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箱入り娘
〈箱入り娘〉其の伍
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一通り事の有様について話し終えたとよ子は、ややあってから息を長く吐き出した。
纏めると父から譲り受けた化粧箱が、ただ開かずの箱であっただけ。それがある夜の日に開いてみせた、のだと。
この些細でしかない話を、当初とよ子は語る事すら躊躇ったのである。
しかし幸いにも語り手には訳がある様に、同時に聞き手にも訳があった。
この場でとよ子の話を聞いたのは、乙桐を含んだ連中で在り。彼等は良い意味でも悪い意味でも、この手の話に慣れていたのだ。
故に唯の世間話の一貫としての話だとは、この場の誰も思わなかったのである。
「それで化粧箱の中には何が入っていたんだい?」
泪にそう問われたとよ子は、右の手のみを使って形を作ってみせた。
「このくらいの⋯⋯鏡。手鏡が入っておりました」
「鏡、それは今持って来て居るのかい?お嬢ちゃん。在るならば見せて欲しいものなんだが」
「あ、いいえ。あの手鏡は今は蔵の中に仕舞い込んでおりまして」
乙桐は暫く考える様な素振りをしてから、眉間の皺をぎゅうっと深めた。
あれの仕業なのかそうじゃあ無いのか、それを判断出来る者はこの場に唯の一人だけは居たのだが、生憎とその唯の一人は興味が失せたかの様に船を漕ぎ始めている。
そもその唯の一人に聞いてみた所で、今は何の答えも返ってきやしないのだろう。
聞くには未だ、足りない物が多過ぎるのだ。あらましだけでどうこう出来たのならば、こうも苦労はしないのだ。
全く難儀な目を持ったものだ、乙桐はそんな事を思っていた。
「ねぇ、とよ子や。唯の手鏡を蔵に仕舞い込んだのかい?アタシは生憎と商人の娘では無いから分からないのだけれども、唯の手鏡一つすら、蔵に仕舞っちまうものなのかい?」
「それがあの手鏡は、"唯の"と申すにはあまりに似つかわしくない物でして」
「と言うと?」
とよ子は又暫く黙り込んで、無意識なのか左腕を擦り始めた。
視線を左下に動かして、それから聞いてきた泪ではなく、正面に居た乙桐の方へゆるゆると目を向ける。その様子を乙桐は、内心面白そうに見ていた。
「それと言うのもあの手鏡は、全く何も映さないので御座います」
「ほぉう、映さないねぇ?」
「手入れをしなかった訳では御座いません」
鏡はきちんと手入れをしてやらなければ、途端に曇って何も映さなくなる。
自分の不足が原因で、何も映さない訳では無いのだと。暗にそう伝えたいかの様に前置きをしたとよ子は、先に聞かされた彼女の母親同様に、気位の高さをもしかしたら受け継いでいるのかもしれなかった。
気が強い女は好きだ、少なくとも乙桐はそう思っている。
現にそれを証明するかの様に彼の周りの成熟した女達は、どいつもこいつも皆男になんぞしてやられるものかと、己の身一つでどうとでも出来るのだと。腕っ節と心の根の強さを兼ね備えた、一癖も二癖もある奴らばかりであった。
その中でも乙桐が一等美しいと思っていて、この先も彼女を越える者等現れやしないと、痛感している女が居る。
可笑しな話では有るのだが、彼女はいずれ舞い散る花よりも、下手をすれば何百年も立ち続ける大木の方がよく似合うと、そう思わせる女であった。
彼女は己の価値を十分に理解もしていて、そんじょそこいらの奴よりも一層頭がよく回るくせに、「自分は無知である」と宣っては、容易く手折られるか弱い花のフリをしていた。
その強かさを気に入って、自分の背中を預けるのならばこの女以外には有り得ないと迄思っていた。
けれどもそれは、もう随分と前になってしまうのだったが。
乙桐はふととよ子を見て、その女の事を思い浮かべていた。同時に過ぎったとある勘が杞憂如きであってしまえば、それはそれは大層面白くないとも思った。
「見た目はきちんと、らしくも輝いておりまして。けれどもどんなに磨いても、全く何も映さないのです」
「開かない化粧箱の次は、何も映さない手鏡かい。何だか頓智みたいだとは思わないかい?ねぇ先生先生、乙桐先生」
「嗚呼、確かに確かに。まぁ屏風の中の虎を捕まえろと言われちまった方が、まだその物の在り方としては常ではあるがな」
「そうさねぇ。開かない化粧箱も映さない手鏡も、どちらも求められた役割が無くなっちまっているよ」
泪がそう零せば、乙桐は僅かに目を開いた。その様相に、泪はと言えば何とも嫌そうな顔をする。
長年この男と関わって来たからこそ、泪は嫌になる程によく知っていた。
乙桐がこう言う表情をする時は、大概揶揄う餌を与えてしまった時なのだ。
「なんでぇ、泪。お前さん珍しく理解が早ぇじゃあねぇか?廓の学び事も案外馬鹿には出来ねぇなぁ」
「あーあーそんなこったろうと思ったよ!アンタにはこのアタシを馬鹿にする事しか憂さ晴らしが無いのかい?え?」
「本物の馬鹿を馬鹿にした所で面白くも糞もねぇだろう?」
「そう言えば許されるとでも思ってんなら、とんだお門違いさね!」
馬鹿だとは思っていないからこそ、馬鹿にする。
その意味に僅かには賞賛が混ざってはいるものの、もう少しはっきりと言ってしまえば「玩具にしている」だろう。
いっそ潔くそう言われた方がまだ納得出来るものなのだが、生憎とこの絵師の男はそこ迄優しくは無いのだ。
泪は溜め息を吐いた。それでもまだマシな方なのだ。
頭に浮かんだのは自分の姉女郎を身請けした、胡散臭い男の悪意混じりのニヤつき顔。一発とは言わずに、二発でも三発でもぶん殴ってもまだ気が休まらない。
「アイツよりはずぅっとマシだ」と泪は首を振った。
こっくりこっくり船を漕いでいた赤眼が、そこでようやっとパチリと目を覚ました。
未だ、やいのやいのやっている乙桐と泪が煩かったのか何なのか。ほんの少しも笑いやしないその口を開いて、多少呆れた様な声を出す。
「せんせ、かやっ子さ姉さま。まーだお客人さ置いてけぼりだで。なして口喧嘩さしてぇんだ?」
「アタシはしたくてしてるんじゃあ無いよ」
「んだで、なしてするさ?」
「それは⋯⋯」
ばつが悪い事を純粋に疑問に持たれて、それを己の口で説明しなきゃならないと来たら、どんなお喋りであろうとも一瞬は必ず口を閉じるもの。
泪は目をうろうろとさ迷わせて、乙桐は「こいつぁ流石の泪もお手上げだなぁ」と笑う。
「元はと言えばアンタのせいだよ」とでも言いたげにギロリと睨み付けてきた泪の視線を、乙桐は素知らぬ顔で受け流すもんだから、泪は益々腹が立ちはしたが、一呼吸置いて何とか留めたのだ。
「なぁ、とよっ子」
「はい?」
この赤い眼の童女は少々厄介で、本気で知りたい事がある場合、執拗い迄に「なして?なして?」と聞き続ける癖がある。
しかし泪に問いかけた事については差して分からなくても良かった様で、赤眼の「なして?」は二回投げられただけで終わった。
けれどもその代わりに他に聞きたい事があったらしく、標的を変えた童女はその不気味な迄に赤い瞳をとよ子へと向ける。
「ずーっと映さねぇのか?」
「手鏡が、でしょうか?」
「んだ」
「ええと⋯⋯嗚呼そう言えば!一度だけ、私が化粧箱を開けたあの晩に。私の姿をチラッとだけ、映した様な気がします。私の見間違いかもしれませんが⋯⋯」
「うづしたんさ、そん一回だけか?」
「えぇ、その一回きりだけです」
「へーぇ」
一瞬、ほんの一瞬だけ、赤眼の口角が上がった様な気がして、乙桐はやはり、それも愉快そうに眺めていた。
機が熟すのはまだまだ当分先だ。熟れてもいない青柿は時に毒と成り得てしまうから、事は急がず。急がば回れ。
問題はこの手元に転がり込んで来た柿の実が、渋柿なのかそうじゃあ無いか。まぁ仮に渋柿だったとしても、干して食ってしまえばいいだけの事だ。
とよ子の左腕に巻き付いた靄は、彼女が語る言葉に反応する様にうねうねと蠢く。時々締め付ける様な形を見せて、その度にとよ子は自分の左側を抑えていた。
「そう言えば⋯⋯嗚呼そうです、思い出しました。あの手鏡が私の姿を映したその日から、この左腕は指の先一つも動かなくなってしまったのです」
「嗚呼、やっぱり動かなかったのかい」
「やっぱり?」
「アンタ先からずぅっと、左腕を掴んだり擦ったりしているだろう?それなのにほら、右と比べてだらんとしちまっているし、何かを示す時も右しか使いやしないし」
思えばこの長屋に来る前から、とよ子の左腕は力無く垂れ下がっていた気がする。そして恐らくそれこそが、彼女をここ迄来させて且つ、話を語らせる迄に至った元凶であろう。
唯開かずの箱が開いただけで、道行く人には見えやしない黒い靄が巻き付いているだけで、この可愛がられた娘は知らぬ他人を頼り等しないだろう。
開かずの箱が開いて、映さない手鏡が己の姿を映して、その晩から自分の左腕に靄が巻き付いて、更には動かなくなってしまった。
成程確かにそれ等全てを聞いてしまえば、とよ子の言う通り「随分と奇っ怪な話」になるのだ。
「動かないばかりか夜になりますとギリギリと締め付けて、満足に眠る事すら適わなくなってしまいまして⋯⋯」
「嗚呼なんて可哀想に。医者には見せたのかい?」
「医者は匙を投げてしまわれました。「こればかりは何とも、まるで何かに取り憑かれた様である」と」
縋れるものには縋った上で、頼れるものには頼った上で。それでもどう仕様も無いと、つまりはお手上げになった。
傍から見れば突然腕が動かなくなって、けれどもとよ子の目には曰く、黒い靄は見えているらしい。
どうも説明等出来ないし、説明した所で伝わりやしないだろう。それこそあちら側を少しでも知っていなければ、土台無理な話である。
そんなとよ子をひょっこりと、泪は町で拾って来たのだ。
「やはり泪、お前さんは難儀な野郎だよ」
「いきなりなんだい?今そんな戯言ほざいてる暇じゃあないだろう?」
熟泪と言う名の人間は、厄介な物事に巻き込まれ易い。自分が同じ立場で居たのならば、とっくのとんまに放り投げているだろう。
けれども元来の性格故か、この女郎を謳う男は投げ出しやしないから。
だからこそ「難儀な野郎」なのだ。
「さてお嬢ちゃん、お前さんは何を見た?」
「何、とは?」
「いいや、いい。今は思い付かないのならば、それ迄だ」
「ねぇとよ子。腕が動かなくなったからと、アンタの抱える悩みは分かったけれどねぇ?それならばどうして又、この人の描いた絵をあんな目をしながら見詰めていたんだい?」
そう泪に問われたとよ子は、少し間を空けてから「何も」と答えた。
仮に奇妙な事柄で己の左腕が動かなくなってしまったとして、おどろおどろしい鬼の絵を、食い入る様に見詰める理由になるものなのか。
とよ子は言葉を続ける。
「時折どうしても、気に懸かって仕様のないものってあるでしょう?何の変哲もない唯の石が、どうしてか気になる事があるでしょう?それに近い様な⋯⋯訳を付けるとしたのならば、その様な事です」
「あい分かった、分かったよ」
「自分が奇っ怪な事を申している自覚は御座います。ですが乙桐先生は、私のこの左腕のモノに気が付きました。ですから私の気が狂ったとは思われないでしょう?何か手をお持ちならば、尚の事嬉しいのですが⋯⋯」
そうして又、畳の縁へ目を落としたとよ子は、ギリギリと左腕を握り締めた。
乙桐は溜め息を吐く。そうして状況は分かったと、一つ頷いた。
「「気付く」と「見る」では中々どうして、勝手が違ぇんだ。俺にもその妙なモノは見えてはいるし、ついでに言やぁこの泪にだって、目を凝らせば見える筈だ」
「ならばこれが何か分かりますか?」
「いいや。悪りぃが俺には"見る目"がねぇんだ。半端なモノは半端なモノとしてしか見えねぇ。お嬢ちゃんのそれは黒い靄として見えはするが、それならば何かと迄は、残念ながら見えねぇのさ」
とよ子は俯く、落胆した様だ。
