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しおりを挟む第一章 決意の朝
「ねえ、ロージー。私こんなに貧相な顔をしていたかしら」
鏡台の前の椅子に座る私――フェデリカ・ミケーレは鏡に映る自分の顔を見ながら、実家から連れてきた侍女のロージーに尋ねた。
緑色の瞳は濁り、目尻は情けなく垂れて、もともと細かった頬は今ではげっそりとした印象になっている。十歳は歳を重ねたように見えるほど、私の顔はやつれていた。
「奥様、そんなことは……」
事実を言った私に、ロージーは肯定することも否定することもできずにうろたえる。
「奥様、もうそう呼ばないで」
「……申し訳ございません」
いつもの癖で私を奥様と呼ぶロージーにそう言うと、彼女は悲しそうな表情を浮かべて頭を下げた。
「あなたを責めるつもりはないのよ。……でも私はもうそう呼ばれたくないの。ロージーなら私の気持ちをわかってくれるでしょう?」
ミケーレ伯爵家の使用人たちは私を『奥様』と呼びながら、陰では夫に見捨てられたかわいそうな子爵令嬢と馬鹿にしている。ロージーは私のそばでそれをずっと見ていた。
「私は……フェデリカ様の苦しみを誰よりも理解しているつもりです」
「ありがとう、ロージー。私は奥様ではなく、ただのフェデリカとして出ていくわ。荷物はすべてしまった? 忘れ物はないわね」
服や雑貨、そして調薬に必要な道具がすべて片づけられ、備え付けの家具以外何もなくなった部屋を見渡す。
旦那様であるブルーノ・ミケーレに嫁いでから一年間、王都にあるミケーレ伯爵家の屋敷の客間で私は暮らしていた。嫁入り道具として持ちこんだ物は、本来私が使うはずだった女主人の部屋にあるのだろう。
だが、その部屋に入る権利がない私には、それらが本当にあるのか確認はできない。
「はい。……フェデリカ様、もう少し華やかな髪飾りにいたしますか?」
いつも以上に私が地味な装いをしているからか、ロージーが手鏡で私の髪を鏡台の鏡に映す。気分を少しでも上向かせようとしてくれる優しさはありがたいけれど、おしゃれをしようという気持ちには到底なれなかった。
「いいの。離縁を願う伯爵夫人にぴったりだわ」
小さな白い襟のついた紺色のドレスにはレースもフリルもついておらず、髪飾りも銀製のシンプルな物を選んだ。
そう、私はこれから離縁の申請をするため神殿に向かう。
旦那様には、直接離縁の申請の話は言っていない。
――だって一年間、一度も彼に会っていないから。
結婚して一度も連絡をしてこない夫などいるのだろうか。もともとこの結婚は政略ではなく、彼が私を見初めた故のものだったのに。
彼に初めて出会ったのは、私が社交界デビューする夜会だった。
このモロウールリ国では十八歳で成人とされ、公爵家から男爵家までの男女は成人になる年、王宮での夜会に集められる。そこで王からひとりひとり成人を祝う言葉をもらう。
私が成人した年は、外交で他国を訪問していた陛下に代わり、王太子殿下が夜会に出席していた。その王太子殿下の側近として控えていたのが、旦那様だったのだ。
夜会の後、すぐに私の実家であるトニエ子爵家に求婚に来てくれた。彼とは七歳年齢が離れていたけれど、紳士的な性格に少しずつ惹かれていき、年の差を感じることはないくらい楽しい日々を過ごした。
彼が私を好きだと言ってくれたから、苦労を承知でこの家に嫁いできたというのに……旦那様、と一度も呼びかけたことはなかった。
結婚した当日の夜、旦那様は仕事で呼び出された。王太子殿下の側近であるから忙しいのは承知のうえで、それでも初夜だからと寝ずに私は旦那様を待ち続けた。
けれど、旦那様が不在のまま一夜が明けた。
翌朝、執事長のセバスはまるで汚い物でも見るかのように寝不足の私を見つめ、『まだあなたはこの家の女主人ではありません。ですので、女主人の部屋に住むことは許されません』と吐き捨てるように告げてきた。
ミケーレ伯爵家では、旦那様と初夜を過ごさないと正式な妻とは認められない。
そのため奥様と呼ばれてはいても、家政を取り仕切る権利はなく、女主人の部屋に入ることすら許されず客間で暮らすことになった。
セバスは私を女主人ではなく、夫に存在を忘れられている惨めな女としてしか扱わなかった。
旦那様が初夜に屋敷を出ていったきり帰ってこなかったからだ。
使用人たちに形だけの妻だと笑われても、夫に見捨てられたと馬鹿にされても反論すらできない日々。なぜ自分だけがこんなに苦しまなくてはならないのか。
……旦那様は私を思い出してさえいないのだろう。何度手紙を書いても返事は来ず、姿を見ることすらなかった一年。
セバスは旦那様は浮気などしているわけではなく、ただ仕事をしているだけだと言う。けれど、私を蔑む誰も彼もが憎くて信じられなくて、ただただこの自分の運命を不憫に思うしかなかった。
それでも、もしかしたら結婚して一年という節目の日だけは帰ってくるかもしれない、それが無理でも手紙の返事くらい届くかもしれない。
そう思って昨日の朝、私の決心をつづった旦那様宛の手紙をセバスに託した。
――今日何も言葉をいただけないのであれば離縁の申請をいたします、と。
結婚一年の贈り物、花の一輪などとそんな贅沢は言わない。せめて手紙の一通、いや、セバス伝いでもいいからひと言あれば、私は今後も大人しく旦那様の帰りを待ち続けようと決意していた。
そして、私の期待は見事に裏切られたのだ。
白い結婚は、女性から離縁を申請できる唯一の条件であり、幸か不幸か、私は白い結婚。そして、屋敷の者全員が私たちが白い結婚だと知っている。
つまり、この苦しみも今日で終わる。
昨日までの私の心は、嵐になる前のどんよりと曇った空のように憂鬱だった。ミケーレ伯爵家に嫁いだあの日、私たちを祝福するように澄み渡った空から太陽が降り注いでいたけれど、それはすでに過去のこと。結婚生活は厚い雲に遮られて、二度と光が届かないような絶望を感じていた。
けれど今は違う。雲の隙間から太陽の光が注がれるように、鬱々とした気持ちはどこかに消えて、少しずつ前向きな気持ちが湧いてくる。
「どんなに地味な髪形でも、フェデリカ様の美しさは隠せません」
「お世辞はいいのよ」
ロージーに鏡越しに微笑むと、彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべて鏡を魔法鞄にしまう。
「本当のことですよ! それにしても、この魔法鞄というものは何度使っても不思議ですね。この屋敷にあるものを全部入れても、まだ入るのですよね?」
元気がない私の意識をほかに向けたかったのだろう。ロージーは急に魔法鞄について話しはじめた。
私に甘いお兄様が嫁入り道具のひとつとして持たせてくれたこの鞄は、ハンカチと口紅を入れたらいっぱいになりそうな大きさだが、大量の物を収納できる。
さらに、とても丈夫でどんなに乱暴に扱っても傷ひとつつかず、私とロージー以外の者が使おうとすると中身が取り出せない仕様になっていた。
「ええ。しかも生物を入れても腐ったりしないし、中に入っているほかの物に臭いや血がついたりもしないの。いったいどういう仕組みなのかしら?」
「私にはわかりませんが、この美しい光沢が、まさか魔物が吐き出す糸なんていまだに信じられません」
「そうね。魔物はおそろしいけれど、素材になるからある意味ありがたい存在でもあるわよね。この鞄も魔物の素材があるからこそできたと言えるわ」
伯爵夫人が持つにふさわしい高級な絹製の鞄に見える魔法鞄は、実際は蜘蛛型の魔物が吐き出した、魔糸で作られていた。
