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お勉強は憂鬱、先生は苦手
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「じゃあね、ミルフィ」
「はい」
手を振って兄様の寝室を出た。
来たときより私の足取りは重かった。
兄様は今まで作り笑顔を私に見せていたのだと気が付いて、笑顔でなんていられなかった。
「セドリック様がお元気になられて良かったですね。お嬢様のお見舞いがきっと嬉しかったのですよ」
「うん」
「どうされました?」
「抱っこ」
「お疲れになりましたか?」
ジョゼットは優しく私を抱上げ歩き始める。
ジョゼットの肘に座った私は、彼女の首に両腕を伸ばしてしがみつく。
「お勉強の前に、リンゴの果汁を飲みたい」
「畏まりました。お部屋に戻ったらすぐにご用意致しますね」
笑って頷くジョゼットの顔を見た後、肩に頬を寄せて目を閉じた。
「お嬢様?」
返事をせずに考えていた。
兄様の笑顔。
「お眠りになったのかしら? 早起きされていたものね」
ジョゼットは私の背中を撫でながらゆっくり歩く。
「お嬢様、私の怪我を治してくださってありがとうございます。私を辞めさせないでと奥様に言ってくださったと、パティから聞きました。お嬢様をお守り出来なかった私には、そんな風に頂ける資格はないというのに、本当にありがとうございます」
私が眠っていると信じて言っているのだろうか、ジョゼットは囁くような声で話し続ける。
「お嬢様の寂しさは私やパティでは埋められないでしょうけれど、少しでもお心の慰めになれるようにずっとお側に降りますから」
寂しさと聞いて驚いた。
私が気がついたばかりの感情を、彼女はすでに気付いていたのだ。
感情に気が付いていた? それとも、状況でそうだろうと思っているだけ?
どちらにしても、私はジョゼットに同情されているのだ。
以前の私なら『寂しいのだろう』と思われている事実が我慢できなかっただろう。
使用人に哀れみの目で見られる等、矜持を傷付ける以外の何物でもない。そう考え癇癪をおこしていただろう。
けれど、今は何故か『他人から見ても寂しそうだったのか』と理解できた。
兄様の笑顔のせいかもしれない。
わずか五歳の子供に作り笑顔をさせていた今の私。
以前の兄様は亡くなる時でさえ、同じ笑顔を私に向けていた。
あれが私の記憶の中に残る兄様の笑顔なのだ。
すがった手を振り払われた様に感じたのも、気のせいでは無かったのかもしれない。
兄様はずっと私を疎ましく感じていて、でも優しい人だったから拒絶はしなかった。
お父様とお母様は、私を愛してくれていた筈だ。けれど同時に困った子供だと思っているのかもしれない。
「お嬢様、部屋に着きました。パティ、リンゴの果汁を用意して」
「はい」
部屋に戻りソファーに座らせらて、私はゆっくりと瞼を開く。
「お嬢様、すぐに果汁をお持ち致します」
「うん」
「少しお休み頂いたら、授業の準備を致しましょうね。今日は新しいエプロンドレスがございますよ」
「新しい?」
「はい。きっとお嬢様もお気に召すかと思います」
「そう」
新しい服は嬉しいけれど、授業は憂鬱だった。
家庭教師達には行儀作法と文字の書き方、ダンス等を習っていたのは覚えているけれど、ダンスはもう少し年齢が上がってからだったろうか。
私は行儀作法と読み書きを教える教師が苦手だった。
授業を逃げてばかりだったのは、勉強が苦手だったし怠け者だったのは大きな理由だけれど、誰にも言ったことは無かったが、そもそもこの教師が苦手だったのだ。
「お嬢様」
「ねえ、ジョゼット。パティはお勉強したことある?」
