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五、貧民窟の聖人

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 こうしてアンは、着のみぎのまま公爵家から追放された。

 三年ぶりだろうか。ようやく『ここ』からでることができた。

 これから先どうするのかは、まったくあてがない。女の足で実家までいくなら、一ヶ月くらいはかかるだろう。もちろん、明日かあさってか……まあ、一週間もしないうちに詳細を……事実に照らしてでたらめな詳細を……ならべたてた手紙がアンの実家に届くはずだ。つまり、彼女は実家からも勘当されることになる。

 となると、せいぜいが公爵領をでたあたりで野たれ死にということになる。自分の力だけで、野外で何日も生きられるなどと思うほどアンは幼くない。

 それでも、望みもしない人生を強いられ望みもしない結末にいたるよりはるかにましだ。いよいよとなったら、その辺の木の枝にベルトでも引っかけて首を吊る覚悟まで固めていた。

 ほんのいっときでも味わえた、自由の代償。

 歩きながらふりかえると、現当主の屋敷とイリグム邸が次第に遠ざかっていく。それにつれて、やたらに木や茂みがめだち始めた。公爵家が貧乏だから放置されているのではない。

 ここは初級の狩場だ。貴族たるもの、狩猟は当然のたしなみの一つとして学ばねばならない。まだ幼いうちは、家から大して離れていないこうした林で簡単な練習を重ねる。しかるのちに、もっと遠くにいくようになる。もっとも、イリグムが狩りにいくなどついぞ見たことも聞いたこともなかった。

 さしづめ、いまのアンは狩る値うちもない小物か。

「こんにちは」

 草むらのむこうから、ケムーレがひょこっと顔をだした。

「きゃあっ!」

 仰天したアンは、思わず腰を抜かして地面に倒れた。

「大丈夫?」

 銀色の前髪を揺らし、ケムーレは手をさしのべた。

「え、ええ……ごめんなさい」

 思わず彼の手をとり、起きながら気づいた。少年とはいえ、他人の男性に触られたのは生まれて初めてだ。

「あんなゴミ溜めからでられてよかったね」

 訳知り顔で、少年は口にした。相変わらずの毒舌ぶりだ。

「あのう、あなたはどなたなんですか? いつもいつも急に現れて、私を助けてはくださいましたけど……」
「僕はケムーレで、たんにケムーレ。それより、これからどうするの?」
「あまり考えてないです」
「お腹もそろそろ減ってくるよね」
「うーん……」

 白馬の王子ならぬケムーレでは、丸投げして頼るとはいかないか。

「こっちにおいでよ」

 ケムーレはくるっと背を見せた。

「え? ど、どこに……」
「いいからいいから」

 すたすた進みだしたケムーレを、アンはあわてて追った。

 しばらくして、道は少しずつ険しい登り坂になっていった。ふだんから訓練していたので、さほどの苦労にならないのが皮肉といえば皮肉だ。

 とうとう二人は小高い丘の頂上まできた。昼下がりで、天気もいい。下界の様子が手にとるようにわかった。

「わぁっ……」

 アンは、丘から一望した様子……海に面した街と、それを囲む森……にしばしみとれた。それこそ箱庭さながらの絶景だ。

「公爵領では一番大きな街さ。港もある。いろんな人もいるよ」
「じゃあ、そこへいってどなたかに助けてもらうんですか?」

 ここ数日の、アンの成長ぶりは当人自身が驚いている。しかし、それが生き馬の目を抜きかねない環境で通用するかどうか。

「または、ここから飛び降りたらすぐ楽になるよ」

 さわやかに笑いながら、ケムーレは丘の真下を指した。ちょっとした崖になっていて、建物でいえば八階くらいの高さだろうか。

「そ、そうですね。熟慮が必要ですわ」

 ケムーレの、針にもひとしい弁舌が自分に差しせまってきた。いざそうなると、しびれるような衝撃が彼女の心に寄ってきた。

 貴族らしく生き、貴族らしく死ぬ。そういう選択もあるだろう。むしろ、アンは生涯の大半をそう教えられてきた。

 貴族とやらが自分になにをしてくれたのか。何不自由のない生活。庶民のような苦労とは無縁な人生。たしかに、部屋にこもって箱庭三昧など貴族でなければ不可能だったろう。

 もう飽きた。箱庭に、ではなく貴族そのものに。

 ならば、どのくらい続くかしらないが庶民の仲間いりをしてもよかろう。

「ケムーレ、私……」

 彼はいつのまにかいなくなっていた。大声で二、三回呼んでも無駄だった。

 アンは、一人で丘を降りて森をぬけねばならなかった。

 数日後。

 イバラや枯れ枝に衣服を引きさかれ、フケまみれの髪をふり乱し、靴を片方なくしたアンは道端に倒れた。

 どの街も、有事に備えてぐるりと城壁を張り巡らせている。あと数百歩で城門にいきつくというのに。

 街をでいりする人々は、ときに大きく固まりときに小さく細切れになり道をいきかう。彼らのいずれもがアンを無視した。こうしたいき倒れは珍しくないし、かかわるとろくなことがない。

 いや、一人いた。

 三十代も半ばをこしたくらいの、背は高いが地味で冴えない格好の男が。

 他の人々から横目に見られるのもかまわず、アンのかたわらに片膝をついて彼女の身体を小さくつついた。

 気絶寸前の心身で、アンができたのはうめくだけだ。男からすれば、それで十分だった。

 男は腰に吊るした水筒の栓をはずし、アンの口にあてがった。ほんの一口飲ませただけだが、たしかに彼女は飲んだ。

 念のためにもう一口飲ませてから、男はアンを肩に担いだ。垢と汗にまみれた異臭が鼻をついたものの、どうでもいい。

 城門で、衛兵に簡単な説明をしてから男は街にはいった。にぎやかな表通りではなく、薄暗くじめじめした裏通りへ。そこはかとなくドブや反吐の臭いが漂っており、生活の安定している人々は貴族だろうと庶民だろうと近よらない。

 そんな貧民窟の一画に、男の家はあった。アンを担いだまま鍵をポケットからだして、ドアの施錠をはずす。室内は、台所も手洗いもシャワーも居間も全部一まとめにした部屋が一つあるきりだった。大人が四人もいれば物理的に満杯になる。

 男はアンを自分のベッドに寝かせ、かまどの火をおこした。お湯をわかし、塩と海藻だけで簡単なスープを作る。

「う……うーん……」

 寝返りを打とうとして、アンはまたうめいた。

 スープができたころには、彼女はあやふやでおぼろげな意識を掴んだり手放したりしていた。ただ、口元に湯気のたつスプーンが近づくとなかば無意識に唇をあけた。

 男は、手ずから少しずつスープを飲ませていった。胃が穏やかに満たされていくと、アンはのしかかる疲労をふたたび自覚した。スープを飲みきったとき、彼女は気絶とも睡眠ともつかない状態で外界を遮断した。
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