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「遅くなった事謝を罪しようと思ったが、来ないほうが良かったという顔だな」
乱暴に扉を閉めてベッドに近付いてくる男性は、何だか不思議な表情をしていた。
怒鳴っている様な大声を発しているのに表情がその声に合っていないのだから私は戸惑いながら体を起こす。
薄い頼りない布が体にまとわりついて、羞恥に顔が赤くなるのが分かったけれど羽織るものは無く毛布で胸元辺りを隠すので精一杯だ。
「どうした、不本意な結婚相手とは話もしたくないか」
大きな声は苛立ったように聞こえるけれど、やはり怒っている人の顔では無い様に見える。
むしろ申し訳なさそうな、困った様な顔に見えるのだ。
なんとも器用な事をする人だと呆れつつ、どう対応したらいいものか考えた末、不機嫌を隠さない相手との会話は王太子殿下で慣れているのだからと開き直ることにした。
「そんな事は考えてもおりません」
「どうだかっ、怪しいものだなっ」
怒鳴る様に言葉を発しながらベッド近くまで歩みを進めると、夫(と私は彼を呼んでいいんだろうか)はベッドの側まで来て立ち止まり私に深く頭を下げた。
「え」
驚くなという方が無理だった。
なぜ頭を下げられたのか理解出来ない。
今の流れから、こんな貧相な見た目の女との結婚なんて、そう罵られる覚悟をしたのにこれは何だろう。
私が彼の行動を理解出来ずに呆然としていると、ずいっと何かが差し出された。
「私はこの国の宝とも言うべき王女殿下と婚約していたのだっ!」
差し出されたのは一枚の紙だった。
慌てて受け取ると『これから言うことは嘘だから信じないでくれ』と、大きな文字で書いてあるのが見えた。
「……」
意味がわからないまま、了承の意味で頷くと更に紙を手渡される。
「私はこの国の至宝と名高い王女殿下の夫となる身だったというのに、どうしてこんな女と!」
紙に書かれていた事を要約すると、王女殿下の配下が初夜の見届人としてこの家に来ているから、自分は王女殿下に未練がある様に見せなければならない。遠い国から嫁いで来た私に大変失礼なことをしているのは重々承知しているが、この芝居に協力して欲しいという言葉が書いてあった。
なにそれ。
ちなみに私の役目は、夫の暴言と暴力に怯え、嘆き、悲しむ振りをすることらしく、それも紙に書いてあった。
「こ、こんな女ですって、そんな酷いっ」
演技なんて出来ないけれど、弱い振りは今まで散々してきたから得意だ。
私は出来るだけ悲しそうになるように、でも扉の向こうに聞こえる様に出来るだけ大きな声で話し始めた。
私の国では初夜の見届け人など王家でもあり得ない話だ。
本当に扉の向こうに人がいるのだろうか。
「私程可哀相な男はいないっ」
「そんな、私は王命で嫁いで来たというのに。私は王太子殿下を王女殿下に奪われ、それで!」
私は必死に紙に書いてある指示通りに演技をする。
自分の意思ではない、王命で嫁いできた。王太子殿下を王女殿下に奪われた。そう言って悲しんで欲しい。とも書いてあるのだ。
こんな演技をするなんて、なんて難しいことを言うのだろう。
「お前を愛することはない、私の心は王女殿下ただ一人のものだっ!」
「そんな、それでは私はどうなるのですか、王命で嫁いで来たというのに、あんまりではありませんかっ」
私が声を上げると、恐ろしいことに扉の向こうから何かが落ちる音がした。
ま、まさか本当に誰かが聞き耳を立てている?
嘘でしょ。
こ、これから初夜だというのに、まさか終わるまで扉の外にいるの??
