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4. 傷痕
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私の主人のジャンティさまは、長く王城に勤めている。今の国王陛下だけでなく、先王陛下の時代から側近中の側近として信頼を得ていたそうだ。大法官の地位は、先王の時代から揺らがない。
王都を大地震が襲ったとき、王城の迅速な対応のおかげで死者が出なかったと言われているが、それも主人の働きがあったからではないかと、私は勝手に思っている。
王城の素早い対応は、王が、女神から地震の予言を頂いていたからだとも言われた。
女神。聖典にもよく登場する。ときにこの世に姿を現し、神の御言葉を人々に伝える、美貌の女神。
聖典では、初代国王は、彼女にこの地、エイゼンを統べよと言われたということになっている。
そして今回も、現王陛下の御前に現れて大地震から民を守れと言われた、と噂になっているのだ。
それは、王城の正門に飾られていた女神像が崩れ去ったのを見た人たちが、女神が被災のすべてを引き受けてくださった、などと広めたからかもしれない。
もちろんそんな御伽噺めいたことがあるはずはないが、こういう幻想的な話は一気に広まるものだ。今では王都にいる者ならば赤子でも知っているのではないかという位に広まってしまっている。
女神の守護をいただいた国王陛下。その国王に庇護される国民。
そういう図式で自分たちの価値も上がるような気がするからだろう。
しかし私としては、まるで国王一人の手柄のように噂されるのは、正直、面白くない。
若くして即位した現王は、大法官である主人を頼りきっているように私には思えた。
それが証拠に彼が即位してからというもの、主人は王城に詰めることが多くなっていた。地震のあとは、言わずもがな、だ。
王は、私の一つ年上だと言う。それで国をまとめなければならないというのだから、それは大変だろう。
一度だけ、王城に連れて行ってもらったことがある。あれは二年前だったか。
一つだけ年上の国王は、どちらかというと少年のような雰囲気を持った人だった。
栗色の瞳と髪を持つその人は、威厳というものが似つかわしくないように思えた。端正な顔立ちをしていたから、なおさらそう思えたのかもしれない。
国王というものは、立派な髭と屈強な体躯を持っているように、勝手に想像してしまっているからだろう。
私は主人の斜め後ろで国王と主人の二人の話を少し聞いただけだったが、主人からまるで親のように口うるさく、王というものは、などと説教されていて、言われたほうの王は、軽く肩をすくめていた。
しかし、王子として生まれて来た方が、それではあまりに頼りなくはないか。いずれ即位することが決まっていて、それなりに教育を受けてきたはずなのに。
……いや。
王が即位したとき、私は、主人を取られた、と思ったのだ。
これは、嫉妬だ。頭では理解できている。そんな思いは私に何の利益ももたらさない、醜い感情なのだと。
あのとき、そう自分に言い聞かせた。そして納得したはずだった。
なのにまた、同じ感情が私の心の中を占めている。
あまりに成長しない自分に嫌気がさす。
そんなことを考えていたものだから、朝食もあまり美味しく感じられなかった。
しかし私よりもっと朝食を味わえなかった人がいるようだ。
私の斜め前では、新しくやってきたお嬢さまが四苦八苦している。食事の仕方を逐一注意されているからだ。
「ああ、匙の持ち方がそれでは可笑しいですわ」
子どもに教えるように、アネットが後ろから手を添えている。彼女は素直に言うことを聞いているようだが、習慣付いていないことはやはり難しいようで、苦労している風だ。
主人はその様子を、微笑と共に眺めていた。
「さて、あとは任せました」
そう言って主人は立ち上がる。
「では王城に行って参ります。今日は帰りませんから」
「いってらっしゃいませ」
私たちは立ち上がり、主人に頭を下げる。
お嬢さまである少女も、一番に立ち上がって頭を下げていた。
「リュシイ」
主人は少女に声を掛けた。
「大変でしょうが、頑張れますね?」
「大丈夫です。皆に迷惑を掛けてしまいますけれど」
「それはお気になさらず。とにかくあなたは、この半年で作法を身に付けることだけを考えてください」
「はい」
言葉を交わして、主人は食堂を出て行く。
私には声を掛けてはくださらなかった。
◇
食事が終わり片付けをしているとき、ふとアネットのほうを見ると、テーブルを拭く手を止めて俯いていた。少しだけ顔色が悪いように思える。
「どうかしましたか? 気分でも悪いのですか?」
私の声に、アネットは顔を上げた。
「あ、ああ……ごめんなさい。少し、考え事をしていて」
彼女を悩ますのは、やはり新しいお嬢さまのことだろうか。
「大変でしょう。教えながらでは、ゆっくり食事もできないし」
「え、あ……いいえ、そういうことではないのよ」
「では、どういう?」
