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それぞれの在り方 2
しおりを挟むロビーに女が一人。四階の客室に男が一人。厨房にも男がひとり。二階の非常階段にも……。
健は旅館内をくまなく掃除して歩き、そして視て回った。お盆のせいか、それとも温泉旅館という居心地良い場所のせいか。
あちらこちらにいる影が多く感じる。いや、正直それも定かじゃなかったりする。
ちょっと前までは何もいなかった場所に平然と存在されると、いくら健でもぎょっとする。逆に根付いていそうな存在ほど次の瞬間には消えていたりする。
やはりお盆のせいだろうか。旅館内にいる影は、各々で動きすぎている。
「把握しとくって言ったけど、把握しきれるかな……」
昨日の大智とのやりとりを思い出す。
結局あの後はお互いが慣れない仕事に翻弄され、また特に進展もなかったので疲れ切った顔を合わせただけですぐに布団に入った。
大智の機嫌も直っていた、というよりは疲労に押しつぶされて萎んでいたように思う。
今日の朝にはいつも通りだったので、この後の休憩で健が確認しただけの存在を共有しようと思ったが……どうするかなぁ、と頭を掻いた。
「仁科君」
ふと呼ばれ、振り返る。
健を呼んだのは女将だった。
目まぐるしく動き回っているせいで話を聞けないと、今日の朝に大智が嘆いていた。
「ごめんなさいね、時間が取れなくて。長谷君に頼まれていたもの、あなたに渡しておいていいかしら?」
「頼まれていたもの?」
「えぇ。これを」
手渡されたのは写真だった。
女将に話を聞けないと言っていた大智だが、話を通すことはしていたらしい。旅館の仕事に翻弄されていると思いきや、抜かりなくやっている。
健は周りに人がいないのを確認して、写真を確認した。
「それしかなかったの。大丈夫かしら」
「顔がわかれば……しばらく借りることはできますか?」
「もちろん。正直に言ってしまうと、その、思い入れはないので。あなた方の役に立つのなら」
「少なくとも、若女将の異変に関係しているかどうかはわかると思います」
「それは……ぜひ、お願いします」
頭を下げて、女将はまた慌ただしい業務に戻っていった。
健は改めて写真を見る。
亡くなった若女将の旦那。黒髪で生真面目そうな印象だ。細いフレームの眼鏡がそう見せるのかもしれない。
黒の紋付袴で、隣の若女将は白無垢であることから結婚式の写真だろうか。どちらにも笑顔がない。
これが、一方的な政略結婚。
写真に写る人達の表情からなど健は何もわからない。政略結婚で笑顔がなければ、あぁ政略結婚だもんな、としか思わない。
旦那が一方的にしつこくなど、言われなければわかるはずもない。
「旦那の顔だけだな、この写真から得られるものは……」
女将が「思い入れはない」という写真を、健は作務衣の上着についている内ポケットにしまいこんだ。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
一日の業務も終盤になり、残すところ日帰り用の浴場清掃だけとなった夜遅く。
先に一人清掃に入っているから、と従業員に言われて浴場に来てみれば、そこには都合よく大智の姿があった。
「お疲れ」
「あ、健。お疲れー」
休憩時間に少し顔を合わせたっきりだ。
健の視た不確かな情報、それと女将から写真を預かった件だけ伝えていた。
人目が多く、そこで写真を見せることはできなかったが。
作務衣の裾と袖を捲り上げた大智は、桶や椅子を豪快に洗っていた。
「大智、俺は何すればいい?」
「鏡磨くか床磨くか……」
「鏡」
「ふざけんな、デッキブラシ持ってけ」
「どこにあんだよ」
「そこに立てかけてあるよ」
そこ、と指さされた場所にはブラシが二本用意されていた。
一本を手に持つと、洗い場をガシガシと擦っていく。かなり力仕事だ。
「休憩のあとはなんかあったか?」
「んー、何も。若女将も変な様子はなかったよ」
「やっぱり営業中は普通なんだな」
「それとなく従業員に聞いてみたけど、女将さんから聞いた通りだった。ひとりの時を見張らないと」
「それとなくって……。すげぇな、大智」
「ちょっとカマかけただけだよ」
洗い終えた桶を置くと、コンッと浴場内に音が響いた。最後のひとつだったらしい。
大智は腰を伸ばして、今度はスポンジを手に持った。
洗剤をつけて泡立て、鏡を優しく磨いていく。
「若女将が誰かを探してた、って言っただけ」
「反応は?」
「顔が引きつってた。俺バイト二日目だし、内情までは聞けないかなと思ったんだけどね。おしゃべり好きの仲居さんでよかったよ」
「……狙ったんだな」
「俺の人柄が為せる技だよね」
大智は得意げに言うと、磨き終わった鏡をシャワーで流した。
水垢が落ちて曇りなく浴場内を映し出す。デッキブラシと格闘している健もしっかりと映し出された。
ガシガシとブラシが床を擦る音が響く。
鏡をシャワーで流す水音、それとは違う、天井から水滴の滴り落ちる音。
黙々と作業して、腰が辛くなったので健は体を伸ばした。
ちょうど、大智が最後の鏡を流し終わったところだった。
「あ……」
大智が鏡を見たまま固まった。
どうしたのかと健が大智の方を向くと、鏡ごしに大智と目が合った。
「た、健。後ろ……」
「後ろ?」
躊躇なく振り向くと、健のすぐ背後に男が立っていた。
「うわっ!?」
健は驚いて飛び退いた。
男は大智を見ていたが、驚いた健をちらりと見ると、足を動かすことなくスーッと脱衣所の方へと消えた。
思ったより長身。黒髪で生真面目そうな、女将から預かった写真の通りの眼鏡の男だった。
「待て!」
そうと気づけば健もすぐに脱衣所へ出た。
男はさらに脱衣所から出るように消える。
健は後を追って『男湯』の暖簾に手をかけると、勢いあまって目の前に現れた人とぶつかってしまった。
すでに宿泊客は出歩かない時間。
すっかり注意を怠っていた。
「す、すみません」
「いえ、私こそ……」
ぶつかってしまったのは若女将だった。
健とぶつかって少しよろけたものの、特に問題はなさそうだ。が、何かおかしい。
若女将は健を見ることなく廊下の先を見ている。
急ぎの仕事だろうか。
だが、廊下の先には備品をしまう倉庫があるだけのはず……。
健は一向にこちらを見ようとしない若女将に違和感を覚えた。
「何か備品を取りに来たんですか?」
「えぇ……」
声をかけるが、女将は上の空だ。
そのままよろよろと倉庫に向かいそうなのを、着物の袖ごと腕を掴んで引き止めた。
「若女将」
「……え?」
そうして、初めて若女将は健を見た。
掴まれた腕と健の顔を交互に見て、戸惑いを隠すことなく首を傾げた。
「すみません、ぼんやりしていたようだったので」
「あ……えっと、仁科君よね? 浴場のお掃除?」
「はい。……大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫。ちょっと疲れちゃったみたい。お盆は忙しいから」
ふー、と若女将は息を吐いた。疲れが出ているのは本当らしい。
健は若女将から手を離した。
「備品なら、俺が持っていきますよ」
「ありがとう。でも、何を取りに来たのか忘れちゃった」
若女将は困ったように笑ってみせた。こうして話してみると、愛嬌のある可愛らしい人だ。
先ほどの上の空とは打って変わった様子に、女将や従業員の言っている意味がよくわかった。
「お掃除はもう終わりそう?」
「はい、あと少しで。大智……長谷もいるので」
「あぁ、大智君。君たちはよく動いてくれるから助かってるわ」
遠目で見る以外の接触はしていないと思ったら、すでに名前呼び。
大智の社交性の高さを改めて認識した。
思いがけず褒められ、健は返事に困る。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。大智君、わんちゃんみたいで可愛い子ね。忙しい時にああいう子がいると癒されるわ」
「本人に伝えておきます」
「やだ、伝えないで。こんな年上にそんなこと思われてるなんて、失礼な話でしょう?」
「大丈夫です。俺もあいつは犬だと思ってるんで」
健が言うと、若女将は接客用じゃない笑顔を見せた。自然な笑顔は作られたものより幼く、頰に浮かんだえくぼに目が留まる。
「仁科君はクールな子だと思ってたんだけど、話してみたらおもしろいね」
「? どうも?」
「あぁ、天然なのかな。素直なのね」
「?」
くすくすと笑う若女将は健の困った顔を見てさらに楽しげにえくぼを深めた。
よく笑う人だ。接客業なので人当たりは大事だが、若女将は元よりそんな性格なのだろう。
大智との相性が良さそうだと思った。
「あ、引き止めてごめんなさい。まだ途中なのよね」
「いえ。大智がやってくれてればもう終わります」
「長谷君に悪いことしちゃったわ。ここが終わったらすぐに上がって、休んでね」
「はい。……若女将も」
「ありがとう。お疲れさま」
袂を揺らしながら若女将は来た道を戻っていった。
着物だというのに慣れた足取りで歩みは早い。シュ、シュ、と衣擦れの音が遠ざかっていく。
健は暖簾をくぐると、浴場に大智の姿を探した。
「――健」
「うおっ」
図らずも背後から呼ばれ、健は肩を跳ねさせた。
「なんだよ、驚かすなよ」
「女将さんから預かった写真、見せて」
「写真?」
「見せて」
いきなりなんだ、と思いながら健は作務衣の内ポケットにある写真を大智に渡した。
少し触れた手がやけに冷たく、浴場のぼんやりとしたオレンジ色の明かりの下で、大智の顔色も悪いように見えた。
「……見てたよ。健のこと」
「見てた? 大智が?」
「違う。……若女将の旦那さん。暖簾越しに、健と若女将が話してるのを見てた」
「……は?」
「健、気づかなかった? 暖簾の所にいたんだ。健のすぐ後ろ……ずっと、見てたよ」
背筋がひやっとした。
健は暖簾をくぐってすぐのところで若女将と話していた。そして、若女将の旦那もすぐ後ろにいたと……暖簾越し。ごく至近距離。
気づかなかったことに、ぞっとする。
脱衣所を出たはずなのに、わざわざ戻って健を見ている意味がわからない。
「何のために……?」
「俺からは背中しか見えなかったから、わからないけど……」
大智が顔を上げると、オレンジ色の明かりに照らされて顔色の悪さが和らいだような気がした。
けれど、大智の瞳は怯えていた。手が冷たかったのも、恐らくそのせいだ。
乾いた唇で、大智は言った。
「若女将の笑い声が聞こえたくらいから、歯軋りの音が大きくなったんだ」
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