華村花音の事件簿

川端睦月

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水仙の誘惑

プロローグ

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「あっ」

 田邊たなべさきは、三階からエレベーターに乗り込んだその男の顔に、小さく声を上げた。

「また、あんたか……」

 咲に気づいた男は気怠そうに頭を掻き、操作盤の『閉』のボタンを押した。と同時に、ゆっくりドアが閉じていき、咲は恨めしくそれを見つめる。

 動き出したエレベーターで、男は壁にもたれかかり、ギロリと咲を睨みつけた。

 ──もう、最悪。

 咲は身を縮こませ、心の中でぼやいた。

 男の名は瀧川たきがわ凛太郎りんたろう。ここ華村はなむらビル三階の住人である。

 彼に会うのは二度目だった。

 一度目は入居手続きでここを訪れた日。奇しくも今と同じようにエレベーターで出会でくわしたのだが、印象は最悪で、咲は彼に苦手意識を覚えた。

 年齢はおそらく二〇代後半。無駄に背が高く、少し長い前髪から覗く鋭い目つきが、まるで獲物を狙うハンターのようで威圧感が半端ない。

「……結局、入居したのか」

 凛太郎は独り言めいた言葉を咲に投げかけた。

「せっかく忠告してやったのに」

「忠告?」

 咲は眉を顰める。

 ──彼の言う忠告とは、一体何を指しているのだろう?

 咲が覚えているのは『貧乳』という悪口だけだ。

 険しい顔をした咲に、凛太郎はやれやれというように首を振った。

「言っただろう。武雄は貧乳に興味がないって」

 ──また『貧乳』って言った。

 咲は眉間の皺をますます深くする。それを凛太郎は愉快そうに見つめ、ククッと声を押し殺して笑った。

「でも、まぁ、たまには変わり種もよく見えるのかもな」

 ユラリともたれていた壁から起き上がった凛太郎は、咲と正対した。そのまま咲を挟み込むように長い両腕を伸ばし、勢いよく壁に手をついた。

 ──こ、これっていわゆる壁ドン?

 焦る咲に、薄ら笑いを浮かべた凛太郎の顔が近づく。

 咲はギュッと目を閉じ、両手を顔の前で構えた。その寸前で凛太郎が動きを止める。

「一応、気をつけたほうがいいかもね。貧乳だけどさ」

 耳元で揶揄うように言い、今度はハハハッと声を上げて笑った。

 ──また貧乳って言った。

 咲がギロリと睨みつけたとき、ポーンと一階への到着を告げる音が鳴る。

 凛太郎は身体を起こすと、「じゃあ」と後ろ手に手を振り、エレベーターを降りていった。

「……なんなの、あの人」

 独りごちた咲は、ドアが閉じかけたのに気がついて、慌てて外へと飛び出す。

 すでに凛太郎の姿はない。

「ほんと、失礼っ」

 つい安心して、咲は大声を出してしまった。

 ──まったく、貧乳、貧乳ってデリカシーのない。

 花音は『根はいい子』と言っていたけれど、今のところ悪意しか感じられない。

 凛太郎の鋭く冷たい視線を思い出し、また怒りがぶり返す。それを消し去ろうとブンブンと頭を振るがイライラは治らない。

「もう、腹が立つ」

 咲はその場で思いっきり地団駄を踏んだのだった。
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