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第12話、温泉
しおりを挟む碧也の弱点に気がつきながらもあえて触れなかったのも、碧也の方からアスモデウスを求めてしまったのも、互いの矛盾点の現れだというのに目を瞑りあっている。
それどころか優しく腕の中に囲われ、人間よりも人間らしい振る舞いを見せられると、どう返していいのか分からない。
お互い生業としているのは暗殺者で、片や魔王だ。
人間らしさとは縁遠い場所にいるのに、嫉妬して、抱きしめて、食を楽しみ、劣情に溺れて、労るように体温を分け合う。
——こんな……過去に捨ててしまったものの先にあるものなどは今更求めていない。
もし求めてしまえば、足元さえ掬われてしまいそうで碧也は少し怖くなった。
「アスモデウス」
「どうした?」
「アスモデウス」
名を呼ぶ度に口付けられる。
風呂にある階につくまでの間、せっかく回復してきていた体力も気力も全て奪われてしまった。
やがてエレベーターがとまる。
「ほら、着いたぞ」
離れた体温が名残惜しいと思ってしまったのを誤魔化したくて、外に視線を這わせた。
「ここ、もしかして地上……か?」
「そうだ。地上に出たがっていただろう?」
夜の帳が下りている空は、遠くに見える街のネオンに照らされ、七色が混ざり込みほんのりと明るい。闇に身を溶け込ませるには充分だった。
地の闇には慣れなくても、夜の闇は酷く安心出来る。
全てが終わって、全ての始まりでもあったあの日のようで……。
あの頃の自分も、その後暗殺者として生まれ変わった自分も隠せる。
否、アスモデウスに捕えられるまでは隠せていた。
まだ二日くらいしか経っていないというのに随分と昔の様に思えた。
思考を遮りたくて碧也は口を開く。
「温泉なんて久しぶりだ。ここは事務所とはまた違った場所なんだな」
視界に入るネオンとの距離、近くに見える山や木々、それに地上にあるハリボテ事務所の敷地内はもっと狭い。詳細に数値化した広さまでは碧也には分からないが、目測した限りでは事務所よりも広く感じた。
「良く分かったな。お前のそういう所も好ましい。ここは俺の第二の家だ」
それなら初めっから此処に監禁してくれたら良かったのにと、碧也は心の中でボヤいた。
アスモデウスの胸元まで届きそうな高さのある塀に囲まれているその場所は、結構な広さのある温泉で、照明を含んだデザイン全てが小洒落ている。
家に合わせてこの温泉を設計しているのなら、住居自体も和をメインとしていそうだ。
「此処に住みたい」
「却下だ。お前が逃げる確率は限りなくゼロにしておきたいからな」
「オレに執着しすぎだろ……意味が分からない。そんなに〝運命〟とやらは大事かよ」
それからは互いに無言となり、背後からアスモデウスにしっかりと抱えられて湯に浸かる。
碧也も百八十センチはあるし、細身というわけでもない。今のアスモデウスに限ってはニメートルを優に超し、人間の体の時よりも筋肉の厚みが数段増している状態だ。
なのにゆったりと浸かれるのだから大風呂に近い。態々こんなに密着しなくても良いだろうと思うのに、アスモデウスは離してくれる気配すらなかった。
温泉特有の香りが鼻腔をくすぐる。
色々考えていた事がどうでも良くなるくらいには癒されてしまった。
閉鎖された空間にいたのもあってやたら空気が美味い。外気がこんなに心地良いなど初めて知った。
「そんなに外が良いか?」
「まあ、人間だからなオレは。全く何も見えない所はストレスにしかならない。それよりも、わざわざ温泉をひいてきたのか?」
動く度にたつ水音が耳障り良い。落ち着きのあるアスモデウスの声すら今は酷く心地良かった。
「近くにある非火山性の源泉とやらを引っ張ってこさせた。本来なら非火山となれば温度は低いんだが、珍しく高温度だったみたいでな。報酬の代わりに貰い受けた」
「ふーん」
興味なさそうに碧也はそう口にしたが、思っていた以上に温泉は気持ちが良くて目を細める。
「気に入ったか?」
「ああ。好みだ。それに気持ちいい」
素直に言葉にするとアスモデウスの纏う空気が柔らかくなり、機嫌が良くなったのが伝わってきたので碧也は少し気まずさを覚えた。
「洗ってやろう」
湯からザバリと引き上げられて、木の椅子の上に座らされる。
機嫌が良いままのアスモデウスに洗髪から何もかも世話をやかれ、碧也の不快感は全て拭われた。最後に何度か頭から湯をかけられて仕上げられる。
「今度はオレがやる」
やって貰った返しのつもりだった。
アスモデウスの背後に回り、湯をかけてからボディーウォッシュタオルを滑らせる。
背中は初めて見たが、そこにもやはり模様があった。腹と背に巻きつくような大蛇の顔が描かれており、右側にはダチョウらしき模様もある。
「これって本体に元々ある模様みたいなものなのか?」
「そうだ」
細部に至り精密に描かれている絵が気になって、つーっと指を滑らせるとアスモデウスの体が微かに揺れた。
「悪い。くすぐったかったか? 毛並みや角の模様まで一本一本丁寧に描かれているんだなって思ったら、つい。凄いな……綺麗だ」
思わず呟くと、アスモデウスが振り返って意外そうな顔をした。
「そういう表情もするんだな。悪くない」
「何だよそれ」
——お前こそ、目尻を下げて微笑むなんて……そんな風にも笑えるんだな。
口には出せなくて心の中で呟く。
碧也は居心地悪いような気恥ずかしさを覚え、妙な疼きに胸を締め付けられた気がした。
自分がして貰ったのと同じように頭も全て洗い終え、泡を綺麗に湯で流していく。
その間にアスモデウスが片手を上げて何かしているのがわかり視線で追いかけた。
湯が全て排水溝に流れたかと思いきや、やがて真新しい湯に入れ変わる。
「魔力って便利だな」
「ほら、もう一度浸かるぞ」
また背後から抱えられて湯の中に連れ込まれる。
この体勢じゃなきゃ駄目なのかと辟易としたが、そんな気持ちを凌駕するくらいには温泉は良かった。身に沁み入る。
風呂から帰って来たら、部屋の出入り口付近に深く頭を下げたままのイアンがいた。
ベッドがやたら浮きまくっていた洞穴の中が、もう遺物としてしか見られないリゾートホテルのスイートルームみたいな空間に変わっていた。
外が見れない代わりに、絵画まで飾られている。
きちんと手洗い場やトイレ、シャワールーム、リビングルームやそこに続くダイニングルーム。その他目的別の部屋、畳の間、クローゼットや簡易的なキッチンまである。
どうやったらあの短時間でここまでの改装工事が出来たのか不思議になり、碧也は呆然とした。
しかも碧也の嗜好やら何もかもが網羅されている。小物一つに至るまで、全てが碧也の好みの色と形で整えられていた。
「好みか?」
「ああ。好き……だ」
モダンな和風テイスト。木や畳、配色は明るい茶を中心として、灰色と白と黒で纏められている。
風呂を出る時に着せられたガウンのまま歩いて一通り全ての部屋を見て回った。
「凄いな。まさかここまで変わると思ってなかった」
感嘆の吐息しか出てこない。
膝丈まである段差を上がって畳の間に上がる。匂いと感触を確かめるようにうつ伏せで転がってみた。畳独特の匂いが鼻腔から肺いっぱいに広がり、懐かしさが心地良くて目を瞑る。
「光栄です。碧也様」
イアンに深々と頭を下げられたまま言われた。〝様〟をつけられた事にギョッとしたものの、アスモデウスが嫁やら番呼ばわりするからだろうな、と一人納得して反論するのは控えた。
服は通常の私服と暗殺服まで揃えられていて、着替え終わると今度は食の間に通される。寝室との間に大広間を挟んだだけなので、離れてはいなかった。
寝室と同じようにしているのか、元々なのかは分からないが此処も照明が点っている。やたら高い天井は大広間と同じ作りになっていた。
ちょうど真ん中に長テーブルがあり、上座にアスモデウスと碧也の席があった。
背後にイアンを含めた三人の側近が待機し、両側に部下なのか数十人が立っている。
長くて広いテーブルにも拘らず、アスモデウスと碧也の二人しか着席していなかった。
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