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2巻
2-2
しおりを挟む「ああ、やっぱりそうだ。声が聞こえたので。おかえりなさい。例のブツ、用意しましたよ」
爽やかな調子で言い放った彼に、ユーゼリカは真顔で応じた。
「急がせて申し訳ないわね。契約どおり報酬ははずむわ」
「ふふ。誰にも内緒で仕入れろなんて、闇商売でも始めるつもりですか?」
「そのようなところね」
「会うなり物騒な会話をするのはやめてくださいっ」
ロランが割り込み、青年に非難の目を向ける。にらまれた彼は効いた様子もなく『すみません』と言いたげに会釈して、持っていた籠を差し出した。
「どうぞ。頼まれた薬草茶です」
小さな紙袋がいくつも入ったそれを受け取り、ユーゼリカは彼を見上げる。
「ありがとう。フィルさん」
目があうと、彼――フィル・ウェルフォードは人好きのする顔をして微笑んだ。
緑がかった金髪、海のように深い青の瞳、白い肌。一見すると貴公子にも思えるほど見栄えのする容貌だが、その職業は植物学者である。乾燥地でも育つ野菜を研究開発しており、その将来性を見込んで店子に採用したのだが、大学では野草や薬草も育てているそうでそちらにも詳しい。こうしてお茶にして分けてくれることもしばしばだ。
「どういたしまして。あ、料金はこちらですね」
――もちろん、有料で。
すかさず請求書を差し出されたが、ユーゼリカは怯むことなくそれを受け取った。
とにかくこの青年、金勘定がしっかりしている。最初は請求されるたびに面食らったものだったが、よく考えればどれも正当な要求であると気づいてからは、ひそかに心の師とまで思っている。皇女とはいえ貧しい暮らしを経験している者として、そして国を豊かにせよと命題を受けた皇太子指名選の候補者として、お金に厳しいのは悪いことではないと思うからだ。
「急なお願いだったのに、こんなに。大変だったでしょう」
籠にはいっぱいに茶葉の小包が詰まっている。実はここへ来る前、先に知らせを出して薬草茶の調合を何種類か頼んでおいたのだ。
飲食店を始めると考えた時、飲み物はフィルに、菓子はシェリルに助言をもらおうと思い浮かんだ。基本的にはフォレストリアの料理を出すつもりでいるが、女子が好むようなものを入れることで第五皇女の店だという信憑性が増すかと思ってのことだった。
「大変ではないですよ。もともとリリカさんに渡そうと思っていた試作品があったから、それを多めに持ってきただけなので。でも、どうしてこんなに必要なんですか?」
気を遣わせまいというのかさらりと彼は言ったが、やはり不思議そうにしている。
ユーゼリカはにこりともせず答えた。
「癒やされたいのよ」
「ああ……疲れてるんですね」
フィルが同情したような顔になった。ここではユーゼリカは『金持ちの娘』で『金の亡者の父の命令で兄と跡継ぎの座を争っている』という設定になっている。その件で何かあったのではと思ってくれたらしい。
「どうしたらいいかわからないけど、せめてもの慰めに、もっと優しくしましょうか?」
本気か冗談かわからない調子で言った彼を、ユーゼリカはちらりと見る。
「あなたは今のままでいいわ。あなたといると気が引き締まる。どんどん出費がかさむから」
「ひどいなあ。人を強突く張りの金貸しみたいに」
「いや実際そうでしょ」
ロランが白い目で突っ込む。主である皇女からどんどん金銭を引っ張っていく彼をよく思っていないのだ。
大げさに嘆いていたフィルだが、ふと微笑むと、近くの扉を指さした。
「よかったら、今から試飲しませんか? 食堂へ下りるのが面倒なら、その作業室ででも」
二階には各人の個室の他に、作業部屋をいくつかしつらえてある。広い作業台や資料を収める大きな棚があり、休憩用の茶の一式も用意していた。
「ではそうしましょうか」
「じゃあお湯を取ってきますね」
話がまとまり、食堂へ下りていくフィルを見送り、作業室へ入る。いつもは誰かが仕事や作業で使っているのだが、今日は無人だった。
