妖狐連環譚

井上 滋瑛

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第八話 錐行

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 鶴翼の陣を敷いた胡軫の軍は呂布陣営の懸念通り苦戦を強いられていた。
「両翼は何をしている
 さっさと戦線を押し上げんか」
 苛立つ胡軫が怒声を上げる。
 しかし呂布の統制の元、最低限ながらも休息を取れた呂布隊と違い、胡軫の怠惰な判断の為に、斥候の帰陣を夜襲と勘違いして夜通し逃げていた胡軫隊。
 動きは鈍く、疲れと睡眠不足が目に見える。
 行軍の際に明らかに疲労を残した兵の様子を案じた呂布から、呂布隊だけで攻めようかとの打診もあった。
 だが胡軫はそれを一蹴した。
 理由は武功を呂布一人に拐われたくなかったから。
 鶴翼の陣を敷いたのは呂布を越える武功を求めたから。
 ただ敵を退けるのではなく、より栄えのある殲滅を望んだから。
「華雄。
 千の兵と共に右翼に向かい、戦線を押し上げてこい
 呂布の奴が見ておるぞ」
 胡軫は呂布の陣営からも見える右翼の援護を華雄に命じる。
 呂布が並々ならぬ武勇を持ち合わせているのは胡軫も十分に承知している。
 だが胡軫自身にも古くから董卓に従い、勇猛に戦ってきた自負があった。
 そして必死に頼み込んで、この戦で初めて万を越える軍の総大将を任される事になったのだ。
 古参の将として、新参の呂布に苦戦している姿は見せられない。
 援護に向かわせた副将の華雄は胡軫に長く仕え、その武勇は胡軫にも引けはとらない。
 むしろ体格は胡軫に勝り、どちらが上官か、とからかう者もいる。
 その都度胡軫は激怒していたが、華雄は常に一歩下がって胡軫を補佐してきた。
 華雄が右翼の援護に回れば戦線は上げられる。
 胡軫は華雄の武勇を信頼し確信していた。
 だが虚栄心に基づいた行動とは大概裏目に出る。
 華雄に千の兵を与え右翼の援護に行かせた事で、性質上ただでさえ手薄になる陣の中央が更に薄氷の盾になってしまった。
 この胡軫の指揮に対して孫堅軍の動きは速かった。
 胡軫と相対する孫堅軍を指揮するのは先刻の呂布の読み通り幽州出身の程普、副将に同じく幽州出身の韓当。
 程普は胡軫軍の動きを察知するや、韓当に命じて主力の騎兵で中央を攻めさせた。
 それまで胡軫軍の動きに対応するだけだった程普軍の一転攻勢に胡軫は驚く。
ここは陣形の要であり、弱点。
 そして自身こそがこの討伐軍全体の総大将。
 まさか自分がこの攻撃に突破されるなどあってはならない。
 自らも矛を振るって応戦する。
「ええい。
 中央が苦しいのは鶴翼の宿命、華雄が戦線上げて敵を押さえこむまで耐えよ。
 両翼で締め上げれば我が軍の勝ちだ」
 しかし胡軫の檄も虚しく中央戦線はじりじりと後退していく。
 そして程普がとった対応は韓当の中央攻勢だけではない。
 膠着状態に焦れ、それを打破すべく送り込んだ助勢ならば胡軫軍内でも屈指の剛の者の筈。
 その剛の者、即ち華雄の動きを分岐点と見た程普は、数で押せば突破が見込める中央は副将韓当に任せて自ら矛を握る。
「殿、胡軫は陣の両翼が戦線を押し上げられない事に業を煮やしたのか、中央から右翼に援護を回したようです。
 それに伴って孫堅軍は手薄になった中央に攻勢をかけてきました。
 また援護が向かった右翼に対しても動きがあるようです」
 成廉の報告を受けても呂布は自軍の戦況を凝視したまま微動すらしない。
 その様子は聞こえていないのか、あるいは聞き流している様にも見える。
 また背後から見るその姿は寝ているかの様にも見える。
 そんな呂布が少しの間を置いて手を上げる。
「魏越」
 重く静かだが、それでいてよく通る声。
「待ってましたぜ。
 で、どうすりゃいいんです」
「左、殲滅」
 簡潔にすぎる指示にも魏越は迷うことなく笑みを浮かべ、承知と拱手する。
「行くぞ、魏越隊。
 全て粉砕するぞ」
 雷鳴の如き魏越の号令。
 千の兵はそれに負けじと怒号に近い鬨の声をあげ、呂布陣営から見て左側に突進する。
 そして魏越隊が孫堅軍とぶつかり合った瞬間、さらに左の方から割れんばかりの歓声が巻き起こった。
 その歓声を聞いて呂布は一つ大きく息を吐いた。
「左軍の方で誰か、胡軫でも討たれたか」
 成廉はその声に微かな喜色を感じ取った。
「楽しそうですな。
 まだ味方の将が討たれたと決まったわけではありますまい」
 窘めるように言う成廉に、薄笑みを浮かべて振り返る。
「まぁ、討たれたのが敵将だろうと誰だろうと、直に胡軫か華雄辺りから伝令が来るだろう」
 そう話す呂布の元に一頭の騎馬が駆け寄る。
「お待たせ致しました。
 ただいま参りました」
 呂布は騎馬の姿を見て満足気に頷く。
「いや、俺達の武威を示すには丁度いい頃合いだ」
 野営地から呼び出した高順だ。
 胡軫軍の方から銅鑼が打ち鳴らされている。
 その律動が示す意味に呂布は目を閉じた。
 その後しばらくすると、大声を張り上げながら数人の騎兵が呂布の元に駆け込んできた。
「伝令
 胡大督護より呂騎督に伝令でございます」
 鎧に何本もの矢を受けた伝令は息を切らしながら下馬し、拱手して報告する。
「胡大督護の副将華都尉、敵将程普に討たれ戦死。
 また敵副将韓当の攻勢、敗残兵とは思えぬ激しさで戦線の維持も叶わず撤退する。
 呂騎督には殿軍を任せ、敵軍の足止めを命ずる、との事です」
 伝令に対して呂布は、まるでわかっていたかのように驚く事もなく返答する。
「委細承知。
 其方達はそのまま野営地に残る輜重隊や営妓にも伝えて、共に撤退しろ」
 呂布の指示を受けた伝令は再び騎馬に乗り、野営地の方角へと走り去った。
「さて」
 呂布は改めて戦場を見渡す。
 張遼や魏越の働きにより正面の敵は足並み乱れ、既に陣形の体を為していない。
 開戦してまだ数刻も経っていない。
 余りに早い総大将の撤退。
 二人は左軍で鳴り響く、撤退を合図する銅鑼の音で察しているだろうか。
「高順、夜叉の爪牙を先頭に錐行の陣を組め。
 まずは文遠と魏越に合流し、その後左軍を穿ち友軍の撤退を補助する」
 錐形に隊列を組み、騎馬を主力としてその機動力と突破力を最大限に生かす陣形だ。
 その錐の先端に配置された夜叉の爪牙。
 騎乗する馬は西域諸国の一つ大宛国の名馬。
 かつて前漢の武帝が匈奴の騎兵に勝つ為、それに勝る名馬と聞いて熱望し、大宛国に交易を求め、決裂するとこれを得る為に遠征までした歴史もある。
 中華産の馬に対して倍はあろうかという体躯、強靭な精神力を持ち、その健脚は日に千里を走ると言われ、これを得た武帝は天馬と称賛したという。
 西域諸国との独自の繋がりを持つ董卓が呂布を従わせた際に贈ったものだ。
