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6. 絵本

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 自室に帰ると、私は椅子にどかりと座り込んだ。
 心から疲れた。だが身体的な疲れではない。精神的に、だ。頭を抱えたいくらいに。

「ちょっと待っていてください」

 とそれだけ言って部屋を出てきた。だが、それからどうすればいいのか。何の策もなく、ただ逃げてきただけなのだ。

 前途多難、とはこのことだ。
 半年? 無理に決まっている。

 彼女は多少は文字は書けるようだった。
 だが、自分の名前とか、その程度だ。赤子よりは書ける、というだけのこと。

 私は立ち上がり、本棚の中をさぐる。彼女にふさわしい読み物はないか。一冊でいいのだ、一冊で。
 けれども良さそうなものは見つからなかった。
 彼女は言葉を喋れるのだ。あとは読み書きだけ。

 この国の言葉は、基本的には二十六の文字から成り立つ。誰に教わったかは知らないが、彼女はその基本の二十六の文字は書けるようだった。発音記号や合字もあるが、それは喋ることのできる彼女なら、そう難しくはないはずだ。男性名詞や女性名詞も、喋れるのなら問題ない。
 ならばあとは二十六文字の組み合わせだ。それだけだ。
 私は自分を奮い立たせるように、そう心の中で唱え続けた。

 仕方なく、書庫に向かう。この屋敷の書庫には、一個人が持つにはあまりにも膨大な書籍が所狭しと並べられている。主人はすべてを読破しているそうだが、私はまだだ。私の知識ではまだ難しいものもたくさんある。
 だが逆に、簡単なものもあるだろう。あれだけあるのだから。

 私は書庫に入ると、一棚ずつざっと見て回った。そして下のほうに、薄い本が何冊かあるのを発見した。
 絵本だ。子どもの読み物。

「良かった……」

 私は安堵のため息を大きく吐いた。とりあえず、これが取っ掛かりにはなるだろう。
 私は絵本を三冊、手に取る。ついでに辞書を一冊だけ拝借した。

 それらを持って再び彼女の部屋の扉をノックする。さきほどとは少し響きが低い声が返ってきた。
 扉を開けて彼女を見ると、明らかに落ち込んでいて、肩を落としている。

 彼女は何も知らない、と自分で言った。主人も何の教育も受けていない、と言っていた。
 私が彼女の知識を見誤ったのだ。私の失敗だ。だが、うっかり吐いてしまったため息を、謝る気にはどうしてもなれなかった。

「これは」

 私は、彼女の前に絵本を差し出した。彼女はそれを両手で受け取る。

「絵本です。この国の成り立ちを書いています。子どもの読み物ですから、多少、脚色は入っていますし、簡素ではありますが」

 子どもの読み物、と言ってしまったのはいくらなんでも失礼か、と思ったときには、彼女は「まあ!」と声をあげた。

「私のために、探してきてくださったの?」
「……え、ええ……まあ」
「ありがとう!」

 彼女は私の渡した絵本を胸に抱きしめた。

「私、頑張ります」
「あ、はい」

 彼女の決意の言葉に、私はそんな間抜けな返事しかできなかった。
 辞書も彼女に渡す。彼女は中をぱらぱらとめくって首を傾げていた。

「それは、辞書です。文字順に言葉が並んでいて、その単語の意味が書いてあります。今はまだ使いこなせないでしょうが、そのうち必要になると思いますから、持っていてください」
「はい、わかりました!」

 彼女は弾んだ声でそう言う。
 彼女のそういった素直さは、私自身に最も欠けているもののような気がして、うんざりした。

          ◇

 それからは、その絵本を中心に彼女は文字を覚えていった。
 私が渡した用紙には、彼女の覚え書きがびっしりと書き込まれている。母音と子音の組み合わせが単純なものならば、読むことができるため理解もすぐだが、中には特殊な単語もある。それらに苦労しているようだ。
 すぐに紙いっぱいに書き込まれ、それが何枚も何枚も重なっていった。
 そうすることで、ペンの使い方にも慣れてきているようだ。

 私が部屋に行くたびに、彼女は絵本を読んでいた。そしてすぐさま私に何かを尋ねる。

「ジルベルト、この単語が分からないの」
「どれ。……ああ、それは『勇敢』です。物事を恐れないとか、勇気を持って立ち向かうとか、そういう意味です」

 私がそう言うと、彼女は何度か口の中で繰り返すと、また書き留める。

「それとね、ジルベルト、教皇さまと王さまの関係がよく分からないの。教皇さまのほうが偉いということなの? でもこっちの本には、王さまが教皇さまを助けたとあるわ」
「ああ……その辺りは難しいのです」

 なかなか鋭いところを突いてくる。

「それは絵本だから御伽噺めいていますが、要するに書いた人間の思想が反映されているのです。実際のところは、国王陛下のほうが格は上です。少なくとも、今の時代は」
「そうなの?」
「持ちつ持たれつ、というやつですね。教会は王城の支援は必要だ。けれども王城も、教会の抱える信徒の数は恐怖なんです。お互い、波風を立てないようにやっている、という感じですかね。少なくとも、歴代の国王は教会の信ずる神……エイゼン神を信仰しているはずだから」

 理解したのかどうなのか、彼女は小さくうなずいた。

 それにしても、すばらしい進歩だ。まったく文字が読めなかったと言っていい彼女が、絵本とはいえ、何冊もの本の内容を理解している。私の見えないところでの努力も相当なものだろう。
 食事中も、アネットの注意を聞くことが少なくなった。
 これならば半年で「貴族のお嬢さまらしくしろ」という話も無理ではないと思える。
 中身はともかく、見かけだけなら大丈夫だ。

 いや、そもそも主人は貴族の娘らしく、と言ったのだ。貴族の娘ならば当然知っていなければならないこと、それだけを叩き込めと言ったのだ。すべてを覚えさせる必要はないのだろう。

 彼女の勉強は半年後も続くのだと思われる。
 ただ、半年後に取り繕えればいいだけなのかもしれない。

 だがときどき、どうしてもふさわしくない行動をとることがある。
 扉の件もそうだ。あれからも何度か薄く開けているのを見かけた。その度に言うのだが、やはり次に見たときには開いている。そういう習慣が身に染みついているのだろう。

「別の本も読んでみたいわ」

 彼女が何冊かの読了済みの絵本を持って、そう言った。

「ああ、でしたら書庫にまだ」
「じゃあ取りに行ってくるわ」

 そう言って、いきなり駆け出そうとする。

「お待ちください!」

 慌てて声を掛けると、彼女は不思議そうな顔をして振り返る。

「……貴族の娘というものは、突然駆け出したりしないものなのです。しとやかに、ゆっくりと歩いたほうが」
「あら」

 彼女は口元を手で押さえる。

「ごめんなさい、つい」

 こういった日々の習慣というものを身につけるのは、なかなか難しいようだ。
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