40 / 44
第4幕 Smile for me―――約束
第6話
しおりを挟む
それから姫は雅代に亮のことを尋ねても、知らぬ存ぜぬの一点張り。絶対に何か知ってそうな様子だったのに明らかにおかしい。
だけど、最後に「下郎のことならお嬢様が心配しなくてもいい」と締めくくられては、姫の胸中にあるモヤモヤが消えるはずもなく。
「……一体どういう――」
そのことを聞き出そうとした瞬間、扉から遠慮がちなノックが聞こえた。誰だろう、と二人が顔を見合わせると、それが開けられた。
「失礼します」
厳粛な声が響き、看護師長が入ってきた。彼女が二人の顔を順番に見てから話を進める。
「丁度よかった。実は、華小路さんにある話が持ち掛けられまして」
彼女がそう切り出すと、雅代の怪訝そうな顔に向かってこう告げた。
「心配しなくても結構です。これは、貴女の主人にとって良い話になりますから」
そう宥めても、雅代の眉間の皺はますます深くなるばかり。
別に看護師長が直接姫に何かしら手を加えたわけではないにしても、姫を利用としようとした挙句に責務放棄と来た。従者として、到底赦せぬものがあるだろう。
しかし、気が削がれたのは次に姫の言葉を聞いた時だった。
「……聞かせて」
「お嬢様……その、よろしいので?」
「……いい。話も聞かないで追い出すのも、なんか不公平な気もするし」
「承知いたしました」とお辞儀する雅代。だからと言って、彼女の顔から険しさが引いたわけでもなかった。
それでも大丈夫だ、と言わんばかりに看護師長は来客用の椅子を引いて腰掛け。コホン、と一つ咳払いを挟んでから本題を切り出した。
長らく話を聞いていく内に、姫の警戒の顔が未だに信じがたいといったものへと変わっていった。
「……治療を受ける……私が……?」
「はい。とは言っても、もし華小路さんが承諾してくれたらの話にはなりますが」
一通り説明を聞き終わっても、姫はポカンとしている。長年にわたって今、自分にこんな話が持ち掛けられるとは思ってもみなかった様子だ。
内容を掻い摘むと、ある医者が薔薇紋病のことを聞いて姫の状態を知り、なんとしても治療法を見つけて彼女を助けたいという。その可能性が遂に見つかって、確実なデータ採取のために、患者である姫に臨床試験への参加をお願いしたい、とのこと。
真偽を確かめるために、看護師長はメールと一緒に添付された研究報告書に目を通してみたところ、大丈夫でしょうと判断し、姫に持ち掛けたということ。
「まさか、この研究チームは前回あの……」
「いいえ。全く別の研究チームです。しかも、海外の優秀な方々ばかりです。まあ、前のチームと関係があるのかは不明ですが」
「……外国人?」
頷く看護師長を見て、姫はますます混乱した。
その説明を聞くに、相手がこちらと面識があったとしか思えないからだ。実際に姫が雅代にアイコンタクトで聞くと、「そんな方は存じあげておりません」とばかりに、頭を左右に振られた。
「ちなみに、成功する確率はどれくらいでしょうか」
雅代の問いに眉をしかめる看護師長。少しの間を置いて、彼女は説明を続けた。
「ご存知の通り、薔薇紋病に掛かったケースは、華小路さんただ一人のみ。これは即ち、誰も踏み入れたことのない領域を歩むことになります。
故に、成功率は著しく低い。そのことは、肝に銘じておくといいでしょう」
「……うん。それで、具体的な数字というのは?」
今度は姫の問い掛けに、更に眉根を寄せる看護師長。その表情には迷いを表す曇りが見えて、雅代の心をざわつかせた。
先程よりも長い間を置いて、彼女はゆっくりと口を開く。
「僅か0.01%です」
絶望的な数字を聞いて、雅代は奥歯を噛み締めた。
だって、そんな確率なんて、まるで姫に死ねと言っているみたいなものだ。到底納得できるわけがない。
「……けど、治る可能性があると思って、この話を持ち掛けた。そうだよね?」
どこか前向きな声を聞いて、雅代がハッとなった。そう、姫自身がまだ諦めてなどいないことに気付いたのだ。
