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百合の葯
プロローグ
しおりを挟む「花音さん、来てますか?」
六月初旬。土曜日の朝。
咲は喫茶カノンの戸口に立ち、挨拶もそこそこに尋ねた。
「朝から珍しいな、咲」
カウンター席でコーヒーを啜っていた凛太郎が、不機嫌そうな顔を咲に向ける。
とはいっても別に不機嫌なわけではない。これが彼の平常の表情なのだ。
「花音さんなら、奥で花生けの後片付けをしていますよ」
声のほうを見やると、人懐っこい笑みを浮かべた悠太と目が合った。
ショートヘアの少し茶色がかった髪と、クリクリッとした目が可愛くあどけなさの残る彼は、喫茶カノンの店主を勤めている。
「咲ちゃん、呼んだ?」
店の奥、悠太の居住スペースからひょっこりと花音が顔を覗かせる。
目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちで、背中まで伸びた艶のある黒髪を緩く三つ編みにしている。柔らかな佇まいは中性的で、男の人に気後れしてしまう咲だが、花音に対しては素直に自分を出すことができる。
「花音さん……」
ようやく目的の人物に会えて、咲はホッと胸を撫で下ろした。
「あの、ちょっと、お話が……」
「あ、ごめん。もう少しで片付け終わるから、そこで待っててもらえる?」
花音は申し訳なさそうに眉根を寄せ、店の右手にある四人掛け席を指し示した。それから、悠太に何事かを耳打ちし、奥の部屋へと引っ込む。
咲は花音に言われたとおり、四人掛け席のソファへと腰を下ろした。
テーブルには、花音が生けたであろうフラワーアレンジメントが飾られている。
黒の湯呑みのような形をした花器に、紫の一重咲きのクレマチスと白のピンポンマム、それに利休草を合わせた和風のアレンジメントだ。蔓を生すように生けられたそれは、線の流れが生き生きと表現され、繊細で美しい。
グルリと店内を見渡すと、他のテーブルにも微妙に生け方の違うアレンジメントが飾られていた。いつもはナチュラルな雰囲気の店内が、今日は少し和っぽく感じるのは、やはりお花のせいだろう。
──本当に花音さんの生けるお花は素敵だな。
ほっこりとした気持ちで、目の前の花を眺める。
ふいにコトリという音がして、顔を上げると悠太と目が合う。テーブルの上にはいつの間にかコーヒーカップが置かれていた。
「咲さん、どうぞ。花音さんからです」
悠太がニコリと笑う。それから、そわそわとこちらの様子を窺うようにその場に留まった。その様はまるで相手をしてほしい子犬のようだ。
それで悠太が気にしているであろうコーヒーカップを覗く。
「あ、ハート……」
咲は破顔する。
カフェラテにミルクでハートが描かれていた。ラテアートだ。咲は悠太を見上げ、カップを指差した。
そうなんです、と悠太は照れ臭そうに頬を掻いた。
「ちょっと頑張ってみました」と笑う。
悠太はこれまでに何度もラテアートに挑戦していた。しかし、いまだに綺麗なハートを描けたことがない。
「すごいっ、悠太くん。きちんとハートの形になってる」
それに悠太は尻尾が振り切れんばかりの笑顔を見せる。
「ありがとうございます。次はリーフに挑戦しようと思っています」
鼻息を荒くし、新たな決意表明をして、カウンターの中へと戻っていった。
「ごめん、お待たせして」
それと入れ違いに、花音が向かいの席へと腰を下ろした。
「なんか、悠太くんと盛り上がってた?」
花音の問いに、カフェラテの入ったカップを指差す。
花音は「あっ」と声を上げ、「悠太くん、頑張ったね」とカウンターの悠太を振り返った。それに悠太はまた嬉しそうに笑う。
「褒めすぎなんだよ」
凛太郎が不機嫌そうにぼやく。
「凛太郎、やきもち妬かないの」
花音が嗜めると、凛太郎はケッと悪態をついて、コーヒーを啜った。
「で、咲ちゃん、お話って?」
花音は咲に向き直り、尋ねた。
「あの、実はこれなんですけど」
薄手のカーディガンのポケットから封筒を取り出し、オズオズとテーブルの上に差し出す。白い横長の封筒には『田邊咲様』と宛名が書かれていた。
「ああ」
それを一瞥して、花音は頷いた。
「文乃さんからの結婚式の招待状だね──それが?」
それが、って。
咲は唖然として花音を見つめた。
これが文乃さんの結婚式の招待状だということがわかるのなら、自分にその招待状が届くことがおかしいことも分かるはずなのに──
咲は文乃とは一度しか会ったことがない。特段親しいわけでもないし、会話らしい会話もほとんどしたことがない。
いつもは勘のいい花音さんがそのことに気がつかないなんておかしいな、と咲は眉を顰めた。
「私、文乃さんとはあまり面識がないですよね……というか、一度しか会ったことありません。なのに、どうして結婚式の招待状が届いたのでしょうか?」
咲は気を取り直して尋ねる。
「僕がお願いしたの」
それに花音はニコリと笑い、答えた。
「え?」
「本当はね、凛太郎が招待されていたんだけど、彼、嫌がってね」と凛太郎を振り返る。
「あったりまえだろ。付き合ってられるか、そんな無駄なもん」
「だって。失礼だよね」
花音は戯けたように肩を竦めた。
「えっ、だからって、なんで私……」
咲は混乱して花音を見つめる。
「凛太郎が式に出席してくれたら、ついでにお花のセッティングを手伝ってもらおうと思っていたの。でも、出ないって言うから。代わりに咲ちゃんにお願いしようかなって。で、ついでに結婚式もどうかなって──ほら、咲ちゃん、文乃さんの命の恩人だし、ちょうどいいでしょ?」
──命の恩人なんて大袈裟な。
咲は顔を引き攣らせた。
花音が言っているのは、文乃が華村ビルの近くで貧血をおこしていたのを、喫茶店まで咲が連れてきたことだ。でも、ただそれだけである。
チラリと花音を窺うと、彼はニコニコと悪びれた様子もない。
咲はこっそりとため息を吐いた。
花音さんは少々強引なところがあるから困りものだ。そして、決して譲らないのだ。
「で、でも。結婚式って、もう来週ですよね。私、なにも準備をしてなくて。それに、その日は悠太くんと映画の約束が……」
「ああ、それ」
花音は悠太に視線を移した。その視線を察して「すみません、咲さん」と悠太が言う。
「僕、その日、常連さんにどうしても店を開けて欲しいと頼み込まれて。映画は無理そうです。ごめんなさい」
眉をハの字にして謝る。
「そ、そうなの……」
断る口実をなくして、咲はガックリと肩を落とした。
「というわけで、どう? ご祝儀は僕のほうでまとめて用意するし、お給料も出すから」
対して花音は嬉々として提案する。
「お給料は大丈夫です」
咲は慌てて手を振った。
普段から花音さんにはお世話になっているのだから、お手伝いは喜んでさせてもらいます。
──でも、結婚式までは……
しかし、ニコニコ顔の花音を見ると断りづらい。
咲は再びため息を零し、「わかりました」と頷いた。
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