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8. 素敵な話
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廊下を歩いていると、彼女の部屋の扉が開けっ放しであることに気付いた。
いつも薄く扉を開いてはいるが、全開とは。
これはいくらなんでも無防備すぎるだろう、とため息をつきながら近寄ると、中から笑い声が聞こえた。
「素敵な話だわ」
「そ、そうですか?」
「そりゃあそうよ。私だって少女の頃は憧れたものだわ」
彼女と、それからアネットの声だ。少ししてまた笑い声が響いた。
アネットも彼女の教育を任されているのではないのか。あと三月もないのだから、そんな談笑するような暇はないはずだ。
どうして私ばかりが四苦八苦しているのだ。
そんな気持ちを抱いたまま、彼女の部屋の前で立ち止まる。
アネットは彼女の髪を結い上げているようだった。
自分の前に椅子を置いて彼女を座らせて、背中から髪を梳いている。銀色の髪は、窓から差し込む陽の光が当たって輝いていた。
「ああ、髪が艶やか過ぎて止まらないのだわ、難しいわね」
「あ、すみません……」
「いいえ、大丈夫。少し編みこんでから上げましょう」
何をじゃれあっているんだ。
そう思いながら二人を見ていると、アネットが私のほうに気付いた。
「あら、ジルベルト。どうしたの」
「扉が開けっ放しだったから」
「話しかけてくれればいいのに」
「そんな雰囲気ではなかったので」
アネットは、ふうん、とだけ言うと、また前を向いて彼女の髪を結い始めた。
彼女のほうは頭が動かせないからか、目だけをこちらに向けてきている。
「そうだ、聞いてよジルベルト。私、びっくりしちゃって。お嬢さまは……」
「作法を教える時間ではなかったのですか」
思ったよりも鋭い声で、私は自分の口から出た言葉だというのに驚いた。
二人ともがこちらを一斉に振り向いた。
「……いや……」
今のは言い過ぎだろう。取り繕わなければ、と思っていると素早く言葉が飛んできた。
「髪を結うのも、娘として当然のたしなみだわ」
アネットは少し口を尖らせて反論した。リュシイは座ったまま、私とアネットを見比べておろおろしている。
しかし反論されて、何か言わずにはいられなくなった。
「失礼。遊んでいるように見えたので」
「まあ! 可愛くないことを」
アネットは腰に手を当ててこちらをまっすぐに向いて言い放つ。
まずいと思ったのか、彼女が少しだけ腰を上げて口を開く。
「あの……ごめんなさい、ええと」
「申し訳ありませんが、ここは、お嬢さまは黙っていらして」
「あ、はい」
アネットに言われて、彼女はまた椅子に座りなおして縮こまった。
こうなっては引き下がれない。受けて立とう。
「あと三月もないというのに、和やかに談笑している場合でもないでしょう」
「それはついでだわ。口と手が同時に動けば文句はないでしょう」
「でも貴族の娘らしい言葉遣いだって教えなければならないのに、そんな感じではなかったじゃないですか」
「そんなことないわ。私は私でちゃんと教えているもの。それに、たまには息抜きだって必要だわ」
まったく引き下がる気はないらしい。
最初はそんなに責めるつもりではなかったのに、どうしてこんな面倒なことになったのか。
そんなことを考えていると、アネットは突然に言い放った。
「ジルベルト、あなた、大事なご主人さまを取られたみたいで面白くないんでしょう」
「なっ……!」
一瞬で自分の頬が紅潮したのが、わかった。
あまりのことに、言葉が出ない。身体が、震えた。
アネットは彼女の後ろに回って、背中から彼女を抱きしめる。
「さっき、お嬢さまの素敵なお話を聞いたけれど、ジルベルトには教えてあげません!」
なんだそれは。子どもの喧嘩じゃあるまいし。
「構いません、知りたくもありません」
「そんなこと言って。もう絶対に教えてあげないから」
「失礼する!」
そう言い放って、彼女の部屋の扉を閉めた。そんなに勢いをつけたつもりはなかったのだが、バタンという音が廊下に響いて、私は身をすくめた。
しかし構うものか。
私はそのまま自室に向かう。部屋に入ると、椅子に座り込んだ。
「……何をやっているんだ」
ため息が漏れた。廊下を歩いている間に、どうやら少し落ち着いてきたようだ。
何という無益な言い争い。しかも図星を差されて激昂とは、あまりにも情けない。
あとで謝りにいかなければいけないか、などと考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