「はい、勿論です」
即答を聞いて、内心で胸を撫で下ろす雅代。
看護師長の昔の行いがどうであれ、彼女とて一医療関係者の端くれ。延々とベッドで横たわる患者が見たいというより、治った患者の元気な姿を見たい、という気持ちを常に持っていた。
ふと、ある台詞が姫の脳裏をよぎった。それは、姫がまだ死神として四年目時のこと。不意に彼女が亡くなった患者たちに羨ましいと呟いた際に、こう言われた。
『もし神様がまだお迎えに上がられてこないとすれば、それは『まだ死ぬ時ではない』という神様からのメッセージなのでは?』
最初、姫がそれを聞いた時はあまり理解できなかったけど、今となって初めてその意味が分かった気がした。
――私にはまだやるべきことが残っている。そういうことだよね、神様。
確かに、治療の話は姫にとって分が悪いかもしれない。
今この瞬間でも、彼女は心のどこかで死を待ちわびていた。だけど、7年間を待ってもそれが叶わず、代わりに1つの解が出た。
真っ直ぐに看護師長の目を見る姫の横顔は、まるで揺らがぬ決意の表れのよう。
「……了承しておいて。あ、了承して……ください」
「本当にいいんですか? 下手したら、日本ではない、異国の地で亡くなることになりますよ?」
「……例えその可能性が0に近いとしても。微かな希望がある限り、それに賭けてみたいの。もうこれ以上ここに留まるわけにはいかないしね」
姫が苦笑交じりに言うと、看護師長もこくと頷いた。
「分かりました。先方にはそう伝えておきます。何か進展がありましたら、また追ってお知らせいたします」
「……お願いね」
看護師長が退室して暫く経った頃、雅代がずっと思っていた疑問を本人にぶつけることにした。
「本当によろしいですね、お嬢様」
「……私ね、こう考えることにしたの。これだけ死を待っていてもまだ死んでいないってことは、今の私は、死とは縁がないって」
「お嬢様……」
姫の気持ちを聞いて、雅代は少しばかり胸が締め付ける思いがした。元々、意思確認のつもりが、いつしか死への覚悟になった。
身に詰まる話ではあるが、それでも一従者として最後まで聞かないと、と一旦私情を押し殺すことにした。
「……今でも死にたいという気持ちは勿論あるけど。縁がないなら、諦めるしかない。だったら、“お迎え”が来るまで精一杯生きようって、そう決めたの。無論、その時が来たら大人しく受け入れるつもり」
いつの間にか、生き続けることが辛いであることを前提とした会話になってしまっている。ささやかな反抗のつもりか、雅代は拳を握り締めた。
それに気付いても尚、語り続ける姫の口調はとても穏やかだ。
「……それに、7階の患者を置いていくつもりなんてない。皆を背負って行けるところまで連れて行くんだ。ここまで死に損ねたんだから、最後まで責任を持てないとね」
最後まで自分の気持ちを伝えて微笑む姫の姿は、やはり儚い。
どこか悲観的で前向きな、そんな矛盾だらけの顔。その表情と、最初に約束を交わした頃の幼い顔立ちが、雅代には重なって見えた。
――嗚呼、お嬢様が。ワタシのお嬢様がやっとお戻りになられましたね。
雅代は嬉しいような悲しいような、何とも言えない複雑な気持ちになった。
けれど、主人がこう仰られてはもう、彼女には他の台詞はない。
「かしこまりました、お嬢様」
その夜、姫は久しぶりに夢を見た。
霧の中にポツンと一人。辺りを見回すと、何もなかれば誰もいない。まるで雲の上にいるような、曖昧でふわふわとした感覚に包まれて歩き始めた。
彼女が暫く歩くと、よく見知った景色が遠く前の方で広がっている。
普段から滞在していた談話室の中に彼女が看取ってきた7階の患者が勢揃いで、リラックスしている。
「おっ、姫さんじゃないか! やっとこっちに来るのか。ったく、待ちくたびれたぜ。なあ、皆?」
この男の声は姫がよく覚えている。彼こそ7階に来た初めての患者であり、その中で唯一彼女のことを『姫さん』と呼ぶお喋り好きな男だ。
