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 ウエルはオリヴィアの肩に触れた。
「妹よ、心配いらない。大事なおまえをあんな野蛮な国へ嫁がせたりしない。オリヴィアは行かなくていい。この兄を信じろ!」
 オリヴィアは苦笑いを浮かべた。

 兄ウエルは妹オリヴィアを溺愛している。二人だけの兄妹で歳が離れているためか、もともと仲はよかった。
 十年前、王太后の母が亡くなるとき、「ウエル、妹を守ってあげてね」と言い残したことで、過保護になった。

「私はお兄さまを信じています。心配してくれる気持ちはとても嬉しいです。けれど、今は私じゃなく、国の未来を優先してください」
 オリヴィアはウエルの後ろに控えている侍女のマーラ、騎士のジクルトと他の者たちを一人ずつ見つめた。
 ――みんな生きてる。死んでいない。……死なせたくない。

 ミディル国は半年も経たずに滅んだ。それはなぜか。こちらの考えが甘い以外にも原因がある気がした。
 理由がわからない今、前回と同じように暗殺者を送るのは上策ではない。
 相手が何を考えているのか、もっと情報が欲しかった。
 部屋にはひときわ存在感を主張する花嫁衣装がある。それを見たオリヴィアは、ぱっと立ち上がると、ドレスの前に移動した。
 銀色の糸で紡がれている刺繍は精緻を極めたもので、とても美しい。指先で、そっとなぞる。

 ――わからないなら、知ればいいのよ。
 シェンナと入れ替わらずに、オリヴィア自身が嫁に行けばいい。
 自分を殺したカルロスの妻になるのは怖い。けれど、みんなを失うくらいなら、
 ――私が敵国の王妃になって、戦争を止める!

「オリヴィア、どうした?」
 ウエルに話しかけられたオリヴィアは振り返った。
「ねえ、お兄さまは争いが好きで、戦争を望まれるのですか?」
 脈略のない質問に驚いたらしい。ウエルは目を見開いた。
「……私は、戦争がしたいわけじゃない。ミディル国の民を守りたいだけだ」
 オリヴィアは兄の言葉にほっとして、頬を緩めた。
「陛下、私もです。でしたら、身代わり暗殺計画は中止しましょう」
 彼の眉根がきゅっと寄った。
「中止? オリヴィアはこのまま開戦しろと?」
「暗殺計画は先制攻撃。つまり、こちらから起きてもいない戦争を起すようなものです」
 そして、先制攻撃は失敗して、ミディル国は滅びる。つまり、しかけなければいい。

「友誼を深めるために、私がレオンティオ帝国へ嫁ぎます」
「だめだ!」
 ウエルは険しい顔で、強い口調で続けた。
「レオンティオ帝国は大陸を統一したがっている。戦争は避けられない。わざわざオリヴィアが人質になりにいく必要はない!」
「レオンティオ帝国の王が何を考えているのか、この私が直接会って、確かめてきます」
「今さら確かめる必要なんてない。この数年、隣国は滅ぼされ続けたんだ。ミディル国だけ見逃されるなんてことはない!」
「……仮にレオンティオ帝国がミディル国を滅ぼそうとしているとしても、敵国の情報が少なすぎます。帝国に暗殺者を送って万が一、計画が失敗したら、こちらは一気に戦況不利になります」

 オリヴィアにとっては一度、実際に起こったことだが、今は可能性としてウエルの説得を続けた。
「シェンナは優秀だ。失敗などないし、計画も綿密に練る。オリヴィアは俺が守る。だからこの兄の言うことを聞いていればいい。わかったね?」
 シェンナが優秀なことはオリヴィアも知っている。計画も万全だった。それでも前回、暗殺計画は失敗している。

 これまでのオリヴィアなら、兄に素直に従っていた。だが、未来を知っている今回は、違う選択を選ぶ。
 たとえ、兄に逆らうことになっても、みんなを守りたかった。


 その日の夜、誰もが寝静まった時間にオリヴィアは部屋を抜け出した。手には最小限の荷物を詰めたトランク一つ。
 音をたてないよう薄暗い廊下をそろりと進む。
 オリヴィアは兄の説得は無理だと悟って、強行手段に出たのだ。
 ――荷馬車に隠れてついて行くしかない。
 普段おとなしく、刃向かったことがないオリヴィアがこんな大胆なことをするとは誰も思っていないだろう。だけど一度死ねば、人生観や性格だって少しくらいは変わる。
 ――私が、未来を変えてみせる。

「オリヴィアさま、こんな夜更けにお散歩ですか?」
 後ろから声をかけられてオリヴィアは肩を跳ね上げた。そろりと振り返る。

「ご、ごきげんよう。ナディアさま」
「ごきげんよう」と笑みを添えて返してきたのは、義理姉のナディア・ミディル。現王ウエルの正妃だった。
 小顔でくるっとした大きな瞳。小柄で、腰ほどまで伸びたウエーブかかった亜麻色の髪が似合っている可憐な女性だ。

「ナディアさまもこんな夜更けにどうされたんですか?」
 いつもたくさんの侍従を連れている彼女が珍しく一人だった。
「今宵は少し蒸せるでしょう? ちょっと、寝付けなくて。涼んでいましたの」
「……私もです」
 ナディアは目を細めた。視線はオリヴィアの荷物に向けられている。
「明日は、あなたがレオンティオ帝国へ発つ日よね……表向きは。あなたを嫁に出したくないウエルさまが身代わりを立てたとか。それなのに、オリヴィアさまはどこへ行くというの?」

「……レオンティオ帝国です」
 二人の間に沈黙が流れた。

「それは……おやめになったら? あなたの兄王も悲しみますよ」
 オリヴィアは首を横に振った。
「身代わりのシェンナではなく、私がレオンティオ帝国へ行くべきです。ですが、兄さまは聞く耳を持ちません」
「だからこっそりと、発とうとしていらっしゃったの?」
「ナディアさま。どうかこのことはご内密に。私のことは見なかったことにしてください」
 すがるようにお願いすると、ナディアは困った様子で眉尻を下げた。
「ここにいれば安全です。それなのにどうして自ら人質になるために、危険な敵国へ向かうのか、理由を聞いても?」

 オリヴィアはどうしようか悩んだ。死に戻って未来を知っていると説明するべきか。だけど信じてくれるかは微妙だ。
 胸の痣を見せたところで、未来を知っている証拠にはならない。

「……兄さまたちの計画が、失敗する気がするんです」
 しどろもどろになりながら答えた。すると、ナディアがわずかに顔をしかめた。
「失敗する理由を、オリヴィアさまはご存じなの?」
「いえ、そんな気がしただけです。確証はありません」
「……王の計画は、国家の存亡を左右するものです。何か杞憂すべき事案をご存じなら話してくださいませ」

 ナディアは、去年滅んだカルーデル国から嫁いできている。聡明で行動力のある女性だ。子どもはまだいないが夫婦仲はよく、臣下からの信頼も厚い。
 このままではミディル国が滅びると話をしたら、信じて協力してくれるだろうか。けれど、反対に敵国へ行くのを完全に阻まれる可能性もある。
 信じてもらえずに部屋に閉じ込められたら、おしまいだ。
 レオンティオ帝国に向けて発つのは、今のこの機会しかない。今だけでもいい。彼女を味方にしたい。オリヴィアは知恵を絞った。

「……実は私、嫁に行きたくて。そ、そう! カルロス皇帝陛下の妃に、なりたいんです!」

 ナディアは目を見開いて固まった。
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