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目覚め
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長い眠りから目覚めたレイナが最初に見たのは見知らぬ白い天井だった。
何か悪い夢でも見ていたような気がしたが思い出せない。
状況が分からないまま上体を起こすと、身体に違和感を覚える。
下を向くと何も着用していない状態で、白いブランケット一枚に隠されているだけだった。
「!?」
赤面してすぐに両手で上体を隠す。
すると、何か違うことに気がつく。
明らかに以前より成長している。
一年や二年という短期間の変化ではない。
まるで少女から大人の体つきになっている。
「な、なんで……?」
幼いころ早く母のような大人の身体になりたいと願っていたが、今はまさに望んだ特徴になっていた。
そこでようやく家族の事を思い出す。
「皆、どこ?」
辺りを見回すが、自身が横になっていたベット以外は何もない白い部屋に自分一人しかいない。
しかもそこには窓がなく、天井の白熱電球だけが部屋を照らしていた。
寝ぼけている頭を必死に働かせ、どうしてここにいるのか思い出そうとする。
数秒間思考を巡らせると、悪寒が走るような映像が脳裏に浮かぶ。
父親の断末魔。
部屋に押し入ってきた浮浪者。
友達の父親の血を吸った人の形をした化け物。
「あ……」
その化け物の犬歯は並みの人以上に尖っていた。
恐る恐る舌で自分の犬歯に触れると、記憶の中にいた者を同じように長く尖っているのがわかった。
あれは夢じゃない。
だとすれば家族はどうなったのか。
あの時友達になったセレーネは無事だったのか。
そうして一人混乱しながら考えていると、部屋のドアが開いた。
その音にすぐに反応して右を向くと、一人の男性が入ってきた。
濃い茶色の髪を全て後ろへ流し、目付きは鋭く感情がないような冷たい印象。
服は黒い執事用の服を着ていた。
「あ、あの……」
レイナは恐る恐るその人物に声を掛ける。
男は返事をせず、ブランケット一枚で身体を隠す彼女の様子を数秒間眺めていた。
「少し待ってろ」
男はぶっきらぼうに言うと、部屋を出ていってしまった。
レイナはどうすればいいか悩んだ。
ここはよくない場所であり、もしかしたら逃げ出した方がいいのではないか。
しかし、外の状況もわからないままどこへ行けばいいのか。
そもそもなぜ自分は急に成長したのか。
不明なことがあまりにも多く、それが彼女を一歩動き出すことを躊躇わせる。
すると、廊下から足音が聞こえてきた。
先程の男がドアを開けたままにしていたため、その音から二人が近づいてくるのがわかった。
(ど、どうしよう……)
その二人は善人なのか悪人なのか。
記憶の中の悪夢と重なる。
自分の部屋に悪意を持った者が近づいてくるあの恐怖。
今度もまた襲われてしまうのか。
足音の主が部屋に近づくごとに肥大していく恐怖心に硬直してしまうレイナ。
だが、部屋に入ってきたのは見覚えのある顔だった。
「よかった、起きたか」
その人物は、矢に射抜かれたレイナを助けた男性だった。
長い白髪、蓄えられた白い髭、服は高級そうな黒い紳士服。
吸血鬼でありながら救ってくれた恩人。
「あ、あなたは、あの時の……」
「そうだ、自己紹介がまだだったね、私はデュラン、彼は執事のロンサンだ」
名を呼ばれたロンサンは軽く会釈をした。
レイナはロンサンの先程の口調に多少怯えながらも、デュランに疑問をぶつける。
「ここはどこですか? 私の身体はどうなっているんですか? 家族は無事なんですか?」
「まあ待ってくれ、順を追って話すとしよう」
デュランは慌てるレイナを優しく諭すと、ここまでの経緯を話し始めた。
二人の無法者の吸血鬼を倒し、レイナを吸血鬼に変えた直後の事。
レイナは意識を失い、昏睡状態になった。
人間が吸血鬼になると、すぐに活動できる者・休眠期間に入る者と個人差がある。
レイナの場合は変化する直後に肉体が死にかけていたため、その再生と強化のため長い眠りにつくことを身体が望んだ。
その期間はなんと八十年にも及び、その間ずっとデュランは血を飲ませ続けたのだという。
彼女の身体が大人の状態まで成長し老化しなかったのも吸血鬼になった影響であった。
デュランはレイナが昏睡した直後、家の付近を捜索したが生き残った者はおらず、グールと呼ばれる化け物になることを防ぐため死体はすべて焼却したそうだ。
吸血鬼に噛まれた者は吸血鬼になるが、干からびるまで血を吸われた者は吸血鬼ではなく血に飢え知性を失い死体すら貪る異形、屍喰鬼(グール)になる。
すべての被害者がそうなるわけではないが、万が一の可能性も考慮した結果の行動であった。
「八十年……」
デュランからの話をレイナは信じられなかった。
それに加えて生き残った者がいないということは両親に加えてセレーネも殺されたことになる。
「私と、同じくらいの女の子は……」
「いたが……あの時はもう……」
最後まで語らなかったデュランの表情からセレーネが絶望的な結末を迎えたことは想像に難しくなかった。
レイナは頭の中が真っ白になる。
顔を下に向け、目から涙が落ちていく。
自分の命以外の全てを失い、もう生きる気力も希望も失くなっていた。
