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第二章 中に入れて
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しおりを挟むエバは病棟の一〇階にいた。
症状はますます酷くなり、高熱と強烈な喉の痛みと呼吸困難に耐えていた。暑いのか寒いのかわからない感覚が全身を襲う。病室にはただ、彼女に酸素を提供し続ける機械の音だけが響いていた。
「…………ネル……」
唯一の生きる意味だった者の名前を息だけで呼ぶ。
エバがネルと出会ったのは一六歳の時だった。エバは施設育ちで軽度の知的障害の他に発達障害があった。そのせいでまともに働くことができず、施設を出た一五のときから売春で生計を立てていた。不幸中の幸いか、容姿にはそこそこ恵まれていたのでそれなりの金を稼ぐことができた。しかし、所詮は売春婦。社会から認めてもらえず、誰も本気で愛してはくれなかった。友人もできなかった。自暴自棄になり、酒やドラッグに逃げる日々を送っていた。そんなときネルに出会ったのだ。公園のベンチでドラッグをやっていると、いつの間にネルが隣に座っていた。
エバが「こんな美しい人見たことない」とネルに釘付けになっていると、彼はエバの手からドラッグを取り上げた。そして「これからお互い助け合って生きていこう」と微笑みかけてきたのだ。ネルはそれまでエバが渇望してやまなかったものを全て与えてくれた。愛、優しさ、安心感、温もり。エバもネルのためなら何でもできた。人殺しさえも。
だが、エバはもう終わりを感じていた。自分はもう歳だ。売春以外で生計を立てられない自分はこれ以上ネルを守れない。それ以前にもうここで死ぬかもしれない。流行病で死んだ者は葬式をすることも許されず、黒いビニール袋に入れられて火葬にされる。
――このままネルに会うこともなく、その他大勢の一体としてゴミのように埋葬されるのか?
――いやだ。自分の人生はネルと共にあった。誰にも望まれることのなかった命をネルのために使ってきた。自分はずっとネルといる。
そのとき、窓をノックする音が聞こえた。
エバは高熱で意識が朦朧している中、目を開けた。
ここは一〇階だ。窓をノックする者なんて一人しかいないだろう。
最後の力を振り絞って起き上がり、窓の方を見ると恋人が窓の縁に腰掛けていた。毎日見てはいるが、やはり美しい。自分は老化を気にしなければならない歳になったが、彼はいつまでも出会った頃の美しい姿のままだ。その憂いを携えた瞳だけが生きた年月を物語る。
――愛しい人よ。入っておいで。
喉が潰れていて声が出せない。しかし、言葉によってしか彼を部屋の中に招き入れることはできない。
――仕草で代用できるか? 彼を受け入れるための動作を――高熱で頭が回らない。
「入ってもいい?」
ジェスチャーで声を出せないことを伝えると、彼は何とも切ない表情を浮かべた。もう自分が彼の元へ行くしかない。エバは自分で人工呼吸器を外すとやっとの思いでベッドを降り、窓を開けた。
「……ネル」
また息だけで名前を呼ぶ。
ネルはエバを抱きしめると両頬に触れるか触れないかのキスをした。
「……大丈夫? どうして欲しいの?」
ネルが恋人の両頬を手で包みながら言う。
エバはネルに首を差し出し、「噛んで」とジェスチャーをする。
「……本当にいいの? その後君を殺さなくちゃいけないんだよ?」
エバはこくりとうなづいた。
ネルはそんな彼女の首筋に顔を埋めた。
「ルグランさん、お加減いかがで…………」
そのとき女性看護師がラウンドでやって来た。言葉を切ってしまったのは、真っ暗な病室の窓際でエバに重なる影を見てしまったからだ。
真っ暗でよく見えなかったが、月明かりでアッシュブロンドの髪が光って見えたのはわかった。
その影がエバを放すと、エバは窓から外に落ちていった。多分その影が突き落としたわけでなく、エバが自分で落ちたのだろう。エバが下へ落ちたのを見届けるやいなや、その影は消えるようなスピードでどこかへ飛んでいった。
「ひぃっ……!! ルグランさん!!」
病棟内に看護師の悲鳴が響き渡った。
次の日、エバが病棟内で変死したことはトップニュースになった。つい一昨日、クロエが殺されたばかりなのだ。サマンサはテレビでニュースを見て両手で頭を抱えた。
(…………母さんが「死ねばいいのに」なんて言うからじゃん……ネル、本当に大丈夫かな。母子家庭みたいだし、面倒見てくれる人いるのかな)
「ネル……会いたいな」
唯一の連絡手段の交換日記はまだ彼のところで止まっていた。
母を失って、彼はどうするのだろう。どこか親戚に身を寄せるのだろうか。と、なるともう彼に会えなくなるのだろうか。サマンサはそんなことを考えていた。
夜更け、サマンサはノックの音で目が覚めた。ノックされているのはドアではなく窓らしい。えっと思いつつ、サマンサは顔を上げた。
「やあ」
窓の外のバルコニーにネルが立っていた。アッシュブロンドの髪が月明かりで輝いている。
「どうやって来たの!? ここ一六階よ!?」
サマンサは吃驚して叫んだ。一瞬母が起きてしまうことを考えて、「しまった」と思ったが、母はいないようだった。どうせまたケヴィンのところだろう。
「飛んできた」
「はあ?」
「君が呼んでるような気がしたから」
「…………」
なんて勘のいいやつなのだろうか。
「『入っていい』って言って」
「? 入っていいよ」
ネルはガラス戸を開けて、サマンサの部屋へ足を踏み入れた。
そしてネルはなぜか服を脱ぎだした。男性の体など見たことがないサマンサは思わず背中を向けてしまった。
(本当にこの人は何やってんの……!?)
そんなサマンサの反応を予想していたようだった。彼はサマンサの隣に入るとその背中を抱いた。
サマンサにはネルの行動の意味がわからなかった。
スマホを知らなかったり、夕方以降しか外出しなかったり、一六階目のバルコニーに突然現れたと思ったらこんなことを始めたり、もう変人を通り越しているのではないか? これも病気の症状か何かか?
だが、サマンサはそんなネルを忌み嫌う気にはなれなかった。むしろそんな彼を自分が守ってやりたかった。彼を守ることで自分の存在価値を確かめられるような気がした。
「お母さんのことは大丈夫なの? あなたの面倒を見てくれる人はいるの?」
「……大丈夫だよ、僕のことは」
随分間が長い。触れられたくないのか?
「ねえ」
サマンサは背中にネルの体温を感じながら言った。
「ん?」
「付き合ってくれる?」
サマンサは既にネルを異性として見ていたのだ。生まれて初めての告白だった。
「付き合うって?」
「私のボーイフレンドになって欲しいの。お母さんの代わりにはなれないけど、あなたを支えたい。あなたが好きなの」
ネルが大きく息を吸って吐く。暗くて表情はわからないが、少し困惑しているのが伝わってきた。
「男じゃないから無理だよ」
サマンサはネルの言っている意味がわからない。
こないだは「普通の男じゃない」と言っていた。
今度は「男じゃない」?