「……どうぞ」
ノブが動いて顔を覗かせたのは……アネットだった。
「いい?」
「……はい」
顔を直視できなくて、少し俯いた。
アネットは中に入ってきて、私の横に立つ。
この上、まだ何か言われるのだろうか。
「ごめんなさいね」
その言葉に顔を上げる。
「つい、言い過ぎてしまって」
先に謝られてしまった。やはり彼女のほうが大人ということか。
「……いえ」
私も謝らなければ、と思うのに言葉が出てこない。代わりに出てきたのは、「別に謝ることではありません」という、可愛げのない言葉だった。
アネットのため息が聞こえる。
「いや、あの……」
さすがにこれはまずいか、と言葉を重ねる。
「図星だったので」
「え?」
「図星をつかれて、我を忘れてしまいました。情けないことです」
私がそう言うと、アネットはまた黙り込んだ。
沈黙が流れる。
これはどうするべきか、と悩んでいると、ふいにアネットはこちらに歩み寄ってきて、後ろから私を抱きしめた。まるで彼女にしていたように。
「そういうときにはね、私のほうもごめんなさい、と言っておけばまーるく収まるのよ」
「……はい。……申し訳ありません」
なんだか急に訳もわからず涙が溢れてきそうになって、でもそれを何とかこらえた。
「まったく、出来の悪い息子を持つと苦労するわ」
その言葉に、自然と口から笑みが零れた。
「出来の良い息子の間違いでは?」
「なーに言ってるの!」
アネットは身体を離すと、私の背中をバン、と一つ叩いた。
「さあ、仲直りのお茶でも飲みましょう。三人で」
「さ、三人?」
それはいくらなんでも気まずい。
「息抜きは必要だと言ったでしょう。お嬢さまも心配なさっているし。もちろん断りはしないわよね?」
そう言われると、返す言葉は一つだ。
「……はい」
「よろしい」
アネットは満足げにうなずくと、私の手を引っ張った。
どうにもこの人には敵わない。
「あ、それとね」
ふと思いついたように、アネットが足を止めた。
「お嬢さまが部屋の扉を開けていること、あまり言わないほうがいいわ」
「どうして」
女性はやはりか弱い存在だ。いくら屋敷の中とはいえ、扉を閉めるという行為にはきちんと意味がある。
自己防衛だ。
それが貴族の娘であれば、なおさらだ。
だがアネットは困ったように首を傾げた。
「私から言うのはどうかと思うけど……、いいわよね」
「あの……?」
「お嬢さまはね、閉鎖的な空間が苦手なようなの」
閉鎖的な空間。
彼女の部屋は、十分に広い。窓だってたくさんある。
それでも扉を開けないと安心できないというのか。
そこで私は気付く。
虐待。
そのときに、どこかに閉じ込められたのだろうか。だから扉が閉まっていると安心できないのだろうか。
「わかりました」
どうして言われるまで気付かなかったのか。虐待を受けていたのではないかと思われる傷があったのは、私も知っていた。
言われなくとも、まず気付くべきだった。
「責めるようなことを今まで言っていました。彼女には申し訳ないことを」
私がそう言うと、アネットはにっこり微笑んだ。
「やっぱり出来の良い息子ということにしましょうか」
連れられて彼女の部屋に行くと、扉を開けた瞬間に、彼女がこちらを振り向いた。
彼女は何か言おうと口を開いたが、先に何か言われてはたまらない、と勢い込んだ。
「すみません、ご心配をお掛けしました」
するとふるふると首を横に振る。そうして笑ってくれたから、ほっとした。
アネットはお茶を取りに行ったのか、すぐに部屋を出て行った。
取り残されて、何を喋っていいのかわからなくなる。
ふと、窓辺の植木鉢に目が向いた。
ずいぶん大きく育ってきている。
今までまったく気付かなかった。気付こうともしなかった。
「順調のようですね」
私が植木鉢のほうを見て言うと、彼女は「そうなの」と弾んだ声で言った。
「本当に良かった。枯らしてしまってはいけないものね」
「そうですか」
彼女は植木鉢を幸せそうに眺めている。
私は、机の上に目を向けた。
積み重ねられた、紙。新しかったのに汚れてきたペン。何度も読まれて擦り切れてきた絵本たち。
彼女は既に充分に努力をしている。
確かに息抜きは必要なのだろう。
「お待たせいたしました」
アネットが部屋に入ってきて、机の上にお茶を置いていく。
「そういえば」
ふと思いついて尋ねる。
「素敵な話とは何だったんでしょう」
私がそう言うと、二人は顔を見合わせた。何か目で合図を送っているようだが、私にはよくわからない。
「だーめ。さっき、教えてあげないって言ったでしょう?」
アネットは勝ち誇ったように言った。
どうやら、完全に許してもらえたわけではないようだ。