「ございます」
この家に来る前、パティは男爵令嬢だった。
つまり十歳前後まではパティだって教育を受けていた。
「パティなら先生に叱られたりしないよね、沢山怒られたり馬鹿なんて言われないよね」
家庭教師が叱るのは、私がどうしようもない怠惰な人間だからだと分かっていたけれど叱られるのは嫌だった。
「お嬢様? 馬鹿とは」
「お勉強嫌いよ。でもお兄ちゃまみたいになんて出来ないの。行儀作法は出来ても他は出来ないの。馬鹿で愚か者だから勉強なんて無駄なの」
私の教師をしている、オーレンス子爵夫人は元々兄様の教師だった。
夫人にとって、兄様は素晴らしい生徒だったらしく何をやっても『セドリック様はすぐにお出来になりました。それに比べてミルフィーヌ様は』と比較され、叱られた。
食事の作法はさすがにミルフィーヌでも何とか覚えられていたけれど、それは使用人達が沢山いるところで先生に叱られなかったから、怠け者の私でも必死に覚えたのだと思う。
とにかく私は先生に叱られるのが怖かったのだ。
「叱られるのですか?」
「ミルフィは馬鹿なんですって、だからお勉強しても駄目なんですって」
思ってもいなかった言葉がするりと出てきて、自分自身が驚いてしまった。
そういえば私はさっき、馬鹿で愚か者だから勉強しても無駄だと言わなかったか? 三歳で愚か者なんて、そんなことばどこで覚えたのだろう。
「馬鹿、先程愚か者とも仰いましたが、一体どなたに言われたのですか?」
「先生に」
返事をしてミルフィの記憶を必死に探ると、深い心の奥底に『馬鹿は何を勉強しても無駄ですね』と教師である夫人に言われていたと思い出した。
「ミルフィは馬鹿だって」
これは階段から落ちる前日の記憶だった。
夫人に『教師が生徒を馬鹿だと叱るのは生徒がどうしようもない時のみなんですよ。とても恥ずかしいことです。こんなことをお父様やお母様がお知りになったら呆れられてしまうでしょうね』と笑われて『あなたがいい子になるなら、私からお二人には話しませんよ。私があなたを叱るのは、あなたが馬鹿だからですよ』と言ったのだ。
「はい」
手を振って兄様の寝室を出た。
来たときより私の足取りは重かった。
兄様は今まで作り笑顔を私に見せていたのだと気が付いて、笑顔でなんていられなかった。
「セドリック様がお元気になられて良かったですね。お嬢様のお見舞いがきっと嬉しかったのですよ」
「うん」
「どうされました?」
「抱っこ」
「お疲れになりましたか?」
ジョゼットは優しく私を抱上げ歩き始める。
ジョゼットの肘に座った私は、彼女の首に両腕を伸ばしてしがみつく。
「お勉強の前に、リンゴの果汁を飲みたい」
「畏まりました。お部屋に戻ったらすぐにご用意致しますね」
笑って頷くジョゼットの顔を見た後、肩に頬を寄せて目を閉じた。
「お嬢様?」
返事をせずに考えていた。
兄様の笑顔。
「お眠りになったのかしら? 早起きされていたものね」
ジョゼットは私の背中を撫でながらゆっくり歩く。
「お嬢様、私の怪我を治してくださってありがとうございます。私を辞めさせないでと奥様に言ってくださったと、パティから聞きました。お嬢様をお守り出来なかった私には、そんな風に頂ける資格はないというのに、本当にありがとうございます」
私が眠っていると信じて言っているのだろうか、ジョゼットは囁くような声で話し続ける。
「お嬢様の寂しさは私やパティでは埋められないでしょうけれど、少しでもお心の慰めになれるようにずっとお側に降りますから」
寂しさと聞いて驚いた。
私が気がついたばかりの感情を、彼女はすでに気付いていたのだ。
感情に気が付いていた? それとも、状況でそうだろうと思っているだけ?
