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25. 車前草
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ふいに出てきた言葉に、私は固まってしまった。
どうして、今。
それに私はどうして、はい、とすぐに答えられないのか。
主人の言葉に何か裏が感じられた。それはそのまま受け取ってはいけない言葉ではないのか。
私は主人の次の言葉を待つ。
主人はゆっくりと口を開いた。
「彼女には、どうしても貴族という身分が必要でした。だから、与えた」
「はい」
「ジルベルトには、必要ですか?」
勉強する環境、王城への道筋、国王への謁見。
国王には待っていると言われた。あとは私がそこへたどり着くだけだ。
しかも、内政を耳にする機会が何度もあった。なにせ、大法官の屋敷に住んでいるのだから。主人が今まで私に言ってきかせていた話は、すべて今後の糧になる。
充分すぎるほど私は与えられてきたのだ。これ以上は要らない。
高貴な身分は、おそらく私自身にとって、足枷になる。
「いいえ」
それだけははっきりと伝えた。
「私には必要ありません」
「そうですか」
主人はそう言って微笑んだ。
それがきっと彼が望んだ答えだったのだろう。
「ああ、でも、一人きりでは老後が寂しいですねえ」
「それはちゃんと面倒をみて差し上げますよ、ご心配なく」
苦笑しながらそう返すと、主人は何度か目を瞬かせた。
「おや、随分と大きく出ましたね。私はわがままに生きてきましたからね、そりゃあ傲慢な老人になりますよ?」
「それくらいは想像はついています。ご心配なく、と言ったでしょう?」
私がそう返すと、主人は大きくため息をついてみせた。
「やれやれ、私の手を握ってあんなに大泣きするような可愛らしい少年だったのに、言うようになりましたね」
「そういう風に育てたんでしょう?」
「ごもっともです」
そう言って私たちは笑いあった。まるで親子のじゃれあいのように。
王城は、もう遠くなっていた。
◇
屋敷に到着して馬車から降りると、主人は一度大きく伸びをした。
「では私は少し眠ります」
「えっ、はい」
「叩き起こされましたからね。仮眠をとったら、また王城に行かなければなりませんが」
主人は欠伸を噛み殺しながら、屋敷の中に入っていく。
そのあとについて屋敷に入ろうとすると、御者に話し掛けられた。
「今度、一杯呑もうか」
「えっ」
「何でも言って構わないよ。私ほど愚痴をこぼすのに適任な人間はいない」
そう言って、笑う。
秘密を守るのが仕事。
そして同時に、かなりのことを把握している。
リュシイが持っていたドレスに似合わない扇を、いったい誰が贈ったのかということも。
確かに、彼ほど愚痴をこぼせる相手はいないのかもしれない。
「では今度、ぜひ一緒に呑みましょう」
そう答えると、御者は微笑んで小さくうなずいた。
人の優しさが、妙に胸に染み渡る日だ。
◇
屋敷に入るとすぐさま、出迎えにきたアネットに手招きされた。
「なんでしょう?」
「ちょっと来て」
彼女は私の手を引いて歩き出す。にこりともしない。何があるのだろう。
連れて行かれた先は、厨房だった。
「座って」
「はい」
テーブルの前に用意されていた椅子に腰掛ける。
いったい何が始まるのだ。
「少し待ってて」
そう言ってアネットは何やら用意し始める。
私はただ、黙って椅子に座って待っていた。
しばらくすると、私の前に一枚の皿が差し出された。
中には温かそうなスープが入っている。
そしてその脇に、小鉢も置かれた。
「……これは」
「王妃殿下……いえ、まだ正式にはそうではないのよね。お嬢さま……ああ、もういいわ」
口の中で呟いたあと、アネットは思い切ったように言った。
「リュシイが、今日の朝一番に作ってくださったのよ」
「ここを出る前に?」
「そう」
アネットはうなずく。
「以前、美味しいって言ってもらったからって。今までのお礼も兼ねてって。温めなおしたから、どうぞ」
アネットは匙とフォークを差し出してきた。私はそれを黙って受け取る。
あのときと同じ、美味しそうな香り。
「……ごめんなさい」