あの時、デュランに問われた時に吸血鬼になることを望まなければ良かったのか。
だからと言って精神的に自殺する余力も湧かない。
そんな魂の脱け殻のような状態になるレイナに、デュランはそっと肩に手を乗せた。
「私の下で共に戦わないか?」
「……え?」
「私は君に出会う前から吸血鬼を、いや、無法者を狩ってきた、今世界情勢はとても不安定だ、これを機に君を襲った者と同じような連中が勢力を伸ばそうと画策している」
無法者、という言葉にレイナは反応し目を見開いた。
それを見たデュランは話を続ける。
「吸血鬼の他にも人狼と呼ばれる化け物も数を増している。人間同士の戦争に乗じて奴らは暴れるつもりだ。そうなれば君のような被害者が増えていくだろう。」
「私の……ような……?」
涙で視界が歪むレイナはデュランの方へ顔を向けた。
今味わっている絶望を罪もない他の人も味わうことになってしまう。
そう考えた彼女はブランケットを強く握った。
悲しみで出来た心の空洞に、静かに怒りの感情が芽生え始めた。
自身を楽しそうに矢で撃ったあの無法者が他にもいる。
そんな者達のせいで被害者も出てくる。
そんなことは許されて良いはずがない。
レイナは決意する。
「デュランさん、私に、戦い方を教えてください! 奴等を、あんな乱暴な化け物を放っておけない!」
彼女の真っ直ぐな視線に、デュランは何度も頷いた。
「分かった、だがいくつか注意しなければいけないことがある」
デュランは手短に要点を話した。
まず吸血鬼になったことで今後日光は浴びることは許されない。もし浴びれば皮膚が焼け爛れすぐに死ぬことになる。
それから主な栄養補給手段は血液の接種となる、通常の食事は可能だが人間の時より吸収効率がとても悪くなっている。
後は最も重要なことである戦闘方法。
吸血鬼や人狼は個体差や種別による差はあるものの、どちらも人間以上の戦闘力や再生能力を有している。
そのため、知識に加えて人間以上に強力な生物を殺すための訓練も必要となるということだ。
「今の情勢ではあまり君を自由に外に連れ出せない。当分の間は昼に地下で過ごして夜に移動、または訓練を行う形になるが、それでもいいかい?」
「……はい」
もう以前のような生活は出来ない。
レイナは涙を拭って覚悟を決めた。
出来ることなら両親の墓を作ってから別れの挨拶を済ませ、自分の家を最後に一目見たかった欲求に駆られた。
だが、デュランの言った通り情勢の悪化で自由な行動は許されない。
レイナは心の中で両親やセレーネの想い出に別れを告げ、デュランの庇護下で生きていくことを受け入れた。
もう自分は普通の人生や幸せを享受することはない。
そう自身に言い聞かせ、二度と戻れない日常に未練を残しながらある誓いを立てた。
『この世にいる無法者は皆許さない、必ず皆殺しにしてやる』と。
その後、レイナはデュランの言う通り各地を転々としていった。
話を聞くとデュランは吸血鬼でありながら人間とは協力関係にあり、加えて議員という立場で国を動かす、または助言する者達の一人であった。
この時期の情勢は緊張状態にあり、いつ大きな戦争が勃発しても不思議ではなかった。
無論デュランを始めとする議員達もそうならないように死力しつつ、無法者の吸血鬼や人狼達にも警戒していた。
レイナはほぼお荷物のような扱いで、かつ表舞台では死亡扱いだったのでデュランとロンサン以外の使用人等に見つからないようにしていた。
仮に見つかったとしても誤魔化せるよう簡素なメイド服を着せられていた。
こうして彼女はデュランとロンサンしか知らない地下室や秘密部屋に隠れて過ごし、場所や状況によっては壁に開いた人一人分の空間に入り、そこを食器棚等の家具で塞がれ、一日中そこで過ごしたこともあった。
元々狭い空間や暗い場所にいるのはあまり苦にならない性格が功を奏し、精神的苦痛は常人より少なかった。
それどころかその生活で色々な発見があった。
まず視力、吸血鬼となると人間以上に暗闇の中を見ることが容易になる。
一切明かりがない場所でもある程度は物が見えたので、デュランに頼み本を貰うと隠れ場所でそれを読んで時間を潰した。
次に筋力、レイナは一切トレーニングをしていなかったにも関わらず、吸血鬼となった後の力は最低でもトップアスリート並みかそれ以上を有しており、長期間訓練せずともあまり低下しなかった。
最も困ったのは食事、吸血鬼であるので血を必要とするのだが、常に忙しかったデュランはレイナに定期的に血を届けることが出来なかった。
勿論ロンサンにも運ばせたが、彼も同様に忙しかったのか中々来なかった日が度々あった。
そうなると彼女は喉の渇きに苦しむこととなる。
一回の食事となる血の量はコップ一杯分となりこれで一日耐えられた、あまり動かなければ二日、もしくは三日耐えられたがその間ずっと血への渇望が酷いものだった。
あまりの苦しさから唇と噛んで自分の血を啜ったが、その場凌ぎでしかなかった。
それでも命の恩人のため、お荷物である自分がさらに迷惑を掛けないようにするためと歯を食いしばりながら耐える日々を過ごしていた。
こうして一年以上過ごしたある日、レイナは夜中にロンサンによって外に連れ出された。
その時生活していた所はマナーハウスと呼ばれる場所で、広大な土地にいくつも建物が建てられている。
そのほとんどは二階建てで領主用や使用人用、なかには小さなコンサートホール用のものまであった。
