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第五章 宮守明日香【後編】

第二十四話 君が望む男に

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 明日香に謝罪の電話をかけてから、数週間が経った。
 土曜日。渋谷区・神泉の雑居ビルに、大輔の姿があった。

 今日も休日出勤。クライアントと打ち合わせ。
 坂本から譲り受けた顧客だが、社長が老齢とあってなかなか強情である。平日の面会を提案しても、ことごとく断られる。しかも会ったら会ったで、話が長い。
 自分は休日に、老人の話し相手をさせられているのだ。

「菅原君は、若いのに本当に見識が広くて脱帽するよ」
「恐れ入ります」

 坂本からこのクライアントを引き継いだ時、「社長のペースに付き合う必要、ないですからね」と忠告された。しかし実際相手をしてみると、かなりの強者つわものである。
「坂本君も君も、年寄りの気持ちがわかる好青年だ」と、しょっちゅう口にするところを見ると、坂本もこの老人の話に律儀に付き合っていたと思われる。彼の性格を考えると至極当然だろう。

 老人に気づかれないように、テーブルの下で腕時計を確認する。
 もう六時か……そろそろ帰りたいな。
 その瞬間、大輔のスマホが胸元で震えた。

「ちょっと失礼します」
 スーツの内ポケットからスマホを取り出す。

『LINE 宮守:今日、少しだけお時間頂けませんか』

 画面の表示を見て、息を飲む大輔。

 宮守さん。
 
 なんで俺なんかにまた、連絡をくれるんだろう。
 もうとっくに愛想を尽かして、記憶の彼方に追いやられているかと思っていた。
 
 会いたい。
 君が許してくれるなら。
 もう一度君に会いたいよ。

「あの、ちょっと上司からなんで、返信して良いですか」
 それらしい嘘をついて、腰を浮かせて立ち上がろうとする大輔。
「メールかい? ここでやってくれて構わんよ」
「……恐れ入ります」

 ダメか。
 席を外すタイミングを使って帰ろうと思ったが、無理そうだ。

 とりあえず返信を打つ。
『今日は仕事なので、ちょっと無理そうです。来週の金曜に会いませんか』
 
 この分だと、まだしばらく付き合わされそうだ。
 彼女とは確実に会える約束をしたい。
 
 スマホを内ポケットに戻そうとするが、すぐにバイブレーションが作動する。
「すみません……」
「構わん、構わん」
 茶をすする老人に苦笑いを見せながら、再びスマホの画面を確認する。

『遅くなっても構いません。与野で待っています』
 
 与野?
 与野に居るのか。彼女は。
 俺の家……は、知らないはずだ。
 駅で待っているのか。あんな何もない駅で。

『何時になるかわからないので、別の日にしませんか。僕も、きちんと会って話がしたいです』
 送信してしばらく様子を見る。
 すぐに震えるスマホ。
 
『どうしても今日、会いたいんです。話は五分で済みます。何時間でも待ちます』

 俺のために「何時間でも」なんて。
 あんな酷いことばかりした俺に。
 なんでそこまでしてくれるんだ。
 
 俺だって今すぐ会いたいよ。
 わかったよ。君に会いに行くよ。
 もう少しだけ待っていて欲しい。
 必ず会いに行くよ。

 ****
 
 老人から解放されると、大輔は急いで渋谷駅に戻った。
 いつもなら神泉から渋谷までは歩いて戻るのだが、今回ばかりは一駅でも電車に乗る。

 井の頭線の渋谷駅に到着し、早歩きでJRに乗り換える。山手線に乗り、田端を目指す。渋谷の乗り換えにもだいぶ慣れてきた。

 山手線の車内で、明日香にラインを送る。
『一時間後に、与野駅に着きます』
 多分、間に合うだろう。

 大きく深呼吸をして、吊革に掴まる大輔。
 彼女の連絡に驚いて、無心にここまで来てしまったが、果たしてこれは正しい選択なのだろうか。

 不本意ながらも、自分は一度、彼女を振っている。
 振った相手に呼び出されて、俺はノコノコと会いに行こうとしている。

 もし彼女が、「友人としてこれからも相談に乗ってほしい」と言ってきたら。
 俺は拒否をする自信がない。

 もう俺は、彼女のことが好きだと自覚してしまった。
 どんな関係であれ、彼女と会えるのであれば受け入れてしまうだろう。

 しかし彼女と時間を共にすればするほど、この気持ちは高ぶるに違いない。
 そしていつか必ず、彼女に思いを伝えてしまう。
 抱きたいと思ってしまう。

 セックスする勇気がないのに、彼女と愛し合いたいと思う。
 こんな矛盾があるだろうか。

 もし彼女が受け入れたとして。俺が男として機能できたとして。
 自分を律することができるのだろうか。
 彼女を傷つけないと、断言できるのだろうか。

 残念ながら答えはノーだ。

 怖い。
 自分で自分がわからなくて、怖くて仕方がない。
 大切な人を傷つけるのは、もう嫌だ。

 間違っているんだ。
 こうやって彼女に会いに行くこと自体。
 本当はもう二度と、彼女には会ってはいけなかったんだ。

 ****

 一時間後。
 与野駅に降りた大輔は、タクシー乗り場の手前で明日香の姿を見つけた。

 藍色のボックスプリーツのワンピースに、グレーの短いジャケット。水色のボストンバッグを手にして、花飾りのついたオープントゥのパンプスを履いている。髪は少し巻いて、クリップでひとまとめにしている。

