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出会い
しおりを挟む——最悪だ。
今日ほどついていない日はない。
月見山空良《やまなしそら》はサブドロップしながらも、懸命に足を動かして横断歩道を走っていた。
灰色に覆われた空からは大粒の雨が降り注いでいる。
持ってきた傘が鞄に入っているけれど、取り出している余裕はなかった。己をサブドロップに陥らせた伊藤という会社の同僚に追われているからだ。
水を跳ね上げて走り続ける。黄昏時というのもあるが、建物や民家が地に影を落としていた。道ゆく人も急に降り出した雨で俯き加減なのもあり、更に陰鬱な印象を与えている。
近くで雷鳴が轟いた。
——早く家に帰りたい……。
雨も嫌だが、それよりも落雷が怖い。背後からニヤニヤしながら後を追ってきているあの男も不快で堪らない。体に鞭を打つようにひたすら足を動かし続けた。
水分を含んだスーツが、ただでさえも怠い体にまとわり付いていて重い。乱れ過ぎている呼吸を落ち着かせようと、深呼吸した時だった。
突然リーンという耳障りの良い鈴の音が響き渡り、足を止める。
時が止まったかのような静寂が訪れた。
直後、音響式だった信号機の音が突如懐かしいメロディー式へと変わる。
——え、何で……?
慌てて周りに視線を走らせた。
どれだけ目を凝らして周囲の人たちの反応を見ても、気がついているのは自分以外にはいなさそうだった。
——もしかして鈴の音もメロディーも僕にしか聞こえていない?
不可思議な現象に目を瞠る。
障害を抱える人向けに音響式へと変更された信号機の音が、前触れもなくメロディー式に変わるわけがない。しかも、こんな唐突に切り替わるのはどう考えてもおかしかった。
そう思いながらも、心のどこかで安心している自分がいて、笑みを浮かべる。
——良かった。
流れているメロディーは、幼いころに田舎に住んでいる祖母から教えて貰ったわらべ歌だった。
サブドロップ中にこの曲を口ずさむと何故か気分が良くなる。今は身に染み入るほどありがたかった。
とうとうバケツをひっくり返したような雨になった。
信号ももう少しで点滅するだろう。もつれそうになる足をまた動かして、空良はフラフラと前へと進んでいく。
今なら雨の音がかき消してくれそうだ。横断歩道のメロディーに合わせて口を開いた。
「と~りゃんせ……とうりゃんせ。こーこは……どーこの細道じゃ。天神様の細道じゃ……」
小さな声で音を紡ぐ。
鳩尾あたりが温かくなった気がして表情を緩めた。
「……こわいながらも、通りゃんせ……通りゃんせ」
フッと息を吐く。
案の定、呼吸が少し楽になり体の重さまでもが僅かに軽くなっている。その間に何とか横断歩道を渡り切った。赤に変わり、伊藤は足止めを喰らっていた。
安心感からか大きくふらついてしまい、通行人と肩がぶつかってしまう。
「大丈夫?」
「すみ、ませんでした。ありがとうございます」
声掛けと共にしっかりとした男らしい腕に支えられてしまい、ぼんやりとしている視界に相手を映す。
——なにこの人……。ものすごく綺麗だ。
不躾ながらも呆気に取られて見つめてしまった。
「黄昏時のこんな天候の日に、その歌を口ずんではいけないよ」
安定感のある落ち着いた声音は聞き惚れるくらいに綺麗な音だった。
中程で分けた長い白髪が地毛ならば、日本人じゃない。特に瞼から覗く瞳の色が印象的で、白群《びゃくぐん》と呼ばれる青緑に白を混ぜ合わせた綺麗な色合いをしていた。
静かな湖面に反射された月を掴もうとして、吸い込まれるような錯覚に陥る。その瞳に囚われて離して貰えない。視線を逸せなくなった。
形のいい切れ長の目を真っ白なまつ毛が覆い、瞬きをする度に微かに揺れて上下する。
烏帽子はかぶっていないものの、祈祷の際に神主が着る浄衣のような出で立ちをしていた。
こんなに雨に打たれているのに、一切濡れていないのも神秘的でそれにも目を奪われる。
地面から数センチ浮いているのを見る限り、恐らく人ではないのだろう。
そう思うのに、怖いという感情よりも先に、魅了されて心を奪われた。
それと同時に懐かしさで胸がいっぱいにもなり、泣きたくなる程に心臓を締め付けられてしまう。
——何、これ。何で僕……。
見入ったまま動けずにいると、男がまた柔らかい口調で言葉を発した。
「サブドロップしているね」
高すぎず低すぎもしない甘い声に、鼓膜を揺さぶられる。言葉も発せなくなって戸惑っていると、男はまた口を開いた。
「ケアをしよう。おいで」
誘引力に逆らえない。空良は足を動かして男に縋り付きかけたが、すんでのところで足を踏ん張った。
心臓がドクリと脈打つ。
——この人、ドムだ。
ドムはこの世で一番嫌いだ。
今サブドロップしているのも、伊藤の憂さ晴らしで立て続けにコマンドを発令されていたからだ。しかも現在進行形でまだ追われている。
今日はいつにも増して執拗で気持ちが悪い。もう捕まりたくなかった。
抗おうとする度にグレアと呼ばれるドム特有の圧を浴びせられ、社内ではフロアに座り込む姿を見せ物にされ続けた。
サブはグレアには逆らえない。地に足を縫い付けられた状態になり、体中も縄で縛られたようになる。要するにその場から動けなくなるのだ。
本来ならドムとサブの合意の元で行われるダイナミクスのプレイは一方的に行使されるものではない。それを合意もなく行使され、見せ物にされる。
他の社員は笑うか、関わらないように視線を逸らすか、そそくさと帰ってしまうかのどちらかで味方はいない。とても惨めで悔しかった。
——もう嫌だ、ドムになんて縋りつきたくない。
両手で自身の体をかき抱き、自分より頭ひとつ分以上背の高い男を睨みつける。
——人間でも人外でも、ドムはお断りだ。
ドムからの嫌がらせは入社してからずっと続いている。せめて外では無様な姿を晒したくない。
見惚れていたのも忘れたように、今度は敵意のこもった視線を浴びせた。
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