彼の発言によって、他の皆も姫の存在に気付き、まるで久々に再会を果たした友人のように彼女を呼ぶ。
「本当だ、我らの死神さんではないですか! さあさあ、席ならこちらに空いておりますので」
「あら、死神さん。ふふ、今までお勤めご苦労様」
「よう、随分と遅かったじゃねえか、我らの死神さんよぉ。相変わらず別嬪さんなこってぇ。そうだ、ここいらで一曲を披露するってんのはどうよ。こう見えて、実は歌声には一番自信があるんだぜ。どうだ、聞いとくかぁ?」
もう会えない旧友たちに温かく迎えられ、ノスタルジアに駆られて徐々に歩みを速める姫。あの声を聞くまでは。
「お姉ちゃぁ~ん」
どこまでも朗らかな、幼い声。
姫がその声に振り返ると、そこには彼女が見たかった三人の姿が並んでいた。「おーい」と大きく手を振っているみお。その隣で恥ずかしげもなく大声で姫の名を呼ぶ亮。そんな二人の後ろに「お嬢様」と微笑む雅代。
三人の顔を見比べて、もう一度前方の懐かしき光景に目を向ける。あと数歩先で彼らと団欒できそうな距離。
なのに、彼女はそこからもう一歩も進まず、ただじっと足下を見る。
「……ごめんね皆。まだ暫くそっちに行けそうにないや」
罵倒が飛んでくることを想定して、姫はぎゅっと目を瞑って拳を握りしめた。
「そうか……。まあ、姫さんがそう言うのなら仕方ない。なぁーに、こっちのことは気にすんな。時間ならたーっぷりあるからな。行って来い」
男の暖かな言葉を初めに、他の患者も次々と見送りの言葉を送った。
それらを受け止めるように、震えている唇をきゅっと結び、背中を向け、亮たちの方へと歩き出した。
それと同時に、みおもまた姫のところに向かう。やがて、二人は向き合って立ち止まった。
「…………」
長い長い数秒間姫は逡巡した後、伸ばしかけた腕を力なく落とした。掛けるべき言葉があるはずなのに、中々出てこないことに悔しがっている様子だ。だけど彼女とは対照的に、みおは全く気にしない様子で姫の脇をすり抜けた。
――また言えなかった。
そんな後悔が心中に広がり、無意識に握った拳が小刻みに震えていた。小さく息が零れる音と同時に拳を解いた、次の瞬間――。
「お姉ちゃぁ~ん、バイバァ~イ!」
「――――」
底抜けの明るさを帯びたみおの別れに振り向くと同時に、姫の心は揺らいだ。まるで、彼女がまだ生きているような錯覚に陥ってしまいそうだ。
だけど、みおとの明日なんて、もう二度と来ない。
姫は暫く何も言えずにいたが、やがて口を開いた。
「……ええ。バイバイ、みおちゃん」
泣きじゃくった顔を綻ばせて、小さな親友と永遠のお別れを告げる姫。とことこと走っていったみおの見送りをせず、彼女は歩き続ける。
暫く進むと、周りの景色が眩しい光に呑まれていく。目覚めは間近だと直感的に感じて、姫の意識が眠りの海から浮上していく――。
その刹那――。
「行って来い。暫くこっちには戻ってくるなよ」
おじいさま、と彼女が呼び掛けようにもそれが叶わず。
「大丈夫、一姫ならできる。何せ、おじいじの一番のお姫様だからのう」
姫の心に響く懐かしい声は、光の中に溶けていった――。
だけど、最後に「下郎のことならお嬢様が心配しなくてもいい」と締めくくられては、姫の胸中にあるモヤモヤが消えるはずもなく。
「……一体どういう――」
そのことを聞き出そうとした瞬間、扉から遠慮がちなノックが聞こえた。誰だろう、と二人が顔を見合わせると、それが開けられた。
「失礼します」
厳粛な声が響き、看護師長が入ってきた。彼女が二人の顔を順番に見てから話を進める。
「丁度よかった。実は、華小路さんにある話が持ち掛けられまして」
彼女がそう切り出すと、雅代の怪訝そうな顔に向かってこう告げた。
「心配しなくても結構です。これは、貴女の主人にとって良い話になりますから」
そう宥めても、雅代の眉間の皺はますます深くなるばかり。
