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八 理不尽な日常 八

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 無意識に軽く握った右手を伸ばそうとして、慌てて引っこめた。ノックが必要なはずがない。

 ノブを回すと、ドアは簡単に開いた。室内にたまっていた、色がついてそうなほど濁ってじめついた空気が流れてくる。

 部屋は十六畳ほどの広さだろうか。懐中電灯の光はまず、床の中央にいすわる巨大な球体を照らした。大人一人が膝をつけば出入りできそうなそれは、表面にトゲとも棒ともつかない突起にびっしりと覆われていた。材質は鉄のようだが、赤茶けた錆にまとわりつかれている。

 球体の向こう側に、新たなドアが見える。その事実に押され、後ろ手に戸口を閉めつつ入室した。

 まずは、球体の回りをざっと一周した。ついでに壁も眺めた。球体よりも壁から新たな情報が得られる……分厚く簡素なガラス板に圧着させた形で、様々な資料が展示してあったからだ。

『この機雷に本来の爆薬は入っておらず、ダミーである。木辻大尉は薄山少佐からこれを譲り受け、ギ計画を後世に遺した』

 球体の写真を添えた短い記事。

 木辻! 薄山!

 もはやこれが、偶然の一致などとは到底思えない。

 木辻だけならまだしも、薄山の名前が……。彼が史学科に進み、あの妄執めいたブログを書いたのもここからきているのだろうか。少なくとも、友人の薄山がこんな代物を自力で用意できるはずがない。

 いずれにせよ、この球体は旧日本海軍の機雷だとわかった。米軍のは円柱形だそうだが、国によって特徴があるのだろう。まさに薄山が熱弁をふるいそうな代物だ。

 資料から離れ、ひとまず真上から機雷を覗いてみた。てっぺんから十数センチほど下がった部分を、輪切りしたように一際濃く赤い線がついている。

 ダミーというなら、まさか爆発はするまい。好奇心の命ずるままに、赤い線の辺りを右手でなぞった。かすかに動いたような気がする。もっと力を入れると、ビンのフタをねじる要領で開けられるのがわかった。回転体眩惑症は意識せねばならないが、要所要所で動きを止めながらゆっくり回していけばいいだろう。懐中電灯を床に置き、作業にとりかかった。

 何分かかったかわからない。とにかく、機雷の上端が開いた。懐中電灯を手にしてから明かりをもたらすと、中身は空だった。ピンポン玉のようなものだ。

 当たり前といえば当たり前ながら、がっかりはしなかった。むしろ、資料が正確なのが確かめられて良かった。

 良かった……? 良くはないだろう。もはや狂気の沙汰だ。今さら引き返せない。機雷のフタを元通りにしてから、残りの資料を読むことにした。

 その内の一つに系図があった。岩瀬家の系図が。最末端に彼の名前があり、たどっていけば両親や祖父母があった。さらにたどっていくと明治時代の祖先が記載されている。そこからは『略』とあり、最上段には『瓜子姫?』とあった。プライバシーもクソもない。

 薄山の件は、まだ他人事だった。もはやこれは、妄執や狂気を通りこして彼岸だろう。理性や常識の領域から遠く隔たった彼岸。

 自分の血に瓜子姫のそれが混じっていたとして、だからなんなのか。そんなことを研究して誰にどんな価値があるのか。

 最後の資料は、ある意味でもっと酷かった。人間の血液分析表だが、サンプルはことごとく『恩田家』とある。正確には、恩田家A、恩田家Bといった具合に。分析を行った年代は、昭和二十年七月三日を皮切りに断続的に続いていた。直近は半年前だ。そして、いずれの分析結果も『餅のサンプル結果』とどのくらい一致するのかがパーセンテージで結論づけてあった。どれもこれも数パーセント程度だが、直近の分析結果だけは八十三パーセントとある。

 直近とやらは、後輩の恩田なのか。だとしたら、彼女はどれくらいまで真相を知っているのか。

 餅が単なる食品なら、人間の血液と比較しても意味などないはずだ。笑い飛ばすか無視するかが妥当なのに、できない。恩田という名前ももちろんだし、同じ部屋の資料に自分を含めた系図があるのだから。

 だから、岩瀬は考えねばならない。これら一連の狂気を、厳密には狂気を備えた人々の立場になって。

 足元をぴちゃぴちゃ濡らす音に、はっと我に返った。水がここまできている。のんびりしている余裕はない。

 もう一枚のドアから、岩瀬は部屋をあとにした。
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