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不気味な程に月が目立つ夜だった。
何処か遠くで、何かが燃える音がする。
大きくも小さくも無い木の前で座り込んだ娘の目には、一切の光が消え失せてしまっていた。
ブツブツ細かく動く口元は、同じ単語ばかりを吐き続けている。
「鬼だ」
哀しいと思える余裕すら奪われてしまったのに、残った恐怖心だけが娘の頬を濡らすのを止めない。
「鬼·····鬼だ·····鬼が来た」
否、もしかしたら自分はとっくに怖いとも思っていないのかもしれない。
けれどもそれがさも義務で有るかの様に、身体だけが泣いているのだ。
「おい、お嬢ちゃん」
暫く前から、娘の真正面に立っていた男が無表情のまま口を開いた。
「お嬢ちゃん」
「鬼だ·····鬼なんだ·····あんれは鬼だ」
耳は聞こえていた、口も使えた。目も見えているし、けれども鼻は麻痺していた。動かせていた筈の四肢が思う様に機能しない。
まるでもう、この身体の所有権を放棄してしまったかの様に。
「この村は、お嬢ちゃんがこうしたのか?」
数回呼んでも碌な返しを受け取れなかった男が、痺れを切らして次の言葉を吐いた。
娘は相変わらず、呆然と同じ事を呟くばかり。
「鬼だ·····鬼なんだ·····鬼なんだ·····鬼なんだ」
「お嬢ちゃん」
「父ちゃも母ちゃも殺された·····村に鬼さが来た、鬼が·····」
「なぁ、お嬢ちゃん」
「村ん人さおがじくなった·····。あん白髪さ鬼子が来てかんだ。村ん人さ、突然オラを化け物さ呼んだ。父ちゃも母ちゃも·····オラさ庇って死んだ·····死んじまったさ」
思い出せるのは、あまりにも凄惨な光景。
逃げ惑う村人、見知った誰かだった死体。
住み慣れた家が燃えているのに、どうにかする事も出来なかった。
息が苦しかった。そこら中から聞こえる叫び声に、耳を塞ぎたくて堪らなかった。
後ろから隠す気も無く近付いて来た足音の主。
鳥肌がぶわっと立って、そう思ったその次の瞬間には、ただただ痛くて痛くて仕様が無かった。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。
けれども何が怖かったのか、今はもうてんで何も分かりやしない。
あれだけ悶絶した筈なのに、不思議な程に痛みも何も感じないのだ。
「正気を失っているのか、それともはたまた"もう手遅れ"なのか。この濃い瘴気の中じゃあ、当てられちまうのも無理はない」
「鬼だ·····鬼だ·····」
「けれどな、お嬢ちゃん。俺の話が少しでもその耳に届いているのならば、よぉく聞け」
「鬼だ鬼だ鬼だ」
「例え心を砕かれていようが、お前さんはまだ本当の意味で死んじゃあいねぇんだろう?」
「·····」
その時初めて、何を言っても何を問いかけても、同じ言葉ばかりを狂った様に呟いていた娘の口が止まった。
ゆっくりとしゃがみ込んだ男は、娘のその様子を何やら満足そうな面持ちで見る。
相変わらず俯いた儘の頭。
けれども、
「今ここで選べ。このまま朽ちるのか、それとも這いつくばってでも生きるのか」
「·····」
「なぁお前さん本当は、まだ僅かばかりの色を見ているんだろう?俺ぁ絵師だ、誤魔化せやしない」
伏していた頭を上げた娘は、その儘真正面にある顔を見た。
思いの外、近くに居た男と目が合う。
声の感じから大分歳が行っている様に思えたが、こうしてきちんと見てみれば、まだそれ程年寄りとは言い難い。
何やら優しい目で頷かれて、どう仕様も無く苛立つこの感情は、恐らく人としては間違っているのだろう。
「今は未だ、お前さんはそれでいい。それでいいんだ」
ほんの少しばかり前に全てを失って、これよりも後を諦めたばかりだった。
男が向ける感情の中に恐らく同情心なんて物は存在していなかったし、仮にそんな上辺が混ざり込んでいたとして、娘はきっと俯いた儘朽ちる事しか見なかった筈だ。
その程度には些細でどうでも良い事柄で、同時に通り掛かっただけの偶然が、今後を左右してしまう程に壮大過ぎて込み上げて来た物が吐き気に変わる。
娘はじぃっと見る、ただひたすらに。
男の目だけを凝視する。
思った事を言葉にする程度は難しい事では無いけれど、それを決意するのと受け入れるのとはまた別の種の物なのだ。
娘は分かっていた。
どれだけ苦しみ喘いだところで、変わらないのは人も人では無くとも同じ事だと。
どうせ変わらないのならば、どう成ろうが知ったこっちゃあない話として選んでしまっても、罰なんか当たる筈も無い。
そもそも罰を与える神様が、わざわざ自分を見ているとも思えなかった。
男は何回目かの口を開く。
まるで、答えを初めから知っていたとでも言う様に。
そのくせ聞いて来るあたり、さも選ばせ様とするあたり、性根が曲がり切っていると宣ってみては、それは己もだろうと口を挟んでみたくなる。
「さあ、どちらがいい?選べ」
「··········"わし"は、」
その夜、何食わぬ顔をして空に浮かんでいた月が真っ赤に染まった、それだけの事だった。
それだけの事がどう仕様もなく、誰かにとっては難儀な有様で仕様がなかったのだとしても··········。
〓
もしも私が願いを欲していいのなら
私はこの生命を最低な色で塗り潰して
ぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい
そうして初めて見る景色は
今よりずっと綺麗だと思うから
嫌いなものを好きで居るフリをしているから
私は違う事が妬ましい
あなたが大っ嫌いなのだ
いっそ、死んでしまえと願う程には
何処か遠くで、何かが燃える音がする。
大きくも小さくも無い木の前で座り込んだ娘の目には、一切の光が消え失せてしまっていた。
ブツブツ細かく動く口元は、同じ単語ばかりを吐き続けている。
「鬼だ」
哀しいと思える余裕すら奪われてしまったのに、残った恐怖心だけが娘の頬を濡らすのを止めない。
「鬼·····鬼だ·····鬼が来た」
否、もしかしたら自分はとっくに怖いとも思っていないのかもしれない。
けれどもそれがさも義務で有るかの様に、身体だけが泣いているのだ。
「おい、お嬢ちゃん」
暫く前から、娘の真正面に立っていた男が無表情のまま口を開いた。
「お嬢ちゃん」
「鬼だ·····鬼なんだ·····あんれは鬼だ」
耳は聞こえていた、口も使えた。目も見えているし、けれども鼻は麻痺していた。動かせていた筈の四肢が思う様に機能しない。
まるでもう、この身体の所有権を放棄してしまったかの様に。
「この村は、お嬢ちゃんがこうしたのか?」
数回呼んでも碌な返しを受け取れなかった男が、痺れを切らして次の言葉を吐いた。
娘は相変わらず、呆然と同じ事を呟くばかり。
「鬼だ·····鬼なんだ·····鬼なんだ·····鬼なんだ」
「お嬢ちゃん」
「父ちゃも母ちゃも殺された·····村に鬼さが来た、鬼が·····」
「なぁ、お嬢ちゃん」
「村ん人さおがじくなった·····。あん白髪さ鬼子が来てかんだ。村ん人さ、突然オラを化け物さ呼んだ。父ちゃも母ちゃも·····オラさ庇って死んだ·····死んじまったさ」
思い出せるのは、あまりにも凄惨な光景。
逃げ惑う村人、見知った誰かだった死体。
住み慣れた家が燃えているのに、どうにかする事も出来なかった。
息が苦しかった。そこら中から聞こえる叫び声に、耳を塞ぎたくて堪らなかった。
後ろから隠す気も無く近付いて来た足音の主。
鳥肌がぶわっと立って、そう思ったその次の瞬間には、ただただ痛くて痛くて仕様が無かった。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。
けれども何が怖かったのか、今はもうてんで何も分かりやしない。
あれだけ悶絶した筈なのに、不思議な程に痛みも何も感じないのだ。
「正気を失っているのか、それともはたまた"もう手遅れ"なのか。この濃い瘴気の中じゃあ、当てられちまうのも無理はない」
「鬼だ·····鬼だ·····」
「けれどな、お嬢ちゃん。俺の話が少しでもその耳に届いているのならば、よぉく聞け」
「鬼だ鬼だ鬼だ」
「例え心を砕かれていようが、お前さんはまだ本当の意味で死んじゃあいねぇんだろう?」
「·····」
その時初めて、何を言っても何を問いかけても、同じ言葉ばかりを狂った様に呟いていた娘の口が止まった。
ゆっくりとしゃがみ込んだ男は、娘のその様子を何やら満足そうな面持ちで見る。
相変わらず俯いた儘の頭。
けれども、
「今ここで選べ。このまま朽ちるのか、それとも這いつくばってでも生きるのか」
「·····」
「なぁお前さん本当は、まだ僅かばかりの色を見ているんだろう?俺ぁ絵師だ、誤魔化せやしない」
伏していた頭を上げた娘は、その儘真正面にある顔を見た。
思いの外、近くに居た男と目が合う。
声の感じから大分歳が行っている様に思えたが、こうしてきちんと見てみれば、まだそれ程年寄りとは言い難い。
何やら優しい目で頷かれて、どう仕様も無く苛立つこの感情は、恐らく人としては間違っているのだろう。
「今は未だ、お前さんはそれでいい。それでいいんだ」
ほんの少しばかり前に全てを失って、これよりも後を諦めたばかりだった。
男が向ける感情の中に恐らく同情心なんて物は存在していなかったし、仮にそんな上辺が混ざり込んでいたとして、娘はきっと俯いた儘朽ちる事しか見なかった筈だ。
その程度には些細でどうでも良い事柄で、同時に通り掛かっただけの偶然が、今後を左右してしまう程に壮大過ぎて込み上げて来た物が吐き気に変わる。
娘はじぃっと見る、ただひたすらに。
男の目だけを凝視する。
思った事を言葉にする程度は難しい事では無いけれど、それを決意するのと受け入れるのとはまた別の種の物なのだ。
娘は分かっていた。
どれだけ苦しみ喘いだところで、変わらないのは人も人では無くとも同じ事だと。
どうせ変わらないのならば、どう成ろうが知ったこっちゃあない話として選んでしまっても、罰なんか当たる筈も無い。
そもそも罰を与える神様が、わざわざ自分を見ているとも思えなかった。
男は何回目かの口を開く。
まるで、答えを初めから知っていたとでも言う様に。
そのくせ聞いて来るあたり、さも選ばせ様とするあたり、性根が曲がり切っていると宣ってみては、それは己もだろうと口を挟んでみたくなる。
「さあ、どちらがいい?選べ」
「··········"わし"は、」
その夜、何食わぬ顔をして空に浮かんでいた月が真っ赤に染まった、それだけの事だった。
それだけの事がどう仕様もなく、誰かにとっては難儀な有様で仕様がなかったのだとしても··········。
〓
もしも私が願いを欲していいのなら
私はこの生命を最低な色で塗り潰して
ぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい
そうして初めて見る景色は
今よりずっと綺麗だと思うから
嫌いなものを好きで居るフリをしているから
私は違う事が妬ましい
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いっそ、死んでしまえと願う程には
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