 呂布の私兵の中でも特に騎射に優れ、この名馬を乗りこなせた并州出身者だけで選抜された千の精鋭。
 磨き上げられた鎧を纏い、背に弓を負い、手には矛を構える。
 錐行の先頭に隊列を組んで立つ光景は壮観の一言に尽き、威風堂々たる姿に圧倒されない者はない。
 その夜叉の爪牙の前、高順と成廉を左右に従えた呂布は左軍の戦場に向けて高く掲げ、そしてゆっくりと正面の戦場へと移す。
「見よ、無惨に敗走する友軍を。
 見よ、敵陣斬り裂き道を作る我が軍を。
 胡大督護は敗れたとは言え、我ら呂布軍は未だ敗北せず。
 正面の敵を屠り、友軍に追い縋る敵を穿て。
 友軍の撤退を助けるだけでなく、この呂布の、夜叉の爪牙の武威を敵の胸臆にまで刻み込め」
 号令と共に呂布は躊躇うことなく先頭を切って敵陣に斬り込む。
 柄まで鋼で磨き上げられた戟を小枝の様に扱い、陽に煌めく様は闇夜を切り裂く流星の如く。
 戟を両手に持ち、手綱も持たぬまま騎馬を自在に操り駆ける様は大空を制する鷲の如く。
 そして夜叉の爪牙と共に敵を蹂躙する様は全てを飲み込む黄河の大洪水の如く。
 通り過ぎた後に残るは矛で貫かれ、天馬に踏み潰され、無惨な姿に変わり果てた孫堅兵。
 その光景を目の当たりにして、張遼の突撃に対しても盾とその身を挺して壁を作って抗ってきた孫堅兵も怯む。
「文遠、魏越、よく道を切り開いた。
 文遠は成廉、魏越と共に後続に回って俺についてこい
 それ以外の細かい指揮は任す」
 そう言うと呂布は進路を左に取る。
 標的は胡軫軍に追い討ちをかける程普軍だ。
 程普軍も側面からの突撃を察知して迎撃の体勢を取ろうとするが、呂布の速度は程普軍が想定するそれを遥かに凌駕する。
 隊列を組み直すよりも先に血飛沫と断末魔を巻き起こる。
 駆ける呂布を避け、呂布の進路、視線の先に自然と道が生まれる。
 後続からそれを見る張遼は唇を噛んだ。
「どうした、文遠
 暴れ足りなかったか」
 魏越に声をかけられた張遼は首を振る。
「いや、そうじゃないです」
「じゃあ何だよ」
 怪訝な表情を浮かべる魏越。
「奉先殿の武威は一度当たれば敵の戦意を挫き、眼光だけで道を切り開く。
 それに引き替え俺は敵陣を切り崩すのに一刻以上かかった。
 俺の武が奉先殿の武にまだまだ遠く及ばないのが悔しい」
 悔しそうな表情を見せる張遼を笑って慰める。
「そう気に病む事ねぇよ。
 お前が陣形を切り崩してたからこそ、殿の武名が効くんだ。
 それにお前はまだ若い。
 殿もお前には期待してる。
 いつか名前を聞くだけで夜泣きするガキが黙る位の将軍になるんじゃないか、ってな。
 もっと自惚れろよ、その若さで俺や成廉を差し置いて先陣を任されるんだからよ」
 すると城砦から銅鑼の音が響き、孫堅軍が退いていく。
 城砦に目をやると城壁の上には撤退する自軍を援護しようと弓兵が立ち並ぶ。
「追い討ち不要。
 全軍止まり隊列を整えよ」
 呂布と共に先頭にいた高順の号令が響く。
 胡軫が撤退した今、兵数の上では孫堅軍の方が勝る。
 しかし城砦の門は固く閉じられた。
 孫堅、寡兵の呂布の前に城門を開けられず。
 呂布とて少ない兵を薄く広げて城砦を包囲するなどできる筈もなく、双方の睨み合いは半刻に及んだ。
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