私が問うと、彼女は口元に手をやって、再び目を伏せて考え込んでしまった。
無遠慮に踏み込みすぎてしまったのだろうか。私はどうも、人の心の機微を読むのが苦手だから。
「すみません、不躾なことを」
私がそう言うと、アネットは小さく笑って手を振った。
「いいえ、気になるわよね。ごめんなさい。そうね、あなたには言ってもいいかしら」
「あの、言いたくなければ」
「いいえ、言っておいたほうがいいのだわ、きっと」
何度もうんうん、とうなずいたあと、アネットは口を開いた。
「今までは気付かなかったけれど、今日、食事の作法を教えているときに見えてしまったのよ」
ということは、やはりアネットの悩みはお嬢さまのことか。
「何が見えたのです?」
彼女は自分の両腕を前に掲げた。そして左手で右の手首を掴む。
それから、ひそやかに舌に言葉を乗せた。
「お嬢さまの手首、縛られたような跡があったわ」
その言葉に息を呑む。
虐待。
真っ先にその言葉が頭に浮かんだ。
「縄か何か、そんな跡なのよ。擦り傷にもなっていたわ。でも、昨日今日できた傷じゃなくて、縛られて痣になったあと、今、消えかかっているところって感じだったわ」
「……じゃあ、ジャンティさまは、虐待されていた彼女を救い出してここに連れてきたということでしょうか」
「かもしれないわね。それなら、半年は外に出すなというのはわかる気がするわ。誰か、そう、その虐待した人が追ってきてはいけないもの。それで、半年後には後見人が見つかるとお考えなのかも」
なるほど、そうかもしれない。しかし、腑に落ちない点もある。
「でもそれなら、わざわざ養女にする必要はないのでは? その後見人の養女にすればいいのだから」
「そうねぇ」
アネットは顎に手をやって少しの間考え込んだあと、手を叩いた。
「あっ、たとえば後見人を見つけるには、身分が必要なのではないかしら。ジャンティさまは公爵さまだし、加えて大法官。国王陛下の側近として名高いわ。むしろ競って後見人が現れるでしょう」
それが一番しっくりくる答えのような気もする。するのだが。
養女にするくらいなのだから、そのまま引き取ればいいのではないだろうか。
主人は、身分や立場から生じる人間関係を煩わしく思っているようなきらいがある。そんな彼が、わざわざ自分からそんな関係を増やすようなことを望むだろうか。
……いや、考えても仕方がない。これらは推測にしか過ぎない。それに今は何といっても情報が少なすぎるのだ。
下手な思い込みは、良い結果をもたらさない。
私はそう考え直して、お嬢さまについて、あれこれ考えを巡らせるのを止めた。いや、止めようとした。
けれどもどうにも気になってしまうのだから、精進が足りない。
王都を大地震が襲ったとき、王城の迅速な対応のおかげで死者が出なかったと言われているが、それも主人の働きがあったからではないかと、私は勝手に思っている。
王城の素早い対応は、王が、女神から地震の予言を頂いていたからだとも言われた。
女神。聖典にもよく登場する。ときにこの世に姿を現し、神の御言葉を人々に伝える、美貌の女神。
聖典では、初代国王は、彼女にこの地、エイゼンを統べよと言われたということになっている。
そして今回も、現王陛下の御前に現れて大地震から民を守れと言われた、と噂になっているのだ。
それは、王城の正門に飾られていた女神像が崩れ去ったのを見た人たちが、女神が被災のすべてを引き受けてくださった、などと広めたからかもしれない。
もちろんそんな御伽噺めいたことがあるはずはないが、こういう幻想的な話は一気に広まるものだ。今では王都にいる者ならば赤子でも知っているのではないかという位に広まってしまっている。
女神の守護をいただいた国王陛下。その国王に庇護される国民。
そういう図式で自分たちの価値も上がるような気がするからだろう。
しかし私としては、まるで国王一人の手柄のように噂されるのは、正直、面白くない。
若くして即位した現王は、大法官である主人を頼りきっているように私には思えた。
それが証拠に彼が即位してからというもの、主人は王城に詰めることが多くなっていた。地震のあとは、言わずもがな、だ。
王は、私の一つ年上だと言う。それで国をまとめなければならないというのだから、それは大変だろう。
一度だけ、王城に連れて行ってもらったことがある。あれは二年前だったか。
一つだけ年上の国王は、どちらかというと少年のような雰囲気を持った人だった。
栗色の瞳と髪を持つその人は、威厳というものが似つかわしくないように思えた。端正な顔立ちをしていたから、なおさらそう思えたのかもしれない。
国王というものは、立派な髭と屈強な体躯を持っているように、勝手に想像してしまっているからだろう。
私は主人の斜め後ろで国王と主人の二人の話を少し聞いただけだったが、主人からまるで親のように口うるさく、王というものは、などと説教されていて、言われたほうの王は、軽く肩をすくめていた。