医者すら匙を投げたこの腕について、全てを語り且つ同じく見えてもいると言うのに、要は「何かは分からない」と言われてしまえば意気消沈にもなる。
大切に大切に育てられて来たからこそ、親以外に頼る術を持たない娘。どう仕様も無いのだと、踏ん切りを付けるには難しい。
「半端なモノは、半端なモノにしか分からねぇ」
「そんな⋯⋯」
「だからこそ、だ。赤眼」
「なした?せんせ」
チラリと横を見れば、ぼけーっとした赤い色が乙桐を捉えた。
乙桐は又一つ息を吐く、今度は何かを定める様に。
「お前さんにアレはどう見える?」
「なーんにも。なんがそんな妙なんか、わしさにはちぃっともわがんねぇ」
「そうだろうな、お前さんにとってはそうだろうよ。だかな、赤眼。普通の娘さんには妙な事なんだ、大層奇妙で難儀な事なんだ。分かるかい?」
「あい、わーがった」
「ならばもう一度問おう、赤眼。お前さんにアレはどう見える?」
それはまるで、幼い子供に何かを言い聞かせる様なやり取りであった。事実赤眼は幼くはあるので、間違ってはいないのだが。
けれども幼い子供に聞くにしては、あまりにも奇妙な内容でもあった。
乙桐に"見る目"は無いので、半端なモノは半端なモノとして認識してしまう。それは泪も同じくだ。
けれども赤眼は違う。この童女には、境目が分からない。
人が当たり前に可笑しいと思う事柄を、可笑しいと認識する事が出来なかった。
目に映るもの全てが彼女の中では当たり前なので、だからこそ、乙桐や泪よりもずっと多くのものを見る事が出来た。
故に、誰かが聞いてやらねばならない。
或いは誰かが、答えてやらねばならない。
面倒だろうが一つ一つ、歪んだ視界を元の通りに正してやらねばならないのだ。
「お客人さ左腕、無数の糸さ巻き付いているよ。先はわがんね、外さ続いているからだ。せんせ、わしさこん糸見た事あんべ」
「ほぉう、それは一体全体何の糸なんだ?赤眼」
赤眼はそのまぁるい赤い二つの目を細めて、何でも無い事の様に口を開く。
「なんだったかぁ⋯⋯んだ、せんせわーがった。お客人さ左腕に、蜘蛛さ糸、絡み付いてんべ」
纏めると父から譲り受けた化粧箱が、ただ開かずの箱であっただけ。それがある夜の日に開いてみせた、のだと。
この些細でしかない話を、当初とよ子は語る事すら躊躇ったのである。
しかし幸いにも語り手には訳がある様に、同時に聞き手にも訳があった。
この場でとよ子の話を聞いたのは、乙桐を含んだ連中で在り。彼等は良い意味でも悪い意味でも、この手の話に慣れていたのだ。
故に唯の世間話の一貫としての話だとは、この場の誰も思わなかったのである。
「それで化粧箱の中には何が入っていたんだい?」
泪にそう問われたとよ子は、右の手のみを使って形を作ってみせた。
「このくらいの⋯⋯鏡。手鏡が入っておりました」
「鏡、それは今持って来て居るのかい?お嬢ちゃん。在るならば見せて欲しいものなんだが」
「あ、いいえ。あの手鏡は今は蔵の中に仕舞い込んでおりまして」
乙桐は暫く考える様な素振りをしてから、眉間の皺をぎゅうっと深めた。
あれの仕業なのかそうじゃあ無いのか、それを判断出来る者はこの場に唯の一人だけは居たのだが、生憎とその唯の一人は興味が失せたかの様に船を漕ぎ始めている。
そもその唯の一人に聞いてみた所で、今は何の答えも返ってきやしないのだろう。
聞くには未だ、足りない物が多過ぎるのだ。あらましだけでどうこう出来たのならば、こうも苦労はしないのだ。
全く難儀な目を持ったものだ、乙桐はそんな事を思っていた。
「ねぇ、とよ子や。唯の手鏡を蔵に仕舞い込んだのかい?アタシは生憎と商人の娘では無いから分からないのだけれども、唯の手鏡一つすら、蔵に仕舞っちまうものなのかい?」
「それがあの手鏡は、"唯の"と申すにはあまりに似つかわしくない物でして」
「と言うと?」
とよ子は又暫く黙り込んで、無意識なのか左腕を擦り始めた。