女同士のお喋りだ。どうせ大した話ではないのだろう、と私は自分を納得させた。
いつも薄く扉を開いてはいるが、全開とは。
これはいくらなんでも無防備すぎるだろう、とため息をつきながら近寄ると、中から笑い声が聞こえた。
「素敵な話だわ」
「そ、そうですか?」
「そりゃあそうよ。私だって少女の頃は憧れたものだわ」
彼女と、それからアネットの声だ。少ししてまた笑い声が響いた。
アネットも彼女の教育を任されているのではないのか。あと三月もないのだから、そんな談笑するような暇はないはずだ。
どうして私ばかりが四苦八苦しているのだ。
そんな気持ちを抱いたまま、彼女の部屋の前で立ち止まる。
アネットは彼女の髪を結い上げているようだった。
自分の前に椅子を置いて彼女を座らせて、背中から髪を梳いている。銀色の髪は、窓から差し込む陽の光が当たって輝いていた。
「ああ、髪が艶やか過ぎて止まらないのだわ、難しいわね」
「あ、すみません……」
「いいえ、大丈夫。少し編みこんでから上げましょう」
何をじゃれあっているんだ。
そう思いながら二人を見ていると、アネットが私のほうに気付いた。
「あら、ジルベルト。どうしたの」
「扉が開けっ放しだったから」
「話しかけてくれればいいのに」
「そんな雰囲気ではなかったので」
アネットは、ふうん、とだけ言うと、また前を向いて彼女の髪を結い始めた。
彼女のほうは頭が動かせないからか、目だけをこちらに向けてきている。
「そうだ、聞いてよジルベルト。私、びっくりしちゃって。お嬢さまは……」
「作法を教える時間ではなかったのですか」
思ったよりも鋭い声で、私は自分の口から出た言葉だというのに驚いた。
二人ともがこちらを一斉に振り向いた。
「……いや……」
今のは言い過ぎだろう。取り繕わなければ、と思っていると素早く言葉が飛んできた。
「髪を結うのも、娘として当然のたしなみだわ」
アネットは少し口を尖らせて反論した。リュシイは座ったまま、私とアネットを見比べておろおろしている。
しかし反論されて、何か言わずにはいられなくなった。
「失礼。遊んでいるように見えたので」
「まあ! 可愛くないことを」
アネットは腰に手を当ててこちらをまっすぐに向いて言い放つ。
まずいと思ったのか、彼女が少しだけ腰を上げて口を開く。
「あの……ごめんなさい、ええと」
「申し訳ありませんが、ここは、お嬢さまは黙っていらして」
「あ、はい」
アネットに言われて、彼女はまた椅子に座りなおして縮こまった。
こうなっては引き下がれない。受けて立とう。
「あと三月もないというのに、和やかに談笑している場合でもないでしょう」
「それはついでだわ。口と手が同時に動けば文句はないでしょう」
「でも貴族の娘らしい言葉遣いだって教えなければならないのに、そんな感じではなかったじゃないですか」
「そんなことないわ。私は私でちゃんと教えているもの。それに、たまには息抜きだって必要だわ」
まったく引き下がる気はないらしい。
最初はそんなに責めるつもりではなかったのに、どうしてこんな面倒なことになったのか。
そんなことを考えていると、アネットは突然に言い放った。
「ジルベルト、あなた、大事なご主人さまを取られたみたいで面白くないんでしょう」
「なっ……!」
一瞬で自分の頬が紅潮したのが、わかった。
あまりのことに、言葉が出ない。身体が、震えた。
アネットは彼女の後ろに回って、背中から彼女を抱きしめる。
「さっき、お嬢さまの素敵なお話を聞いたけれど、ジルベルトには教えてあげません!」
なんだそれは。子どもの喧嘩じゃあるまいし。
「構いません、知りたくもありません」
「そんなこと言って。もう絶対に教えてあげないから」
「失礼する!」
そう言い放って、彼女の部屋の扉を閉めた。そんなに勢いをつけたつもりはなかったのだが、バタンという音が廊下に響いて、私は身をすくめた。
しかし構うものか。
私はそのまま自室に向かう。部屋に入ると、椅子に座り込んだ。
「……何をやっているんだ」
ため息が漏れた。廊下を歩いている間に、どうやら少し落ち着いてきたようだ。
何という無益な言い争い。しかも図星を差されて激昂とは、あまりにも情けない。
あとで謝りにいかなければいけないか、などと考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
「……どうぞ」
ノブが動いて顔を覗かせたのは……アネットだった。
「いい?」
「……はい」
顔を直視できなくて、少し俯いた。
アネットは中に入ってきて、私の横に立つ。
この上、まだ何か言われるのだろうか。
「ごめんなさいね」
その言葉に顔を上げる。
「つい、言い過ぎてしまって」
先に謝られてしまった。やはり彼女のほうが大人ということか。
「……いえ」
私も謝らなければ、と思うのに言葉が出てこない。代わりに出てきたのは、「別に謝ることではありません」という、可愛げのない言葉だった。
アネットのため息が聞こえる。
「いや、あの……」
さすがにこれはまずいか、と言葉を重ねる。
「図星だったので」
「え?」
「図星をつかれて、我を忘れてしまいました。情けないことです」
私がそう言うと、アネットはまた黙り込んだ。
沈黙が流れる。
これはどうするべきか、と悩んでいると、ふいにアネットはこちらに歩み寄ってきて、後ろから私を抱きしめた。まるで彼女にしていたように。
「そういうときにはね、私のほうもごめんなさい、と言っておけばまーるく収まるのよ」
「……はい。……申し訳ありません」
なんだか急に訳もわからず涙が溢れてきそうになって、でもそれを何とかこらえた。
「まったく、出来の悪い息子を持つと苦労するわ」
その言葉に、自然と口から笑みが零れた。
「出来の良い息子の間違いでは?」
「なーに言ってるの!」
アネットは身体を離すと、私の背中をバン、と一つ叩いた。
「さあ、仲直りのお茶でも飲みましょう。三人で」
「さ、三人?」
それはいくらなんでも気まずい。
「息抜きは必要だと言ったでしょう。お嬢さまも心配なさっているし。もちろん断りはしないわよね?」
そう言われると、返す言葉は一つだ。
「……はい」
「よろしい」
アネットは満足げにうなずくと、私の手を引っ張った。
どうにもこの人には敵わない。
「あ、それとね」
ふと思いついたように、アネットが足を止めた。
「お嬢さまが部屋の扉を開けていること、あまり言わないほうがいいわ」
「どうして」
女性はやはりか弱い存在だ。いくら屋敷の中とはいえ、扉を閉めるという行為にはきちんと意味がある。
自己防衛だ。
それが貴族の娘であれば、なおさらだ。
だがアネットは困ったように首を傾げた。
「私から言うのはどうかと思うけど……、いいわよね」
「あの……?」
「お嬢さまはね、閉鎖的な空間が苦手なようなの」
閉鎖的な空間。
彼女の部屋は、十分に広い。窓だってたくさんある。
それでも扉を開けないと安心できないというのか。
そこで私は気付く。
虐待。
そのときに、どこかに閉じ込められたのだろうか。だから扉が閉まっていると安心できないのだろうか。
「わかりました」
どうして言われるまで気付かなかったのか。虐待を受けていたのではないかと思われる傷があったのは、私も知っていた。
言われなくとも、まず気付くべきだった。
「責めるようなことを今まで言っていました。彼女には申し訳ないことを」
私がそう言うと、アネットはにっこり微笑んだ。
「やっぱり出来の良い息子ということにしましょうか」
連れられて彼女の部屋に行くと、扉を開けた瞬間に、彼女がこちらを振り向いた。
彼女は何か言おうと口を開いたが、先に何か言われてはたまらない、と勢い込んだ。
「すみません、ご心配をお掛けしました」
するとふるふると首を横に振る。そうして笑ってくれたから、ほっとした。
アネットはお茶を取りに行ったのか、すぐに部屋を出て行った。
取り残されて、何を喋っていいのかわからなくなる。
ふと、窓辺の植木鉢に目が向いた。
ずいぶん大きく育ってきている。
今までまったく気付かなかった。気付こうともしなかった。
「順調のようですね」
私が植木鉢のほうを見て言うと、彼女は「そうなの」と弾んだ声で言った。
「本当に良かった。枯らしてしまってはいけないものね」
「そうですか」
彼女は植木鉢を幸せそうに眺めている。
私は、机の上に目を向けた。
積み重ねられた、紙。新しかったのに汚れてきたペン。何度も読まれて擦り切れてきた絵本たち。
彼女は既に充分に努力をしている。
確かに息抜きは必要なのだろう。
「お待たせいたしました」
アネットが部屋に入ってきて、机の上にお茶を置いていく。
「そういえば」
ふと思いついて尋ねる。
「素敵な話とは何だったんでしょう」
私がそう言うと、二人は顔を見合わせた。何か目で合図を送っているようだが、私にはよくわからない。
「だーめ。さっき、教えてあげないって言ったでしょう?」
アネットは勝ち誇ったように言った。
どうやら、完全に許してもらえたわけではないようだ。
女同士のお喋りだ。どうせ大した話ではないのだろう、と私は自分を納得させた。
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