「付き合いたくないってこと?」
変なことを言ってかわそうとしているのかもしれないとサマンサは思ってこう問いかけてみた。
「付き合ったらなにか変わる?」
「変わらないよ、今まで通り」
「じゃあ付き合う」
サマンサが朝目を覚ますと、もうネルの姿はなかった。カーテンを開け、眩しい朝日に目を細めながら昨日のことは夢だったのかと思った。顔を洗おうと体を起こし、ベッドから降りると机の上に共有の交換日記が広げられていた。そういえば寝る前に彼の部屋に投函したんだった。広げたページにはこう書いてあった。
「去って生きるか、留まって死ぬか 君のネル」
サマンサの机の上には数日前に叔母から貰ったクリスマスローズが飾ってあったが、なぜか萎れて黒ずんでいた。
クロエが亡くなって半月経つか経たないかだったが、日常が戻りつつあった。
マディソンとセシルときたら、仲良しのクロエが死んだという報告を聞いた時はわんわん泣きじゃくったというのに、次の日にはケロリとしていた。今もメイクやネイル、服、男の話とサマンサの悪口で盛り上がっていた。きっと最初から仮面友情だったのだろう。ひたすらマディソンの言いなりになって分け前を貰おうとしていたクロエ。彼女のことは全く好きではなかったサマンサだが、さすがに気の毒になった。自分は仲良しが死にでもしたら年単位で落ち込むだろう。例えばネルが死んだら……
「サミー、なんかあったの? 最近ボーッと何か考えてるけど」
もの思いに耽っていると、アニにそう尋ねられた。
サマンサは少し照れながら答えた。アニにはこれくらい話してもいいと思えたから。
「ボーイフレンドができたから」
そう言った瞬間、アニの表情が一瞬強ばった。
「え! そうなの! サミー、男の子に興味無さそうだったのに」
しかしすぐ嬉しそうな、無邪気な笑顔へ変わった。サマンサは少し「あれっ」と思ったが本当に一瞬のことだったので流すことにした。
「彼は特別だよ」
「へーーー、会ってみたい! その人に」
アニは積極的にサマンサのプライベートゾーンに入ろうとする。大抵の人は嫌がるギリギリだが、受け身の人間関係しか築けなかったサマンサにはこれくらいが丁度よかった。
「んーー、会ってくれるかなあ」
サマンサは少し考え込む。
「えっ。会えない事情あるの?」
「彼ね、なんか深刻な病気みたいなのよ。別に寝たきりとかそういうのではないんだけど」
「深刻な病気?」
アニはキョトンとする。
「どういう病気か具体的な病名とかは聞いたことないんだけど。なんかね、いつも顔が少し青白くて病的なの。おまけに絶対昼間は外出しないのよ。学校にも行ってないみたい。それにやたら変なことを言うのよ。連絡先を交換しようって言ったら、『文通したいってこと?』なんて言ってきたんだよ?」
「ええっ」
アニは顔を引き攣らせた。さすがに引いたのだろう。
「普通連絡先って言ったらWhatsappでしょ? なのにWhatsappどころか、スマホすら知らなかったよ。信じられないでしょ? そこまで世間知らずになっちゃうくらい外に出たり、人と付き合ったことがないのかなって……。でもね、同い年なのにすごく落ち着いてて、時々おじいちゃんみたいなのよ。どこがって言われると説明できないけど」
アニは引き攣った顔で黙り込んだ後、口を開いた。
「……なんか、ヴァンパイアみたいだね」
「えっ」
「いつも青白い顔とか、昼間は外に出ないとか。歳よりかなり落ち着いてるってのもね……。ヴァンパイアって不老不死でしょ? だからすごーーく長く生きてるとそうなるのかなって」
アニが真面目にそんなことを言うものだから、サマンサは吹き出した。
「ぷっ……! ちょっ、ちょっと!! アニったらっ。ヴァンパイアなんかいるわけないじゃない!」
すると、アニも苦笑した。
「そうだね、ごめんね、馬鹿なこと言って。私、小さいときからそういうもの感じやすいからつい」
「……霊感があるってこと?」
「そうね。それもやたら悪霊とか魔物とかよくないものばかり見えるのよねー」
アニはそう言ったが、まるで肌の悩みでも話すような口調だったのでさほど深刻に受け止めてないのだろう。
「へぇ……」
いかにも人畜無害なアニにそんなものが見えてしまうなんて意外だとサマンサは思った。
「でもサミー、その人のことになるとすごくお喋りになるし、笑うんだね。今まで喋ったり笑ったりすることあまりなかったのに」
「えっ」
思いがけないことを言われて固まるサマンサ。
アニはネルのように何もかも見透かすような雰囲気はないが、洞察力に優れている。
「好きなんだね、その人のこと」
そう言ってちょっと含みのある微笑みを見せるアニ。
ネルに「僕は男じゃない」と言われたことや、彼が夜中に一六階のバルコニーに現れたことは、クラスメイトの中では比較的信頼を置いているアニにも言えなかった。
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