がどっか入るなら考えるけど――」
「おれのせいなんだ」
 
 俺のやかましいおしゃべりを遮るように、歩が言った。俺はぱたりと口を噤む。
 
「……母さんが死んだの、おれのせいなんだ」
 
 歩の母親が亡くなった。自殺だったらしい。誰が言いふらすわけでもなく、そういった噂は自然と広まっていく。田舎では特に顕著だ。誰が言い出したか知らないが、農薬を飲んで死んだらしいなんて、そんな噂話までがまことしやかに語られていた。
 
「……お前は何もしていないだろ?」
 
 俺が言うと、歩はしばし押し黙った。
 青い空に白い雲が流れていた。二羽のヒバリが交差しながら舞い上がり、高らかな歌声を響かせていた。そよ風に揺れる蓮華の花に、ルリシジミが戯れていた。
 
「……お前以外はみんな知ってる」
 
 歩はおもむろに口を開く。
 
「おれ、姉ちゃんがいたんだ。大好きだった。でも、死んじゃった。事故で、急に」
 
 歩が淡々と話すから、俺は耳をそばだてた。歩の感情がそっくりそのまま俺の胸に流れ込んでくるみたいで、泣きたくなった。
 
「姉ちゃんが死んで、母さんはおかしくなった。ずっと泣いてた。父さんは母さんを元気付けようとしてたけど、今はずっと泣いてる」
「……うん」
「おれは……姉ちゃんの代わりになれなかった」
 
 黒い双眸がみるみるうちに水底に沈む。
 
「おれが……死ねばよかったんだ……っ」
 
 歩は振り絞るように言って、唇を噛んだ。瞼を閉じると、大粒の涙がぼろぼろと零れた。
 
「おれが死ねばよかった。おれのせいで姉ちゃんが死んで、だから、母さんは……」
 
 渇いた唇に血が滲む。俺は歩を抱きしめた。力いっぱい抱きしめた。考えるより先に体が動いていた。
 
「俺は、歩に会えてよかったって思ってる」
 
 これっぽっちの告白にどれほどの意味があるのか分からなかったが、他にどうすればいいのか分からなかった。
 
「俺は、お前がいてくれて嬉しいよ。お前がそばにいてくれたから、俺は今普通に笑えてるんだし……いやマジで、冗談とかじゃないからね? 大真面目に言ってるから。だから……」
 
 歩の手が俺の背中に回る。新品の制服に皺が寄る。
 
「……なんだよ、急に……。意味わかんねぇ……」
「うそ、分かんない? すんごい大事なこと言ったつもりなんだけど」
「わかんねぇよ。准はバカだからなぁ……」
「えっちょ、今の流れでそーいうこと言う!?」
 
 顔が見たくて体を離そうとしたが、歩は俺の肩に目元を埋もれさせたまま離れようとしなかった。新品の学ランに、温かな雫が濡れて染みる。
 
「……俺もさ、似たようなもんなんだ」
「……どういう意味」
「母ちゃんのこと、一人で死なせちゃったから」
 
 俺の告白に、歩は耳をそばだてる。
 
「母ちゃんは俺と一緒に死ぬつもりだったみたいだけど、俺だけ生き残っちゃったんだよね。警察に保護されて、しばらく病院で暮らしたよ。結構大変だった。髪もほら、なんか真っ白になっちまうし」
 
 歩の手が俺の後頭部に伸びる。指を絡めて、くしゃりと撫でられた。
 心因性の何やかんやでメラニン細胞がどうのこうの、と医者には説明された。色素は徐々に取り戻しつつあるが、完全に元の色に戻ることはないだろう。歩と初めて会った頃は今よりもっと白かったから、歩が俺を幽霊と見間違えたのも無理はない。
 
「で、後はお前も知っての通り。こんなド田舎の施設に入れられて、ド田舎の小学校でド田舎モン共と学び舎を共にしたってわけ――ちょぉ、痛い痛いッ、引っ張んないで!」
 
 ぐいぐいと髪を引っ張られた後で、優しく労わるように撫でられた。小さな手の温もりが、ただひたすらに優しかった。
 歩はおもむろに顔を上げた。目元は赤く、鼻の頭も少し赤かった。黒目がちの双眸は涙の膜に覆われていたが、雫が零れ落ちることはなかった。
 歩の手が俺の頬に触れた。柔らかな掌でそっと包み込まれた。俺は反射的に目を瞑る。二度目のキスも塩辛かった。
 
「……ねぇ。俺、お前のこと」
 
 三度目のキスも、四度目のキスも、涙の味がした。触れる唇は柔らかくて、温かくて、至近距離で見ても歩の顔は綺麗だった。長い睫毛が重なる度にドキドキした。
 
「明日からは学校行くから」
 
 キスの余韻に惚けていた俺の隣で、歩はきっぱりと言った。
 
「だから心配すんな」
「べっつにィ? 心配なんかしてねーし」
「ならいい」
「……先生とかは心配してたけど?」
「お前、先生に頼まれて来たのか」
「ちっげーし! たまたま!」
 
 青い空に白い雲が流れている。二羽のヒバリが戯れながら天高く歌う。歩の黒髪がそよ風に揺れ、花びらのような蝶々が舞い踊る。
 
「なぁ、さっきの……」
 
 もう一回キスがしたくて顔を近付けた。しかし歩に拒まれる。温かい掌が俺の口元をそっと覆う。
 
「バカ。特別な時にとっとけよ」
「……今は特別じゃないってこと?」
「それくらい自分で考えろ」
 
 翌日以降、歩は学校に来るようになった。何でもないような顔をして、新しいクラスメイトともじきに馴染んだ。特別な時はあれから一度も訪れず、もう一回のキスはできないままだ。
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