19 / 27
第十九話 確信
しおりを挟む
その夜、王允は閨に貂蝉を呼び出した。
しばらく遠ざけていたが、もう一度くらいはよいだろう。
最後にまたその体を堪能し、施しをくれてやろう。
一方の貂蝉は久しぶりの閨への呼び足しに、特段変わった素振りも見せない。
縁談を持ち込まれた妓女をその日に抱く胸中とはどのようなものか。
悋気、束縛、憤懣、あるいは何も意に介していないのか。
そんな事を考えながらも貂蝉はいつものように受け入れる。
だがこの日は王允がいつもと違った。
「貂蝉、呂布の元に嫁ぎたいのか」
貂蝉は驚いた。
王允が自分の意を問うなど初めての事だ。
素直に嬉しかった。
今まで己の願望や意見を主張する一方で、人を顧みることのなかった王允が初めて自分を顧みた。
王允にどのような心境の変化が起きたのか。
この変化はやがて渇望していた心の潤いをもたらしてくれるかもしれない。
淡い希望が芽生える。
だが貂蝉は返す言葉に窮した。
王允の表情から、その問いの意図は読み取れない。
「どうなんだ」
王允が再度問う。
頭では王允の元にいたいと願っている。
とは言え、今日呂布に縁談を申し込んだと言われた時の胸の高鳴りもまた否定できない。
しかし貂蝉は胸中、自分に言い聞かせる。
呂布にも言った筈ではないか。
例えそれ呪われた血の束縛であろうとも、望みはただ一つ。
そして今まで聞けなかった問いも、今なら色よい返事が聞けるかもしれない。
「私は王司徒の元にあり続けたいと思っております。
できるならば妓女としてではなく……」
貂蝉は吐息混じりに一度言葉を区切った。
そして意を決したように尋ねる。
「王司徒は……
私を妻にしてはいただけないのですか」
すると胸を弄ぶ王允の手が止まった。
ゆっくりと身を起こし、貂蝉に背を向けて袍の襟を正す。
「何を勘違いしておる」
静かな物言いだが、そこには明確な不快感と怒気が込められていた。
「儂の妓女であるだけでも有り難いと思うべきであるのに、その上妻にしろなどとは思い上がりも甚だしい。
あの呂布と関係があったという事はお前も塞外の田舎娘風情であろう。
大方司徒の財を狙っているのであろうが、片腹痛い」
徐々に強くなっていく語気に、貂蝉は慌てて寝台の上で正座して深く頭を下げる。
「申し訳ありません。
分をわきまえぬ事を申しました。
財を狙うなどとんでもございません。
お慕いする王司徒の元にいる事のみが私の望みでございます。
どうか今後もお側に置いてくださいませ。
王司徒の為、なお一層お尽くし致します」
王允は貂蝉に背を向けたまま口端を歪ませた。
「儂の為に尽くすか」
王允は振り返ると貂蝉は頭を下げたまま微かに身を震わせ、許しを乞い続ける。
「ならば儂の為に余所に嫁げと言われたらどうするつもりだ」
王允の言葉に貂蝉の言葉が一瞬途切れた。
「ご、ご容赦くださいませ……
妓女のままで結構でございます。
このまま王司徒の元に置かせてくださいませ」
まるで飢えて餌をねだる仔犬のように弱々しく、涙声で必死に懇願する。
その様子は呂布の元ならまだしも、仮に徐栄や他の者の元へ送り出したら自ら死を願うのではないかと思わせる。
この女はそこまでに儂に依存しておったか。
王允は満足そうに笑みを浮かべ、顎髭を指で摩る。
だがしばらく優越感に浸っていた王允の表情が凍りついた。
一瞬だが貂蝉の頭部に狐の耳、臀部から尾が見えた気がしたのだ。
気のせいだろうか。
いくら目を凝らしても、もう狐の耳も尾も見ることはできない。
「もうよい」
絞り出された王允の声に、貂蝉は懇願の声を止めた。
恐る恐る頭を上げると寝台から降り立った王允が険しい表情で見下ろしている。
「其方の心持ちはわかった。
今夜はもう下がるがよい」
しかし貂蝉はこの言葉を自身の懇願の受け入れとは取らなかった。
王允へすり寄り裳を掴む。
「お許しください。
私をお見捨てになさらないでください」
房事の取り止めを自身の拒絶と捉えた。
足元へ縋り、裳を掴み、太股を撫で、臀部へと手を這わす。
「やめんか」
そう言って王允は貂蝉を押さえつけて自身から離そうとするが、貂蝉はその細腕からは信じられぬ力でしがみついて離れない。
王允の背筋に冷たいものが走る。
今更ながら寝所に呼んだ事を激しく後悔した。
「放しませぬ。
私は王司徒のお側にありたいのです」
繰り返し懇願する貂蝉の目を見て王允は戦慄した。
さっき見た気がした耳や尾のような勘違いなどではない。
狂気を帯びた目に納まる、細く縦に伸びた瞳孔。
この目は人の持つものではない。
李傕や楊奉から聞いた話が脳裏にまざまざと蘇る。
やはりこの女は妖狐なのだ。
糧として我が精を吸いとらんとしている。
しかし王允が拒めば拒むほど貂蝉はすがりつき、貂蝉がすがればすがるほど王允はそれを拒む。
「儂の命が聞けぬか。
今夜はもう下がれと申しているのだ」
王允は声を荒げ、平手で貂蝉の頬を打った。
叱責と平手で正気を取り戻したのか、貂蝉は呆然と寝台の上で座り込み、その瞳孔が広がっていく。
「もう一度命ずる。
今夜はもう下がれ」
静かな宣告に貂蝉は身を正して床に降り、深々と頭を下げる。
「見苦しく取り乱して大変申し訳ありません。
王司徒の命に背き、お心を害するつもりはございません」
貂蝉の落ち着いた様子を見て王允は大きく安堵の息を吐く。
「もうよい。
下がって其方も休め」
王允は部屋を後にする貂蝉の背を眉間に深い皺を刻んで睨む。
貂蝉の足音が聞こえなくなると全身の力が抜け、倒れるように寝台に仰向けになった。
「我が元に内患、既にあり……!」
激しい鼓動を押さえるように手を胸に当て、苦々しげに天井を睨みながら吐き捨てるように呟いた。
しばらく遠ざけていたが、もう一度くらいはよいだろう。
最後にまたその体を堪能し、施しをくれてやろう。
一方の貂蝉は久しぶりの閨への呼び足しに、特段変わった素振りも見せない。
縁談を持ち込まれた妓女をその日に抱く胸中とはどのようなものか。
悋気、束縛、憤懣、あるいは何も意に介していないのか。
そんな事を考えながらも貂蝉はいつものように受け入れる。
だがこの日は王允がいつもと違った。
「貂蝉、呂布の元に嫁ぎたいのか」
貂蝉は驚いた。
王允が自分の意を問うなど初めての事だ。
素直に嬉しかった。
今まで己の願望や意見を主張する一方で、人を顧みることのなかった王允が初めて自分を顧みた。
王允にどのような心境の変化が起きたのか。
この変化はやがて渇望していた心の潤いをもたらしてくれるかもしれない。
淡い希望が芽生える。
だが貂蝉は返す言葉に窮した。
王允の表情から、その問いの意図は読み取れない。
「どうなんだ」
王允が再度問う。
頭では王允の元にいたいと願っている。
とは言え、今日呂布に縁談を申し込んだと言われた時の胸の高鳴りもまた否定できない。
しかし貂蝉は胸中、自分に言い聞かせる。
呂布にも言った筈ではないか。
例えそれ呪われた血の束縛であろうとも、望みはただ一つ。
そして今まで聞けなかった問いも、今なら色よい返事が聞けるかもしれない。
「私は王司徒の元にあり続けたいと思っております。
できるならば妓女としてではなく……」
貂蝉は吐息混じりに一度言葉を区切った。
そして意を決したように尋ねる。
「王司徒は……
私を妻にしてはいただけないのですか」
すると胸を弄ぶ王允の手が止まった。
ゆっくりと身を起こし、貂蝉に背を向けて袍の襟を正す。
「何を勘違いしておる」
静かな物言いだが、そこには明確な不快感と怒気が込められていた。
「儂の妓女であるだけでも有り難いと思うべきであるのに、その上妻にしろなどとは思い上がりも甚だしい。
あの呂布と関係があったという事はお前も塞外の田舎娘風情であろう。
大方司徒の財を狙っているのであろうが、片腹痛い」
徐々に強くなっていく語気に、貂蝉は慌てて寝台の上で正座して深く頭を下げる。
「申し訳ありません。
分をわきまえぬ事を申しました。
財を狙うなどとんでもございません。
お慕いする王司徒の元にいる事のみが私の望みでございます。
どうか今後もお側に置いてくださいませ。
王司徒の為、なお一層お尽くし致します」
王允は貂蝉に背を向けたまま口端を歪ませた。
「儂の為に尽くすか」
王允は振り返ると貂蝉は頭を下げたまま微かに身を震わせ、許しを乞い続ける。
「ならば儂の為に余所に嫁げと言われたらどうするつもりだ」
王允の言葉に貂蝉の言葉が一瞬途切れた。
「ご、ご容赦くださいませ……
妓女のままで結構でございます。
このまま王司徒の元に置かせてくださいませ」
まるで飢えて餌をねだる仔犬のように弱々しく、涙声で必死に懇願する。
その様子は呂布の元ならまだしも、仮に徐栄や他の者の元へ送り出したら自ら死を願うのではないかと思わせる。
この女はそこまでに儂に依存しておったか。
王允は満足そうに笑みを浮かべ、顎髭を指で摩る。
だがしばらく優越感に浸っていた王允の表情が凍りついた。
一瞬だが貂蝉の頭部に狐の耳、臀部から尾が見えた気がしたのだ。
気のせいだろうか。
いくら目を凝らしても、もう狐の耳も尾も見ることはできない。
「もうよい」
絞り出された王允の声に、貂蝉は懇願の声を止めた。
恐る恐る頭を上げると寝台から降り立った王允が険しい表情で見下ろしている。
「其方の心持ちはわかった。
今夜はもう下がるがよい」
しかし貂蝉はこの言葉を自身の懇願の受け入れとは取らなかった。
王允へすり寄り裳を掴む。
「お許しください。
私をお見捨てになさらないでください」
房事の取り止めを自身の拒絶と捉えた。
足元へ縋り、裳を掴み、太股を撫で、臀部へと手を這わす。
「やめんか」
そう言って王允は貂蝉を押さえつけて自身から離そうとするが、貂蝉はその細腕からは信じられぬ力でしがみついて離れない。
王允の背筋に冷たいものが走る。
今更ながら寝所に呼んだ事を激しく後悔した。
「放しませぬ。
私は王司徒のお側にありたいのです」
繰り返し懇願する貂蝉の目を見て王允は戦慄した。
さっき見た気がした耳や尾のような勘違いなどではない。
狂気を帯びた目に納まる、細く縦に伸びた瞳孔。
この目は人の持つものではない。
李傕や楊奉から聞いた話が脳裏にまざまざと蘇る。
やはりこの女は妖狐なのだ。
糧として我が精を吸いとらんとしている。
しかし王允が拒めば拒むほど貂蝉はすがりつき、貂蝉がすがればすがるほど王允はそれを拒む。
「儂の命が聞けぬか。
今夜はもう下がれと申しているのだ」
王允は声を荒げ、平手で貂蝉の頬を打った。
叱責と平手で正気を取り戻したのか、貂蝉は呆然と寝台の上で座り込み、その瞳孔が広がっていく。
「もう一度命ずる。
今夜はもう下がれ」
静かな宣告に貂蝉は身を正して床に降り、深々と頭を下げる。
「見苦しく取り乱して大変申し訳ありません。
王司徒の命に背き、お心を害するつもりはございません」
貂蝉の落ち着いた様子を見て王允は大きく安堵の息を吐く。
「もうよい。
下がって其方も休め」
王允は部屋を後にする貂蝉の背を眉間に深い皺を刻んで睨む。
貂蝉の足音が聞こえなくなると全身の力が抜け、倒れるように寝台に仰向けになった。
「我が元に内患、既にあり……!」
激しい鼓動を押さえるように手を胸に当て、苦々しげに天井を睨みながら吐き捨てるように呟いた。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―
馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。
新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。
武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。
ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。
否、ここで滅ぶわけにはいかない。
士魂は花と咲き、決して散らない。
冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。
あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。
schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる