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第1章「火星へ」

赤本(1)

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 航海士は、航法や技術を常に新しいものに保つため、10年に1回ペースで資格の更新が必要だ。
 もちろん新しいコロニーが浮かんだり新規航路が開拓された場合、それは数日と空けず情報が送られ、コンピュータのナビゲーションデータが更新されるが、法律や規則が変わった場合は知識として知っていても、とっさに身体が動くかというと妖しい。
 コンピュータによる操船中でも、マニュアル操作が優先される。
 どんな状況下でも正しい判断ができなければいけない。
 そのため、俺も今回の航海が終わって火星に着いたら、講習と試験を受けなければ、航海士の資格を失効する。

 最近の出題例や想定される問題をまとめたものを、航海士はなぜか「赤本」と呼ぶ。
 実際には紙の本どころかディスクでもなく、ただの電子データだが。
 そこからランダムに問題が出され、俺たちはそれと格闘することが半ば義務づけられている。

 いくつもの楕円が重なる3D映像を、どれくらい睨みつけただろう。
 航路と姿勢を修正したときにこの船が映っていたセンターモニターに、今は「赤本」から問題が投影されている。
 と。その下からノック音がする。ああ、あのガキか。
 俺は映像を消すまでもないと、ハッチを開けた。
 光の中からガキが現れた。
「ヒマい!」
「だったら寝てろ!」 
 言う俺を無視して後ろを振り返り、今自分が出てきたハッチ上に投影された3D映像を見る。
「せこー!
 一人で映画観てたんやー。
 って、一人? えっちいの?」
「バカヤロウ!
 勉強だ! 問題集だ!
 これがすらすら解けるようにならないと、俺は船から放り出されるんだ!」 
 俺がそう言うと、ガキはちらっと映像を一瞥すると楕円状に灯る赤い点をさした。
「これがここにきたら、こっちの青いのが追いかけてきて、ここで一番近うなるな」
 と、ピンポイントで3Dモニターの虚空を指さした。

 単純に、定点間の長さの話ではない。
 赤い点も青い点も動いていて、その動きを読んで未来予想し、最短を求めるという問題だ。
 出題としては「惑星Aの衛星Bから衛星Cに至るのに、最短となるポイントSを求めよ」となる。
 ヒントと難易度アップを狙って衛星BとCの公転速度が書かれているが、それを3Dモニターに表示したものを「ヒント」も読まずに当ててみせた。
 このガキ。こう見えて映画とかに出てくる「天才少年」のたぐいか!
 だとしたら、とんだ拾いものだ。
 俺は2Dペーパーに次の問題をプリントアウトして、ガキに手渡した。

「?」
 ガキが何度も、プリントと俺の顔を見直す。
「なんなん?」
「いいから解いてみろ!」 
「やからなんなん?」
 俺は「天才少年」と対峙するのは初めてで、どう対応すべきか困った。
「見ての通り問題集だが……簡単すぎたか?」
 そう尋ねる俺だが、ガキはまだ納得がいかないらしい。
「問題って? 変な記号があるだけで、何が問題なん?
 問題いうんなら、破って捨てたらええやん。
 あ。このペーパーが丈夫で破りにくいって問題?」

 ひょっとしてだが。
「オマエ、文字は読める……よな?」
 問う俺にガキはなぜか胸を張った。
「知ってるわけないやん!
 てか、モジって頭痛になるための変な呪文やろ?
 俺はマゾちゃうから、そんなんはいらひん!」 

 言われてみれば、レポートをはじめとする文字列に、大人はしばしば頭を抱える。
 が。文字は情報の記録・伝達・共有化のためには、絶対に必要なものだ。
 俺はガキの頭のてっぺんから足の先まで見直して告げた。
「オマエが火星で何をしたいのか、俺は知らないし知る気もない。
 ただ、予言してやろう。文字を知らないと絶対に失敗すると、絶対つきで!」 
 つづけて
「文字を知っていたら上手くいくとは言い切れん。
 ただ、知らなかったら絶対に上手くいかん!」 
 そう断言した俺に、ガキはあっけらかんと言い放った。
「したらその呪文、おっちゃん教えて!」 
「赤本」の気分転換に小学生の家庭教師をするようなものかと、軽い気持ちで俺は応諾した。

 さて、どこから教える? 単語か文法か?
 が、その悩みはすぐに消えた。
 ガキはアルファベットが26個あることを知らず、大文字と小文字でトータル52個あるというと、それだけで顔をしかめた。
 ガキがどんな環境にいたのかは知らないし、興味もない……と言えばウソになるか。
「『A-1』とかのハッチを見たことがあるだろう!」 
「A-1?」
「こういうのだ!」 
 そう言って俺は、ペーパーにペンを走らせた。
「わかった! 端っこって意味やな!
 なモン常識やん。バカにすんな!」 
 文字でなく、本当に「記号」として今まで認識していたのか。
 ふん! と鼻息を荒くするガキの頭に1発入れた。
「オマエは立派にバカだ!」 