ふいに向けられた謝罪の言葉に、顔を上げる。
アネットはこちらをじっと見つめている。
「黙っていて」
「ああ」
「最初は軽い気持ちだったのだけれど、途中からなんだか言いづらくなってしまって……」
アネットはそう言って、目を伏せる。
「大丈夫ですよ。私も、なんとなくはわかっていましたから」
「そう?」
「ええ」
努めて明るい声音を選ぶ。
それをどう思ったのか、アネットは小さく微笑んだ。
「ねえ」
「はい」
「リュシイは幸せそうだった?」
どことなく自信なさげに訊いてくる。
「ええ、とても」
だから私は自信を持って答える。
「そう、ならいいの」
そう言いながら、彼女はそっと目尻を押さえた。
「後宮に入られたら、もうそうそう会うこともできないわね」
「そう、ですね」
厨房は静かだ。私たちは何の言葉も発することができなくて、ただ黙り込む。
スープが入った鍋の蓋から、水滴がスープの中に落ちた音がした。
それを合図にしたかのように、アネットは歩き出す。
「私は席を外すから、どうぞごゆっくり」
アネットが厨房を出て行ったあと、私はたった一人、フォークを手に取って、小鉢を引き寄せた。
車前草だ。
口に運ぶ。以前食べたものより、少し苦味が消えているような気がした。
あのとき、少し苦いと感想を言ったから、何らかの手を加えてくれたのだろう。
こういう素直さが、彼女をあそこまで成長させたのだ。
きっとこれからも、王妃として相応しくあろうと努力し続けるのだろう。
彼の隣で。
フォークを置くと、私は皿から一匙、スープを掬った。
そして口の中に入れる。
鼻に抜ける玉葱の香り、柔らかい舌触り。こちらは、あのときと同じ味だ。
なのに無性に寂しくなるのはなぜだろう。
あのときは、目の前に彼女がいた。今はいない。だからなのだろうか。
誰に忠誠を誓いますか?
と主人は言った。
私は。
そうだね、忠誠を誓うよ。
私は、君と君の愛しい人に、忠誠を誓おう。
君が二度と悪夢に悩まされないように。
君がずっと笑っていられるように。
その手助けをしたいと思うよ。
君のために。
私はもう一匙、スープを口に含んだ。温かい。
なぜだろう。
スープは少し、しょっぱくなっていた。
了
どうして、今。
それに私はどうして、はい、とすぐに答えられないのか。
主人の言葉に何か裏が感じられた。それはそのまま受け取ってはいけない言葉ではないのか。
私は主人の次の言葉を待つ。
主人はゆっくりと口を開いた。
「彼女には、どうしても貴族という身分が必要でした。だから、与えた」
「はい」
「ジルベルトには、必要ですか?」
勉強する環境、王城への道筋、国王への謁見。
国王には待っていると言われた。あとは私がそこへたどり着くだけだ。
しかも、内政を耳にする機会が何度もあった。なにせ、大法官の屋敷に住んでいるのだから。主人が今まで私に言ってきかせていた話は、すべて今後の糧になる。
充分すぎるほど私は与えられてきたのだ。これ以上は要らない。
高貴な身分は、おそらく私自身にとって、足枷になる。
「いいえ」
それだけははっきりと伝えた。
「私には必要ありません」
「そうですか」
主人はそう言って微笑んだ。
それがきっと彼が望んだ答えだったのだろう。
「ああ、でも、一人きりでは老後が寂しいですねえ」
「それはちゃんと面倒をみて差し上げますよ、ご心配なく」
苦笑しながらそう返すと、主人は何度か目を瞬かせた。
「おや、随分と大きく出ましたね。私はわがままに生きてきましたからね、そりゃあ傲慢な老人になりますよ?」
「それくらいは想像はついています。ご心配なく、と言ったでしょう?」
私がそう返すと、主人は大きくため息をついてみせた。
「やれやれ、私の手を握ってあんなに大泣きするような可愛らしい少年だったのに、言うようになりましたね」
「そういう風に育てたんでしょう?」
「ごもっともです」
そう言って私たちは笑いあった。まるで親子のじゃれあいのように。
王城は、もう遠くなっていた。
◇
屋敷に到着して馬車から降りると、主人は一度大きく伸びをした。
「では私は少し眠ります」
「えっ、はい」
「叩き起こされましたからね。仮眠をとったら、また王城に行かなければなりませんが」
