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第1章「火星へ」
密航者(2)
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頭の中のマニュアルを遡った。
もちろん、「排泄物が詰まったライトスーツが持ち込まれる」なんて想定はないが、未解析の物質によって汚損されたライトスーツへの対応なら……ある!
ガキに尋ねた。
「オマエ、何分ぐらい息止めていられる?」
この質問はガキにも予想外だったらしく不敵さが消えて、素で応えた。
「計ったことはないけど、たぶん人並みやと思う……」
肺の大きさと言うよりも、むしろ心臓や脳みそ、筋肉の効率の方が大きいが、一般に無呼吸状態でも3分未満なら健康に影響はない。
その後は加速度的にリスクが増すが、深刻な後遺障害が脳に残るまで、おそらく10分。
それを越えるとリスクは脳にとどまらず、致命的なダメージとなる。
「俺が部屋から出たら素っ裸になって、俺が押そうとしたボタン。そう、この『ハッチの強制オープン』のボタンを押せ。
クソスーツと一緒に空気も臭いも吹き飛ばしてくれる。
そうしたら、すぐにオマエの後ろのハッチの閉鎖ボタンを押せ。ハッチが閉まって急速与圧がはじまる。
そのあと、限界だと思ったところで深呼吸して、目をつぶって全力でこのドアをノックしろ!
ノックがなくても10分後に俺が外から シャワーのボタンを押してアホほど紫外線を浴びせてやる。
それで問題解決だ」
言う俺に、ガキはおずおずと尋ねてきた。
「それって、俺も空気と一緒に吹っ飛んだりしいひんの?」
あ……。
この方法は、「汚損したライトスーツ」が前提で、ライトスーツには放出防止の安全帯を取り付けるためにリングが縫い付けられている。
が、素っ裸の人体にはそんな便利な穴はない。
何かないか?
可能性に賭けて工具箱を開けた俺だが、効果の期待できそうな工具は見当たらない。
あえて言うなら柄の長いバールやハンマーを十字に組めばガキの飛び出し予防は図れるかもしれないが、それにクソスーツが引っ掛からない保証はない。
万が一、クソスーツが引っ掛かってハッチ閉鎖ができないなんてことになったら、ガキだけではなく気密室も死ぬ。
と。俺は工具をまとめている黒いベルトに気がついた。
革に似た素材で、工具の多寡に応じて調節できるよう、いくつかの留め具穴が開いている。
これで、若干ではあるがサイズ調整はできる。
さらにラッキーなのは、このベルトそのものというか本命はまとめた工具の方だろうが、それが吹き飛ばないようにリングが付いていてリングは工具箱の中のフックと繋がっている。
そのフックを外し俺はベルトを手に、ガキを見た。
ライトスーツの上からベルトをしたのでは意味がない。
ガキに「自分で締めろ」と言ってベルトを渡したとして、それでガキが手首や足首に自分で巻いたら、排気の勢いですっぽ抜けたなんて間抜けな事態もあり得る。
とすると、やはり人体で最も凹凸が大きく、なおかつ俺の手で締められる「頚部」が妥当だろう。
ガキがヘルメットを脱いでいるため、むき出しの頚部も見えるし。
そう判断した俺は、ガキの首にベルトを巻こうとした。
しかしガキは手を伸ばして邪魔をする。
「おっちゃん、変な趣味持ってるんちゃうやろな!」
「クソまみれのガキに欲情するような変態は、この船にはおらん!」
そう言って留め具穴を固定し、リングと安全帯のフックを繋いだ。
これでガキが宇宙に放出されるのは、おそらく防げる。
いまだにある迷信に、「真空中では血液が沸騰して、人間は即死する」というのがある。
が、いくつもの不幸な事故を調べたところ、血液が沸騰する前に人間は酸欠で死んでいた。
単純な話で、宇宙がいくら真空だとはいっても、人間の体内は「与圧」されている。
「与圧」が抜けたあとでフリーズドライになった不幸な犠牲者はいたが、血液が沸騰して死んだ犠牲者は、1例も報告されていない。
フリーズドライといえば、今の外気温はマイナス268度だ。
