7 / 27
第七話 開戦
しおりを挟むなぜ、あれほど難しかったことが、これほど簡単にできたのか。
秀に起こった変化と言えば、一つだけだ。秀はただ、願った。
会いたい、と。
雪虎と呼ばれたあの子に、また。
それは幼子ゆえに純粋で、一途な願いだった。たとえ、根っこにあったのが、興味本位や好奇心であったとしても。
またもう一度、雪虎と会ってみたかったからこそ、秀は自由を求めた。
それが、功を奏したのか。
あれほど難しかった力の制御を、気付けばいとも容易く秀は行っていた。ただ。
そのための原動力となった、雪虎に会いたいと願う、渇望は。
幼い心にとって、すぐ。
…酷い―――――重荷となった。
なにせ、外に出てからも、ずっと。
秀の心の向きは、雪虎にだけ、真っ直ぐに進んでいて。
せっかく、自由になったのに。
なんでもできるのに。
すべて許されているのに。
秀は何一つ、自由ではなかった。
雪虎が憎くなるのは、すぐだった。
どうして。
―――――あの子は、私を縛るのか。
父が、雪虎を特別扱いするのも、納得できなくて。
許せなくて。
なのに、自分の心からあの子を決して外せないのだ。すぐにわかった。父も、そうなのだと。
気付けば、雪虎のすべてが疎ましくなっていた。
それでも、視線は必ず、雪虎の姿を追っていて。
雪虎が、だいじにしているという小汚い少女に向ける、表情を見た刹那。
たちまち、すべてがひっくり返った。
引きずり戻された。
あの時、はじめて雪虎を見た日へと、心が。
雪虎には、どうあってもかなわない。
完膚なきまでに、秀は敗北した。
否、勝ち負けなどどうでもいい。秀はもう、骨の髄まで理解している。
雪虎が雪虎として、生きて、そこにいる。もうそれが、それだけが、秀にとってのすべてなのだ。
「…旦那さま、よろしいですか」
助手席に乗っていた男が声をかけてくるのに、秀は目を開いた。
「なんだね」
「穂高の若君は、もう本州方面に出て―――――無事、故郷へ向かっていると連絡がありました」
秀は、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。
助手席の男は、事務的に言葉を続けた。
「穂高家に、戻った暁には」
「手筈通りに」
ぞっとするような秀の声にも、臆することなく、月杜家に代々仕える男は頷く。
「了解しました。穂高家が始末に動く前に、月杜の者の手で片付けます」
月杜の手で始末したいなら、なぜ、わざわざ穂高家へ返すのか。
そのように思われそうだが―――――まずは穂高家へ戻すことに、意味がある。
秀は明かりが流れていく窓の外へ目を向けた。
雪虎は、こちらへ向かう前に、かかりつけの医師のところへ預けている。
付き添いを一緒にいた者数名に頼み、秀が踵を返したところ。
―――――どこ行くんだ…いや、ですか。
雪虎は、秀の前に、立ち塞がった。怒った顔で。だが。
いつも強い印象の目に浮かんでいたのは、心配だ。
幼い頃から、ああいった表情は変わらない。おそらく、雪虎は察したのだろう。
秀にとって、これからが今日最大の仕事の仕上げの時間だと。
―――――用事はもう終わったんじゃないんですか?
訊きながらも、どう言えばいいのか分からない、と言った態度で、雪虎は言葉を不器用に紡いだ。
終わった、と言えば、じゃあこのまま秀と一緒に行く、と返され。
診察があるだろう、と言えば、終わるまで待っていろ、と来た。
危険な場所へ、雪虎を連れて行きたくはない。
内心、ほとほと困っていると、雪虎は真っ直ぐな目で、核心をついてきた。
―――――危ないこと、しに行くんじゃ、ないだろうな。
その表情を思い出し、温かな心地になった半面。
車の中で、秀は独り言ちた。
「…トラを蹴った、だと」
呟きと共に、車内の空気が、凍えるほどに、冷えた。
秀の身を案じる雪虎の顔に、自身を傷つけた相手に対する恨みなど、もう微塵も残っていなかった。
殴り返して、彼の中では本当に、それで終わったのだ。
雪虎は一度やり返せば、もう、尾を引かない。ただし。
秀は、そうではない。
…秀が答えるまでは引かない、先ほどの雪虎は、そんながんとした態度で立ち塞がった。
彼が、真正面から、じっと秀の目から視線をそらさないのは、珍しい。
秀がすぐに答えなかったのは、そんな雪虎の表情を、もう少し堪能しようと思ったからだ。
だが、なぜそんな表情を雪虎が浮かべるのかは分からなかった。
だいたい、普段の雪虎の反応と言えば。
基本的に、秀を疎んじている。
なのに、その時の雪虎からは、秀から距離を取ろうとする意思を感じなかった。そのせい、だろう。
気付けば、手が伸びていた。
右手で、そぉっと頬に触れれば、ぴくりと雪虎の肩が揺れる。
戸惑った態度で、彼の視線が振れた秀の手がある方へ動いた。
秀は触れた指先で、頬の輪郭を撫で下ろすように、して。
雪虎の顎を掴んだ。そのまま、当惑した顔を上向かせ―――――…。
触れた、感触を思い出した秀は、車の中で、ふ、と指の甲で唇の輪郭をなぞった。
正直なところ、雪虎に害をなした相手は、すべて消し去りたい。なにせ、彼らは。
秀から雪虎という存在を、奪う可能性があったからだ。
その根にあるのは―――――恐怖だ。
笑うしかない。
鬼だなんだと恐怖と畏怖の対象でありながら、月杜秀は、たったひとりを失うことが耐えられないのだ。
だが、中学の頃、無茶なことをやらかしていた雪虎には、相当敵も多い。
もし、秀が。
気持ちのままに行動し、そのいっさいを片付けていれば、今頃、雪虎と同年代あたりの人間は、地元では不自然なくらいに数を減らしていただろう。
ゆえに、秀は耐えた。
子供の頃から、ずっと。
消し去りたい衝動を、堪え続けた。
だいたいそんなことは、雪虎は望んでいない。それを思えば黙っていることもできたのだ。だが、今回は。
穏やかだが、凍った刃のような声で、秀は続けた。
「いくら殺しても殺したりないが…仕方ないね」
たった一度、殺されるだけで済むならば、優しい方だろう。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。

江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!



鬼の桃姫
井田いづ
歴史・時代
これはむかしむかしの物語。鬼の頭領である桃姫は日々"狩り"をしながら平和に島を治めていた。ある日のこと、鬼退治を掲げた人間が島に攻め入って来たとの知らせが入る。桃姫の夢と城が崩れ始めた────。
+++++++++++++++++
当作品は『桃太郎』『吉備津彦命の温羅退治』をベースに創作しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる