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後れ髪のお絹

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「なぁお絹ちゃん。まだ湯屋はやっているだろ。ご隠居のお酒の燗は俺が見るからさっぱりとしておいでな」
 久しぶりに会う湊町の御隠居、そして権左と三人の酒に少々酔って来たお絹であったが顔を振り、
「いえ、私なら大丈夫です。折角御隠居がいらして下さったんですもの……」
「俺に気遣いなら無用だよお絹。仕事で疲れてるのにお燗番までさせちまって済まなかったな。遠慮なく湯を使いにいっておいで。後は爺ぃ二人でちびちびるとするよ」
「……」
 少し俯き考える様なそぶりをし、暫く間を於いてから、
「それじゃぁ、遠慮なく湯に行かせていただきますね……」
 と、座を立つお絹。
 お絹が湯屋へ行くのを見届けてから、御隠居、溝呂木善右衛門が切り出した。
「お絹がここへ来てもうどれだけ経つね……」
「へぇ、十二年になります。お絹ちゃんももう三十、早く所帯を持たせてあたしゃどこぞに引っ込もうと思っているんですが、あの別嬪ですからねぇ、数ある縁談話にゃあ目もくれずにいるうちにあっというまに大年増でさぁ」
「十八の齢の頃から三つは年嵩に見えたなぁ。びっくりするほど色気が有ったぜ、あの頃の”後れ髪のお絹”にゃぁよう」
「へい、そうでしたねえ」

 この年から十二年前であるから宝暦三年の事である。久しぶりに行われた成田山新勝寺の出開帳に、永代寺御門前は身動きが取れぬ程の混雑になった。当然巾着切りも出るであろうということで、寺社方から南北の町方へ依頼があり、御門前参道の警戒の為に溝呂木善右衛門並びに権左一行も駆り出されていた。そんな時、参道をそぞろに歩いているお絹を見かけたのである。
 混み合う参道を歩いていて権左は一目でこいつは巾着切であることを見抜いた。女子にしては背が高く五尺三寸(160㎝)はあろうか。周囲に配る目の鋭さ、そして少し間をおいて、藍染めの青梅縞に小粋な絹裏地を覗かせて雪駄の尻金しりがねをチャラチャラと石畳に鳴らして女の後を歩いている男。
 権左は直ぐにこの二人が共犯であることを見抜き、留蔵に男を見張らせ、権左は女を、そして善右衛門は目立たぬ様に少し距離を置きしんがりを務め、奴らが仕事をした直後に二人とも押さえてしまう事にした。善右衛門は既に役羽織は脱いでしまっている。
 暫くして、奴らは前髪の丁稚に風呂敷包みを持たせた如何にも商家の主に仕掛けた。
「あっ、ごめんなさいね……」
 あたかもよそ見をしたまま商家の主にぶつかった体の女は、振り向きざまにうなじの後れ毛を気にする様に指で押さえ、見返り際の流し目で軽く詫びる。その姿の余りの艶っぽさに商家の主も一瞬見とれてしまい時が止まる。その時には既に女は主の紙入れを青梅縞に渡してしまって何も持っていない、という寸法である。
「痛てててっ、何をしやがるっ」
 大きな男の声にハッとした女は前を見ると、青梅縞が留蔵に手首を捻りあげられて悲鳴を上げていた。
 慌てて踵を返し商家の主の方へ逃げ様とした所へ権左が仁王立ち、二人はうんもすんも無いままに新大橋東詰の深川鞘番所へしょっ引かれた。
 二人は別々の穿鑿所で取り調べを受けた。青梅縞の男が持っていた紙入が商家の主の物と同じ、所持金〆て二両三分二朱、その他、主の紙入れには商家の本家筋から出された商品の貸付証文があり動かぬ証拠となっていた。
 この時代、巾着切、所謂掏摸すりは一度目は敲き刑か入れ墨。二度目、三度目は増し入れ墨、四度目は有無をいわさず死罪である。掏摸は微罪である。そして掏られる側にも問題がある。という考え方から、掏り取った金額の多寡に関係なく、三度目までは命は取られないが、仏の顔も三度まで、四度目は有無を言わさず斬首となる。そしてこの青梅縞の男には既に左の二の腕に三本の墨が入っていた。
 二人とも、頑として口を割らずにいたが、善右衛門が青梅縞に、正直にすべてを話せば今回は見逃しても良い、と持ちかけた。
「ほ、本当ですかい、本当にお目こぼし頂けるんで」
「ああ、お前さん今回で四度目、首が胴と離れる事になるな。だがな、すべて喋れば御上にも御慈悲はある。良いか、すべてを話すのだぞ」
 巾着切には党があり、独り働きなど出来るものではなかった。江戸市中には幾つかの党があり、縄張りもしっかりと定まり、獲物は全て親分である元締の元に一度は集まり、そこから分配されることになっていた。他人の縄張りで勝手な仕事をすると盛り場に屯している党の一味に見咎められ、簀巻きにされて大川へ投げられるか背中に匕首が刺さったまま無縁仏として辺りのれ寺に放り投げられて仕舞である。
 命欲しさに、青梅縞は全てを喋った。元締の名、元締の住処まで。厳密には、元締の手下である小頭の住処であったのだが。
 善右衛門はこの時、いつもの善右衛門では無かった。自分でもどうしてこの様な無茶をするのかと思う程であった。善右衛門は早速にその小頭に繋ぎを取り、一党の元締、濡れ手拭の宗十郎と会った。そしてあの十八の娘、お絹を党から抜けさせ堅気にさせる約束を取り付けたのである。
 これには権左も同席していた。権左と宗十郎の付き合いもここから始まっているのであった。
 巾着切は一度党に入ってしまうと抜ける事はまず許されない。なので大抵は累犯が重なり死罪になる。極々運が良く、掏りの技に長けた者だけが生き残り、党の幹部へと出世をする、そう、この宗十郎の様に。
 ともかくも、善右衛門は宗十郎に指定された橋場の料理屋の奥座敷で宗十郎と会った。
「旦那、そこまであのお絹に御執心とは中々にお目が高い。黒塀の一軒家にでも住まわせますか」
 宗十郎は仕立ての良い縞の単衣を小綺麗に着こなし、膝を揃えている。端正な顔立ちで、黙って座っていると大店の番頭といった風情である。宗十郎は、お絹を妾にでもしたいのか、そう、善右衛門に問うた。
「いやぁ、俺は自分でも、何故こんな危ない橋を渡っているかと思う程だよ。まあ、笑ってくれ。俺には子供が二人いる。倅はもう二十二になって見習いとして南の御番所へ出仕しているよ。そして末の娘がな、あの女、お絹と云ったな、あれと同い年なんだが……どうした訳だか、麻疹に掛かってこの春にあっという間に死んでしまった。その娘にな、どことなく、面影が似ている……様な気がするのだ」
「……」
「旦那、お情けも結構でござんすが、雪深い越後で生まれ、年端もいかぬ小娘の時に実の親から角兵衛獅子に売られ、散々な目に遭ってきて、角兵衛獅子の親方の目を盗み裸足で逃げ出したのは良いが慣れない江戸では何が何やら判らずただひたすらに歩き回り、七日も何も喰えずに気を失って道端で倒れていたお絹を拾って来たのがあっしの乾分です。それから十年が余り、あの娘は他人様の懐を狙う事だけに精を出してこの党に居場所を作ったんです。そんな女なんですよお絹は。皆さん方が生きてきた世界とは何もかもが違う。そんな女をポンと堅気の世界へおっぽり出して、独りで生きていけるとお思いなされますか」
「そ、それがしの屋敷で下働きをして貰おうかと思うている。まずは堅気の水に慣れて貰って、それからおいおいと手に職を付けて貰おう、とな」
 宗十郎は飲んでいた茶を噴き出しそうになった。
「旦那、あんな女をお屋敷に置いたら、その日の内にお宝全部持って得意げにあたしの所へ帰ってきますよ。良いですか、皆さんの堅気の世界には住めない者も、この広い江戸の中にはおるのですよ。そのことはご料簡くださいまし。皆さまの尺度ですべてを測ろうとなすっても、却ってことが面倒になるだけな気がいたしますが」