しかし、王子として生まれて来た方が、それではあまりに頼りなくはないか。いずれ即位することが決まっていて、それなりに教育を受けてきたはずなのに。
……いや。
王が即位したとき、私は、主人を取られた、と思ったのだ。
これは、嫉妬だ。頭では理解できている。そんな思いは私に何の利益ももたらさない、醜い感情なのだと。
あのとき、そう自分に言い聞かせた。そして納得したはずだった。
なのにまた、同じ感情が私の心の中を占めている。
あまりに成長しない自分に嫌気がさす。
そんなことを考えていたものだから、朝食もあまり美味しく感じられなかった。
しかし私よりもっと朝食を味わえなかった人がいるようだ。
私の斜め前では、新しくやってきたお嬢さまが四苦八苦している。食事の仕方を逐一注意されているからだ。
「ああ、匙の持ち方がそれでは可笑しいですわ」
子どもに教えるように、アネットが後ろから手を添えている。彼女は素直に言うことを聞いているようだが、習慣付いていないことはやはり難しいようで、苦労している風だ。
主人はその様子を、微笑と共に眺めていた。
「さて、あとは任せました」
そう言って主人は立ち上がる。
「では王城に行って参ります。今日は帰りませんから」
「いってらっしゃいませ」
私たちは立ち上がり、主人に頭を下げる。
お嬢さまである少女も、一番に立ち上がって頭を下げていた。
「リュシイ」
主人は少女に声を掛けた。
「大変でしょうが、頑張れますね?」
「大丈夫です。皆に迷惑を掛けてしまいますけれど」
「それはお気になさらず。とにかくあなたは、この半年で作法を身に付けることだけを考えてください」
「はい」
言葉を交わして、主人は食堂を出て行く。
私には声を掛けてはくださらなかった。
◇
食事が終わり片付けをしているとき、ふとアネットのほうを見ると、テーブルを拭く手を止めて俯いていた。少しだけ顔色が悪いように思える。
「どうかしましたか? 気分でも悪いのですか?」
私の声に、アネットは顔を上げた。
「あ、ああ……ごめんなさい。少し、考え事をしていて」
彼女を悩ますのは、やはり新しいお嬢さまのことだろうか。
「大変でしょう。教えながらでは、ゆっくり食事もできないし」
「え、あ……いいえ、そういうことではないのよ」
「では、どういう?」
私が問うと、彼女は口元に手をやって、再び目を伏せて考え込んでしまった。
無遠慮に踏み込みすぎてしまったのだろうか。私はどうも、人の心の機微を読むのが苦手だから。
「すみません、不躾なことを」
私がそう言うと、アネットは小さく笑って手を振った。
「いいえ、気になるわよね。ごめんなさい。そうね、あなたには言ってもいいかしら」
「あの、言いたくなければ」
「いいえ、言っておいたほうがいいのだわ、きっと」
何度もうんうん、とうなずいたあと、アネットは口を開いた。
「今までは気付かなかったけれど、今日、食事の作法を教えているときに見えてしまったのよ」
ということは、やはりアネットの悩みはお嬢さまのことか。
「何が見えたのです?」
彼女は自分の両腕を前に掲げた。そして左手で右の手首を掴む。
それから、ひそやかに舌に言葉を乗せた。
「お嬢さまの手首、縛られたような跡があったわ」
その言葉に息を呑む。
虐待。
真っ先にその言葉が頭に浮かんだ。
「縄か何か、そんな跡なのよ。擦り傷にもなっていたわ。でも、昨日今日できた傷じゃなくて、縛られて痣になったあと、今、消えかかっているところって感じだったわ」
「……じゃあ、ジャンティさまは、虐待されていた彼女を救い出してここに連れてきたということでしょうか」
「かもしれないわね。それなら、半年は外に出すなというのはわかる気がするわ。誰か、そう、その虐待した人が追ってきてはいけないもの。それで、半年後には後見人が見つかるとお考えなのかも」
なるほど、そうかもしれない。しかし、腑に落ちない点もある。
「でもそれなら、わざわざ養女にする必要はないのでは? その後見人の養女にすればいいのだから」
「そうねぇ」
アネットは顎に手をやって少しの間考え込んだあと、手を叩いた。
「あっ、たとえば後見人を見つけるには、身分が必要なのではないかしら。ジャンティさまは公爵さまだし、加えて大法官。国王陛下の側近として名高いわ。むしろ競って後見人が現れるでしょう」
それが一番しっくりくる答えのような気もする。するのだが。
養女にするくらいなのだから、そのまま引き取ればいいのではないだろうか。
主人は、身分や立場から生じる人間関係を煩わしく思っているようなきらいがある。そんな彼が、わざわざ自分からそんな関係を増やすようなことを望むだろうか。
……いや、考えても仕方がない。これらは推測にしか過ぎない。それに今は何といっても情報が少なすぎるのだ。
下手な思い込みは、良い結果をもたらさない。
私はそう考え直して、お嬢さまについて、あれこれ考えを巡らせるのを止めた。いや、止めようとした。
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