太陽光が当たっていれば表面温度が数百度になることもあるが、火星よりはるかに遠くにいる今の本船の場合だと、おそらく50度に届かない。
それを勘案して、この気密室のハッチ面を太陽に向けることは可能だが、そのために浪費されるスラスター剤のコストを考えたらどう見てもガキの命の方が安い。
と、それで割り切れるなら、そもそもこんな羽目にはなっていない。
少し考えて赤外線シャワーのスイッチをオンにした。
赤外線で、強制的に40度の空間を作る。
赤外線は、べつに空気を温めるものでも空間そのものを加熱するものでもなく、被照射物を加熱する。
それが「真空中」であっても。
おそらく今うてるだろう、生存のための手段はすべて準備したと思う。
もちろんわかっていて無視している問題もある。宇宙放射線だ。
が、このガキがこの船のなかに入ってきたのはほんの1時間前。
それまではライトスーツ1枚で1ヶ月近く牽引している鉱床岩石のどれかに貼りついていたのだろう。
その間に浴びた宇宙放射線量の前では、これから3分ほど浴びる線量など誤差とも呼べない。
「手順が少し変わった」
ガキに告げた。
「ハッチを開いたら、両手で頭を抱えて丸まっていろ。それだけでいい」
頷くガキを残して気密室を出た。すっと隔壁を兼ねた扉が閉まる。
出てから気がついた。気密室には内部を見るモニターがない。
確信した!
DD51を設計したヤツは、絶対に自分でDD51に乗って確認していないと。
ドアサイドにあるランプは、まだ「青」。与圧がされたままだ。
今ならドアを開いて気密室に戻ることもできる。
が。もし今、ガキがライトスーツを脱いでいるタイミングだったら、中身の汚物と臭いをライフエリア全体に拡散させてしまう。
右手の中指だけが別の生き物のように、トントンとせわしなく動く。
と。減圧を示す「黄色」をすっとばして、いきなりインジケーターランプが「赤」になった。
ゼロ気圧。
ハッチが強制的に開かれたという意味だ。
今頃、気密室内の固定されていない物は、空気と一緒にすべて宇宙空間に放出されているだろう。
順番を前後させてランプが「黄色」になる。 ハッチが閉まり、与圧が開始された。
次の瞬間、与圧計のボリウムをMAXまで回した。
ハリケーンを凌駕するような猛烈な風が吹き荒れることになるが1秒でも早く加圧しないと。
本来的には俺がガキの横について、手取り足取りサポートして指示し確認すればよさそうなものだが、このボリウムダイアルは、気密室の「外」にしかない。
もっとも、これは仕方ない。設計者を責めるのは筋違いだ。
気密室内で何かの本来作業をしていて、何かのはずみで誤ってダイアルを回してしまったら、わずか2メートル余りの円筒内を暴風を受けて吹き飛ばされ、さらにミキシングされる。
本来なら常備してある備品にも叩きつけられて、よっぽど運が良くなければ首の骨が折れる。
最高に運が良くても手足の2~3本は折れるかもげる。
今回は、気密室内の固定されていないものをまとめて放り出すのでリスクは少ないが。
DD51型の設計理念はあくまで「生存最優先」なのだから、そんな危険なダイアルを気密室内に設置する理由がない。
気密室は、0.7気圧以下では原則としてドアが開かない。
ガキには「10分」と言ったが、それほど待てるほど俺は気が長くない。
俺は左手でドアのレバーを揺すりつつ、右手を与圧ダイアルに添えて、目はランプの色を凝視した。
グリーン、つまり0.7気圧になった瞬間、両手の作業を終わらせられるように。
時計を見る余裕はないが、だからこそ1分1秒が長く感じる。
がちゃがちゃ揺すっても動かなかったドアレバーが、いきなり90度回った。
とっさに与圧ダイアルを締める。
しゅうっと音を立てて開くドアから、ライフスペースの1気圧との気圧差に押されるように気密室に飛び込んだ俺は、かすかに後方でグリーンのランプを見た。
「意味ねえ!」
もちろん、「排泄物が詰まったライトスーツが持ち込まれる」なんて想定はないが、未解析の物質によって汚損されたライトスーツへの対応なら……ある!
ガキに尋ねた。
「オマエ、何分ぐらい息止めていられる?」
この質問はガキにも予想外だったらしく不敵さが消えて、素で応えた。
「計ったことはないけど、たぶん人並みやと思う……」
肺の大きさと言うよりも、むしろ心臓や脳みそ、筋肉の効率の方が大きいが、一般に無呼吸状態でも3分未満なら健康に影響はない。
その後は加速度的にリスクが増すが、深刻な後遺障害が脳に残るまで、おそらく10分。
それを越えるとリスクは脳にとどまらず、致命的なダメージとなる。
「俺が部屋から出たら素っ裸になって、俺が押そうとしたボタン。そう、この『ハッチの強制オープン』のボタンを押せ。
クソスーツと一緒に空気も臭いも吹き飛ばしてくれる。
そうしたら、すぐにオマエの後ろのハッチの閉鎖ボタンを押せ。ハッチが閉まって急速与圧がはじまる。
そのあと、限界だと思ったところで深呼吸して、目をつぶって全力でこのドアをノックしろ!
ノックがなくても10分後に俺が外から シャワーのボタンを押してアホほど紫外線を浴びせてやる。
それで問題解決だ」
言う俺に、ガキはおずおずと尋ねてきた。
「それって、俺も空気と一緒に吹っ飛んだりしいひんの?」
あ……。
この方法は、「汚損したライトスーツ」が前提で、ライトスーツには放出防止の安全帯を取り付けるためにリングが縫い付けられている。
が、素っ裸の人体にはそんな便利な穴はない。
何かないか?
可能性に賭けて工具箱を開けた俺だが、効果の期待できそうな工具は見当たらない。
あえて言うなら柄の長いバールやハンマーを十字に組めばガキの飛び出し予防は図れるかもしれないが、それにクソスーツが引っ掛からない保証はない。
万が一、クソスーツが引っ掛かってハッチ閉鎖ができないなんてことになったら、ガキだけではなく気密室も死ぬ。
と。俺は工具をまとめている黒いベルトに気がついた。
革に似た素材で、工具の多寡に応じて調節できるよう、いくつかの留め具穴が開いている。
これで、若干ではあるがサイズ調整はできる。
さらにラッキーなのは、このベルトそのものというか本命はまとめた工具の方だろうが、それが吹き飛ばないようにリングが付いていてリングは工具箱の中のフックと繋がっている。
そのフックを外し俺はベルトを手に、ガキを見た。
ライトスーツの上からベルトをしたのでは意味がない。
ガキに「自分で締めろ」と言ってベルトを渡したとして、それでガキが手首や足首に自分で巻いたら、排気の勢いですっぽ抜けたなんて間抜けな事態もあり得る。
とすると、やはり人体で最も凹凸が大きく、なおかつ俺の手で締められる「頚部」が妥当だろう。
ガキがヘルメットを脱いでいるため、むき出しの頚部も見えるし。
そう判断した俺は、ガキの首にベルトを巻こうとした。
しかしガキは手を伸ばして邪魔をする。
「おっちゃん、変な趣味持ってるんちゃうやろな!」
「クソまみれのガキに欲情するような変態は、この船にはおらん!」
そう言って留め具穴を固定し、リングと安全帯のフックを繋いだ。
これでガキが宇宙に放出されるのは、おそらく防げる。
いまだにある迷信に、「真空中では血液が沸騰して、人間は即死する」というのがある。
が、いくつもの不幸な事故を調べたところ、血液が沸騰する前に人間は酸欠で死んでいた。
単純な話で、宇宙がいくら真空だとはいっても、人間の体内は「与圧」されている。
「与圧」が抜けたあとでフリーズドライになった不幸な犠牲者はいたが、血液が沸騰して死んだ犠牲者は、1例も報告されていない。
フリーズドライといえば、今の外気温はマイナス268度だ。
太陽光が当たっていれば表面温度が数百度になることもあるが、火星よりはるかに遠くにいる今の本船の場合だと、おそらく50度に届かない。
それを勘案して、この気密室のハッチ面を太陽に向けることは可能だが、そのために浪費されるスラスター剤のコストを考えたらどう見てもガキの命の方が安い。
と、それで割り切れるなら、そもそもこんな羽目にはなっていない。
少し考えて赤外線シャワーのスイッチをオンにした。
赤外線で、強制的に40度の空間を作る。
赤外線は、べつに空気を温めるものでも空間そのものを加熱するものでもなく、被照射物を加熱する。
それが「真空中」であっても。
おそらく今うてるだろう、生存のための手段はすべて準備したと思う。
もちろんわかっていて無視している問題もある。宇宙放射線だ。
が、このガキがこの船のなかに入ってきたのはほんの1時間前。
それまではライトスーツ1枚で1ヶ月近く牽引している鉱床岩石のどれかに貼りついていたのだろう。
その間に浴びた宇宙放射線量の前では、これから3分ほど浴びる線量など誤差とも呼べない。
「手順が少し変わった」
ガキに告げた。
「ハッチを開いたら、両手で頭を抱えて丸まっていろ。それだけでいい」
頷くガキを残して気密室を出た。すっと隔壁を兼ねた扉が閉まる。
出てから気がついた。気密室には内部を見るモニターがない。
確信した!
DD51を設計したヤツは、絶対に自分でDD51に乗って確認していないと。
ドアサイドにあるランプは、まだ「青」。与圧がされたままだ。
今ならドアを開いて気密室に戻ることもできる。
が。もし今、ガキがライトスーツを脱いでいるタイミングだったら、中身の汚物と臭いをライフエリア全体に拡散させてしまう。
右手の中指だけが別の生き物のように、トントンとせわしなく動く。
と。減圧を示す「黄色」をすっとばして、いきなりインジケーターランプが「赤」になった。
ゼロ気圧。
ハッチが強制的に開かれたという意味だ。
今頃、気密室内の固定されていない物は、空気と一緒にすべて宇宙空間に放出されているだろう。
順番を前後させてランプが「黄色」になる。 ハッチが閉まり、与圧が開始された。
次の瞬間、与圧計のボリウムをMAXまで回した。
ハリケーンを凌駕するような猛烈な風が吹き荒れることになるが1秒でも早く加圧しないと。
本来的には俺がガキの横について、手取り足取りサポートして指示し確認すればよさそうなものだが、このボリウムダイアルは、気密室の「外」にしかない。
もっとも、これは仕方ない。設計者を責めるのは筋違いだ。
気密室内で何かの本来作業をしていて、何かのはずみで誤ってダイアルを回してしまったら、わずか2メートル余りの円筒内を暴風を受けて吹き飛ばされ、さらにミキシングされる。
本来なら常備してある備品にも叩きつけられて、よっぽど運が良くなければ首の骨が折れる。
最高に運が良くても手足の2~3本は折れるかもげる。
今回は、気密室内の固定されていないものをまとめて放り出すのでリスクは少ないが。
DD51型の設計理念はあくまで「生存最優先」なのだから、そんな危険なダイアルを気密室内に設置する理由がない。
気密室は、0.7気圧以下では原則としてドアが開かない。
ガキには「10分」と言ったが、それほど待てるほど俺は気が長くない。
俺は左手でドアのレバーを揺すりつつ、右手を与圧ダイアルに添えて、目はランプの色を凝視した。
グリーン、つまり0.7気圧になった瞬間、両手の作業を終わらせられるように。
時計を見る余裕はないが、だからこそ1分1秒が長く感じる。
がちゃがちゃ揺すっても動かなかったドアレバーが、いきなり90度回った。
とっさに与圧ダイアルを締める。
しゅうっと音を立てて開くドアから、ライフスペースの1気圧との気圧差に押されるように気密室に飛び込んだ俺は、かすかに後方でグリーンのランプを見た。
「意味ねえ!」
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