視線を左下に動かして、それから聞いてきた泪ではなく、正面に居た乙桐の方へゆるゆると目を向ける。その様子を乙桐は、内心面白そうに見ていた。
「それと言うのもあの手鏡は、全く何も映さないので御座います」
「ほぉう、映さないねぇ?」
「手入れをしなかった訳では御座いません」
鏡はきちんと手入れをしてやらなければ、途端に曇って何も映さなくなる。
自分の不足が原因で、何も映さない訳では無いのだと。暗にそう伝えたいかの様に前置きをしたとよ子は、先に聞かされた彼女の母親同様に、気位の高さをもしかしたら受け継いでいるのかもしれなかった。
気が強い女は好きだ、少なくとも乙桐はそう思っている。
現にそれを証明するかの様に彼の周りの成熟した女達は、どいつもこいつも皆男になんぞしてやられるものかと、己の身一つでどうとでも出来るのだと。腕っ節と心の根の強さを兼ね備えた、一癖も二癖もある奴らばかりであった。
その中でも乙桐が一等美しいと思っていて、この先も彼女を越える者等現れやしないと、痛感している女が居る。
可笑しな話では有るのだが、彼女はいずれ舞い散る花よりも、下手をすれば何百年も立ち続ける大木の方がよく似合うと、そう思わせる女であった。
彼女は己の価値を十分に理解もしていて、そんじょそこいらの奴よりも一層頭がよく回るくせに、「自分は無知である」と宣っては、容易く手折られるか弱い花のフリをしていた。
その強かさを気に入って、自分の背中を預けるのならばこの女以外には有り得ないと迄思っていた。
けれどもそれは、もう随分と前になってしまうのだったが。
乙桐はふととよ子を見て、その女の事を思い浮かべていた。同時に過ぎったとある勘が杞憂如きであってしまえば、それはそれは大層面白くないとも思った。
「見た目はきちんと、らしくも輝いておりまして。けれどもどんなに磨いても、全く何も映さないのです」
「開かない化粧箱の次は、何も映さない手鏡かい。何だか頓智みたいだとは思わないかい?ねぇ先生先生、乙桐先生」
「嗚呼、確かに確かに。まぁ屏風の中の虎を捕まえろと言われちまった方が、まだその物の在り方としては常ではあるがな」
「そうさねぇ。開かない化粧箱も映さない手鏡も、どちらも求められた役割が無くなっちまっているよ」
泪がそう零せば、乙桐は僅かに目を開いた。その様相に、泪はと言えば何とも嫌そうな顔をする。
長年この男と関わって来たからこそ、泪は嫌になる程によく知っていた。
乙桐がこう言う表情をする時は、大概揶揄う餌を与えてしまった時なのだ。
「なんでぇ、泪。お前さん珍しく理解が早ぇじゃあねぇか?廓の学び事も案外馬鹿には出来ねぇなぁ」
「あーあーそんなこったろうと思ったよ!アンタにはこのアタシを馬鹿にする事しか憂さ晴らしが無いのかい?え?」
「本物の馬鹿を馬鹿にした所で面白くも糞もねぇだろう?」
「そう言えば許されるとでも思ってんなら、とんだお門違いさね!」
馬鹿だとは思っていないからこそ、馬鹿にする。
その意味に僅かには賞賛が混ざってはいるものの、もう少しはっきりと言ってしまえば「玩具にしている」だろう。
いっそ潔くそう言われた方がまだ納得出来るものなのだが、生憎とこの絵師の男はそこ迄優しくは無いのだ。
泪は溜め息を吐いた。それでもまだマシな方なのだ。
頭に浮かんだのは自分の姉女郎を身請けした、胡散臭い男の悪意混じりのニヤつき顔。一発とは言わずに、二発でも三発でもぶん殴ってもまだ気が休まらない。
「アイツよりはずぅっとマシだ」と泪は首を振った。
こっくりこっくり船を漕いでいた赤眼が、そこでようやっとパチリと目を覚ました。
未だ、やいのやいのやっている乙桐と泪が煩かったのか何なのか。ほんの少しも笑いやしないその口を開いて、多少呆れた様な声を出す。
「せんせ、かやっ子さ姉さま。まーだお客人さ置いてけぼりだで。なして口喧嘩さしてぇんだ?」
「アタシはしたくてしてるんじゃあ無いよ」
「んだで、なしてするさ?」
「それは⋯⋯」
ばつが悪い事を純粋に疑問に持たれて、それを己の口で説明しなきゃならないと来たら、どんなお喋りであろうとも一瞬は必ず口を閉じるもの。
泪は目をうろうろとさ迷わせて、乙桐は「こいつぁ流石の泪もお手上げだなぁ」と笑う。
「元はと言えばアンタのせいだよ」とでも言いたげにギロリと睨み付けてきた泪の視線を、乙桐は素知らぬ顔で受け流すもんだから、泪は益々腹が立ちはしたが、一呼吸置いて何とか留めたのだ。
「なぁ、とよっ子」
「はい?」
この赤い眼の童女は少々厄介で、本気で知りたい事がある場合、執拗い迄に「なして?なして?」と聞き続ける癖がある。
しかし泪に問いかけた事については差して分からなくても良かった様で、赤眼の「なして?」は二回投げられただけで終わった。
けれどもその代わりに他に聞きたい事があったらしく、標的を変えた童女はその不気味な迄に赤い瞳をとよ子へと向ける。
「ずーっと映さねぇのか?」
「手鏡が、でしょうか?」
「んだ」
「ええと⋯⋯嗚呼そう言えば!一度だけ、私が化粧箱を開けたあの晩に。私の姿をチラッとだけ、映した様な気がします。私の見間違いかもしれませんが⋯⋯」
「うづしたんさ、そん一回だけか?」
「えぇ、その一回きりだけです」
「へーぇ」
一瞬、ほんの一瞬だけ、赤眼の口角が上がった様な気がして、乙桐はやはり、それも愉快そうに眺めていた。
機が熟すのはまだまだ当分先だ。熟れてもいない青柿は時に毒と成り得てしまうから、事は急がず。急がば回れ。
問題はこの手元に転がり込んで来た柿の実が、渋柿なのかそうじゃあ無いか。まぁ仮に渋柿だったとしても、干して食ってしまえばいいだけの事だ。
とよ子の左腕に巻き付いた靄は、彼女が語る言葉に反応する様にうねうねと蠢く。時々締め付ける様な形を見せて、その度にとよ子は自分の左側を抑えていた。
「そう言えば⋯⋯嗚呼そうです、思い出しました。あの手鏡が私の姿を映したその日から、この左腕は指の先一つも動かなくなってしまったのです」
「嗚呼、やっぱり動かなかったのかい」
「やっぱり?」
「アンタ先からずぅっと、左腕を掴んだり擦ったりしているだろう?それなのにほら、右と比べてだらんとしちまっているし、何かを示す時も右しか使いやしないし」
思えばこの長屋に来る前から、とよ子の左腕は力無く垂れ下がっていた気がする。そして恐らくそれこそが、彼女をここ迄来させて且つ、話を語らせる迄に至った元凶であろう。
唯開かずの箱が開いただけで、道行く人には見えやしない黒い靄が巻き付いているだけで、この可愛がられた娘は知らぬ他人を頼り等しないだろう。
開かずの箱が開いて、映さない手鏡が己の姿を映して、その晩から自分の左腕に靄が巻き付いて、更には動かなくなってしまった。
成程確かにそれ等全てを聞いてしまえば、とよ子の言う通り「随分と奇っ怪な話」になるのだ。
「動かないばかりか夜になりますとギリギリと締め付けて、満足に眠る事すら適わなくなってしまいまして⋯⋯」
「嗚呼なんて可哀想に。医者には見せたのかい?」
「医者は匙を投げてしまわれました。「こればかりは何とも、まるで何かに取り憑かれた様である」と」
縋れるものには縋った上で、頼れるものには頼った上で。それでもどう仕様も無いと、つまりはお手上げになった。
傍から見れば突然腕が動かなくなって、けれどもとよ子の目には曰く、黒い靄は見えているらしい。
どうも説明等出来ないし、説明した所で伝わりやしないだろう。それこそあちら側を少しでも知っていなければ、土台無理な話である。
そんなとよ子をひょっこりと、泪は町で拾って来たのだ。
「やはり泪、お前さんは難儀な野郎だよ」
「いきなりなんだい?今そんな戯言ほざいてる暇じゃあないだろう?」
熟泪と言う名の人間は、厄介な物事に巻き込まれ易い。自分が同じ立場で居たのならば、とっくのとんまに放り投げているだろう。
けれども元来の性格故か、この女郎を謳う男は投げ出しやしないから。
だからこそ「難儀な野郎」なのだ。
「さてお嬢ちゃん、お前さんは何を見た?」
「何、とは?」
「いいや、いい。今は思い付かないのならば、それ迄だ」
「ねぇとよ子。腕が動かなくなったからと、アンタの抱える悩みは分かったけれどねぇ?それならばどうして又、この人の描いた絵をあんな目をしながら見詰めていたんだい?」
そう泪に問われたとよ子は、少し間を空けてから「何も」と答えた。
仮に奇妙な事柄で己の左腕が動かなくなってしまったとして、おどろおどろしい鬼の絵を、食い入る様に見詰める理由になるものなのか。
とよ子は言葉を続ける。
「時折どうしても、気に懸かって仕様のないものってあるでしょう?何の変哲もない唯の石が、どうしてか気になる事があるでしょう?それに近い様な⋯⋯訳を付けるとしたのならば、その様な事です」
「あい分かった、分かったよ」
「自分が奇っ怪な事を申している自覚は御座います。ですが乙桐先生は、私のこの左腕のモノに気が付きました。ですから私の気が狂ったとは思われないでしょう?何か手をお持ちならば、尚の事嬉しいのですが⋯⋯」
そうして又、畳の縁へ目を落としたとよ子は、ギリギリと左腕を握り締めた。
乙桐は溜め息を吐く。そうして状況は分かったと、一つ頷いた。
「「気付く」と「見る」では中々どうして、勝手が違ぇんだ。俺にもその妙なモノは見えてはいるし、ついでに言やぁこの泪にだって、目を凝らせば見える筈だ」
「ならばこれが何か分かりますか?」
「いいや。悪りぃが俺には"見る目"がねぇんだ。半端なモノは半端なモノとしてしか見えねぇ。お嬢ちゃんのそれは黒い靄として見えはするが、それならば何かと迄は、残念ながら見えねぇのさ」
とよ子は俯く、落胆した様だ。
医者すら匙を投げたこの腕について、全てを語り且つ同じく見えてもいると言うのに、要は「何かは分からない」と言われてしまえば意気消沈にもなる。
大切に大切に育てられて来たからこそ、親以外に頼る術を持たない娘。どう仕様も無いのだと、踏ん切りを付けるには難しい。
「半端なモノは、半端なモノにしか分からねぇ」
「そんな⋯⋯」
「だからこそ、だ。赤眼」
「なした?せんせ」
チラリと横を見れば、ぼけーっとした赤い色が乙桐を捉えた。
乙桐は又一つ息を吐く、今度は何かを定める様に。
「お前さんにアレはどう見える?」
「なーんにも。なんがそんな妙なんか、わしさにはちぃっともわがんねぇ」
「そうだろうな、お前さんにとってはそうだろうよ。だかな、赤眼。普通の娘さんには妙な事なんだ、大層奇妙で難儀な事なんだ。分かるかい?」
「あい、わーがった」
「ならばもう一度問おう、赤眼。お前さんにアレはどう見える?」
それはまるで、幼い子供に何かを言い聞かせる様なやり取りであった。事実赤眼は幼くはあるので、間違ってはいないのだが。
けれども幼い子供に聞くにしては、あまりにも奇妙な内容でもあった。
乙桐に"見る目"は無いので、半端なモノは半端なモノとして認識してしまう。それは泪も同じくだ。
けれども赤眼は違う。この童女には、境目が分からない。
人が当たり前に可笑しいと思う事柄を、可笑しいと認識する事が出来なかった。
目に映るもの全てが彼女の中では当たり前なので、だからこそ、乙桐や泪よりもずっと多くのものを見る事が出来た。
故に、誰かが聞いてやらねばならない。
或いは誰かが、答えてやらねばならない。
面倒だろうが一つ一つ、歪んだ視界を元の通りに正してやらねばならないのだ。
「お客人さ左腕、無数の糸さ巻き付いているよ。先はわがんね、外さ続いているからだ。せんせ、わしさこん糸見た事あんべ」
「ほぉう、それは一体全体何の糸なんだ?赤眼」
赤眼はそのまぁるい赤い二つの目を細めて、何でも無い事の様に口を開く。
「なんだったかぁ⋯⋯んだ、せんせわーがった。お客人さ左腕に、蜘蛛さ糸、絡み付いてんべ」
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