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第1章「火星へ」

食事

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 今日のメニューはケチャップライスとコーンスープだった。
 正直安堵した。
 俺が船に乗る前どころか、人類が地球にしがみついて海の上だけを航海していた時代から、なぜか7日に1回カレーが出るのが不文律だったらしい。
 その時代はラッキーデイだったらしいが、今の時代は「苦難の日」とも呼ばれる。
 というのも、片道6ヶ月から長ければ3年という航海をするのに、積み込まれる食料は明らかに少ない。
 ごく少量の、純然とエネルギーに変換されるだけしか予備食料はない。
 その他は、ケツから出た物を分解&再構築してまた口に戻している。
 もちろん完全殺菌どころか分子レベルにまで分解しているため雑菌は全くいないのは知っているが、ついでに材料の出所も知っている。
 そのため、頭ではわかっていてもカレーには抵抗感がある。
 その点、ケチャップライスならば幾分抵抗感は減る。
 1年も「シップ」に乗れば抵抗感は霧消する。
 しなければ船を下りるか衛星軌道にしがみついた「ボート」に乗るしかない。

 俺の手にした皿を目にしたガキは、いきなり飛びついて皿とスプーンをひったくり「二人で分けるんだぞ!」というのも聞こえないのか、頬いっぱいに掻きこんで水分も取らずにバフバフと飲み込んだ。
 そのまま皿を返そうともせず、また頬を膨らませていく。
 が、さすがにむせた。
 飯の粒がデブリよろしく飛んでくるのを掌で払いつつ、俺は当然「バカヤロウ!」と怒鳴りつけた。
 ……え?

 口の中の物を吐き出したあと、そのまま続けて胃に入れた物まで吐き出す。
 さらに胃液か、わずかな黄色味と粘り気のある液体を絞り出し、吐くものがなくなったあとは、それでも吐こうとして空気を吸い込んではゼエゼエとムリヤリ吐く。
 腹を押さえて身体を「く」の字に曲げて。
 無重力のため気密室の中央に浮かび、自分が吐き出す勢いで頭からくるくる逆回転で回っている。
 腰や背中はもちろん後頭部も気密室に固定された備品や構造材にぶつけているが、おそらく気がついてすらいない。
 青白かった顔色は回転の遠心力によって鬱血し、どす黒くなってきている。

 もしここに誰かいたら、俺も顔色を失っていたと証言するだろう。
 俺が船に乗るようになって10年。門前の小僧を名乗るのもおこがましいとは思うが、それでも船のアクシデントなら何とかなると思っている。
 1度だけだが、航行中に命綱1本で45m先のスラスターまで行き、炎を上げているノズルを引き抜いて交換したこともある。
 ケガにしても打撲は当然、骨折も日常茶飯事として、航海日誌に書くまでもない。
 体験訓練だけだが、低酸素症状態での活動もした。が、「病気」となると全くの門外漢だ。

 ガキは吐ける物を全部吐いたあと空気まで吐いて、ついにはその空気に朱が混じるようになった。
 その血液の飛沫は、いくつか俺の頬にも当たった。

 宇宙を生活の拠点とする者は「隔壁1枚外は地獄」とか「ライトスーツ1枚の命」とうそぶく。
 もちろん虚勢もあるが、惑星や衛星のドームに住む連中よりも、はるかに「死」を身近に感じている。
 惑星大気の底にいる連中が空気に特別の感謝を持たないように、宇宙で暮らす者達は「死」に特別な感情をさほど持たない。
 もちろん自分の命はもったいないと思うし、1分1秒でも長らえたいとは思うが、同時に1分1秒の「誤差」としか感じないのも事実だ。
 ただしその「死」は「即死」であって、病気で苦しんで死ぬことは想像していない。

 俺はガキの突然の体調変化にパニックを起こしかけていた。
 何をどうすればいいか、何がどうなっているのかもわからない。
 ガキの回転を止めることすら思い浮かばず、阿呆のように突っ立っていた。

 どれほどたっただろうか。ようやくガキの頭を押さえ、回転を止めることに気がついて手を伸ばした。
 少なくとも、これは外科の領分ではない。
 内科か?
 ただ、船の備品であるAEDで何とかなるものではないだろう。
 それ以外の医療機器は、ケガの応急措置キットと常備薬くらいしかない。 

 この場合、考えられる最大の可能性は感染症だ。
 ほんの数時間前まで、このガキは不衛生きわまるクソの中にいた。
 身体に付いた病原菌を、今の食事を通して口から入った?
 納得しかけたが、かぶりを振って否定した。
 クソの中にいたのは1ヶ月。それだけあれば、病原菌は皮膚から十分に体内にはいれる。
 経口感染限定の俺の知らない病原菌であっても、ライトスーツの循環システムは簡易式で、雑菌濾過にも限度がある。
 とっくに経口感染していなければおかしい。

 なぜ「今」なのか?
 人の顔を見て気が緩んだとしても、気合いで押さえられるレベルの発作には見えない。
 何度か発作を起こしていたのを、たまたま出会った「助けられる人」に見せつけたというのも、ご都合主義にもほどがある。
 むしろ病原菌のキャリアーは俺の方で、自分自身には免疫ができていたのがこのガキにはなかったというのは?
 それも無理がある。船内の照明は若干の紫外線を含んでいて、宇宙船の船内は完全な無菌室だ。
 空気感染ではなく接触感染なら?
 その可能性も低い。
 確かに俺はガキに触ったが、ソープムースを介してで、ソープムースは除菌薬&殺菌薬そのものだ。
 食事を通してなら?
 これが最も可能性として高そうだが、食事そのものは完全殺菌というか細菌がいたとしても分子レベルに分解されていて、わざわざ細菌を再現するようなバカなプログラムはされていない。
 それでもメシに細菌が付着して、それを喰ったというのは?
 いや。ガキは俺が手をつける前に俺から皿とスプーンひったくって喰った。
 第三者の唾液は、メシに全く付いていない。

「積極的ネガティブシンキング」という。
 あえてネガ要素を具体的に浮かべ、それを打ち消していくという考え方だ。
 医療が絡むと、素人が正解にたどり着ける可能性は妖しいが、漠然とした不安に押しつぶされるよりも、ネガ要素を打ち消して安心を得ようとする。
 宇宙船乗りを目指す者はまずこの思考方法を最初に叩き込まれ、引退するか死ぬまで実践し続ける。
「宇宙船乗りは、港ごとに女がいる」というのは「前向きでさばさばしていて気っ風がいい」ので特に商売女にウケがいいからだが、それはこの考え方が染みついているためだ。
 もっとも本当の理由は「金離れがいい」から。
 いくら口座に残高があっても航海中は使えないし、事故で死んだらそれまでだ。
 だから航海で手にした金は出航までに使い切るのが一人前の船乗りとも言われる。
 ただし「一人前の船乗り」は、まず結婚できない。
 なにせ結婚費用を蓄えている間は「一人前の船乗り」ではないのだから。

 それはともかく発作直前の言動から、原因はメシの可能性が最も高い。
 が、細菌やウイルスに起因する可能性は低い。
 となればアレルギー持ちか?

 ガキが何かのアレルギー持ちだったら、可哀相だが仕方ない。
 アレルギーの申告も、アレルゲンのチェックもしなかったのだから。
 発作が致死性のものなら?
 そう考えて、俺はこれも否定した。
 致死性のアレルギー持ちがアレルギー物質の申告もチェックもしないというのは、「ついうっかり」で呼吸を忘れて窒息死するようなものだ。そんなバカはいない。

 ガキの1ヶ月を想像してみる。
 木星から今まで、このガキはエネルギーカプセルの錠剤を口にしただけだ。
 ひょっとしたら……。
 俺は幸か不幸か、親の最期を看取っている。
 その頃は火星でサラリーマンをしていて、親の入院している病院にも行けたから。
 風土病の末期症状で、最後は点滴チューブに繋がれ流動食すら食えなくなっていた。
 最後に「桃が食べたい」というので、ムリをして桃を手に入れ、口に入れた。
 それが悪かった。激しくむせこみ、吐き出して意識を失った。
 そう、このガキのように。
 そして医者に激怒された。
「内臓が衰弱していて、下手に食べさせたら胃液さえ出せずに、外科的に『異物』として抜くしかありませんよ!」 

 ひょっとしたら……。
 素人考えではあるが、1ヶ月も休ませると、胃腸は仕事を忘れる。
「内臓が寝てしまう」とでも言うのだろうか。
 そこにいきなりメシを放り込んだら、叩き起こされてびっくりしてしまうのだろう。

 俺は自分の仮説を確かめるため、ガキの口にエナジードリンクのボトルを突っ込んだ。
 宇宙船の事故でも、ひどいケガや疲労のため、自力で飲めない場合が起こる。
 そこで、このボトルは二重底になっていて底からガスを発生させ強引に押し込める。
 1本目は、何度もゲホゲホとむせながら空にさせたが、すぐにブハっ! と吐いた。違ったか。

 2本目。今度はスムーズに入ったが、ほどなく吐いた。

 そして3本目。ガキは自らボトルを手にし、ガスの補助もなく飲み干した。
 それから「何があったんだ?」というような顔をして、きょとんと俺の方を見た。
 とりあえずガキの頭を殴った。
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