すぐにフィルが戻ってきたので、茶器を用意してテーブルにつく。彼とはこれまでもこうして試飲会をしているので手際も慣れたものだ。
「まずはこれはどうです? 『ほっと気分が安らぐお茶』」
籠の中から取り出されたのは黄色い印のついた包みだった。効能によって薬草を掛け合わせて茶葉を調合しているのだ。
「お願いするわ」
「じゃあ次は『イライラを鎮めるお茶』と、『眠れない時に飲むお茶』『頭をすっきりさせるお茶』の順でいきますか。……本当に疲れてるんですね」
「とにかく癒やされたいのよ」
そういう薬効で調合してくれと頼んだのはこちらである。ユーゼリカは真顔で繰り返すしかなかった。
フィルは気になる様子で何か言おうとしたようだが、結局は黙ったままお茶を淹れてくれた。
「どうぞ」
差し出されたカップには薄い黄色の液体が湯気を立てている。礼を言って手に取ると、ふわりと良い香りがした。口に含めば、湯温を調節してくれたらしく、ちょうどよい熱さのお茶が心地よく喉を通っていく。その後には、ほのかな薬草の香り。
「おいしい……」
思わず息をついていた。まさしく『ほっと安らぐ』お茶だ。
表情をゆるめたユーゼリカを見て、フィルが目を細める。
「あなたのそういう顔を見ると、僕もほっとしますね」
軽く頬杖をついてそう言った彼を、ユーゼリカはカップ越しに見た。
「なぜあなたが?」
「それはもちろん、僕が作ったお茶の効能が素晴らしいからですよ。リリカさんを安らがせることができて、その結果自分も安らげるわけですから」
フィルはにこにこと笑っている。爽やかだが真意の読めないいつもの顔だ。
「ええ。だから、なぜあなたがそこで安らぐのかと」
「そうだ、ちょっと待っててください」
ユーゼリカの問いに答えもせず、彼はいきなり立ち上がると部屋を出て行ってしまった。
また適当な軽口だったのだろう。それにしても部屋を出てまでごまかさずともいいだろうにと思いつつ、気にせず茶葉の包みを検分していると、ロランが憎々しげに扉を見やりながら言った。
「前からですが、本当に姫様に対して馴れ馴れしすぎますよ。何様のつもりなんですかね」
「私としては心の師と思っているけれど、彼のほうは単なる店子のつもりでしょうね」
「あんな銭ゲバな人を師と仰ぐのはおやめくださいっ! そもそも店子の態度じゃありませんよ。俗世をご存じない姫様に対して、ああしてたぶらかすようなことばかり……」
がみがみ言いかけたロランが、はっと息を呑む。
「まさか。お、恐れ多くも、姫様に対して不埒な思いを抱いて近づいているのでは!?」
「不埒な思いとはどういうことなの?」
「や、ですからつまり、異性として、その、不純な動機で近づきたいとか、そういうですねっ」
言い出したはいいが適切な言葉を探してしどろもどろになっている従者に、ユーゼリカは冷静な顔で言った。
「ロラン。彼の金銭第一主義を間近で見ていながらそう思えるのならば、あなたの目は節穴だわ。ご覧なさい、この私に出された請求書の束を」
「いや確かに分厚いですがっ。容赦なく取り立ててるのは重々わかっていますがっ! でもそれとこれとは別と言いますか、それはそれ、これはこれで、やっぱり好意を抱いてるのを薄々感じると言いますかですね、お互い年頃の男女に違いはないのですから用心しないと――」
「お待たせしましたー!」
「わぁッ」
急に扉が開いてフィルが爽やかに入ってきた。赤い顔で飛び上がったロランと真顔のままのユーゼリカを不思議そうに見比べている。
「どうかされました? ロランさん」
「べ、別にっ」
「そうですか? ――あ、これも飲んでみませんか? リリカさん」
彼が差し出したのは薬草茶とは違う色の紙包みだった。苦そうな、焦げたような香ばしい匂いがしている。
「初めて嗅ぐ匂いだわ。これも何かの薬草なの?」
「薬草じゃなくて果実だそうです。僕もまだ元の果実は見たことがないんですけどね。煎って細かく挽いてお湯を注ぐと珈琲という飲み物になるんですよ。最近皇都で流行りだしてるとかで、挽いて粉にしたものを研究室で少し分けてもらったんです」
彼が包みを開くと茶色の粉のようなものが入っていた。苦みのある香りが強くなり、ユーゼリカは興味深くそれをのぞきこんだ。
「最近流行っているというと、まだ珍しいものなの?」
「異国から入ったものですからね。でも地方ではだいぶ流通してきたようですよ。港のある都市では珈琲を専門に飲ませる店もあって、繁盛しているみたいで。皇都ではあまり見かけませんけど、たぶんこれから出来てくるんじゃないかな」
同じく部屋から持ってきたらしい道具を手早く並べると、茶色の粉をそれに入れ、お湯を注いでいく。ふわりと香りが広がって、何やら不思議に高揚するような気分がこみ上げた。
カップに注がれた液体は焦げ茶色をしていた。横からのぞき込んだロランが顔をしかめている。
「本当に飲めるんですか?」
「もちろん。僕も何度か飲みましたから安全は保証します。味は好みがあるでしょうけど、意外と癖になるというか。異国ではこれにいろいろ入れて好きな味にして飲むみたいで」
ユーゼリカはじっくりと珈琲を観察した。色も匂いも、正直なところそこまで食欲を刺激されるものではない。しかし妙に引き寄せられるものがある。
(異国や港の都市でそんなに流行っているのなら、それなりの理由があるはずだわ。分析して何かに生かせれば……)
金儲けの匂いに気づいて真剣な顔になる主に気づかず、ロランは胡散臭いものを見る目全開でフィルに絡んでいる。
「なんだかあやしいですね。いろいろ入れるって、一体何を入れるんですか?」
「砂糖とか胡椒とか、ミルクとか。地方によって違うみたいですけど」
「砂糖と胡椒って、それ正反対の味になるでしょう? 本当に飲み物なんですか? 苦そうな匂いがしてるし薬みたいな感じもしますけど」
「んー、まあ昔は媚薬として使われたとか聞きましたけどねえ」
「媚薬!? ああああなた、姫様になんてものを飲ませようとしてるんです!?」
「いや、昔の話ですよ? お伽噺みたいなものじゃないですかね。そもそも紳士な僕がそんな目的で勧めるわけが」
「いやいやいや、もうだめ、だめです、信用できない! 姫様、絶対に飲まないでくださ――」
「飲むわ」
「姫様っ!?」
ひととおり観察を終えるとユーゼリカはカップに口をつけた。後ろでロランが悲鳴をあげたが、それに反応する間もなく、経験のない苦みが口の中に広がった。
思わず顔をしかめてしまうと、フィルが急いた様子で何かを差し出した。
「苦いですよね。すみません、前もって言わなくて。これどうぞ」
紙に包まれた丸いものだった。両端がきゅっとねじられている。
「バター飴です。これをなめながら飲むと、この苦さもわりといけますよ」
言われるままユーゼリカは飴を受け取り、包みを開いて口に運んだ。
苦さと少し酸味があったところにまったりとした甘さがじんわりしみていく。おそらくは飴だけだと相当甘いのだろう。苦みが緩和され、混ざりあってまろやかになっていく。
一口、二口と珈琲を飲むたび、苦みと甘みが変化し、調節しながら楽しめることに気づいた。
「……なるほど。確かに意外と癖になるわね」
フィルが言った意味を実感して感心していると、彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「気に入ってもらえたようでよかったです。もう少しでロランさんに成敗されるところでした」
「でも意外だわ。あなたが飴を持ち歩いているなんて」
野菜で作った揚げ菓子を店子に売っているのは見たことがあるが、甘いものが好きという話は聞いたことがない。それとも珈琲を飲むために必須なのだろうかと考えていると、
「大学で女の子にもらったんです」
さらりと返ってきた答えに、ユーゼリカは思わず彼を見上げた。
「女の子?」
それが何を指すのか、咄嗟にわからなかった。
飴をくれる女の子。何かの暗喩か? それともそういう役割の子どもが存在するのか。いや、彼が勤めるのはアカデメイアなのだから子どもはいないはずだ。とすると女子学生のことか。彼の学友か、研究者仲間か。飴をくれるほど親密な。こんな、お金大好きな彼にも、そんな人が?
答えを導き出そうと難しい顔で見つめたまま考え込んでいるユーゼリカに、爽やかな笑みが向けられる。
「女の子の助手とか学生とか、借金の形にお菓子を置いていく子が結構いるんですよね。今月はこれで勘弁してくれって」
「あなた……本気で非道ですね」
大学でも金を巻き上げているのかとロランが顔を引きつらせたが、フィルは平然としている。
「まあ借金云々は冗談ですよ。半分は」
「あとの半分は!?」
「苦くて飲めないって言ってる子に、別の子が飴を渡してるのを見かけて。それから僕も持ち歩いてるんです。ミルクを入れると苦みがやわらいでおいしいだとか、いろいろ参考になるんですよ」
ユーゼリカはカップに残った珈琲に目を落とした。あまりに彼の印象とかけ離れている気がしてしばし黙考してしまったが、そういうことだったのか。
「つまり――、あなたの学友や同僚の女性方もこれを飲んでいると。そして一緒に楽しんでいるというわけね」
「えっ? あ……はい、まあ」
フィルが少し驚いたようにこちらを見て、それから、決まり悪そうに口ごもった。
別に失言をしたわけでもないのになぜそんな顔をするのだろうと不思議に思いながら、ユーゼリカは顎に手を当てて考え込んだ。頭の中はすでに目の前の珈琲のことでいっぱいだった。
(これから皇都で流行ると聞いては捨て置けないわ。いち早く参入すれば利益を得られるはず。どうにかして入手し、商売にできないかしら)
「あの……リリカさん? 一応言っておきますけど、ただ友人と一緒に休憩をとっただけで……」
「今更言い訳したって遅いですよ。銭ゲバな上に女たらしなんですか? 信じられない」
恐る恐るといった様子で申し開きを始めたフィルをロランが冷ややかに見ているが、真剣に考え込んでいるユーゼリカは気づかない。
(飲み慣れない苦みが問題ではと思ったけれど、フィルさんのご学友によれば砂糖とミルクを入れるとおいしいとのことだし。実際に飲んでいる女性の意見は貴重だわ。誰しも新しくておいしいものには興味があるものよ。これは人気が出るかもしれない)
「いや、さっきの飴も本当は僕が買ったものですよ。もらったものもありますけど、それはここに……、ああ、自分で食べるのもあれなんで、ロランさんにあげますね」
「なんで私!? いりませんよ!」
「いいからもらってください。この場の平和のためにも」
「平和も何も、あなたが巻き起こしたことでしょ……ちょ、勝手にポケットに入れないでっ!」
飴をめぐって小競り合いが始まったようだが、本格的に策を練り始めていたユーゼリカの耳には入ってこない。
(ひとまず、少しでもいいから珈琲の材料を取り寄せてみましょうか。そして身近な人たちに試飲してもらい、感想をもとに味の調整をして……どこかで客に提供できれば――)
はた、とひらめいた。
(そうだわ。開店する店で出せば、間違いなく大きな売りになる。こちらでも財を築けるかも)
あくまで隠れ蓑のための店であり、利益は度外視するつもりだったが、売り上げが良ければそれに越したことはない。評判が上がれば支店を出すこともできるだろう。
(そうして黒字になればさらなる人材育成の費用に充てられる。なんて素晴らしい……!)
高揚のあまりユーゼリカは思わず立ち上がった。
もみ合いすぎてほとんど抱き合う形になっていた二人がびくりと振り返る。
「ひ、姫様?」
「リリカさん?」
怖々と声をかけた二人に、ユーゼリカはようやく目を向けた。
その瞳はきらきらとまぶしいほどに輝いていた。
「珈琲のこと、教えてくださってありがとう。あなたのおかげでやる気が出てきたわ」
「え……?」
「これで兄たちにも勝てるかもしれない。早速事業計画を練らなくては。ではごきげんよう」
ぽかんとしているフィルに会釈をすると、さっと表情を切り替えて踵を返す。足早に部屋を出て行くのを、ロランが「姫様ぁ!」と慌てて追っていった。
呆気にとられて見送っていたフィルは、やがて、ふっと吹き出した。
微笑とともに、つぶやきがこぼれる。
「……今日も元気そうで、よかった」
余計なことを言って怒らせてしまったかという狼狽と、先ほどの生き生きとした表情と。
そのどちらに対して自分は動揺しているのだろうと苦笑しながら、彼は押しつけ損なった飴をテーブルにそっと置いた。
第二章
従者たちの尽力により、皇女のカフェが無事開店したのは一月後のことである。
ラウルが探してきた店舗は高級商店街の通り沿いにあり、広さはそれほどでもないが小ぎれいで洒落た外観をしていた。いかにも『皇女が選びそう』な店だと思ってもらえそうだ。
内装は注文通り、女子の好むような淡い色合いと程よい装飾にしてもらった。テーブルや椅子は高価ではないがしっかりした造りのものを置いている。こちらも裕福ではない第五皇女が用意したものだとして納得してもらえるだろう。
店で働く職人は皆、フォレストリアから出てきて皇都に住んでいる者ばかり。ラウルや代官を通してユーゼリカも身元を知っているので、その点では安心している。彼らにはフィルから仕入れた薬草茶とシェリルに教えてもらった焼き菓子も出すよう指示し、練習も重ねた。もともと菓子職人だった者もおり、異郷の菓子を作るのは造作もないようだった。
人々を癒やす薬草茶と、可愛らしい菓子や軽食を楽しめる店。
それがカフェ『森の館』である。
下宿館にて報告書を読んでいたユーゼリカは、息をついてそれをテーブルに置いた。
「ばれたわ。思ったより早かったわね」
控えていたロランと侍女のリラが、驚いた様子で目を合わせる。
「もうですか?」
「ええ。私が店を始めたことをつかんで、早速接触してきたみたい」
城にいるキースからきた報告書には、ユーゼリカ宛てに届いた手紙の内容が記されていた。第五皇子のジオルートと第十一皇子のヘンドリックが店について探りを入れてきたという。
カフェを始めたことは公表しておらず、フォレストリアの民が働いていることしかユーゼリカとの接点はない。にもかかわらず『第五皇女が店を始めた』ことをつかんでいる者は、こちらの動向をかなり探っているということになる。
「わざわざ手紙を送ってくるなんて、わかりやすくてありがたいことだわ。二人以外にも店のことに気づいた方がきっといるでしょうけれど……そちらは知らぬふりをするでしょうね」
時には城下にも出る遊び人と噂のジオルートはともかく、駆け引きに疎そうな末弟のヘンドリックですら情報をつかんでいる。他の兄弟たちも勘づいていると思ってよさそうだ。
「大丈夫でしょうか? あまり下宿館と行き来なさらないほうがいいのでは」
心配そうに眉をひそめているロランに、テーブルにおいた報告書を示してやる。
「城ではレネットがうまく立ち回ってくれているようよ。皇子の従者らしき者がひそかに様子をうかがいにきたので、声をかけて引き下がらせたとあるわ。驚いて逃げていったそうだけれど、その後で〝私〟が森緑の宮にちゃんといるのだと主に報告してくれたでしょう」
「ええっ。直接言葉を交わすなんて、あやしまれたらどうするのですか」
「私の顔を近くでじっくり見たことのある者など、殿下方の従者の中にはいないわ。それにレネットも安全な距離をわかって動いているはず。よほど私をよく知る方でない限り、そうそう別人だと見破られることはないでしょう」
「う……。確かに、そっくりではありましたけど……」
レネットの化粧術を思い出したのか、ロランが微妙な顔つきでうなる。同郷である彼女を信頼はしているが、皇女がからむとやはり懸念は尽きないのだろう。
ユーゼリカは報告書に目を落とす。わかりやすく動いてくれる皇子ばかりではない。むしろなんの反応もない皇子のほうが気にかかる。
いつも馴れ馴れしく暑苦しい第二皇子アレクセウス。切れ者に見えるが何を考えているかわからない第三皇子オルセウス。仲の良い兄を蹴落としたことで恨みを買ったであろう第六皇子アルフォンス。特にこの三人は要注意だ。
(それにベルレナード殿下の陣営も油断できない。すでに失格になったのだからと、なりふり構わず攻撃してくる可能性もある)
第四皇子ベルレナードは皇太子指名選の規則を破ったため、父帝の命により失格となった。今は私宮に蟄居しているが、母妃やその一族の嘆きは大きいという。父帝の手前もあるのか今のところ何かしら仕掛けてくる様子はないが、用心は必要だ。
この懸念は、この先誰かが脱落するたびに増えていくのだろう。
(……先は長いわね)
「姫様?」
ため息をついたのに気づいたのか、リラが案じるように見ている。
ユーゼリカは首を振り、腰をあげた。
「あちらはキースやレネットたちに任せましょう。こちらも本業に注力しなければ」
そのためにカフェを開いたのであり、影武者を用意したのだ。自分はやるべきことをやらねばならない。本業、つまりは下宿館経営ならびに店子の才能を育てることに全身全霊をかけるのだ。
その日は週に一度の食事会の日だったため、昼過ぎから準備に取りかかった。何しろ包丁も握ったことがないというところから始めたため、時間がかかるのだ。
夕方になると店子たちがぽつぽつと帰宅してきて、手伝ってくれるのがこの頃の流れとなっていた。今日も未亡人のシェリルと発明家のエリオットが加わり、根菜と肉団子のシチューに、チーズをのせたパンの献立ができあがった。
「おーっ、うまそうな匂い。腹減ったー!」
赤い髪の青年が騒々しく入ってきた。小説家志望のイーサン・エバーフィールドだ。食堂にかけてある小さな黒板を見て、残念そうに舌打ちしている。
「なんだよ。アンリもリックも今日いねえのかよ。せっかくいいもん持ってきたのに」
黒板には店子の名前が連ねてあり、不在にする場合はその旨を書き込むことになっている。今夜は役者志望のアンリと皇宮医官のリックの欄はまだ外出中になっていた。
「リックさんはお仕事で職場にお泊まりだそうよ。アンリさんは劇団の最終試験の結果発表があるので遅くなると聞いたわ」
「ふーん。んじゃこれ、みんなで食おうぜ」
仕方ないというふうにイーサンが肩をすくめ、ユーゼリカに紙袋を渡した。中を見てみるとハムの塊とソーセージがいくつも入っていた。
「あら。ごちそうね」
「もらい物だけどな。たまには精のつくもの食って大きくなろうぜ。特におまえ」
イーサンがシェリルの息子のルカをぐりぐりとなでる。ルカが楽しげに笑って彼を見上げ、シェリルは微笑んで見守っていた。口が悪く態度も大きいイーサンだが、面倒見の良いところがあってよくこうしてルカを気遣っている。
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