おきつねさんとちょっと晩酌

木嶋うめ香

文字の大きさ
上 下
48 / 80

想定外にも程がある3

しおりを挟む
 お昼の休憩が終って午後の仕事が始まった。
 先輩はしれっと出勤してきて、呑気な顔で隣の席の人と話をしている。
 視界の隅に入る先輩の顔、先輩が結婚すると知るまでは、時々視線が合うことが嬉しくてたまらなかったけど、今はほんの少しも見たくないに変わっている。
 
「……ふう」

 キーボードをカタカタと打ちながら、たった数日でこんなに意識が変わってしまったことに驚くとともに、ほんの少しも未練がないのが嬉しいし、そんな自分を誇らしいと思う。
 好きだから、不倫でもいいと縋ってしまう程未練があったら、この仕事環境は凄く辛かっただろう。
 でも私はすでに吹っ切れている、先輩に今ある感情は、結婚後も上手く付き合っていこうなんて二度と言って欲しくないということと、仕事の後輩で一応は付き合っていた相手が貯めていたお金を盗んだ、最低な行為について謝罪して欲しいってことだ。
 でも、この話をどうやってしたらいいんだろう。
 出来れば電話とかトークアプリとかじゃなく、先輩の顔を見て言ってやりたいんだけど、もしその為に時間を作って欲しいと言ったら逃げられてしまうだろうか。
 考えながら作業を終えたファイルを保存したその直後、パソコンの画面にチャットの画面が表示された。

「……え」

 小さなチャット画面、それは先輩から届いたメッセージだった。

(結婚するのやめた。カレンの奴、妊娠嘘だったんだ。あいつ最低だろ?)

 パソコンの画面を見て、文字を読んで、小さな「え」という言葉だけですませられた私は凄いと思う。
 叫ばなかったのは、驚き過ぎてメッセージの意味が理解出来なかったからだけど。

(どういうことですか)
(あいつ今朝生理になって、流産なのかと俺が慌ててたら妊娠したってのは嘘だったて認めたんだ)

 私の返信にすぐに先輩の返事が届く。
 花村さんはお祝いの会で、確かに「実は授かり婚なんですよ」と美紀ちゃんに言っていた。
 結婚と妊娠のダブルに、私は物凄い衝撃を受けてやけ酒に至ったのだからしっかり覚えている。

(周期が狂ったのを妊娠だって勘違いしただけじゃないんですか? そんなことで結婚止めるなんて花村さんが可哀相じゃないですか)

 結婚をするもしないも先輩の自由だと思うけれど、一旦結婚すると決めたのならそんなに簡単に止めるとか言わないで欲しい。

(勘違い? ナイナイ。あいつは結婚したくて嘘ついたんだよ。そう認めたし、だいたい避妊完璧だったのに出来たっていうからおかしいって思ってたんだよ。結婚しちまえばごまかせるって思ってたんだとさ、馬鹿だよな。だからそんな嘘つくやつ信用出来ないから別れようって言ったら、カレンの奴朝から大泣きしてさあそれで遅刻だよ。俺を騙したんだから慰謝料請求するって言ったらさあ、あいつ捨てないでって大騒ぎ、馬鹿だよな。だからこれから由衣とも気兼ねなく会えるから)

 もう驚き過ぎてキーボードを打つ手が止まってしまった。
 気持ち悪すぎて、ぎゅっと紺さんがくれたお守りをつけた手首を握る。手の平に伝わるお守りの感触、なぜかほんのり感じる温もりに、勇気を貰ってキーボードに手を伸ばす。

(そんな話、聞かされるの迷惑です。私はもう先輩と仕事以外で関わるつもりありませんから。二股しただけじゃなく、お金盗む様な人は信用出来ませんから)

 それだけ打って送信し、また縋る様にお守りに触れる。
 ほんのり伝わるお守りの温もり、それが私を励ましてくれる。
 もう、先輩と関りたくない。
 結婚を簡単にするとか止めるとか、別れるからまた私と気兼ねなく会えるとか、先輩の考えを理解したくなくて気持ち悪すぎて涙が出そうになる。

「紺さん、助けて」

 お守りをつけた手首をぎゅっと反対の手で握り、そう息だけで呟くと、急にお守りが熱くなった。

「……なっ。鈴木透! これはどういうことだっ!!」

 突然課長が立ち上がり、先輩の名前を呼んだから、皆の視線が先輩に向かった。

「え? あれ? まさか」
「何がまさかだ。これはなんだと聞いている!」

 普段温厚で怒鳴ったりすることがない課長の大声に、何があったと皆が先輩と課長を交互に見ている。
 私もその一人だけど、ふと見ると美紀ちゃんは泣き始めていて、神田さんは顔を真っ赤にして先輩を睨んでいた。

「鈴木、第一会議室予約取るからお前はそっちに行っていろ」
「か、課長。あの」
「誰に送るつもりだったか知らないが、そういうことだ」

 課長のその声に、先輩はひっと息を飲み顔色を変えた。
 大人しく部屋を出ていく先輩を見送った後あまりの衝撃に数分仕事に戻れずにいた私のパソコンに、課長から(すまないがチャットのログを見た。三浦さんも第一会議室に来て欲しい)とチャットが届いたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

非公開とさせていただきました(しばらくはお知らせのため残しますが、のちに削除いたします)

双葉
キャラ文芸
 キャラ文芸大賞に応募していた本作ですが、落選したため非公開とさせていただきました。夢である書籍化を目指して改稿し、別の賞へチャレンジいたします。  審査員の皆さま、読者として読んでくださった皆さま、ありがとうございました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜

あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】  姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。  だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。  夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。

蛇のおよずれ

深山なずな
キャラ文芸
 平安時代、とある屋敷に紅姫と呼ばれる姫がいた。彼女は非常に美しい容姿をしており、また、特殊な力を持っていた。  ある日、紅姫は呪われた1匹の蛇を助ける。そのことが彼女の運命を大きく変えることになるとは知らずに……。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

処理中です...