そこの中庭まで行くと、ロンサンは振り返り気だるそうにため息をつく。
「あの方からの命令だ、レイナ、お前をここで鍛える」
「鍛える?」
「戦い方を教えてくださいと言ったのはお前だろう、ようやく時間が出来たから今から始める」
「い、今から……?」
「そうだ、ただ使用人が寝ているから声を出すな」
ロンサンからの突然の宣告。
レイナは訳が分からず棒立ちの状態だった。
そんな彼女に、ロンサンは目にも止まらぬ速さで接近するとその勢いのまま顔を殴った。
「ッ…!?!」
顔の向きを無理矢理変えられるほどの強烈な攻撃にレイナは倒れた。
口内や鼻から血が流れ、顔を手で押さえながら『いきなり何を?』と言わんばかりの表情で彼を見つめる。
だが、当の本人はまったく悪びれていない。
「いちいち口で説明するのも面倒だからな、実戦形式でいくぞ」
「ま、待って!?」
レイナはすぐに立ち上がり、手で制止しようとするがロンサンは止まらない。
その拳には憎しみはおろか強くなってほしいという想いすらない。
ただ機械的に、作業でもするかのようにレイナの顔や腹部を殴っていく。
吸血鬼であるが故に傷はすぐ再生するが、いきなり強くはなれない。
防御する間もないまま数分間ロンサンの攻撃を受け続けたレイナはついに体力が僅かとなり、両手と両膝を地面につけた。
「ひっ…ぅ…く…」
顔の傷が治る速度が最初に比べて遅い。
身体の修復と損傷によって体力が少なくなれば、いかに吸血鬼といえども動きが鈍くなり回復も遅くなる。
そのことをたった今涙ながらに身をもって知った。
「もう終わりか、情けないな」
見下すロンサン。
そんな彼の態度にレイナは怒りが芽生えた。
「うあああああああ!!」
痛みや疲労を無視し、怒りのまま走り出した。
しかし、真っ直ぐ突っ込んでくるレイナを跳躍してかわすと、彼女の背中に全体重を乗せて勢いを殺した。
「っ!?」
まるで踏み潰された虫の気分を味わうレイナ。
ロンサンはそんな倒れた彼女の身体の上に立ったまま呆れた。
「声を出すなと言っただろう、次叫んだら喉を切り裂くぞ」
ゴミを見るような目で見下すロンサンに、レイナは悔しさで身体を震わせた。
自分はあまりにも弱い、いや、彼があまりにも強い。
子供と大人、それ以上の差があることは明確だった。
これでは無法者の化け物達を狩れない。
そう痛感せざるを得なかった。
ロンサンはレイナの身体から降りると、一切心配する様子は見せない。
「もういい、今日はここまでだ、さっさと地下室に行って寝ろ」
惨めにうつ伏せの状態のレイナに吐き捨てるように言うと、そのまま振り返ることなく行ってしまった。
残された彼女は芝生を握り閉め、涙を流した。
受けた痛みだけではなく、精神的にも打ちのめされたショックは大きい。
しばらくその場で泣いていたが、言われた通り自ら地下室へと向かい入っていった。
ここで朝を迎えれば日光で死ぬ、もしくは別の使用人に見つかれば匿ってくれているデュランに迷惑が掛かってしまう。
せっかく助けられた命を無駄にするわけにもいかない。
何より無法者の異形を狩ると誓ったのだ。
レイナは血と涙で汚れた顔をそのままに、暗い地下室で虫のように丸まりながら眠りについた。
いつか必ずロンサンより強くなる。
そう自らに言い聞かせるレイナだった。
それから数ヵ月間、彼女は何度もこの悪魔のような男に打ちのめされていく。
ロンサンは決して戦い方は話さず、見て覚えろと言わんばかりに殴ってくる。
レイナは必死に身を守った。
それこそ初心者のボクサーのように顔面を両腕で隠した。
しかし、無表情の悪魔相手に通用しない。
防御出来ていない腹に容赦なく拳をめり込ませる。
激痛や苦しみから腹部を腕で隠すが、今度は顔面を殴られ横や頭上の景色を無理矢理見せられた。
疲弊して傷の治りが遅くなるまで殴られてようやくその日の訓練(という名の一方的な暴行)が終わると、悔しさを滲ませながら地下室へ戻る。
そこで敗北の味を噛み締めるように一人声を押し殺しながら泣いた。
だが、涙を流した日を積み重ねるごと彼女は精神的に強くなっていく。
急激に体術等の技量が上がるわけではなかったが、内に秘めた闘争心が少しずつ上がっていくのを感じた。
守ってばかりでは駄目だと、がむしゃらに拳を振るうものの瞬時に避けられ反撃の拳を食らう。
身体の傷は翌日には治るが、服は土や返り血で汚れ所々破れていった。
まるで家を追い出され浮浪者となった元使用人のような外見となってもレイナは諦めなかった。
ある日、地下室の扉を別の人物が開ける。
なんと、多忙でしばらく姿を見せなかったデュランだった。
「あ、デュラン、さん」
ロンサンが来ると思い警戒する番犬のような表情をしていたが、突然の恩人の顔を見て安心感を覚えた。
今日の訓練は私がしよう。
そう言われ血の入った大きめのコップを渡されると、それを一気に飲み干す。
治癒した分だけ体力を消耗し、血への渇望が酷くなった彼女にとってはまさに救いだった。
あの悪魔も来る度に渡すが、普通のコップなので到底足りていなかった。
吸血鬼に成り立ての頃は血を飲むことに抵抗があったものの、もう今はそんな姿は面影もない。
ただ生きることに必死であり、治癒と強化のため必要となるなら慣れる以外道はなかった。