そもそもこの世界には、魔物と言われるおそろしい獣がいる。
それらはこの世の澱みである魔素から生まれ、荒れた土地に多く現れるという性質を持つ。農民でも狩れるほど弱い魔物から、冒険者の中でも最強と言われる上級冒険者でなければ倒せないものまで、さまざまな種類が存在している。そして、その狩った魔物から得た素材を活用して私たちは生活しているのだ。
そんな魔物の素材から作られたこの魔法鞄は、優れた錬金術師である私のお兄様の入魂の作だった。
お兄様は錬金術と調剤の能力のほか、錬金にも調剤にも役立つ鑑定や薬剤合成、素材抽出まで授かっているとても珍しい人だ。
私は錬金術と調剤の能力を持つが、お兄様の能力にはとても敵わない。
人は誰もが何かの『能力』または『職業』のどちらかを最低ひとつ持って生まれてくると言われている。貴族であれば三歳、平民であれば七歳のときに神殿でそれを鑑定してもらう。
「魔物はおそろしくて不思議な存在です。でも、私にとっては魔法も同じくらい不思議です。剣士や弓使いと違い武器はないのに、魔物を狩れるのですから」
「魔法の適性がなければ、そう感じるのかもしれないわね」
魔法の適性は能力や職業とは違って、魔法を使うための力、いわゆる力の有無で判断される。魔力があるのは貴族の血筋の者がほとんどで、平民は滅多にいない。
魔力の傾向によって使える魔法が異なり、人それぞれ得意不得意がある。
私は錬金術に使う魔法と攻撃魔法が得意だ。薬草採取の際、自力で魔物を狩れる程度には使える。薬師には攻撃の術を持たない者も多いけれど、冒険者や護衛に頼らず身を守れるのは自分の強みだと思っている。
「私も魔法が使えたら、魔物を狩るとき、お役に立てるのに残念です」
「ロージーは弓で狩れるじゃない、あれだけの腕があるなら十分よ」
魔法が使えないロージーは魔物を狩るときは弓を使う。その腕はピカイチだ。
「ありがとうございます」
ロージーは顔をほころばせる。
「お兄様の錬金術の才能はやはり素晴らしいわ」
魔法鞄を見つめながら、私はお兄様の錬金術の腕をうらやましく思う。
トニエ家は子爵家だが、親族はみな優れた錬金術師であり薬師である。そして、錬金術師と薬師の才は小さな領地しか持たない実家に富をもたらしてくれていた。
中でもお兄様は優秀な錬金術師で、魔力の適性がない人でも魔法を使える魔道具というものを開発したり、改良したりしている。魔物の心臓に当たる魔石を動力として使うことで、魔法を使えるようにしているらしい。
この国で普及しはじめている、不妊症かどうか確認できる魔道具と親子鑑定の魔道具はお兄様が作った。
子ができない理由は、女性側にあるというのが常識だったけれど、お兄様は女性だけではなく男性に原因がある場合もあるのでは? という考えからこの魔道具を作ったのだから、その発想力には驚くばかりである。
また薬師としては、トニエ家の者でしか作れない薬がいくつかあり、『国の薬箱』と言われているほどだ。
「お兄様の腕には敵わないけれど、実家に帰ったら好きなものをたくさん作るわ」
自作の塗り薬を入れた小さな陶器の器を手に取りながら、私はロージーに宣言する。
「はい、好きなだけ作ってくださいませ」
この屋敷で暮らして一年、いいことは何ひとつなかったけれど、これからは違う。
私は三通の手紙を机の上に置くと、清々しい気持ちで玄関へ向かった。
「奥様、お出かけですか?」
廊下で、下女のステラが私の顔を見てうれしそうに近づいてきた。
彼女は私が使っている部屋の掃除を担当している。下級使用人である彼女が女主人の部屋や客間を掃除するのは普通はありえない。おそらく、掃除担当のメイドが彼女に仕事を押しつけたのだろう。
本来彼女の仕事ではないというのに、彼女は丁寧に私の部屋を掃除し、心を尽くして仕えてくれていた。