 明らかにお洒落をしてきた彼女を見て、大輔は嬉しさと同時に、申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
 俺に会うために、こんな辺鄙へんぴな駅で長い時間待って。
 たった五分の話のために、綺麗に着飾って。
 
 彼が現れたのを確認すると、明日香はペコリと頭を下げた。
「すみません。お疲れのところ。強引に呼び出してしまって」
「宮守さん……」
 大輔が近づくと、明日香は彼の瞳をじっと見つめ、決心したように言葉を発した。

「私、あなたのセフレになります」

「はい?」
 彼女の宣言に仰天する大輔。

「私、あなたのセフレになります」
 同じ台詞を繰り返され、大輔は聞き間違いではないと確信した。

「宮守さん、この間も話したけど、僕は……」
「私、菅原さんとセックスしたいんです」
「……」
「恋人になってほしいとか、そういうんじゃないんです。あなたと、セックスしたいんです」

 駅前の広場。家路に急ぐ人が二人の前を通っていく。明日香の発言を聞いて目を丸くする人、二人を横目で見ながら早足で過ぎていく人。
 公衆の面前で「セックス」と連呼する女性を、誰もが奇異な目で見ていた。

「宮守さん、ちょっと場所を変えようか」

 大輔が彼女の腕を掴んで、裏道に入ろうとする。
 折れそうなぐらい、細い腕。
 
 足を踏ん張り、その場にとどまろうとする明日香。
「どこに行くんですか。行くなら、菅原さんの家に行きます。今夜、私、帰りませんから」

 無意識に腕に力を入れる大輔。
「……冗談は、やめてくれないか」
「私、本気です」
 泣きそうな瞳で大輔を見つめる。

 掌の力を抜き、大輔はなだめるように説き伏せた。
「宮守さん。僕はね、君が思っているような男じゃないんだ。親の介護の為にキャリアを捨てた、くたびれたオッサンなんだよ」

 それでも明日香は一歩も引かない。
「菅原さんは、くたびれたオッサンなんかじゃありません。それに、『キャリアを捨てた』とかそんな言い方、声を掛けてくれた暎子のお父さんに、失礼じゃないですか」 
 いつになく強気な明日香の発言に、括目する大輔。
 
「菅原さんのお母さんだって、自分の息子がそんなふうに思ってるって知ったら、ショックなんじゃないですか」

 大輔は彼女を掴んでいた手を静かに離した。
 そうだ。
 俺は、こうやっていつもいつも、言い訳して逃げている。
 
 キャリア官僚になって、死に物狂いで働いて。「局長だって夢じゃない」なんて周りに言われて、その気になって。
 父親が死んで。母親が施設に入って。それでも頑張って、キャリアを全うするのも一つの道だったはずなのに、それをせずに逃げた。

 介護離職だと同情される度に、「自分で決めたから」と口では言っていたが、心のどこかで割り切れずにいた。
「こんなはずじゃなかった」、「親が元気だったら、こんなことにならなかった」と自分に言い訳している。

 彼女に対してもそうだ。
 セックスに自信がなくて、きっと彼女も傷つけると言い訳して逃げている。
 本当は、自分が傷つくのが怖いだけなのに。
 
「宮守さん、もういいよ。分かった。君の言いたいことは分かったよ」
「ごめんなさい……でも、私……」
 俯きながらも、彼から視線を動かそうとしない。

「君の言う通りだよ。『キャリアを捨てた』なんて、自分が決めたくせに、母のせいにするなんて。大人げなかった。僕が間違ってたよ。ありがとう、気づかせてくれて」

 大輔は薄く微笑んだ。
 宮守さん。
 君は不思議な女性だ。
 
 突然話しかけてきたり、無理矢理呼び出したり。
 子供っぽくて我儘なところがあるのに、こんなふうに俺の間違いを正してくれる。
 
 セフレなんて、本心じゃないんだろ?
 ごめん。こんなことを君に言わせてしまって。

 そして、ありがとう。
 意気地なしの俺にチャンスをくれて。

 君のセックスの悩みに、何処まで力になれるかわからないけど、一生懸命頑張るよ。
 心配なことも多いけど、君が望む男になってみせるから。

 もう後悔したくない。
 君のそばに居たいんだ。

 瞳を潤ませて視線を落とす彼女の顔を、大輔が覗きこむ。
「宮守さん。本当に、俺の家に、来る?」

 花が咲いたような笑顔を弾けさせる明日香。
「はい、行きます。連れていってください」
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