数秒で食事を終えたレイナは、使われていない建物へ案内された。
その建物は小規模ながらコンサートホールのようだった。
せいぜい学校の生徒一クラス分が入る広さだろうか。
デュラン曰くここは防音機能があるため、多少の音なら外には漏れないだろうとのことだ。
今日はどんな訓練なのだろうか。
そう疑問に思っていると、真っ直ぐ伸びた木製の剣を手渡された。
「基礎的な剣術を教える、これは木で出来ているから斬れないが当たると痛い上に突かれると刺さるぞ」
そう言われると、レイナは青ざめる。
今度はこれで殴られるのか。
あの悪魔みたくこの男も容赦なく攻撃してくるのか。
もしかしたら殴られるより痛いのではないか。
と、警戒していたが、デュランはロンサンとは反対にしっかりと説明してくれた。
「いいか、相手も剣を持っていたら切っ先は常に敵に向けて戦うんだ、そうすれば相手からの攻撃を防ぎつつ反撃する機会が生まれやすくなる」
いきなりチャンバラをするのではなく、ゆっくりと剣の動きを見せてそれを真似させることで身体に覚えさせるようにするデュラン。
この時ばかりはレイナは安堵した。
だが、決して手を抜くような事はしない。
これらの技術が無法者達を狩るために必要なら絶対に習得してやる。
その想いがレイナの表情にハッキリと出ていた。
そんな彼女に、デュランも応えるように真摯に教えていく。
殴られながらの訓練とは違い、何度も基礎的な剣の振りを教わるレイナはある種の満足感を得ていた。
恩人の技術を教わることによる錯覚じみた一体感が孤独を紛らわせてくれる。
それが今の彼女にとっては何よりも嬉しかった。
それから数週間はデュランが稽古をつけてくれた。
まるで父の帰りを待つ娘のように目を輝かせる。
しかし、一度訓練が始まればすぐ真剣な表情になった。
「ロンサンに酷くされなかったか?」
「え……?」
稽古中、突如質問してきたデュランにレイナは一瞬固まってしまう。
思い出されるのは刺すような冷たい視線の悪魔。
彼から殴られた数はもう覚えていない。
「その……沢山、殴られて……」
「そうか、すまんな、手荒くしないようにと言ったんだが」
「いえ、強くなるための訓練なら仕方ないです、それに、吸血鬼なら傷もすぐ治るので……」
レイナは必死に強がり、うつ向いてしまう。
そんな彼女の頭を、デュランは優しく撫でた。
「え、あ、あの、デュランさん?」
「辛いだろうが、頑張るんだ、我々がやらねば世界はあんな秩序を守らない愚か者共に支配されてしまう」
「……はい」
デュランからの言葉に、レイナは一層気を引き締め訓練を続けた。
来る日も来る日も、何度も木製の剣を振り身体の動かし方も習っていく。
こうして徐々に己の実力が上がってきたと思い始めた頃、訓練の頻度が落ちてきた。
どうやらデュランはさらに多忙になったらしく、代わりにロンサンがやってくるようになった。
無論ただ殴られるだけでなく、教わった身のこなしで避けようとする。
すぐには上手くいかなかったが、最初に比べて攻撃を受ける回数が減り回避行動が僅かながら上手くなったと感じてきた。
しかし、今度はロンサンも訓練に来る間隔が開いてくる。
唯一の食料を運んでくれる二人が中々来なくなったことで、レイナは最長で五日は地下で渇きに耐えざるを得ない生活を送った。
拳を強く握り、爪を手の平に食い込ませながら早く来てほしいと祈る。
数日後にようやく血を持ってきても、訓練をする余裕がないのかロンサンはすぐに去ってしまう。
せっかく強くなってきた実感を得たのに、と絶望感すら出始めた。
もしかしたらこのまま忘れられてここで干からびるのか。
そう考えながら昼間地下で息を殺していたレイナの聴力は異様に上がっていった。
そして、その耳で昼間の使用人達の話を聞けるようになる。
「おい、今度はあの国が進攻したって」
「もうあちこちで戦争が起きてるな」
「どうなっちまうのかな俺達」
「さあ、とりあえずデュランさんの言われた通りここで仕事してりゃあいいだろ」
進攻?
戦争?
世の中の出来事が分からないレイナにとっては不吉な言葉でしかない。
その戦争の影響でここから出られないまま一生を終えるのか。
もしそうなら、いっそ抜け出した方が……
でもどこにも行く宛はない。
そう地下室で自問自答していたある日の夜、外から車のエンジン音が聞こえた。
レイナは移動する際車に乗せて貰っていたので車の存在も分かっていた。
その音からするに静かに駐車したのではない。
速度を出した状態からの急ブレーキ音。
降りてきたドライバーはよほど急いでいたのか、寝ていた使用人を叩き起こす。
「早く起きろ! 急げ!! 来い!!」
レイナは一瞬声の主が誰か分からなかったが、注意深く聞くとその主はロンサンだった。
いつもは落ち着いている時の声ばかり聞いていたため印象が異なるが、確かにあの悪魔じみた執事の声だ。
三人の足跡が遠ざかっていき、車に乗るとそのまま走り去ってしまう。
自分はどうすればいいのか分からなかった。
もしかしたら本当に捨てられたのか。
一帯に他の誰も居なくなったその土地で一人になった彼女は地下室から出ようとする。
そこへまた車が近づいてくるのを音で察知した。
すぐ出るのを中止し、静かに身を潜める。
だが、車から降りたその人物は迷わず彼女がいる地下室へと向かっていく。
もしかしたらここにいるのが人間にバレた?