「ええ、神殿に。セバスはもう用意できているかしら」
「執事長様でしたら玄関の前にいらっしゃいますよ」
セバスは『薬師の仕事で出かけるのは仕方ないとしても、旦那様の許可なく外出するなんてはしたない』と言って、私が商業ギルドに薬を納品しに行くときは御者が、外出するときには彼がいつもついてくる。神殿に行くと昨日彼に伝えていたから、勝手に用意しているだろうと思っていたが、その通りだったようだ。
「わかったわ、ありがとう。……ステラ。試しに作ったの、使ってみて」
小さな陶器の器を彼女に手渡す。
「こちらは?」
「傷の回復薬よ。私、部屋の植木鉢で薬草を育てていたでしょう。それを収穫して作ってみたの。魔素の少ない土でも薬草の効果はあるみたいだわ」
濃い魔素は魔物だけではなく、強い薬効のある薬草も生み出す。この一年間、魔素の薄い王都で薬草が育てられるのか実験していた。
「そんな貴重なものいただけません」
「いいのよ、あなたはいつもとてもよく働いてくれているから、これは私からのお礼よ。受け取って」
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
この屋敷の人間で唯一私に精いっぱい仕えてくれたステラ。本当は彼女に今までのお礼も言いたかったけれど、離縁の申請を周囲に秘密にしている今はまだ口にできない。
「では、行ってくるわね。それ、みんなに見つからないようにね」
「はい、いってらっしゃいませ」
神殿で手続きを終えれば、私がこの屋敷に戻ってくることはない。ステラにはこれからも私に仕えてほしいが、それを決めるのは彼女自身だ。部屋に置いた彼女宛ての手紙を読んで、ステラが私のところに来てくれることを願う。
ステラと別れたあと、私はロージーの手を取り馬車に乗り込んだ。
「行きましょうか」
この屋敷をもう見たくない、と座席に深く座り目を閉じる。それからしばらくして、セバスが馬車に乗り込んできた。
「お待たせいたしました。……奥様はお休み中ですか。呑気なものですね。おい、出してくれ」
私が寝ているのが気に入らないのかセバスは嫌みを言う。そして御者に命令すると、馬車が動き出す。
「セバスさん、お伺いしたいのですが」
ロージーが打ち合わせ通りにセバスに質問するのを、私は眠ったふりをしながら聞く。
セバスは私が何を聞いても答えてくれず、ロージーのほうがまだ会話をしてもらえるから、最後に聞きたかったことを尋ねるように頼んでいたのだ。
「なんでしょうか」
セバスの冷たく事務的な声が、馬車の中に響く。
屋敷の使用人たちには穏やかな口調で会話する彼だが、私たちに対しては冷たく突き放したような態度をとる。その声を聞くたびに悲しい気持ちになっていた。彼にとって所詮私は、格下の家の娘で伯爵家の嫁にはふさわしくないのだろう。
「旦那様に、奥様のお手紙はすべて本当に届いているのでしょうか」
「もちろんです」
「では、お返事は」
「奥様にお渡しできるものはお預かりしておりませんし、言伝もございません」
セバスはきっぱりと言い切った。そして私の気配を窺ったのち、声を低くして続ける。
「旦那様は大変お忙しいのです。奥様は忙しい旦那様に執拗に手紙を送り、旦那様の貴重なお時間を邪魔していると言うのに、返事まで望むのは贅沢です」
贅沢……? 結婚して一年、一度でいいから返事が欲しいと望むのは贅沢なのだろうか。
セバスの言葉にそう反論したいが、寝たふりをしている私は何もできない。
既婚の女性が使うべき嫁ぎ先の家紋入りの便箋は、私には用意されないままだった。旦那様の妻と認められていないから、自分で用意したもので手紙を綴るしかなかったのだ。