どちらにしても、私はジョゼットに同情されているのだ。
以前の私なら『寂しいのだろう』と思われている事実が我慢できなかっただろう。
使用人に哀れみの目で見られる等、矜持を傷付ける以外の何物でもない。そう考え癇癪をおこしていただろう。
けれど、今は何故か『他人から見ても寂しそうだったのか』と理解できた。
兄様の笑顔のせいかもしれない。
わずか五歳の子供に作り笑顔をさせていた今の私。
以前の兄様は亡くなる時でさえ、同じ笑顔を私に向けていた。
あれが私の記憶の中に残る兄様の笑顔なのだ。
すがった手を振り払われた様に感じたのも、気のせいでは無かったのかもしれない。
兄様はずっと私を疎ましく感じていて、でも優しい人だったから拒絶はしなかった。
お父様とお母様は、私を愛してくれていた筈だ。けれど同時に困った子供だと思っているのかもしれない。
「お嬢様、部屋に着きました。パティ、リンゴの果汁を用意して」
「はい」
部屋に戻りソファーに座らせらて、私はゆっくりと瞼を開く。
「お嬢様、すぐに果汁をお持ち致します」
「うん」
「少しお休み頂いたら、授業の準備を致しましょうね。今日は新しいエプロンドレスがございますよ」
「新しい?」
「はい。きっとお嬢様もお気に召すかと思います」
「そう」
新しい服は嬉しいけれど、授業は憂鬱だった。
家庭教師達には行儀作法と文字の書き方、ダンス等を習っていたのは覚えているけれど、ダンスはもう少し年齢が上がってからだったろうか。
私は行儀作法と読み書きを教える教師が苦手だった。
授業を逃げてばかりだったのは、勉強が苦手だったし怠け者だったのは大きな理由だけれど、誰にも言ったことは無かったが、そもそもこの教師が苦手だったのだ。
「お嬢様」
「ねえ、ジョゼット。パティはお勉強したことある?」
「ございます」
この家に来る前、パティは男爵令嬢だった。
つまり十歳前後まではパティだって教育を受けていた。
「パティなら先生に叱られたりしないよね、沢山怒られたり馬鹿なんて言われないよね」
家庭教師が叱るのは、私がどうしようもない怠惰な人間だからだと分かっていたけれど叱られるのは嫌だった。
「お嬢様? 馬鹿とは」
「お勉強嫌いよ。でもお兄ちゃまみたいになんて出来ないの。行儀作法は出来ても他は出来ないの。馬鹿で愚か者だから勉強なんて無駄なの」
私の教師をしている、オーレンス子爵夫人は元々兄様の教師だった。
夫人にとって、兄様は素晴らしい生徒だったらしく何をやっても『セドリック様はすぐにお出来になりました。それに比べてミルフィーヌ様は』と比較され、叱られた。
食事の作法はさすがにミルフィーヌでも何とか覚えられていたけれど、それは使用人達が沢山いるところで先生に叱られなかったから、怠け者の私でも必死に覚えたのだと思う。
とにかく私は先生に叱られるのが怖かったのだ。
「叱られるのですか?」
「ミルフィは馬鹿なんですって、だからお勉強しても駄目なんですって」
思ってもいなかった言葉がするりと出てきて、自分自身が驚いてしまった。
そういえば私はさっき、馬鹿で愚か者だから勉強しても無駄だと言わなかったか? 三歳で愚か者なんて、そんなことばどこで覚えたのだろう。
「馬鹿、先程愚か者とも仰いましたが、一体どなたに言われたのですか?」
「先生に」
返事をしてミルフィの記憶を必死に探ると、深い心の奥底に『馬鹿は何を勉強しても無駄ですね』と教師である夫人に言われていたと思い出した。
「ミルフィは馬鹿だって」
これは階段から落ちる前日の記憶だった。
夫人に『教師が生徒を馬鹿だと叱るのは生徒がどうしようもない時のみなんですよ。とても恥ずかしいことです。こんなことをお父様やお母様がお知りになったら呆れられてしまうでしょうね』と笑われて『あなたがいい子になるなら、私からお二人には話しませんよ。私があなたを叱るのは、あなたが馬鹿だからですよ』と言ったのだ。
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