そうだとしたら殺されるのではないか。
昔両親を殺した者が近づいてくるような恐怖から硬直する。
訓練はしたが実戦経験などない素人であるレイナは相手がここへ来ないよう祈った。
しかし、その人物は最初から分かっていたかのように地下室の入り口を開けた。
「レイナ!」
聞いたことのある声。
それはあの恩師であるデュランだった。
「デュランさん!?」
「おお、そこにいたか、さあ、すぐに出るんだ」
レイナはデュランに手を引かれ、囚われの身から脱出したお姫様のように車へと連れていかれた。
「あ、あの、なにが……?」
「話は後だ」
二人は車に乗るとすぐに出発した。
助手席に乗ったレイナは後ろを見て、自分がいた土地が遠ざかっていくのに名残惜しさを感じた。
数分後にはその場所も見えなくなったところで、レイナは険しい表情で運転するデュランを見つめた。
「どうしたんですか? そんなに急いで」
「戦争だ」
「何処と何処の国が戦争したんですか?」
「全部だ」
「え?」
「主要国家のほぼ全て……前代未聞の、言うなれば世界大戦だ」
それは、最も大勢の死傷者を出すことになる最悪の歴史。
その激動の時代、後に地獄と呼ばれた戦場の中でレイナは生きていくこととなる。
多くの人々が憎しみ殺し合う血塗られた道を歩くことになるとは、この時のレイナは想像すらしていなかった。
何か悪い夢でも見ていたような気がしたが思い出せない。
状況が分からないまま上体を起こすと、身体に違和感を覚える。
下を向くと何も着用していない状態で、白いブランケット一枚に隠されているだけだった。
「!?」
赤面してすぐに両手で上体を隠す。
すると、何か違うことに気がつく。
明らかに以前より成長している。
一年や二年という短期間の変化ではない。
まるで少女から大人の体つきになっている。
「な、なんで……?」
幼いころ早く母のような大人の身体になりたいと願っていたが、今はまさに望んだ特徴になっていた。
そこでようやく家族の事を思い出す。
「皆、どこ?」
辺りを見回すが、自身が横になっていたベット以外は何もない白い部屋に自分一人しかいない。
しかもそこには窓がなく、天井の白熱電球だけが部屋を照らしていた。
寝ぼけている頭を必死に働かせ、どうしてここにいるのか思い出そうとする。
数秒間思考を巡らせると、悪寒が走るような映像が脳裏に浮かぶ。
父親の断末魔。
部屋に押し入ってきた浮浪者。
友達の父親の血を吸った人の形をした化け物。
「あ……」
その化け物の犬歯は並みの人以上に尖っていた。
恐る恐る舌で自分の犬歯に触れると、記憶の中にいた者を同じように長く尖っているのがわかった。
あれは夢じゃない。
だとすれば家族はどうなったのか。
あの時友達になったセレーネは無事だったのか。
そうして一人混乱しながら考えていると、部屋のドアが開いた。
その音にすぐに反応して右を向くと、一人の男性が入ってきた。
濃い茶色の髪を全て後ろへ流し、目付きは鋭く感情がないような冷たい印象。
服は黒い執事用の服を着ていた。
「あ、あの……」
レイナは恐る恐るその人物に声を掛ける。
男は返事をせず、ブランケット一枚で身体を隠す彼女の様子を数秒間眺めていた。
「少し待ってろ」
男はぶっきらぼうに言うと、部屋を出ていってしまった。
レイナはどうすればいいか悩んだ。
ここはよくない場所であり、もしかしたら逃げ出した方がいいのではないか。
しかし、外の状況もわからないままどこへ行けばいいのか。
そもそもなぜ自分は急に成長したのか。
不明なことがあまりにも多く、それが彼女を一歩動き出すことを躊躇わせる。
すると、廊下から足音が聞こえてきた。
先程の男がドアを開けたままにしていたため、その音から二人が近づいてくるのがわかった。
(ど、どうしよう……)
その二人は善人なのか悪人なのか。
記憶の中の悪夢と重なる。
自分の部屋に悪意を持った者が近づいてくるあの恐怖。
今度もまた襲われてしまうのか。
足音の主が部屋に近づくごとに肥大していく恐怖心に硬直してしまうレイナ。
だが、部屋に入ってきたのは見覚えのある顔だった。
「よかった、起きたか」
その人物は、矢に射抜かれたレイナを助けた男性だった。
長い白髪、蓄えられた白い髭、服は高級そうな黒い紳士服。
吸血鬼でありながら救ってくれた恩人。
「あ、あなたは、あの時の……」
「そうだ、自己紹介がまだだったね、私はデュラン、彼は執事のロンサンだ」
名を呼ばれたロンサンは軽く会釈をした。
レイナはロンサンの先程の口調に多少怯えながらも、デュランに疑問をぶつける。
「ここはどこですか? 私の身体はどうなっているんですか? 家族は無事なんですか?」
「まあ待ってくれ、順を追って話すとしよう」
デュランは慌てるレイナを優しく諭すと、ここまでの経緯を話し始めた。
二人の無法者の吸血鬼を倒し、レイナを吸血鬼に変えた直後の事。
レイナは意識を失い、昏睡状態になった。
人間が吸血鬼になると、すぐに活動できる者・休眠期間に入る者と個人差がある。
レイナの場合は変化する直後に肉体が死にかけていたため、その再生と強化のため長い眠りにつくことを身体が望んだ。
その期間はなんと八十年にも及び、その間ずっとデュランは血を飲ませ続けたのだという。
彼女の身体が大人の状態まで成長し老化しなかったのも吸血鬼になった影響であった。
デュランはレイナが昏睡した直後、家の付近を捜索したが生き残った者はおらず、グールと呼ばれる化け物になることを防ぐため死体はすべて焼却したそうだ。
吸血鬼に噛まれた者は吸血鬼になるが、干からびるまで血を吸われた者は吸血鬼ではなく血に飢え知性を失い死体すら貪る異形、屍喰鬼(グール)になる。
すべての被害者がそうなるわけではないが、万が一の可能性も考慮した結果の行動であった。
「八十年……」
デュランからの話をレイナは信じられなかった。
それに加えて生き残った者がいないということは両親に加えてセレーネも殺されたことになる。