 宗十郎はまるで説教をしているかのような口調である。宗十郎、この時四十五歳、権左より二つ程年上である。
 そこへ、権左が口を挟んだ。
「私には子供がいません。女房は髪結い床をやっています。巧みに他人様の懐を狙える手先があるんだ、きっと良い髪結いになるでしょう。どうでしょう、元締」
「何度も云いますが、あっしがお絹を自由の身にしたとして、奴がやはり党に残りたい、と戻ってくるとしたら、これには我らとしてはどうにも請け合い兼ねるということを、ご理解願えますか。巾着切の親玉風情が高い所からお役人様へ物を申して誠に申し訳ねぇんですが、後々話が違うと申されましてもこればっかりは……」
「お絹が堅気になれるかなれぬか、は受け入れる我ら次第という事を申しておるのだな。宜しい、承った」
「その上で、そちらのお約束は果たして頂けますので」
「伝馬町へ繋がれているお主の弟、与一郎へ合わせる件だな、勿論、武士に二言はない」
 宗十郎の実の弟である西陽にしびの与一郎が四度目のお縄で死罪が決まり伝馬町に繋がれている。如何な善右衛門とはいえ、千代田のお城で上様と御老中方が死罪とお定めになったものをひっくり返す事は出来ない。が、今生の別れに半刻程、酒を酌み交わすゆとりを与えること位なら出来る。善右衛門は宗十郎へ、お絹を堅気にする条件として青梅縞の男の無罪放免と共に宗十郎に弟与一郎との面会を約束していた。
「ようござんす。では約定なりました上は、手前どもはお絹は一切知らぬ者。我ら一党から一切手出しは致しませぬ。仮にかの女が党へ舞い戻りましてもそちら様へお返し申します」
 宗十郎は居住まいを正し膝を今一度揃えて深々と頭を下げた。
 
「最初の三月は、毎晩寝るに寝付けずに、この土間をうろうろしておりましたよ。今日、逃げ出すんじゃねえか、今日こそ姿を眩ますんじゃねえかってねえ」
 権左は猪口の酒に映る己を嗤いながらつぶやいた。
「お絹には髪結いは天職だったのだなぁ。お夕が実の娘の様に可愛がってくれたのが何よりだったのであろう。あのはすっぱなお絹がお夕の剃刀の動きを目を皿にして見つめておったのをみた時、俺ぁこれはもう大丈夫だって思ったぜ。だがなぁ、俺の思い込みで結局は全部お前さんにおっつけちまったよなあ。その足も一緒だ。俺はとっつぁんの人生を踏み台にして出世もし楽隠居もしてるんじゃねえかってなあ、時折、この辺が苦しくなることがあるんだ」
 善右衛門は右手の親指で胸の真ん中を押さえながら云った。
「何を仰ってるんですか御隠居らしくもない、大工でぇくの倅に生まれながら餓鬼の頃から暴れん坊で喧嘩三昧、博打打ち位にしか落ち着き先はねえと実の親にも匙を投げられていたこのあっしを櫓下の十蔵親分に因果を含めて預けて下さったのは溝呂木善右衛門様じゃぁございませんか。あっしゃあねえ旦那、お絹ちゃんがいなければとっくにこの家で寂しく独りっきりですし、大恩ある旦那の為に、一度位お役に立てたと仰ってくださるだけでもうそれだけで……」
 言葉が詰まる権左。
「お互い齢を喰って涙脆くなっていけねえやな権左よ。おっと銚釐が空の様だ、御本尊も偶には御動座と洒落込むぜ」
 と空いた銚釐を持ち酒の燗を付けに台所へ立とうとする善右衛門を制しようとする権左。
「権左よ、俺ぁもう六十をとおに超えた爺様だがな、足はまたしゃんとしてるし、三番瀬に脚立立てても一刻や二刻、背筋を伸ばしたまんま竿を動かしてるって佃の爺さんにも褒められてるんだ」
「もったいねぇ……」
 権左が拝む真似をして暫く経ち、燗が付いた新しい酒を持って善右衛門が戻って来た。
「御隠居、あっしの足の話で思い出したんですがね、少し、聴いちゃいただけませんか……」
 少々付き過ぎて熱燗になった酒を目を細めながら呑みながら、善右衛門は頷いた。
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