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第四章

塞翁が馬17

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 とりあえず中に入ってくれと、男は若者を家の中へと招いた。
相も変わらぬ古びた木の、けれどやはりそこに、期待した姿はない。

家の中も庭と同様に人の手が入り、それなりに綺麗なままだ。

(……この男がやったのか?)

若者をテーブルの椅子へと座らせると、慣れた様子でカップを取り出し、ただの水で悪いなと言って若者の前へ出す。

自分の家で、見知らぬ男に出されたそれを、奇妙な面持ちで見詰めながら、次の言葉を待った。

それは小さな希望だ。

(もしかしたら父は……)

例えもう亡くなっていたとしても、あのあと父は暫く生き続けて人生を全うしてくれたのではないか。
そうだ。魔族は基本的に人間には手を出さない。
なら、父は生き延びていたかも知れない。俺が離れた事で元気を取り戻したのかも知れない。
そんな僅かな期待を――。

 
男は彼の正面へ腰をおろすと、一つ深く息をつく。


「俺はあの日この家に押し入った、魔族のうちの一人だ」


罰が悪そうに眼を背け、テーブルの上に置いた己の手を両手で握る。

そしてゆっくりと語った。
あの日若者が逃げ出したあとの事を――。





『――邪魔だ!』

粗っぽく床に叩き付けられる人間の男。

『っぐぁ!』

苦しそうにうめき声をあげるその姿。痛々しく思わない訳ではなかった。

『何をしている! お前も早く奴を追わないか!』

上官にそう言われ慌てて踵を返す。

『待て、待ってくれ!』

悲痛な叫びが聞こえたかと思えば、片足が動かない。
見れば先程の人間が、無我夢中で息子を追わせまいと男の足に必死にすがりついていた。

『頼む、あの子を、殺さないでくれ』

苦しそうに咳込みながら、それでも離そうとはしない。
しかし、その間にも他の魔族は若者を追って続々と外へと出ていく。

『は、離せ!』

男はそう言ってなんとか離そうともがくが、この衰弱した人間の何処からこんな力が出てくると言うのか、全くびくともしない事に困惑した。

『頼む、頼む!あの子を、行かせてやってくれ、あの子がいったい何をしたと言うんだ』

確かに死にかけていた筈だというのに。

『こ、この人間はどうしたら?』

魔族は人間には下手に手出しは出来ない、そうでなくても、この魔族の男に誰かを、ましてやもう死んでしまうであろう人間に、これ以上酷な仕打ちは出来なかった。
どうしたものかと、まだそこにいた上官に助けを求めれば『どうせ死ぬ運命だ捨て置け』と一喝される。

『で、でも。このままというのはあまりに』
『ならば貴様はこの作戦から外れろ、そもそもお前のような奴には荷が重すぎる』
『そんな!』

上官らしき男はもうここに用はないと踵を返す。


『我々が今なすべき事は、あの者の《抹殺》だ。それが出来ないような奴など、我が隊にはいらん』


そう言って、逃げた若者を追い。森の中へと姿を消した。



 何も出来ずにただその姿を眺めて、足下から聞こえた呻き声にハッと我に返る。

『お、おい、あんた……』

『頼む、頼む。息子をっ』  

『……悪いが俺は何も出来ないよ。我らの王が……魔族の王が命じた事なんだ』

そう言いながら、その人間を立ち上がらせ、寝台へと連れて行く。

『あぁ、何故。どうしてそんな』

悔しそうに、悲しそうに、辛そうに顔を歪める人間の男を、ゆっくりと寝台へ横たわらせる。

(寧ろどうしてと聞きたいのはこっちだぜ)

人間の、いや若者の父親であろうこの男は、見るからに痩せ細り、蒼白だ。

(どうしてこんなになるまで一緒にいたんだ。……どうして、今まで辛うじて生きていられたんだ)

普通、魔族は14の歳をむかえる頃には、人間やそこに住まう動植物に害をなす何かが己にあるのだと気付き、自分は魔族であると悟るのだ。
そして誰かを苦しめる前にそこから離れ、魔族の住まう場所を目指す。
そうでなくても人間の暮らす場所になどいられなくなって、逃げてる間に魔族の住まう場所に来ていた。と言う事だってある。

とにもかくにもそうなのだ。
いや、そうでなければならないのだ。

お互いが《幸せに》生きていく為には。

それなのに

(どうして)

あの逃げた若者はとうに14を過ぎている。いったい何年一緒に暮らしてきたと言うのか、そうでなければこの人間の男はこうはならなかっただろう。
きっと健康的に普通に暮らしていられただろう。

親父おやじさん……』

辛そうに咳き込む、若者の父親に手をかざす。
そうしながら男は、自分を育ててくれた父と母の事を思い出していた。
気のいい夫婦で、けれど子供に恵まれなかった。そんな二人に拾われたのだ。
そして14の頃、二人を残し、魔族の住まうあの森の向こうを目指した。

魔族の男はまだ若かった。若かったからこそ、自分が育った場所をしっかりと覚えている。
けれど、五百年や千年とその時を生きている年配の魔族の殆どが、自分達は何処からやって来たのかを覚えていない。
長く生きる間に忘れてしまうのだと誰もが笑って話す。
特に今から千年前を生きた魔族達の頃は、魔族が一番この世で賢く強いのだと、そんな考えが根強かったと聞く。
もし人間の所で暮らしていたと口にすれば、恥知らずと差別的な扱いをうけただろうと、誰かが言っているのを聞いた事がある。
あくまで、まだ若い者同士の噂ではあるが……。
だからこそ、この男もたまにひっそりと自分の心のうちだけで懐かしき景色に思いを馳せるだけなのだ。自分の居場所もあの頃の思い出も全て守る為に。
そして何があろうとも、自分の生まれ育った所へ戻ろうとは思わない。絶対に。


(……この人間はもう、ダメだな)


諦めて、手を翳すのをやめた。

(せめて俺が白の魔族であれば、まだなんとかしてやれたかも知れないが……いや、それでもやはり難しいか)

『おいあんた。気分はどうだい? 少しは楽になったか?』

男が聞くと若者の父親は『あ、あぁ』と苦しそうに強張っていた顔から力を抜いた。
多少は自分の作った結界でもきいているようだと男は安堵する。
けれどやはりもうこの人間は……。


『何が……正し、かったのか』

若者の父親がポツリと呟く、その言葉の先は『私達は何処で間違ったのだろうか』と続くのだろうか。


『一つ、頼まれては……くれないか?』

『……俺に出来る事なら』

『もし、もしもだ。息子が、ここに帰って来ることがあれば』

『あぁ』

『お前は確かに、私の生きる《希望》だったと、伝えてくれ』

魔族の男は何も言わず、ただこの人間の最後の言葉を一字一句漏らさず記憶に刻む。
決して、忘れぬように。

『私はお前と出会えて《幸せ》だったと』

話すのが辛いのか、一度深く息を吸う。
それでもその口から出るのは、聞き取れるかとれないかの掠れた声。

『生きるのを諦めないでくれ』


最後に『有り難う』と口だけが動いて。



若者の父は、動かなくなった。




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