「王命だからこの屋敷には置いてやるし、侯爵夫人としての役割も許してやる。だが私から、あ、……愛される等考えないことだな。君は、……君はお飾りの妻だっ!!」
この人、実はとても良い人なのかもしれない。
初夜に絶対に男性が言ってはいけない台詞を叫んでいるというのに、顔が物凄く申し訳無さそうなんだもの。
私を罵倒しながら何度も頭を下げていて、本心を言っていないって顔を見ただけで分かってしまう。
「……すまない。抵抗するなっ!」
小さな声で謝罪をした後、ばさりと毛布を剥ぎ取りながらベッドに乗り上げた。
それと同時に上着を脱いで上半身裸になる。
……下は、良かったズボンを履いたままだ。
「きゃあっ」
「大人しくしていれば苦しまない様にしてやる! ……そのまま暴れた振りを」
「何故そんなっ! や、止めてください!」
彼はいきなり自分の腕を自分の手で叩き始めたのだから、どうしたらいいか分からなくてこう叫ぶしか無かった。
自分の手を何度か叩いた後、枕をバンバンとベッドに叩きつけ、また腕を叩き始める。
痛そうな音が室内に響き、ばさばさと毛布を床に落としていく。
これは何なの? 彼は芝居をしているのよね? 狂っているとしか思えない動きに恐ろしくなって逃げ出したくなってしまう。
「嫌と、止めてを繰り返して。怖がらせて申し訳ない」
耳元で囁かれ、私はコクコクと頷いた後「や、止めて下さいっ、嫌っ!」と叫んだ。
「だったら抵抗するなっ、大人しくすれば酷くはしない。嫌がってもお前はもう私の妻、私からどんな事をされても逃げられないんだっ」
言いながら、また腕を叩き始める。
何度も叩かれた腕は、もう真っ赤になっていて痛々しい程で、私は恐ろしさに泣きだす寸前だ。
許されるなら逃げ出したい、冷えた夫婦関係は覚悟して嫁いで来たけれどこんな怖い初夜は想像していなかった。
「お、大人しくしますから、抵抗しませんからっ、もう許してっ」
私の声は本気で怯えている様に聞こえるだろう、だって本当に怖い。
「だったら口を開くな、大人しくしていろっ!」
「ですが、あっ、な、何をなさるのですっ!」
叫んだ途端、扉に何か打つかる様な音がして思わず音のした方を二人で見てしまう。
「なっ、駄目っ。お止めくださいっ! 駄目つっ! いやああっ!」
視線を戻した私から、演技ではない悲鳴が出たのは仕方がない話だった。
夫、アンドリュー様は叩きすぎて真っ赤になった左腕を、どこから取り出したのか分からないナイフで切り付けたのだから、悲鳴を上げるなという方が無理な話だった。
「な、なぜ」
「嫌だ、止めてと叫んで、痛いと、許してと叫んで。……本当にすまない」
私の耳元に囁き謝罪しながら、ポタポタと敷布に落ちていく血を厳しい顔で見つめる姿に、動揺せずにはいられない。
私は恐ろしさに気を失いそうになりながら、叫んだ。
「や、止めてっ!」
「大丈夫だ。暴れるなっ! お前は大人しく従っていればいいんだっ! 口を開くなっ。恨むならお前の結婚を決めた自国の王を恨むんだなっ」
「そん、そんなことしたらっ! 駄目っ! 止めて嫌っ止めてお願いっ。痛いっ痛いの、お願い止めてっ! もう許して! お願いっ!」
囁く様な「大丈夫だ」という言葉の後、態とらしい大声が寝室に響く。
ポタポタと敷布を汚していく彼の血が恐ろしくて、私は必死に自分で自分を抱きしめる。
「抵抗するなっ!」
今度は自分の太ももを何度も叩きながら「そうやって大人しくしているなら優しくしてやる」と声を上げる。
「嫌っ! もう許して、お願いもう止めて!」
これは本心から出た言葉だった、太ももを叩く音が部屋中に響いて、騒ぐな大人しくしろという声が響いて、悪夢を見ている気がして熱が出そうだった。
これは悪夢でしかない、こんな現実は恐ろしすぎる。
ずっと私を罵る声がして、彼は自分を時々叩きながらまた大声を上げる。
そんな時が四半時は続いただろうか、私にとっては永遠に近い長さだった。
「止めて、止めてっ!」
何度もパンパンと叩く手が恐ろしくて、その暴力が自分に向かっているわけでは無いのに、痛みすら感じ始めていた。
そして、ふいに彼の左腕が視界に入った。
赤い血がたらたらと流れ続けていて止まる気配が無い。
彼は深く切り過ぎたのだろう、自分の腕をこんな風に痛めつけるなんて。
何のためにこんなことをしているのか分からないけれど、傷をすぐに塞がなければ。
「あの。触ります、神の光よこの者の傷を癒やせ」
「なっ」
思い切りよく切り裂いたのだと分かる腕の傷と、叩き過ぎて赤くなった肌を見ているのが嫌で、私は小声で詠唱し回復魔法を使ったけれど、使ってから気がついた。
王家は私の力をこちらに話をしていたのだろうか。
「傷は治しました。あなたが何を目的にしてこんなことをしたのか分かりませんが、目の前で怪我をされて放っておけませんから」
小声でそう言えば、無言で頭を下げられた。
「ふんっ、義務は果たした。……ここは片付けさせる、自分の部屋に戻って下さい。すまないそれはこちらに」
義務は果たしたの後を小声で言った後、彼は私に渡した紙片を回収すると、ナイフと共に上着の内側に隠してから上着を羽織った。
「本当にすまなかった。明日改めて謝罪させてください。私は自分の部屋で眠るっ、お前と一晩一緒に過ごすなどありえないからなっ!」
また私にだけ聞こえる様に小さな声で言った後で私に優しく毛布を掛けてから、大声を上げ足音も荒く扉に近付いた。
「これで満足か、初夜を行ったと早く帰って報告するが良い」
勢いよく扉を開き、扉の近くに立っていたらしい誰かに私に向けた声とは比べ物にならない程の恐ろしい声に、やはりさっきの罵声は演技だったのだと分かってしまった。
「ですが、証拠の品を頂きませんと」
女の声? この声の主が扉の向こうにいたの?
見届け人という制度が良く分からないけれど、なんて悪趣味な精度なんだろう。
私にはさっきの罵声は演技だと分かっているけれど、あの人にとって私は罵られながら初夜を過ごした可哀相な妻になっているのかと思うと、演技だったというのに情けなさに泣きたくなってしまった。
「私は気が立っている、今ここで殺されたいのか。彼女が部屋に戻ったら勝手に持って行くがいい」
「待って下さいっ」
「いいから、あれの侍女達を呼んで来い。一人で歩けないだろからなっ」
冷ややかな声が開けたままの扉の向こうから聞こえて、話しながら遠ざかって行く。
二人の話し声と彼の行動への動揺が治まらず、ベッドの上で毛布に包まり座り込んでいたら、私が心の底から頼りにしているジジ達が来てくれた。
「お、お嬢様っ、なんて酷い。一体どんなご無体を」
「なんなのこれ」
ジジがベッドに近付くなり上げた悲鳴の様な声に、私は血だらけの敷布に視線を向けその途端体が震え始めた。
「お嬢様、こ、これはなんてご無体を」
「治癒致します、お嬢様」
「必要ないわ、でも早く部屋に戻らせて。お願いこの場所から早く離れたいの」
ガクガクと震えているのは、ナイフで躊躇いなく自分の腕を切り裂いた彼の姿を思い出したからだ。
なんていう茶番、芝居にしてもなんていう暴挙だったのだろう。
「ジジ、疲れたわ」
頭がガンガンと痛み始めたのは、今日一日続いた心労のせいなのだろうか。
私は何ていうところに来てしまったのだろう。
「お、お嬢様?」
「もう、限界……」
「お、お嬢様! え、体が熱い? お嬢様熱が!」
ジジの慌てる声がするけれど、私はもう反応出来なかった。
乱暴に扉を閉めてベッドに近付いてくる男性は、何だか不思議な表情をしていた。
怒鳴っている様な大声を発しているのに表情がその声に合っていないのだから私は戸惑いながら体を起こす。
薄い頼りない布が体にまとわりついて、羞恥に顔が赤くなるのが分かったけれど羽織るものは無く毛布で胸元辺りを隠すので精一杯だ。
「どうした、不本意な結婚相手とは話もしたくないか」
大きな声は苛立ったように聞こえるけれど、やはり怒っている人の顔では無い様に見える。
むしろ申し訳なさそうな、困った様な顔に見えるのだ。
なんとも器用な事をする人だと呆れつつ、どう対応したらいいものか考えた末、不機嫌を隠さない相手との会話は王太子殿下で慣れているのだからと開き直ることにした。
「そんな事は考えてもおりません」
「どうだかっ、怪しいものだなっ」
怒鳴る様に言葉を発しながらベッド近くまで歩みを進めると、夫(と私は彼を呼んでいいんだろうか)はベッドの側まで来て立ち止まり私に深く頭を下げた。
「え」
驚くなという方が無理だった。
なぜ頭を下げられたのか理解出来ない。
今の流れから、こんな貧相な見た目の女との結婚なんて、そう罵られる覚悟をしたのにこれは何だろう。
私が彼の行動を理解出来ずに呆然としていると、ずいっと何かが差し出された。
「私はこの国の宝とも言うべき王女殿下と婚約していたのだっ!」
差し出されたのは一枚の紙だった。
慌てて受け取ると『これから言うことは嘘だから信じないでくれ』と、大きな文字で書いてあるのが見えた。
「……」
意味がわからないまま、了承の意味で頷くと更に紙を手渡される。
「私はこの国の至宝と名高い王女殿下の夫となる身だったというのに、どうしてこんな女と!」
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なにそれ。
ちなみに私の役目は、夫の暴言と暴力に怯え、嘆き、悲しむ振りをすることらしく、それも紙に書いてあった。
「こ、こんな女ですって、そんな酷いっ」
演技なんて出来ないけれど、弱い振りは今まで散々してきたから得意だ。
私は出来るだけ悲しそうになるように、でも扉の向こうに聞こえる様に出来るだけ大きな声で話し始めた。
私の国では初夜の見届け人など王家でもあり得ない話だ。
本当に扉の向こうに人がいるのだろうか。
「私程可哀相な男はいないっ」
「そんな、私は王命で嫁いで来たというのに。私は王太子殿下を王女殿下に奪われ、それで!」
私は必死に紙に書いてある指示通りに演技をする。
自分の意思ではない、王命で嫁いできた。王太子殿下を王女殿下に奪われた。そう言って悲しんで欲しい。とも書いてあるのだ。
こんな演技をするなんて、なんて難しいことを言うのだろう。
「お前を愛することはない、私の心は王女殿下ただ一人のものだっ!」
「そんな、それでは私はどうなるのですか、王命で嫁いで来たというのに、あんまりではありませんかっ」
私が声を上げると、恐ろしいことに扉の向こうから何かが落ちる音がした。
ま、まさか本当に誰かが聞き耳を立てている?
嘘でしょ。
こ、これから初夜だというのに、まさか終わるまで扉の外にいるの??
「王命だからこの屋敷には置いてやるし、侯爵夫人としての役割も許してやる。だが私から、あ、……愛される等考えないことだな。君は、……君はお飾りの妻だっ!!」
この人、実はとても良い人なのかもしれない。
初夜に絶対に男性が言ってはいけない台詞を叫んでいるというのに、顔が物凄く申し訳無さそうなんだもの。
私を罵倒しながら何度も頭を下げていて、本心を言っていないって顔を見ただけで分かってしまう。
「……すまない。抵抗するなっ!」
小さな声で謝罪をした後、ばさりと毛布を剥ぎ取りながらベッドに乗り上げた。
それと同時に上着を脱いで上半身裸になる。
……下は、良かったズボンを履いたままだ。
「きゃあっ」
「大人しくしていれば苦しまない様にしてやる! ……そのまま暴れた振りを」
「何故そんなっ! や、止めてください!」
彼はいきなり自分の腕を自分の手で叩き始めたのだから、どうしたらいいか分からなくてこう叫ぶしか無かった。
自分の手を何度か叩いた後、枕をバンバンとベッドに叩きつけ、また腕を叩き始める。
痛そうな音が室内に響き、ばさばさと毛布を床に落としていく。
これは何なの? 彼は芝居をしているのよね? 狂っているとしか思えない動きに恐ろしくなって逃げ出したくなってしまう。
「嫌と、止めてを繰り返して。怖がらせて申し訳ない」
耳元で囁かれ、私はコクコクと頷いた後「や、止めて下さいっ、嫌っ!」と叫んだ。
「だったら抵抗するなっ、大人しくすれば酷くはしない。嫌がってもお前はもう私の妻、私からどんな事をされても逃げられないんだっ」
言いながら、また腕を叩き始める。
何度も叩かれた腕は、もう真っ赤になっていて痛々しい程で、私は恐ろしさに泣きだす寸前だ。
許されるなら逃げ出したい、冷えた夫婦関係は覚悟して嫁いで来たけれどこんな怖い初夜は想像していなかった。
「お、大人しくしますから、抵抗しませんからっ、もう許してっ」
私の声は本気で怯えている様に聞こえるだろう、だって本当に怖い。
「だったら口を開くな、大人しくしていろっ!」
「ですが、あっ、な、何をなさるのですっ!」
叫んだ途端、扉に何か打つかる様な音がして思わず音のした方を二人で見てしまう。
「なっ、駄目っ。お止めくださいっ! 駄目つっ! いやああっ!」
視線を戻した私から、演技ではない悲鳴が出たのは仕方がない話だった。
夫、アンドリュー様は叩きすぎて真っ赤になった左腕を、どこから取り出したのか分からないナイフで切り付けたのだから、悲鳴を上げるなという方が無理な話だった。
「な、なぜ」
「嫌だ、止めてと叫んで、痛いと、許してと叫んで。……本当にすまない」
私の耳元に囁き謝罪しながら、ポタポタと敷布に落ちていく血を厳しい顔で見つめる姿に、動揺せずにはいられない。
私は恐ろしさに気を失いそうになりながら、叫んだ。
「や、止めてっ!」
「大丈夫だ。暴れるなっ! お前は大人しく従っていればいいんだっ! 口を開くなっ。恨むならお前の結婚を決めた自国の王を恨むんだなっ」
「そん、そんなことしたらっ! 駄目っ! 止めて嫌っ止めてお願いっ。痛いっ痛いの、お願い止めてっ! もう許して! お願いっ!」
囁く様な「大丈夫だ」という言葉の後、態とらしい大声が寝室に響く。
ポタポタと敷布を汚していく彼の血が恐ろしくて、私は必死に自分で自分を抱きしめる。
「抵抗するなっ!」
今度は自分の太ももを何度も叩きながら「そうやって大人しくしているなら優しくしてやる」と声を上げる。
「嫌っ! もう許して、お願いもう止めて!」
これは本心から出た言葉だった、太ももを叩く音が部屋中に響いて、騒ぐな大人しくしろという声が響いて、悪夢を見ている気がして熱が出そうだった。
これは悪夢でしかない、こんな現実は恐ろしすぎる。
ずっと私を罵る声がして、彼は自分を時々叩きながらまた大声を上げる。
そんな時が四半時は続いただろうか、私にとっては永遠に近い長さだった。
「止めて、止めてっ!」
何度もパンパンと叩く手が恐ろしくて、その暴力が自分に向かっているわけでは無いのに、痛みすら感じ始めていた。
そして、ふいに彼の左腕が視界に入った。
赤い血がたらたらと流れ続けていて止まる気配が無い。
彼は深く切り過ぎたのだろう、自分の腕をこんな風に痛めつけるなんて。
何のためにこんなことをしているのか分からないけれど、傷をすぐに塞がなければ。
「あの。触ります、神の光よこの者の傷を癒やせ」
「なっ」
思い切りよく切り裂いたのだと分かる腕の傷と、叩き過ぎて赤くなった肌を見ているのが嫌で、私は小声で詠唱し回復魔法を使ったけれど、使ってから気がついた。
王家は私の力をこちらに話をしていたのだろうか。
「傷は治しました。あなたが何を目的にしてこんなことをしたのか分かりませんが、目の前で怪我をされて放っておけませんから」
小声でそう言えば、無言で頭を下げられた。
「ふんっ、義務は果たした。……ここは片付けさせる、自分の部屋に戻って下さい。すまないそれはこちらに」
義務は果たしたの後を小声で言った後、彼は私に渡した紙片を回収すると、ナイフと共に上着の内側に隠してから上着を羽織った。
「本当にすまなかった。明日改めて謝罪させてください。私は自分の部屋で眠るっ、お前と一晩一緒に過ごすなどありえないからなっ!」
また私にだけ聞こえる様に小さな声で言った後で私に優しく毛布を掛けてから、大声を上げ足音も荒く扉に近付いた。
「これで満足か、初夜を行ったと早く帰って報告するが良い」
勢いよく扉を開き、扉の近くに立っていたらしい誰かに私に向けた声とは比べ物にならない程の恐ろしい声に、やはりさっきの罵声は演技だったのだと分かってしまった。
「ですが、証拠の品を頂きませんと」
女の声? この声の主が扉の向こうにいたの?
見届け人という制度が良く分からないけれど、なんて悪趣味な精度なんだろう。
私にはさっきの罵声は演技だと分かっているけれど、あの人にとって私は罵られながら初夜を過ごした可哀相な妻になっているのかと思うと、演技だったというのに情けなさに泣きたくなってしまった。
「私は気が立っている、今ここで殺されたいのか。彼女が部屋に戻ったら勝手に持って行くがいい」
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「いいから、あれの侍女達を呼んで来い。一人で歩けないだろからなっ」
冷ややかな声が開けたままの扉の向こうから聞こえて、話しながら遠ざかって行く。
二人の話し声と彼の行動への動揺が治まらず、ベッドの上で毛布に包まり座り込んでいたら、私が心の底から頼りにしているジジ達が来てくれた。
「お、お嬢様っ、なんて酷い。一体どんなご無体を」
「なんなのこれ」
ジジがベッドに近付くなり上げた悲鳴の様な声に、私は血だらけの敷布に視線を向けその途端体が震え始めた。
「お嬢様、こ、これはなんてご無体を」
「治癒致します、お嬢様」
「必要ないわ、でも早く部屋に戻らせて。お願いこの場所から早く離れたいの」
ガクガクと震えているのは、ナイフで躊躇いなく自分の腕を切り裂いた彼の姿を思い出したからだ。
なんていう茶番、芝居にしてもなんていう暴挙だったのだろう。
「ジジ、疲れたわ」
頭がガンガンと痛み始めたのは、今日一日続いた心労のせいなのだろうか。
私は何ていうところに来てしまったのだろう。
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