「私と、同じくらいの女の子は……」
「いたが……あの時はもう……」
最後まで語らなかったデュランの表情からセレーネが絶望的な結末を迎えたことは想像に難しくなかった。
レイナは頭の中が真っ白になる。
顔を下に向け、目から涙が落ちていく。
自分の命以外の全てを失い、もう生きる気力も希望も失くなっていた。
あの時、デュランに問われた時に吸血鬼になることを望まなければ良かったのか。
だからと言って精神的に自殺する余力も湧かない。
そんな魂の脱け殻のような状態になるレイナに、デュランはそっと肩に手を乗せた。
「私の下で共に戦わないか?」
「……え?」
「私は君に出会う前から吸血鬼を、いや、無法者を狩ってきた、今世界情勢はとても不安定だ、これを機に君を襲った者と同じような連中が勢力を伸ばそうと画策している」
無法者、という言葉にレイナは反応し目を見開いた。
それを見たデュランは話を続ける。
「吸血鬼の他にも人狼と呼ばれる化け物も数を増している。人間同士の戦争に乗じて奴らは暴れるつもりだ。そうなれば君のような被害者が増えていくだろう。」
「私の……ような……?」
涙で視界が歪むレイナはデュランの方へ顔を向けた。
今味わっている絶望を罪もない他の人も味わうことになってしまう。
そう考えた彼女はブランケットを強く握った。
悲しみで出来た心の空洞に、静かに怒りの感情が芽生え始めた。
自身を楽しそうに矢で撃ったあの無法者が他にもいる。
そんな者達のせいで被害者も出てくる。
そんなことは許されて良いはずがない。
レイナは決意する。
「デュランさん、私に、戦い方を教えてください! 奴等を、あんな乱暴な化け物を放っておけない!」
彼女の真っ直ぐな視線に、デュランは何度も頷いた。
「分かった、だがいくつか注意しなければいけないことがある」
デュランは手短に要点を話した。
まず吸血鬼になったことで今後日光は浴びることは許されない。もし浴びれば皮膚が焼け爛れすぐに死ぬことになる。
それから主な栄養補給手段は血液の接種となる、通常の食事は可能だが人間の時より吸収効率がとても悪くなっている。
後は最も重要なことである戦闘方法。
吸血鬼や人狼は個体差や種別による差はあるものの、どちらも人間以上の戦闘力や再生能力を有している。
そのため、知識に加えて人間以上に強力な生物を殺すための訓練も必要となるということだ。
「今の情勢ではあまり君を自由に外に連れ出せない。当分の間は昼に地下で過ごして夜に移動、または訓練を行う形になるが、それでもいいかい?」
「……はい」
もう以前のような生活は出来ない。
レイナは涙を拭って覚悟を決めた。
出来ることなら両親の墓を作ってから別れの挨拶を済ませ、自分の家を最後に一目見たかった欲求に駆られた。
だが、デュランの言った通り情勢の悪化で自由な行動は許されない。
レイナは心の中で両親やセレーネの想い出に別れを告げ、デュランの庇護下で生きていくことを受け入れた。
もう自分は普通の人生や幸せを享受することはない。
そう自身に言い聞かせ、二度と戻れない日常に未練を残しながらある誓いを立てた。
『この世にいる無法者は皆許さない、必ず皆殺しにしてやる』と。
その後、レイナはデュランの言う通り各地を転々としていった。
話を聞くとデュランは吸血鬼でありながら人間とは協力関係にあり、加えて議員という立場で国を動かす、または助言する者達の一人であった。
この時期の情勢は緊張状態にあり、いつ大きな戦争が勃発しても不思議ではなかった。
無論デュランを始めとする議員達もそうならないように死力しつつ、無法者の吸血鬼や人狼達にも警戒していた。
レイナはほぼお荷物のような扱いで、かつ表舞台では死亡扱いだったのでデュランとロンサン以外の使用人等に見つからないようにしていた。
仮に見つかったとしても誤魔化せるよう簡素なメイド服を着せられていた。
こうして彼女はデュランとロンサンしか知らない地下室や秘密部屋に隠れて過ごし、場所や状況によっては壁に開いた人一人分の空間に入り、そこを食器棚等の家具で塞がれ、一日中そこで過ごしたこともあった。
元々狭い空間や暗い場所にいるのはあまり苦にならない性格が功を奏し、精神的苦痛は常人より少なかった。
それどころかその生活で色々な発見があった。
まず視力、吸血鬼となると人間以上に暗闇の中を見ることが容易になる。
一切明かりがない場所でもある程度は物が見えたので、デュランに頼み本を貰うと隠れ場所でそれを読んで時間を潰した。
次に筋力、レイナは一切トレーニングをしていなかったにも関わらず、吸血鬼となった後の力は最低でもトップアスリート並みかそれ以上を有しており、長期間訓練せずともあまり低下しなかった。
最も困ったのは食事、吸血鬼であるので血を必要とするのだが、常に忙しかったデュランはレイナに定期的に血を届けることが出来なかった。
勿論ロンサンにも運ばせたが、彼も同様に忙しかったのか中々来なかった日が度々あった。
そうなると彼女は喉の渇きに苦しむこととなる。
一回の食事となる血の量はコップ一杯分となりこれで一日耐えられた、あまり動かなければ二日、もしくは三日耐えられたがその間ずっと血への渇望が酷いものだった。
あまりの苦しさから唇と噛んで自分の血を啜ったが、その場凌ぎでしかなかった。
それでも命の恩人のため、お荷物である自分がさらに迷惑を掛けないようにするためと歯を食いしばりながら耐える日々を過ごしていた。
こうして一年以上過ごしたある日、レイナは夜中にロンサンによって外に連れ出された。
その時生活していた所はマナーハウスと呼ばれる場所で、広大な土地にいくつも建物が建てられている。
そのほとんどは二階建てで領主用や使用人用、なかには小さなコンサートホール用のものまであった。
そこの中庭まで行くと、ロンサンは振り返り気だるそうにため息をつく。
「あの方からの命令だ、レイナ、お前をここで鍛える」
「鍛える?」