主人は欠伸を噛み殺しながら、屋敷の中に入っていく。
そのあとについて屋敷に入ろうとすると、御者に話し掛けられた。
「今度、一杯呑もうか」
「えっ」
「何でも言って構わないよ。私ほど愚痴をこぼすのに適任な人間はいない」
そう言って、笑う。
秘密を守るのが仕事。
そして同時に、かなりのことを把握している。
リュシイが持っていたドレスに似合わない扇を、いったい誰が贈ったのかということも。
確かに、彼ほど愚痴をこぼせる相手はいないのかもしれない。
「では今度、ぜひ一緒に呑みましょう」
そう答えると、御者は微笑んで小さくうなずいた。
人の優しさが、妙に胸に染み渡る日だ。
◇
屋敷に入るとすぐさま、出迎えにきたアネットに手招きされた。
「なんでしょう?」
「ちょっと来て」
彼女は私の手を引いて歩き出す。にこりともしない。何があるのだろう。
連れて行かれた先は、厨房だった。
「座って」
「はい」
テーブルの前に用意されていた椅子に腰掛ける。
いったい何が始まるのだ。
「少し待ってて」
そう言ってアネットは何やら用意し始める。
私はただ、黙って椅子に座って待っていた。
しばらくすると、私の前に一枚の皿が差し出された。
中には温かそうなスープが入っている。
そしてその脇に、小鉢も置かれた。
「……これは」
「王妃殿下……いえ、まだ正式にはそうではないのよね。お嬢さま……ああ、もういいわ」
口の中で呟いたあと、アネットは思い切ったように言った。
「リュシイが、今日の朝一番に作ってくださったのよ」
「ここを出る前に?」
「そう」
アネットはうなずく。
「以前、美味しいって言ってもらったからって。今までのお礼も兼ねてって。温めなおしたから、どうぞ」
アネットは匙とフォークを差し出してきた。私はそれを黙って受け取る。
あのときと同じ、美味しそうな香り。
「……ごめんなさい」
ふいに向けられた謝罪の言葉に、顔を上げる。
アネットはこちらをじっと見つめている。
「黙っていて」
「ああ」
「最初は軽い気持ちだったのだけれど、途中からなんだか言いづらくなってしまって……」
アネットはそう言って、目を伏せる。
「大丈夫ですよ。私も、なんとなくはわかっていましたから」
「そう?」
「ええ」
努めて明るい声音を選ぶ。
それをどう思ったのか、アネットは小さく微笑んだ。
「ねえ」
「はい」
「リュシイは幸せそうだった?」
どことなく自信なさげに訊いてくる。
「ええ、とても」
だから私は自信を持って答える。
「そう、ならいいの」
そう言いながら、彼女はそっと目尻を押さえた。
「後宮に入られたら、もうそうそう会うこともできないわね」
「そう、ですね」
厨房は静かだ。私たちは何の言葉も発することができなくて、ただ黙り込む。
スープが入った鍋の蓋から、水滴がスープの中に落ちた音がした。
それを合図にしたかのように、アネットは歩き出す。
「私は席を外すから、どうぞごゆっくり」
アネットが厨房を出て行ったあと、私はたった一人、フォークを手に取って、小鉢を引き寄せた。
車前草だ。
口に運ぶ。以前食べたものより、少し苦味が消えているような気がした。
あのとき、少し苦いと感想を言ったから、何らかの手を加えてくれたのだろう。
こういう素直さが、彼女をあそこまで成長させたのだ。
きっとこれからも、王妃として相応しくあろうと努力し続けるのだろう。
彼の隣で。
フォークを置くと、私は皿から一匙、スープを掬った。
そして口の中に入れる。
鼻に抜ける玉葱の香り、柔らかい舌触り。こちらは、あのときと同じ味だ。
なのに無性に寂しくなるのはなぜだろう。
あのときは、目の前に彼女がいた。今はいない。だからなのだろうか。
誰に忠誠を誓いますか?
と主人は言った。
私は。
そうだね、忠誠を誓うよ。
私は、君と君の愛しい人に、忠誠を誓おう。
君が二度と悪夢に悩まされないように。
君がずっと笑っていられるように。
その手助けをしたいと思うよ。
君のために。
私はもう一匙、スープを口に含んだ。温かい。
なぜだろう。
スープは少し、しょっぱくなっていた。
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