 アルファベットを連ねて、単語ができる。
 単語を並べて文章ができる。
 単語の文字数に制限はなく、同じ単語でも並べ方で文章の意味が変わる。
「それ考えたヤツ、ホンマモンのアホやな」
 あきれてさえ見せる。
「なもん覚えんかて、俺おっちゃんと話できてるし、別に困らんやん?」
 …………。
「だったら、たとえば、だが。
 そう言って話を聞き伝えてってするうち話がずれていって、『何かを積み上げろ』って言われたのが『何かを壊せ』になったことはないか?」
「ああ。殴られるヤツな。殴られて覚えるんや」
 よくあるとガキが頷く。
「文字で伝えたら、殴られなくなる」
「すげー! 頭痛を作ったり消したりできるんや! 万能やん!」 
「万能じゃないけどな」
 そう言うと、俺はまた頭を抱えた。

 もっとも、ガキに文字を教えるのは「赤本」のついでだ。俺は問題集を3D投影して、やはり頭を抱える。
「頭痛を作る呪文」とはよく言ったものだ。

 俺が頭を抱えているのは、より実践的な問題だ。
 火星の衛星フォボスを使った重力カタパルトの問題だが、突入速度とフォボスの引力を指定通りに代入しても、「回答」の数字にはならない。
 10年前には易々解けたはずが、きれいさっぱり忘れている。
 そもそも宇宙港への入港と出航は宇宙港の管制官が指示し、航海士はその指示に従えばいい。
 なんならコンピュータに任せて、腕を組んでいるだけでもいい。現実には使われない設定だ。
 とはいえ、問題は問題だ。
 入射角などを変えてみても、「回答」の数字の1/5にすら届かない。

 ガキには、船にもれなく置かれている「聖書」と辞書を渡している。
 早すぎるとも思ったが児童書籍などないし、聖書の冒頭「創世記」は挿絵もあって、それなりに読み物としての体をなしている。
 とはいえ、アルファベットすら知らないガキが本当に読めるとは思っていない。
 本命は辞書の方で、これのページを前後しているだけで、アルファベットの種類と順番くらいは覚えてくれるんじゃないかと期待した。
 ガキは俺と会話ができる以上、音がわかれば少なくとも文章のめどが立つ。
 通信機以外にはほとんど何もない船長席だが、連絡用にタッチパネルディスプレイは机に埋め込まれている。
 ガキがタッチパネルディスプレイに文字を書けば、通信機を通じてコンピュータが「読み方」を返してくれる。
 とはいえ、初めのうちガキは「A」と「△」の区別もつかず散々コンピュータを悩ませたようだが、俺を悩ませ続けたポンコツコンピュータには自業自得だ。
 そのうち、ガキは聖書のページ全文を書いて一気に音訳させることに気がついた。
 効率はいいが、それでは「勉強」にならない。
 頭を殴って「とりあえず単語だけ」と、コンピュータとガキに言い聞かせた。

 うなっていたガキが頭を上げるのと、気分転換にガキを見た俺のタイミングが合って、目が合った。
 どうせわからないとは思いつつ、つい愚痴た。
 ガキは3Dモニターを視点を変えて凝視した。
「重力カタパルト? それで加速できるんや。すげー!」 
 と言っていたが、ほどなく3Dモニター上の点を押さえて言った。
「これがフォボス?
 したらこれで加速して、ぐるんと回って火星の……火星も重力カタパルト? って使えるんやろ?
 したら火星の重力カタパルトで追い加速できて、もっとぎゅーん! てスピードでるんちゃうん?」
「あ!」 
 言われて再計算。方程式に数字を入れると、「回答」とぴったり同じ数字を出した。

 まさかと思いつつ、俺は次の問題をモニターに出した。
 火星には、フォボスとダイモスという2つの衛星がある。
 遠方のダイモスを利用して重力カタパルトを使うという設定だが、最も効率のいいルートを取ろうとすると、手前のフォボスが邪魔をする。
「ルート設定に見せかけたタイミングの問題」という、引っかけ問題だ。
 さっきは即答したが、今度は公転する衛星の映像を見ながら、パカパカと親指と人差し指をカニのように閉じたり開いたり、あるいは両手のひらを重ねてすりすり回したりと悩んでいる。
 これまでは、まぐれが2回続いただけか。
 だが「何かおかしい」と気がついたから悩んでいるので、カンはいいのかもしれない。
 しばらく悩んだあと、ガキはポンと手を打った。

 ガキの答えは、まず内側のフォボスを目指して飛んで、重力カタパルトを使い加速を得る。
 その速度で外側のダイモスで追い加速。
 そこで180度回頭してさらに速度を得たまま、本命となる火星の重力カタパルトを使うという3段カタパルトだ。
 ネックは、ダイモスの公転周期が30時間、火星の衛星軌道上の宇宙港を出航基地にすると、火星の自転とシンクロして、6日に1度しか使えないこと。
 タイミングに気がついたのはエライが、考えすぎだ。
 衛星軌道内での3段カタパルトなんてタイミングがタイトすぎる上に技術的にも難しい。
 俺は「赤本」の回答を見せてガキを嘲笑したあと、なんとなく船のコンピュータにガキの答えを入力して計算させてみた。
「……ウソだろ」
 コンピュータが出した数字は、「赤本」の回答よりも、さらに60%も速かった。
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