「戦い方を教えてくださいと言ったのはお前だろう、ようやく時間が出来たから今から始める」
「い、今から……?」
「そうだ、ただ使用人が寝ているから声を出すな」
ロンサンからの突然の宣告。
レイナは訳が分からず棒立ちの状態だった。
そんな彼女に、ロンサンは目にも止まらぬ速さで接近するとその勢いのまま顔を殴った。
「ッ…!?!」
顔の向きを無理矢理変えられるほどの強烈な攻撃にレイナは倒れた。
口内や鼻から血が流れ、顔を手で押さえながら『いきなり何を?』と言わんばかりの表情で彼を見つめる。
だが、当の本人はまったく悪びれていない。
「いちいち口で説明するのも面倒だからな、実戦形式でいくぞ」
「ま、待って!?」
レイナはすぐに立ち上がり、手で制止しようとするがロンサンは止まらない。
その拳には憎しみはおろか強くなってほしいという想いすらない。
ただ機械的に、作業でもするかのようにレイナの顔や腹部を殴っていく。
吸血鬼であるが故に傷はすぐ再生するが、いきなり強くはなれない。
防御する間もないまま数分間ロンサンの攻撃を受け続けたレイナはついに体力が僅かとなり、両手と両膝を地面につけた。
「ひっ…ぅ…く…」
顔の傷が治る速度が最初に比べて遅い。
身体の修復と損傷によって体力が少なくなれば、いかに吸血鬼といえども動きが鈍くなり回復も遅くなる。
そのことをたった今涙ながらに身をもって知った。
「もう終わりか、情けないな」
見下すロンサン。
そんな彼の態度にレイナは怒りが芽生えた。
「うあああああああ!!」
痛みや疲労を無視し、怒りのまま走り出した。
しかし、真っ直ぐ突っ込んでくるレイナを跳躍してかわすと、彼女の背中に全体重を乗せて勢いを殺した。
「っ!?」
まるで踏み潰された虫の気分を味わうレイナ。
ロンサンはそんな倒れた彼女の身体の上に立ったまま呆れた。
「声を出すなと言っただろう、次叫んだら喉を切り裂くぞ」
ゴミを見るような目で見下すロンサンに、レイナは悔しさで身体を震わせた。
自分はあまりにも弱い、いや、彼があまりにも強い。
子供と大人、それ以上の差があることは明確だった。
これでは無法者の化け物達を狩れない。
そう痛感せざるを得なかった。
ロンサンはレイナの身体から降りると、一切心配する様子は見せない。
「もういい、今日はここまでだ、さっさと地下室に行って寝ろ」
惨めにうつ伏せの状態のレイナに吐き捨てるように言うと、そのまま振り返ることなく行ってしまった。
残された彼女は芝生を握り閉め、涙を流した。
受けた痛みだけではなく、精神的にも打ちのめされたショックは大きい。
しばらくその場で泣いていたが、言われた通り自ら地下室へと向かい入っていった。
ここで朝を迎えれば日光で死ぬ、もしくは別の使用人に見つかれば匿ってくれているデュランに迷惑が掛かってしまう。
せっかく助けられた命を無駄にするわけにもいかない。
何より無法者の異形を狩ると誓ったのだ。
レイナは血と涙で汚れた顔をそのままに、暗い地下室で虫のように丸まりながら眠りについた。
いつか必ずロンサンより強くなる。
そう自らに言い聞かせるレイナだった。
それから数ヵ月間、彼女は何度もこの悪魔のような男に打ちのめされていく。
ロンサンは決して戦い方は話さず、見て覚えろと言わんばかりに殴ってくる。
レイナは必死に身を守った。
それこそ初心者のボクサーのように顔面を両腕で隠した。
しかし、無表情の悪魔相手に通用しない。
防御出来ていない腹に容赦なく拳をめり込ませる。
激痛や苦しみから腹部を腕で隠すが、今度は顔面を殴られ横や頭上の景色を無理矢理見せられた。
疲弊して傷の治りが遅くなるまで殴られてようやくその日の訓練(という名の一方的な暴行)が終わると、悔しさを滲ませながら地下室へ戻る。
そこで敗北の味を噛み締めるように一人声を押し殺しながら泣いた。
だが、涙を流した日を積み重ねるごと彼女は精神的に強くなっていく。
急激に体術等の技量が上がるわけではなかったが、内に秘めた闘争心が少しずつ上がっていくのを感じた。
守ってばかりでは駄目だと、がむしゃらに拳を振るうものの瞬時に避けられ反撃の拳を食らう。
身体の傷は翌日には治るが、服は土や返り血で汚れ所々破れていった。
まるで家を追い出され浮浪者となった元使用人のような外見となってもレイナは諦めなかった。
ある日、地下室の扉を別の人物が開ける。
なんと、多忙でしばらく姿を見せなかったデュランだった。
「あ、デュラン、さん」
ロンサンが来ると思い警戒する番犬のような表情をしていたが、突然の恩人の顔を見て安心感を覚えた。
今日の訓練は私がしよう。
そう言われ血の入った大きめのコップを渡されると、それを一気に飲み干す。
治癒した分だけ体力を消耗し、血への渇望が酷くなった彼女にとってはまさに救いだった。
あの悪魔も来る度に渡すが、普通のコップなので到底足りていなかった。
吸血鬼に成り立ての頃は血を飲むことに抵抗があったものの、もう今はそんな姿は面影もない。
ただ生きることに必死であり、治癒と強化のため必要となるなら慣れる以外道はなかった。
数秒で食事を終えたレイナは、使われていない建物へ案内された。
その建物は小規模ながらコンサートホールのようだった。
せいぜい学校の生徒一クラス分が入る広さだろうか。
デュラン曰くここは防音機能があるため、多少の音なら外には漏れないだろうとのことだ。
今日はどんな訓練なのだろうか。
そう疑問に思っていると、真っ直ぐ伸びた木製の剣を手渡された。
「基礎的な剣術を教える、これは木で出来ているから斬れないが当たると痛い上に突かれると刺さるぞ」
そう言われると、レイナは青ざめる。
今度はこれで殴られるのか。
あの悪魔みたくこの男も容赦なく攻撃してくるのか。
もしかしたら殴られるより痛いのではないか。
と、警戒していたが、デュランはロンサンとは反対にしっかりと説明してくれた。
「いいか、相手も剣を持っていたら切っ先は常に敵に向けて戦うんだ、そうすれば相手からの攻撃を防ぎつつ反撃する機会が生まれやすくなる」
