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16 完成
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それからしばらく、私はやっぱり放課後になると真っ先に美術室へ向かった。
けれども、秋穂と顔を合わせていたくないからじゃない。あの絵を完成させたかったからだ。
もちろん、秋穂との関係は良くはなってはいない。
用事があれば話しかけたり話しかけられたりもするけれど、そうでなければ沈黙を守る。笑いあったりも、しない。
凛子は私たちの間で居心地悪そうにしていたから、少し申し訳なかったけれど、凛子も何も言わなかった。
そんな感じですっきりしない日々だったけれども、美術室に行けば、絵の中の誰かがいる。
それが私の心の支えだった。
◇
絵筆を動かす。椅子から立ち上がり、少し離れたところに行って、自分の絵を眺め、気になるところがあったら、また絵の前に座り、訂正していく。
それを何度も繰り返したあと、私はほっと息を吐いた。
「完成……したよ」
そっと絵に話しかける。
グラウンドの端。置かれたマットと、スタンドに掛けられたバー。
マットの上で、落ちていないことを確認するように、バーを見上げる人。
明らかに拙い絵だけれども、一生懸命描いたし、楽しく描けた。
それだけが、自慢の絵。
「ありがとうね。あなたのおかげ」
私は絵の隅っこに小さく描かれた、輪郭すらもおぼろげな、絵の中の登場人物に向かって話し掛ける。
きっと私一人では描けなかった。途中、ナイフで殺そうとした酷い私を、ずっと励ましてくれた。
「本当に、ありがとう」
心をこめて。
すると。
『ありがとう』
はっきりとした、口調。私は顔を上げる。
『ありがとう』
まさか、そんな言葉。はっきりと、力強く。
知らず頬を、涙が滑り落ちた。
「ありがとう……」
絵を描いたことで、お礼を言われるなんて思わなかった。
もしかしたら本当に、絵が完成したことで、この子は生まれてきたのかもしれない。そのことに対する、お礼なのかもしれない。
生まれて初めて、なにかを作り出す喜びを知ったような気がした。
キイ、と教官室の扉が開く音がする。
「どう? 完成した?」
「先生……せんせええ」
教官室から顔を覗かせた横山先生に顔を向けて、私は涙をぼろぼろ零した。
「えええっ、また泣いてんのか。完成しそうもないのか」
実のところ、今日が締め切り日だったのだ。だから先生は今日は、何度もこちらを覗きこんでいた。
「かんせい……しましたぁ……うー」
なぜ泣いているのか、自分でもよくわからなくなってきて、私はとにかく泣いた。
「なんだ、達成感の涙か。よしよし、よくがんばった」
先生はこちらに近付くと、おいおいと泣く私の頭を、ぽんぽんと軽く二度叩いた。
「というか、そんなに感情の起伏の激しい子だとは思ってなかったなあ。泣いたり笑ったり、忙しいヤツだ」
先生は、私の絵を覗き込んで、うん、とうなずいた。
「良く描けていると思うよ。まあ、入賞するかどうかはわからないけど」
「ううー……上げといて……落とすんだあ」
ハンカチを出して涙を拭き拭き、しゃくりあげながらそう言うと、先生は真顔で返してきた。
「うーん、肘井高校からも出品してくるだろうしなあ。あっちのレベルがどうかわからないけど、美術科を選んだヤツらだからねえ」
「……そう……ですよね……」
やっと涙が収まってきて、少し冷静になってきた。
「私なんか、初めての油絵だし……」
「でも僕が、良い絵だと太鼓判を押してやるよ」
そう言うと、先生は絵の具が取れないように慎重に、絵をイーゼルから持ち上げた。
「よし、持って行くぞ」
「えっ、どこに」
「応募作は肘井高校に集めるんだよ。ウチだったら、郵送するより持っていくほうが明らかに早い。油絵だから、まだ乾いてないしね。じゃっ」
言うが早いか、先生は絵を持って駆け出していく。
私は慌てて去っていく先生のあとを少しだけついていって、そして絵に向かって手を振った。
「またね」
絵の中の誰かが、先生の手の中から返事をしてくれたかどうかはわからないけれど、私に向かって微笑んでくれたような、そんな気がした。
けれども、秋穂と顔を合わせていたくないからじゃない。あの絵を完成させたかったからだ。
もちろん、秋穂との関係は良くはなってはいない。
用事があれば話しかけたり話しかけられたりもするけれど、そうでなければ沈黙を守る。笑いあったりも、しない。
凛子は私たちの間で居心地悪そうにしていたから、少し申し訳なかったけれど、凛子も何も言わなかった。
そんな感じですっきりしない日々だったけれども、美術室に行けば、絵の中の誰かがいる。
それが私の心の支えだった。
◇
絵筆を動かす。椅子から立ち上がり、少し離れたところに行って、自分の絵を眺め、気になるところがあったら、また絵の前に座り、訂正していく。
それを何度も繰り返したあと、私はほっと息を吐いた。
「完成……したよ」
そっと絵に話しかける。
グラウンドの端。置かれたマットと、スタンドに掛けられたバー。
マットの上で、落ちていないことを確認するように、バーを見上げる人。
明らかに拙い絵だけれども、一生懸命描いたし、楽しく描けた。
それだけが、自慢の絵。
「ありがとうね。あなたのおかげ」
私は絵の隅っこに小さく描かれた、輪郭すらもおぼろげな、絵の中の登場人物に向かって話し掛ける。
きっと私一人では描けなかった。途中、ナイフで殺そうとした酷い私を、ずっと励ましてくれた。
「本当に、ありがとう」
心をこめて。
すると。
『ありがとう』
はっきりとした、口調。私は顔を上げる。
『ありがとう』
まさか、そんな言葉。はっきりと、力強く。
知らず頬を、涙が滑り落ちた。
「ありがとう……」
絵を描いたことで、お礼を言われるなんて思わなかった。
もしかしたら本当に、絵が完成したことで、この子は生まれてきたのかもしれない。そのことに対する、お礼なのかもしれない。
生まれて初めて、なにかを作り出す喜びを知ったような気がした。
キイ、と教官室の扉が開く音がする。
「どう? 完成した?」
「先生……せんせええ」
教官室から顔を覗かせた横山先生に顔を向けて、私は涙をぼろぼろ零した。
「えええっ、また泣いてんのか。完成しそうもないのか」
実のところ、今日が締め切り日だったのだ。だから先生は今日は、何度もこちらを覗きこんでいた。
「かんせい……しましたぁ……うー」
なぜ泣いているのか、自分でもよくわからなくなってきて、私はとにかく泣いた。
「なんだ、達成感の涙か。よしよし、よくがんばった」
先生はこちらに近付くと、おいおいと泣く私の頭を、ぽんぽんと軽く二度叩いた。
「というか、そんなに感情の起伏の激しい子だとは思ってなかったなあ。泣いたり笑ったり、忙しいヤツだ」
先生は、私の絵を覗き込んで、うん、とうなずいた。
「良く描けていると思うよ。まあ、入賞するかどうかはわからないけど」
「ううー……上げといて……落とすんだあ」
ハンカチを出して涙を拭き拭き、しゃくりあげながらそう言うと、先生は真顔で返してきた。
「うーん、肘井高校からも出品してくるだろうしなあ。あっちのレベルがどうかわからないけど、美術科を選んだヤツらだからねえ」
「……そう……ですよね……」
やっと涙が収まってきて、少し冷静になってきた。
「私なんか、初めての油絵だし……」
「でも僕が、良い絵だと太鼓判を押してやるよ」
そう言うと、先生は絵の具が取れないように慎重に、絵をイーゼルから持ち上げた。
「よし、持って行くぞ」
「えっ、どこに」
「応募作は肘井高校に集めるんだよ。ウチだったら、郵送するより持っていくほうが明らかに早い。油絵だから、まだ乾いてないしね。じゃっ」
言うが早いか、先生は絵を持って駆け出していく。
私は慌てて去っていく先生のあとを少しだけついていって、そして絵に向かって手を振った。
「またね」
絵の中の誰かが、先生の手の中から返事をしてくれたかどうかはわからないけれど、私に向かって微笑んでくれたような、そんな気がした。
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