婚礼の儀に参列してくださったお客様への礼状さえも家紋入りの便箋は使わせてもらえなかった。私が礼状の送付を許されたのは、両親と祖父母と数人の友人だけで、それ以外のお客様へは、おそらく侍女頭とセバスが送ったのだろう。誰に送るかすら確認させてもらえなかったからわからない。
毎回悲しみと屈辱を味わいながらも、旦那様へ手紙を綴ることを止められなかった。
最初は旦那様の忙しさと体調を気遣う内容だったのが、会えない不安を綴るものになり、何か私が失態をしてしまったのかと尋ねるものに変化していった。そして最後には、使用人たちからのむごい仕打ちについての嘆きになり、帰ってこない彼への悲しみを書いた。
ほんのわずかな時間だけでもいいから帰ってきてほしい、という願いを綴った手紙にも、返事はなかった。
「王太子殿下の側仕えが大変なことは、学のない私でも想像できます。でもたったひと言、お返事を書かれる時間すら取れないのでしょうか」
「……ええ」
ロージーの問いに、セバスは珍しくためらうように答える。こんな彼の声を聞くのは、嫁いでから初めてだ。
「私は着替えや書類などを王宮に届ける際に、旦那様に都度報告し、屋敷の管理について些細なことでも口頭か手紙で必ずご指示をいただいています。ですが、旦那様が奥様についておっしゃったことは一度もありません」
目を閉じて声に集中しているからか、冷たいセバスの声に少しだけ躊躇が含まれているように感じる。
「先ほども言いましたが、私は旦那様に奥様からの手紙はすべてお渡ししています。しかし、旦那様からの返事はいただいていません。もちろん隠しているわけではありません」
私だけに連絡がないのか、セバスにも連絡できないのかそれを知りたかった。彼が嘘をついていないのであれば、旦那様は屋敷には連絡できるのに、私の手紙にはひと言の返事すら書かなかったということ。
聞きたくなかった。けれど、これは絶対に必要な確認だった。
帰ってこられないのは理由があると、会えなくても私を想ってくれていると信じたかった。使用人たちが陰で私の悪口を言っていても、旦那様だけは違うと思っていた。彼に会って気持ちを確認できたら、私はまだあなたを想っていると伝えられたら……
彼への想いを捨てきれず、私だけではなくセバスにも連絡が来ていないのなら、せめてもう一年待ってみようかとも考えていた。
けれど最後の希望、いや、未練は消えた。
彼にとって私はその程度の存在でしかなかったのだと、ようやくわかった。
「わかりました。失礼なことを伺い申し訳ありませんでした」
「謝罪は結構です。奥様を心配されるが故だと理解しておりますから」
「ありがとうございます。では、もうひとつ。今後も奥様はあの客間にお住まいのまま、何もかも今までと同じですか?」
ロージーは私が頼んだふたつ目の質問をセバスにする。
「しきたりですから。まだ奥様には屋敷のことをお任せできないと、以前説明しているはずです」
「では、メイドや下働きが陰で奥様を『トニエ子爵令嬢』と呼ぶのも仕方がないと諦めるしかないのですか?」
ロージーは、私が頼んだ以外のことまでセバスに尋ねる。
「なんですって?」
セバスの声が高くなる。
その心から驚いている声に私は呆れてしまう。使用人たちの言動に気がつかなかったのだろうか。侍女頭には客人とすら認められず、軽んじられていたことも知らなかったのだろうか。
主人が一年もほうっておいている妻に、本気で仕えたい使用人などいないとわかるはず。
「どういうことですか」
「食事はカチカチのパンと、具の代わりにゴミが浮く冷えたスープが廊下に置かれていました。洗濯を頼めば皺だらけの生乾きです。あれらはすべてあなたの指示だったのではありませんか」
