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一、だらしない婚約者 一
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アンにとって、生涯最大の望みは『ここからでること』だった。
「サバル、そういうわけでここにあるメモ通りの品をそろえてちょうだい」
アンは、頼るどころか顔もあわせたくない自分付きのメイド……正確には侍女兼メイド頭に頼みごとをせねばならないところだ。
時刻は、夜ふけを通りこして日付が変わった辺りか。
侍女がメイドをするのは、極めて異例だ。しかし、サバルは部下を指図するより自分から手足を動かさないと気がすまない。そうした気質は、アンとは真反対としかいいようがなかった。
天井に吊るされた、小さめのシャンデリアから降りてくる光が二人をいびつに照らしている。
「かしこまりました。でも、アン様。そろそろご主人様のご趣味やご興味についても学んでくださいませ」
そんなアンをこれっぽっちも気遣うことなく、サバルは丁寧だが威圧感のある口調で申し渡した。
ご主人様、とはこの邸宅の主にしてアンの婚約者……イリグムを指す。四男といえども公爵家の一員で、子爵家出身に過ぎないアンとは立場がまるで別だ。
本来なら、少なくともアンはとうに寝ている時刻ではある。しかし、明日からまた勉強と体操づくめな日々が再開される……今日はアンにとって貴重な休日。
サバルは、イリグム邸の使用人として執事の次に強い権限を備えている。アンより十歳ほど年長になる。体格こそほぼ変わらないが、アンはさっぱり頭があがらない。なまじ女同士というのがまた、悪い意味での遠慮のなさを発揮していた。
「ありがとう、サバル。助言についてもよく考えるから」
どうにか威厳を保とうとしつつ、アンはサバルの台詞に半ばは安堵し半ばは腹をたてていた。
サバルが、自分とアンを隔てているテーブルをちらっと眺めた。正確には、卓上にある小さな箱庭を。それこそ、アンが今回サバルに助けを求めざるをえなくなった原因だった。広くも狭くもない空豆型の茶色いテーブルからすると、両手の平ですっぽり包めそうな箱庭はいかにもささやかだ。
アンがここにきて一年ほどたつ。彼女が自由に実行できる唯一のふるまいが、箱庭造りだった。すでにして十一個が、テーブルとは別個の陳列棚で肩をならべている。見る者が見れば、我流ながらも技量の向上を感じとっただろう。ずば抜けて優れた品ではないが、精一杯の努力を重ねている。
そもそも。『ここ』とは彼女の部屋そのものだけではない。自分が置かれた立場……公爵家の四男・イリグムの婚約者として彼の邸宅で生活させられていること自体だ。いうまでもなくサバルはイリグムが雇っている使用人であり、将来的にはアンこそが使いこなすべき人材となる。順当にいけば。
アン自身は、子爵家の長女だった。本人が十五歳のときには親同士の話で結婚がきまり、十七歳になると同時にイリグム邸へ一人で引っこした。公爵家の作法や、上級貴族の妻としての責務を学ぶためだ。
アンの実家からは、誰一人として同行する人間はいなかった。両親すら見送らなかった。引っこしに伴う実務は両家の召使い達が果たしたものの、公爵家からは『必要な物は全てこちらでそろえる』と通達があったからである。
以来、一年。
「そのお言葉、これまでに何度も伺いましたよ」
サバルは軽蔑に近い感情を隠そうともしない。大して豊かでもない社交力が枯れはて、アンは黙りこんだ。サバルは無表情をよそおい、アンと彼女の手になる箱庭を交互ににらんでいる。
アンは、婚約者であるはずのイリグムになんの感情も湧いてない。むろん、顔はあわせる。一ヶ月に数回ほど。彼は宮廷の令嬢や侍女達から、毎日のように熱い視線をむけられる背の高い美男子だ。アンはというと、出仕さえすれば一部に隠れた片想いができるのはまちがいないだろう。彼と真反対に、その気は一切ないのだが。
この二人について、男女の営みは最初から全く果たされずじまいだった。
イリグムは二十一歳で、アンより三歳年長になる。貴族でなくとも、こうした同居が続けば……若さも手伝って……正式な婚姻より前に妊娠が明らかになる図式が珍しくない。むしろどちら側の両親もそれを期待してすらいた。
アンがイリグムから学んだことがあるとすれば、年長者だからといって必ずしも有能だったり誠実だったりするとは限らないという事実だけだった。
一応、イリグムから誘われるか求められるかすればアンは応じるつもりではいた。単純に、それが貴族の子女として果たすことだろうくらいに考えていた。にもかかわらず、一年たってもイリグムはアンの相手をサバルに丸投げしたままだった。どうせ親のきめた縁組みというのもあるだろうが、彼が自分の生涯をお洒落とひとときの恋愛と賭博にだけ捧げているのがアンにさえすぐに理解できた。彼女からすれば、軟禁以外のなにものでもない。
にもかかわらず、イリグムとは……奇妙にも……穏便な無視を交わせばうわべはどうにかなった。
問題は、むしろサバルだ。彼女も……アンよりさらに格下とはいえ……貴族の出身らしいが、やたらにアンにつっかかってくる。
ただ、次の箱庭を作る材料が欲しいだけなのに。
実家からはなんの援助もなく、ダンスや外国語の勉強だけを強いられる日々。それらは着実にこなしているが、役にたつときがくるかどうかは怪しいものだ。ついでながら、男の使用人には最初から必要最小限の接触しかできない。
「ごめんなさい。もっと勉強するから……」
毎度きまりきった会話の末に、ドアがノックされた。
「はい」
会話を打ち切る形でサバルがノックに応じたのは、アンからすれば救いだった。
「失礼致します。アン様、ご主人様がお帰りでございます」
ドアを開けて用件を告げたのは、執事のコンゾだった。彼自身にはなんの問題もない。実直な中年男だ。だが、男の使用人がわざわざやってきた。つまり、イリグムからの命令でアンが彼の世話をさせられる可能性が高い。しかも、逆らえる状況ではない。
乏しい社交力のかわりに豊かなアンの想像力は、せっかくサバルから解放された喜びを煙のように吹きはらってしまった。
これまで、イリグムがいつ帰ってこようがアンはなんのかかわりもなかった。かかわること自体をはねつけられてもいた。彼女自身、面倒ごとから解放されるという意味で歓迎していた面もある。
それが、初めて破られようとしている。
「わかりました。案内して」
内心の苦痛がどれほどであろうと、表にださないのがせめてもの自尊心だった。
「はい、承りました」
コンゾに導かれ、アンは邸宅のホールまでやってきた。玄関からなら廊下を数分歩けばいきつくが、アンの部屋からだとその倍はかかる。
いざ到着すると、イリグムは壁際にある来客用のソファーに寝転がっていびきをかいていた。姿を目にしただけでアルコール臭が漂ってきそうだ。最新流行の服もシワだらけになっている。
さらに近づくと、臭気はアルコールだけではなくなった。バラの香りもかすかにする。いくらアンが疎くとも、女物の香水なのはすぐ察しがついた。
「お水はすでに召しあがってらっしゃいます」
コンゾは落ちついた口調で説明した。
「ありがとう。なんのご用で私を呼んだの?」
「たまには婚約者のお顔を見たいとのご要望でございました」
歯車のごとく正確無比な、そして慇懃無礼な説明がなされた。酔った勢いでたまたま気まぐれを起こしたのだろう。本人がこの体たらくで、アンは拍子抜けしたというより心からほっとした。
「そう。起こすのもお気の毒だから、お部屋まで運んで。私は自分の部屋に引き揚げるから」
「仰せのままに」
コンゾの一礼を背後に、アンはきびすを返した。
「サバル、そういうわけでここにあるメモ通りの品をそろえてちょうだい」
アンは、頼るどころか顔もあわせたくない自分付きのメイド……正確には侍女兼メイド頭に頼みごとをせねばならないところだ。
時刻は、夜ふけを通りこして日付が変わった辺りか。
侍女がメイドをするのは、極めて異例だ。しかし、サバルは部下を指図するより自分から手足を動かさないと気がすまない。そうした気質は、アンとは真反対としかいいようがなかった。
天井に吊るされた、小さめのシャンデリアから降りてくる光が二人をいびつに照らしている。
「かしこまりました。でも、アン様。そろそろご主人様のご趣味やご興味についても学んでくださいませ」
そんなアンをこれっぽっちも気遣うことなく、サバルは丁寧だが威圧感のある口調で申し渡した。
ご主人様、とはこの邸宅の主にしてアンの婚約者……イリグムを指す。四男といえども公爵家の一員で、子爵家出身に過ぎないアンとは立場がまるで別だ。
本来なら、少なくともアンはとうに寝ている時刻ではある。しかし、明日からまた勉強と体操づくめな日々が再開される……今日はアンにとって貴重な休日。
サバルは、イリグム邸の使用人として執事の次に強い権限を備えている。アンより十歳ほど年長になる。体格こそほぼ変わらないが、アンはさっぱり頭があがらない。なまじ女同士というのがまた、悪い意味での遠慮のなさを発揮していた。
「ありがとう、サバル。助言についてもよく考えるから」
どうにか威厳を保とうとしつつ、アンはサバルの台詞に半ばは安堵し半ばは腹をたてていた。
サバルが、自分とアンを隔てているテーブルをちらっと眺めた。正確には、卓上にある小さな箱庭を。それこそ、アンが今回サバルに助けを求めざるをえなくなった原因だった。広くも狭くもない空豆型の茶色いテーブルからすると、両手の平ですっぽり包めそうな箱庭はいかにもささやかだ。
アンがここにきて一年ほどたつ。彼女が自由に実行できる唯一のふるまいが、箱庭造りだった。すでにして十一個が、テーブルとは別個の陳列棚で肩をならべている。見る者が見れば、我流ながらも技量の向上を感じとっただろう。ずば抜けて優れた品ではないが、精一杯の努力を重ねている。
そもそも。『ここ』とは彼女の部屋そのものだけではない。自分が置かれた立場……公爵家の四男・イリグムの婚約者として彼の邸宅で生活させられていること自体だ。いうまでもなくサバルはイリグムが雇っている使用人であり、将来的にはアンこそが使いこなすべき人材となる。順当にいけば。
アン自身は、子爵家の長女だった。本人が十五歳のときには親同士の話で結婚がきまり、十七歳になると同時にイリグム邸へ一人で引っこした。公爵家の作法や、上級貴族の妻としての責務を学ぶためだ。
アンの実家からは、誰一人として同行する人間はいなかった。両親すら見送らなかった。引っこしに伴う実務は両家の召使い達が果たしたものの、公爵家からは『必要な物は全てこちらでそろえる』と通達があったからである。
以来、一年。
「そのお言葉、これまでに何度も伺いましたよ」
サバルは軽蔑に近い感情を隠そうともしない。大して豊かでもない社交力が枯れはて、アンは黙りこんだ。サバルは無表情をよそおい、アンと彼女の手になる箱庭を交互ににらんでいる。
アンは、婚約者であるはずのイリグムになんの感情も湧いてない。むろん、顔はあわせる。一ヶ月に数回ほど。彼は宮廷の令嬢や侍女達から、毎日のように熱い視線をむけられる背の高い美男子だ。アンはというと、出仕さえすれば一部に隠れた片想いができるのはまちがいないだろう。彼と真反対に、その気は一切ないのだが。
この二人について、男女の営みは最初から全く果たされずじまいだった。
イリグムは二十一歳で、アンより三歳年長になる。貴族でなくとも、こうした同居が続けば……若さも手伝って……正式な婚姻より前に妊娠が明らかになる図式が珍しくない。むしろどちら側の両親もそれを期待してすらいた。
アンがイリグムから学んだことがあるとすれば、年長者だからといって必ずしも有能だったり誠実だったりするとは限らないという事実だけだった。
一応、イリグムから誘われるか求められるかすればアンは応じるつもりではいた。単純に、それが貴族の子女として果たすことだろうくらいに考えていた。にもかかわらず、一年たってもイリグムはアンの相手をサバルに丸投げしたままだった。どうせ親のきめた縁組みというのもあるだろうが、彼が自分の生涯をお洒落とひとときの恋愛と賭博にだけ捧げているのがアンにさえすぐに理解できた。彼女からすれば、軟禁以外のなにものでもない。
にもかかわらず、イリグムとは……奇妙にも……穏便な無視を交わせばうわべはどうにかなった。
問題は、むしろサバルだ。彼女も……アンよりさらに格下とはいえ……貴族の出身らしいが、やたらにアンにつっかかってくる。
ただ、次の箱庭を作る材料が欲しいだけなのに。
実家からはなんの援助もなく、ダンスや外国語の勉強だけを強いられる日々。それらは着実にこなしているが、役にたつときがくるかどうかは怪しいものだ。ついでながら、男の使用人には最初から必要最小限の接触しかできない。
「ごめんなさい。もっと勉強するから……」
毎度きまりきった会話の末に、ドアがノックされた。
「はい」
会話を打ち切る形でサバルがノックに応じたのは、アンからすれば救いだった。
「失礼致します。アン様、ご主人様がお帰りでございます」
ドアを開けて用件を告げたのは、執事のコンゾだった。彼自身にはなんの問題もない。実直な中年男だ。だが、男の使用人がわざわざやってきた。つまり、イリグムからの命令でアンが彼の世話をさせられる可能性が高い。しかも、逆らえる状況ではない。
乏しい社交力のかわりに豊かなアンの想像力は、せっかくサバルから解放された喜びを煙のように吹きはらってしまった。
これまで、イリグムがいつ帰ってこようがアンはなんのかかわりもなかった。かかわること自体をはねつけられてもいた。彼女自身、面倒ごとから解放されるという意味で歓迎していた面もある。
それが、初めて破られようとしている。
「わかりました。案内して」
内心の苦痛がどれほどであろうと、表にださないのがせめてもの自尊心だった。
「はい、承りました」
コンゾに導かれ、アンは邸宅のホールまでやってきた。玄関からなら廊下を数分歩けばいきつくが、アンの部屋からだとその倍はかかる。
いざ到着すると、イリグムは壁際にある来客用のソファーに寝転がっていびきをかいていた。姿を目にしただけでアルコール臭が漂ってきそうだ。最新流行の服もシワだらけになっている。
さらに近づくと、臭気はアルコールだけではなくなった。バラの香りもかすかにする。いくらアンが疎くとも、女物の香水なのはすぐ察しがついた。
「お水はすでに召しあがってらっしゃいます」
コンゾは落ちついた口調で説明した。
「ありがとう。なんのご用で私を呼んだの?」
「たまには婚約者のお顔を見たいとのご要望でございました」
歯車のごとく正確無比な、そして慇懃無礼な説明がなされた。酔った勢いでたまたま気まぐれを起こしたのだろう。本人がこの体たらくで、アンは拍子抜けしたというより心からほっとした。
「そう。起こすのもお気の毒だから、お部屋まで運んで。私は自分の部屋に引き揚げるから」
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