別に看護師長が直接姫に何かしら手を加えたわけではないにしても、姫を利用としようとした挙句に責務放棄と来た。従者として、到底赦せぬものがあるだろう。
しかし、気が削がれたのは次に姫の言葉を聞いた時だった。
「……聞かせて」
「お嬢様……その、よろしいので?」
「……いい。話も聞かないで追い出すのも、なんか不公平な気もするし」
「承知いたしました」とお辞儀する雅代。だからと言って、彼女の顔から険しさが引いたわけでもなかった。
それでも大丈夫だ、と言わんばかりに看護師長は来客用の椅子を引いて腰掛け。コホン、と一つ咳払いを挟んでから本題を切り出した。
長らく話を聞いていく内に、姫の警戒の顔が未だに信じがたいといったものへと変わっていった。
「……治療を受ける……私が……?」
「はい。とは言っても、もし華小路さんが承諾してくれたらの話にはなりますが」
一通り説明を聞き終わっても、姫はポカンとしている。長年にわたって今、自分にこんな話が持ち掛けられるとは思ってもみなかった様子だ。
内容を掻い摘むと、ある医者が薔薇紋病のことを聞いて姫の状態を知り、なんとしても治療法を見つけて彼女を助けたいという。その可能性が遂に見つかって、確実なデータ採取のために、患者である姫に臨床試験への参加をお願いしたい、とのこと。
真偽を確かめるために、看護師長はメールと一緒に添付された研究報告書に目を通してみたところ、大丈夫でしょうと判断し、姫に持ち掛けたということ。
「まさか、この研究チームは前回あの……」
「いいえ。全く別の研究チームです。しかも、海外の優秀な方々ばかりです。まあ、前のチームと関係があるのかは不明ですが」
「……外国人?」
頷く看護師長を見て、姫はますます混乱した。
その説明を聞くに、相手がこちらと面識があったとしか思えないからだ。実際に姫が雅代にアイコンタクトで聞くと、「そんな方は存じあげておりません」とばかりに、頭を左右に振られた。
「ちなみに、成功する確率はどれくらいでしょうか」
雅代の問いに眉をしかめる看護師長。少しの間を置いて、彼女は説明を続けた。
「ご存知の通り、薔薇紋病に掛かったケースは、華小路さんただ一人のみ。これは即ち、誰も踏み入れたことのない領域を歩むことになります。
故に、成功率は著しく低い。そのことは、肝に銘じておくといいでしょう」
「……うん。それで、具体的な数字というのは?」
今度は姫の問い掛けに、更に眉根を寄せる看護師長。その表情には迷いを表す曇りが見えて、雅代の心をざわつかせた。
先程よりも長い間を置いて、彼女はゆっくりと口を開く。
「僅か0.01%です」
絶望的な数字を聞いて、雅代は奥歯を噛み締めた。
だって、そんな確率なんて、まるで姫に死ねと言っているみたいなものだ。到底納得できるわけがない。
「……けど、治る可能性があると思って、この話を持ち掛けた。そうだよね?」
どこか前向きな声を聞いて、雅代がハッとなった。そう、姫自身がまだ諦めてなどいないことに気付いたのだ。
「はい、勿論です」
即答を聞いて、内心で胸を撫で下ろす雅代。
看護師長の昔の行いがどうであれ、彼女とて一医療関係者の端くれ。延々とベッドで横たわる患者が見たいというより、治った患者の元気な姿を見たい、という気持ちを常に持っていた。
ふと、ある台詞が姫の脳裏をよぎった。それは、姫がまだ死神として四年目時のこと。不意に彼女が亡くなった患者たちに羨ましいと呟いた際に、こう言われた。
『もし神様がまだお迎えに上がられてこないとすれば、それは『まだ死ぬ時ではない』という神様からのメッセージなのでは?』
最初、姫がそれを聞いた時はあまり理解できなかったけど、今となって初めてその意味が分かった気がした。
――私にはまだやるべきことが残っている。そういうことだよね、神様。
確かに、治療の話は姫にとって分が悪いかもしれない。
今この瞬間でも、彼女は心のどこかで死を待ちわびていた。だけど、7年間を待ってもそれが叶わず、代わりに1つの解が出た。
真っ直ぐに看護師長の目を見る姫の横顔は、まるで揺らがぬ決意の表れのよう。
「……了承しておいて。あ、了承して……ください」
「本当にいいんですか? 下手したら、日本ではない、異国の地で亡くなることになりますよ?」
「……例えその可能性が0に近いとしても。微かな希望がある限り、それに賭けてみたいの。もうこれ以上ここに留まるわけにはいかないしね」
姫が苦笑交じりに言うと、看護師長もこくと頷いた。
「分かりました。先方にはそう伝えておきます。何か進展がありましたら、また追ってお知らせいたします」
「……お願いね」
看護師長が退室して暫く経った頃、雅代がずっと思っていた疑問を本人にぶつけることにした。
「本当によろしいですね、お嬢様」
「……私ね、こう考えることにしたの。これだけ死を待っていてもまだ死んでいないってことは、今の私は、死とは縁がないって」
「お嬢様……」
姫の気持ちを聞いて、雅代は少しばかり胸が締め付ける思いがした。元々、意思確認のつもりが、いつしか死への覚悟になった。
身に詰まる話ではあるが、それでも一従者として最後まで聞かないと、と一旦私情を押し殺すことにした。
「……今でも死にたいという気持ちは勿論あるけど。縁がないなら、諦めるしかない。だったら、“お迎え”が来るまで精一杯生きようって、そう決めたの。無論、その時が来たら大人しく受け入れるつもり」
いつの間にか、生き続けることが辛いであることを前提とした会話になってしまっている。ささやかな反抗のつもりか、雅代は拳を握り締めた。
それに気付いても尚、語り続ける姫の口調はとても穏やかだ。
「……それに、7階の患者を置いていくつもりなんてない。皆を背負って行けるところまで連れて行くんだ。ここまで死に損ねたんだから、最後まで責任を持てないとね」
最後まで自分の気持ちを伝えて微笑む姫の姿は、やはり儚い。
どこか悲観的で前向きな、そんな矛盾だらけの顔。その表情と、最初に約束を交わした頃の幼い顔立ちが、雅代には重なって見えた。
――嗚呼、お嬢様が。ワタシのお嬢様がやっとお戻りになられましたね。
雅代は嬉しいような悲しいような、何とも言えない複雑な気持ちになった。
けれど、主人がこう仰られてはもう、彼女には他の台詞はない。
「かしこまりました、お嬢様」
その夜、姫は久しぶりに夢を見た。
霧の中にポツンと一人。辺りを見回すと、何もなかれば誰もいない。まるで雲の上にいるような、曖昧でふわふわとした感覚に包まれて歩き始めた。
彼女が暫く歩くと、よく見知った景色が遠く前の方で広がっている。
普段から滞在していた談話室の中に彼女が看取ってきた7階の患者が勢揃いで、リラックスしている。
「おっ、姫さんじゃないか! やっとこっちに来るのか。ったく、待ちくたびれたぜ。なあ、皆?」
この男の声は姫がよく覚えている。彼こそ7階に来た初めての患者であり、その中で唯一彼女のことを『姫さん』と呼ぶお喋り好きな男だ。
彼の発言によって、他の皆も姫の存在に気付き、まるで久々に再会を果たした友人のように彼女を呼ぶ。
「本当だ、我らの死神さんではないですか! さあさあ、席ならこちらに空いておりますので」
「あら、死神さん。ふふ、今までお勤めご苦労様」
「よう、随分と遅かったじゃねえか、我らの死神さんよぉ。相変わらず別嬪さんなこってぇ。そうだ、ここいらで一曲を披露するってんのはどうよ。こう見えて、実は歌声には一番自信があるんだぜ。どうだ、聞いとくかぁ?」
もう会えない旧友たちに温かく迎えられ、ノスタルジアに駆られて徐々に歩みを速める姫。あの声を聞くまでは。
「お姉ちゃぁ~ん」
どこまでも朗らかな、幼い声。
姫がその声に振り返ると、そこには彼女が見たかった三人の姿が並んでいた。「おーい」と大きく手を振っているみお。その隣で恥ずかしげもなく大声で姫の名を呼ぶ亮。そんな二人の後ろに「お嬢様」と微笑む雅代。
三人の顔を見比べて、もう一度前方の懐かしき光景に目を向ける。あと数歩先で彼らと団欒できそうな距離。