いきなりチャンバラをするのではなく、ゆっくりと剣の動きを見せてそれを真似させることで身体に覚えさせるようにするデュラン。
この時ばかりはレイナは安堵した。
だが、決して手を抜くような事はしない。
これらの技術が無法者達を狩るために必要なら絶対に習得してやる。
その想いがレイナの表情にハッキリと出ていた。
そんな彼女に、デュランも応えるように真摯に教えていく。
殴られながらの訓練とは違い、何度も基礎的な剣の振りを教わるレイナはある種の満足感を得ていた。
恩人の技術を教わることによる錯覚じみた一体感が孤独を紛らわせてくれる。
それが今の彼女にとっては何よりも嬉しかった。
それから数週間はデュランが稽古をつけてくれた。
まるで父の帰りを待つ娘のように目を輝かせる。
しかし、一度訓練が始まればすぐ真剣な表情になった。
「ロンサンに酷くされなかったか?」
「え……?」
稽古中、突如質問してきたデュランにレイナは一瞬固まってしまう。
思い出されるのは刺すような冷たい視線の悪魔。
彼から殴られた数はもう覚えていない。
「その……沢山、殴られて……」
「そうか、すまんな、手荒くしないようにと言ったんだが」
「いえ、強くなるための訓練なら仕方ないです、それに、吸血鬼なら傷もすぐ治るので……」
レイナは必死に強がり、うつ向いてしまう。
そんな彼女の頭を、デュランは優しく撫でた。
「え、あ、あの、デュランさん?」
「辛いだろうが、頑張るんだ、我々がやらねば世界はあんな秩序を守らない愚か者共に支配されてしまう」
「……はい」
デュランからの言葉に、レイナは一層気を引き締め訓練を続けた。
来る日も来る日も、何度も木製の剣を振り身体の動かし方も習っていく。
こうして徐々に己の実力が上がってきたと思い始めた頃、訓練の頻度が落ちてきた。
どうやらデュランはさらに多忙になったらしく、代わりにロンサンがやってくるようになった。
無論ただ殴られるだけでなく、教わった身のこなしで避けようとする。
すぐには上手くいかなかったが、最初に比べて攻撃を受ける回数が減り回避行動が僅かながら上手くなったと感じてきた。
しかし、今度はロンサンも訓練に来る間隔が開いてくる。
唯一の食料を運んでくれる二人が中々来なくなったことで、レイナは最長で五日は地下で渇きに耐えざるを得ない生活を送った。
拳を強く握り、爪を手の平に食い込ませながら早く来てほしいと祈る。
数日後にようやく血を持ってきても、訓練をする余裕がないのかロンサンはすぐに去ってしまう。
せっかく強くなってきた実感を得たのに、と絶望感すら出始めた。
もしかしたらこのまま忘れられてここで干からびるのか。
そう考えながら昼間地下で息を殺していたレイナの聴力は異様に上がっていった。
そして、その耳で昼間の使用人達の話を聞けるようになる。
「おい、今度はあの国が進攻したって」
「もうあちこちで戦争が起きてるな」
「どうなっちまうのかな俺達」
「さあ、とりあえずデュランさんの言われた通りここで仕事してりゃあいいだろ」
進攻?
戦争?
世の中の出来事が分からないレイナにとっては不吉な言葉でしかない。
その戦争の影響でここから出られないまま一生を終えるのか。
もしそうなら、いっそ抜け出した方が……
でもどこにも行く宛はない。
そう地下室で自問自答していたある日の夜、外から車のエンジン音が聞こえた。
レイナは移動する際車に乗せて貰っていたので車の存在も分かっていた。
その音からするに静かに駐車したのではない。
速度を出した状態からの急ブレーキ音。
降りてきたドライバーはよほど急いでいたのか、寝ていた使用人を叩き起こす。
「早く起きろ! 急げ!! 来い!!」
レイナは一瞬声の主が誰か分からなかったが、注意深く聞くとその主はロンサンだった。
いつもは落ち着いている時の声ばかり聞いていたため印象が異なるが、確かにあの悪魔じみた執事の声だ。
三人の足跡が遠ざかっていき、車に乗るとそのまま走り去ってしまう。
自分はどうすればいいのか分からなかった。
もしかしたら本当に捨てられたのか。
一帯に他の誰も居なくなったその土地で一人になった彼女は地下室から出ようとする。
そこへまた車が近づいてくるのを音で察知した。
すぐ出るのを中止し、静かに身を潜める。
だが、車から降りたその人物は迷わず彼女がいる地下室へと向かっていく。
もしかしたらここにいるのが人間にバレた?
そうだとしたら殺されるのではないか。
昔両親を殺した者が近づいてくるような恐怖から硬直する。
訓練はしたが実戦経験などない素人であるレイナは相手がここへ来ないよう祈った。
しかし、その人物は最初から分かっていたかのように地下室の入り口を開けた。
「レイナ!」
聞いたことのある声。
それはあの恩師であるデュランだった。
「デュランさん!?」
「おお、そこにいたか、さあ、すぐに出るんだ」
レイナはデュランに手を引かれ、囚われの身から脱出したお姫様のように車へと連れていかれた。
「あ、あの、なにが……?」
「話は後だ」
二人は車に乗るとすぐに出発した。
助手席に乗ったレイナは後ろを見て、自分がいた土地が遠ざかっていくのに名残惜しさを感じた。
数分後にはその場所も見えなくなったところで、レイナは険しい表情で運転するデュランを見つめた。
「どうしたんですか? そんなに急いで」
「戦争だ」
「何処と何処の国が戦争したんですか?」
「全部だ」
「え?」
「主要国家のほぼ全て……前代未聞の、言うなれば世界大戦だ」
それは、最も大勢の死傷者を出すことになる最悪の歴史。
その激動の時代、後に地獄と呼ばれた戦場の中でレイナは生きていくこととなる。
多くの人々が憎しみ殺し合う血塗られた道を歩くことになるとは、この時のレイナは想像すらしていなかった。
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