私に関わっていた使用人は一部だったため、屋敷にいる全員ではないのかもしれない。だが、それでもその扱いはひどいものだった。ステラが気遣って自分の食事を私に渡そうとするほど、使用人たちはとても口にはできないようなものを出して、陰で笑っていたのだ。
彼らが私を常に見張っていたため、魔法鞄があっても、焼いたお肉など匂いがするものは持ちこめず、お兄様が用意してくださった食料でなんとかしのいでいた。木の実と乾燥させた果物とチーズを混ぜて焼いたパンや干し肉、匂いで気づかれないようにわざと冷ました野菜のスープを魔法鞄の中に隠し持っていた。そして、使用人たちに気づかれないようにビクビクしながら食べていたのだった。
「奥様は現状を旦那様への手紙に何度も書かれていました。ですが、改善の指示がセバスさんに来ていないのなら、旦那様はたいしたことではないと思っておいでなのでしょうね」
さすがに耐えかねた私は、義父母にも使用人の態度を何度か相談した。
しかし、『格下の家から嫁いできた者だから使用人に舐められているのでしょう。あなたが女主人としてしっかりしていれば問題はなくなるはずよ』と一蹴されてしまった。
私自身が改善するべきことだと片づけられて、それ以来、義父母に話す気力も失せた。
「そんな……」
「これは声を記録する魔道具です。使用人たちが奥様をどれだけひどく言っていたか記録しています。一度しか再生できませんので、旦那様か大旦那様の前で確認してください」
いつの間にロージーはそんなものを用意していたのだろう。一度しか再生できないのであれば、簡易型の魔道具だから自分で用意したのだろうか。
「セバスさん、使用人たちの再教育をされたほうがいいですよ。トニエ子爵家は田舎の下位貴族ではありますが、使用人の質は伯爵家よりよほど上だと思います」
いつも優しく私を励ましてくれているロージーの声とは思えない、低く冷たい声色だった。
私は驚いて、寝たふりを忘れて瞼を開きそうになる。
「何が言いたいのです」
「トニエ子爵家の使用人は、たとえ相手が平民だとしても客人を虐げるなど絶対にしません。ミケーレ伯爵家とは違います」
ロージーは怒りを溜めていたのだろう。気づかれないように薄目を開けると、ロージーは無言になってしまったセバスを睨みつけている。
「……そろそろ神殿に着きますね。奥様、到着いたします」
「……あら、私いつの間にか眠っていたのね」
「昨夜も遅くまでお薬を作られていましたから、お疲れなのでしょう」
先ほどのセバスの嫌みに対抗しているともとれることをロージーは言いながら、私を起こす。
馬車が止まり、私は彼女の手を借り馬車を降りた。
「ミケーレ伯爵夫人、お待ちしていました」
神殿の入り口には、ふたりの神官が待っていた。
「私は司祭様とお話ししてきますから、あなたは寄付の手続きをお願いね」
セバスにそう声をかけると、彼は深々と礼をとり神官とともに歩いていく。
「ロージー、やりすぎよ」
「最後にどうしても言ってやりたかったのです、悔いはありません」
平然と言い切るロージーに呆れながら、もうひとりの神官に案内され、司祭の部屋へ向かった。
飾りのひとつもない、素朴な石造りの神殿の中を歩きながら私は考える。
これから白い結婚による離縁申請を行う。それが認められれば、離縁の申請が受理される。
つまり、つらかった結婚生活がとうとう終わるということ。
受理された瞬間、私は何を思うのだろうか。旦那様への未練はなくなったとはいえ、心の奥底にある悲しみが消えるのかはまだわからない。
「こちらの部屋で少々お待ちください」
神官は控室まで案内すると、中に入らずに去っていく。
私は部屋に足を踏み入れる。誰もいないそこは窓を背に机がひとつあり、向かって右側に細長いテーブル、左側に椅子が四脚置かれていた。
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