なのに、彼女はそこからもう一歩も進まず、ただじっと足下を見る。
「……ごめんね皆。まだ暫くそっちに行けそうにないや」
罵倒が飛んでくることを想定して、姫はぎゅっと目を瞑って拳を握りしめた。
「そうか……。まあ、姫さんがそう言うのなら仕方ない。なぁーに、こっちのことは気にすんな。時間ならたーっぷりあるからな。行って来い」
男の暖かな言葉を初めに、他の患者も次々と見送りの言葉を送った。
それらを受け止めるように、震えている唇をきゅっと結び、背中を向け、亮たちの方へと歩き出した。
それと同時に、みおもまた姫のところに向かう。やがて、二人は向き合って立ち止まった。
「…………」
長い長い数秒間姫は逡巡した後、伸ばしかけた腕を力なく落とした。掛けるべき言葉があるはずなのに、中々出てこないことに悔しがっている様子だ。だけど彼女とは対照的に、みおは全く気にしない様子で姫の脇をすり抜けた。
――また言えなかった。
そんな後悔が心中に広がり、無意識に握った拳が小刻みに震えていた。小さく息が零れる音と同時に拳を解いた、次の瞬間――。
「お姉ちゃぁ~ん、バイバァ~イ!」
「――――」
底抜けの明るさを帯びたみおの別れに振り向くと同時に、姫の心は揺らいだ。まるで、彼女がまだ生きているような錯覚に陥ってしまいそうだ。
だけど、みおとの明日なんて、もう二度と来ない。
姫は暫く何も言えずにいたが、やがて口を開いた。
「……ええ。バイバイ、みおちゃん」
泣きじゃくった顔を綻ばせて、小さな親友と永遠のお別れを告げる姫。とことこと走っていったみおの見送りをせず、彼女は歩き続ける。
暫く進むと、周りの景色が眩しい光に呑まれていく。目覚めは間近だと直感的に感じて、姫の意識が眠りの海から浮上していく――。
その刹那――。
「行って来い。暫くこっちには戻ってくるなよ」
おじいさま、と彼女が呼び掛けようにもそれが叶わず。
「大丈夫、一姫ならできる。何せ、おじいじの一番のお姫様だからのう」
姫の心に響く懐かしい声は、光の中に溶けていった――。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
読まれるウェブ小説を書くためのヒント
金色のクレヨン@釣りするWeb作家
エッセイ・ノンフィクション
自身の経験を踏まえつつ、読まれるための工夫について綴るエッセイです。
アルファポリスで活動する際のヒントになれば幸いです。
過去にカクヨムで投稿したエッセイを加筆修正してお送りします。
作者はHOTランキング1位、ファンタジーカップで暫定1位を経験しています。
作品URL→https://www.alphapolis.co.jp/novel/503630148/484745251
後宮の下賜姫様
四宮 あか
ライト文芸
薬屋では、国試という国を挙げての祭りにちっともうまみがない。
商魂たくましい母方の血を強く譲り受けたリンメイは、得意の饅頭を使い金を稼ぐことを思いついた。
試験に悩み胃が痛む若者には胃腸にいい薬を練りこんだものを。
クマがひどい若者には、よく眠れる薬草を練りこんだものを。
饅頭を売るだけではなく、薬屋としてもちゃんとやれることはやったから、流石に文句のつけようもないでしょう。
これで、薬屋の跡取りは私で決まったな!と思ったときに。
リンメイのもとに、後宮に上がるようにお達しがきたからさぁ大変。好きな男を市井において、一年どうか待っていてとリンメイは後宮に入った。
今日から毎日20時更新します。
予約ミスで29話とんでおりましたすみません。
本当にあった怖い話
邪神 白猫
ホラー
リスナーさんや読者の方から聞いた体験談【本当にあった怖い話】を基にして書いたオムニバスになります。
完結としますが、体験談が追加され次第更新します。
LINEオプチャにて、体験談募集中✨
あなたの体験談、投稿してみませんか?
投稿された体験談は、YouTubeにて朗読させて頂く場合があります。
【邪神白猫】で検索してみてね🐱
↓YouTubeにて、朗読中(コピペで飛んでください)
https://youtube.com/@yuachanRio
※登場する施設名や人物名などは全て架空です。
悪役令嬢の慟哭
浜柔
ファンタジー
前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢エカテリーナ・ハイデルフトは自分の住む世界が乙女ゲームそっくりの世界であり、自らはそのゲームで悪役の位置づけになっている事に気付くが、時既に遅く、死の運命には逆らえなかった。
だが、死して尚彷徨うエカテリーナの復讐はこれから始まる。
※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。
※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。
「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。
「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。
月と太陽
もちっぱち
ライト文芸
雪村 紗栄は
月のような存在でいつまでも太陽がないと生きていけないと思っていた。
雪村 花鈴は
生まれたときから太陽のようにギラギラと輝いて、誰からも好かれる存在だった。
そんな姉妹の幼少期のストーリーから
高校生になった主人公紗栄は、
成長しても月のままなのか
それとも、自ら光を放つ
太陽になることができるのか
妹の花鈴と同じで太陽のように目立つ
同級生の男子との出会いで
変化が訪れる
続きがどんどん気になる
姉妹 恋愛 友達 家族
いろんなことがいりまじった
青春リアルストーリー。
こちらは
すべてフィクションとなります。
さく もちっぱち
表紙絵 yuki様
世界の東の端っこのフットボール・チルドレン
遊佐東吾
ライト文芸
鬼島中学サッカー部に所属する榛名暁平は、中学レベルをはるかに超えた天賦の才能を持つセンターバックだ。
家族を交通事故で失った彼と、鉄の結束を誇る仲間たちはただひたすら勝利を求める。たとえ相手がサッカーエリートの集まるクラブユースであろうとも。
サッカーを通してつながっている小さなコミュニティを守るため、センチメンタルでタフな少年少女たちはそれぞれのやり方で必死に戦っていく。
Crystal of Latir
鳳
ファンタジー
西暦2011年、大都市晃京に無数の悪魔が現れ
人々は混迷に覆われてしまう。
夜間の内に23区周辺は封鎖。
都内在住の高校生、神来杜聖夜は奇襲を受ける寸前
3人の同級生に助けられ、原因とされる結晶
アンジェラスクリスタルを各地で回収するよう依頼。
街を解放するために協力を頼まれた。
だが、脅威は外だけでなく、内からによる事象も顕在。
人々は人知を超えた異質なる価値に魅入られ、
呼びかけられる何処の塊に囚われてゆく。
太陽と月の交わりが訪れる暦までに。
今作品は2019年9月より執筆開始したものです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、
実在のものとは関係ありません。
透明の「扉」を開けて
美黎
ライト文芸
先祖が作った家の人形神が改築によりうっかり放置されたままで、気付いた時には家は没落寸前。
ピンチを救うべく普通の中学2年生、依る(ヨル)が不思議な扉の中へ人形神の相方、姫様を探しに旅立つ。
自分の家を救う為に旅立った筈なのに、古の予言に巻き込まれ翻弄されていく依る。旅の相方、家猫の朝(アサ)と不思議な喋る石の付いた腕輪と共に扉を巡り旅をするうちに沢山の人と出会っていく。
知ったからには許せない、しかし価値観が違う世界で、正解などあるのだろうか。
特別な能力なんて、持ってない。持っているのは「強い想い」と「想像力」のみ。
悩みながらも「本当のこと」を探し前に進む、ヨルの恋と冒険、目醒めの成長物語。
この物語を見つけ、読んでくれる全ての人に、愛と感謝を。
ありがとう
今日も矛盾の中で生きる
全ての人々に。
光を。
石達と、自然界に 最大限の感謝を。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる