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残る想い、寄せる想い 1
しおりを挟む夏を迎えてから連日の夕立ち。
雨雲は気付けば頭上に流れてきていて、冷たい風が流れる。
雷が鳴り響き、雨の匂いを感じると、直に激しく降り始める。
この日もそうだった。
夕方には雷注意報が出るほどで、夜には解除されたものの時折光っては轟音を響かせた。
夕立ちでは終わらずに雨足は強いまま、風に流されて窓や外壁にバチバチと打ちつける。
そんな、騒がしい中で。
「……はい」
振動したスマホはメッセージでなく、着信だった。
メッセージじゃないのが珍しい。
表示された名前に少し身構えて、健はスマホを耳にあてていた。
聞こえてくるのは、警戒心をあらわにした犬の吠え声。
「もしもし?」
相手の声が聞こえない。
犬の吠え声の後ろに、そちらにも強い雨が降っているだろう微かな音。
雷が鳴り響く。息を呑む、その音はか細く。
『…………助けて、健くん……』
涙まじりのさくらの言葉に、健は迷いなく返した。
「家、どこだ」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
事の発端は一週間ほど前。
なんだか元気がないさくらを気にしていたら、背後につきまとう影が視えた。
歳は四十路あたり。
お世辞にも身綺麗とは言いがたく、小太りで無精髭を生やした男だった。
さくらの背後にべったりと張り付き、血走った目でさくらの顔を覗き込もうとする姿には嫌悪感しかない。
大智を肘で突いて視るよう促すと、「げっ」とか「うわっ」と声を上げた。
大智にさくらの気を引かせておき、健はその男をさくらから引き離した。
そして口頭で注意をした。
これが、一度目。
二度目は次の日だった。
健の注意などまったく効いていないようで、昨日と同じくさくらに張り付いていた。
首に腕を回し、へばりつく男は心なしか笑みを浮かべていた。
不気味さよりも気持ち悪さが勝つのは、男の下心が透けて見えるからだろう。
男の首根っこを掴んで引き剥がした健は、低い声で警告をした。
男は「チッ」と舌打ちをしてどこかへ消えた。
そして、三度目。
さすがに警戒したのか二、三日後に男は現れた。
さくらの元気のなさは変わらずで、次第に顔色も悪くなってきていた。
周囲には「雨続きのせいかな」と言っていたが、男が関係しているのは明らかだった。
男は背後から抱きつくだけでは飽き足らず、さくらの正面に回り込んで顔を近づけるなど怖気の立つ行為をしていた。
人の目はあったが、耐えきれず、健はさくらが顔を背けた隙に男の尻を蹴り上げた。
驚いて振り向く男に、健は舌打ちをし返して「失せろ」と睨みつけた。
男は悔しそうに、それでも敵わないと思ったのか、大人しく消えた。
「健くん?」
さくらがきょとんとして、健を見ていた。
いつもより白く見える肌の色に、目の下のクマが影をつくっていた。
「なんでもない。体調、大丈夫か?」
「ちょっと寝不足気味なの。でも、大丈夫だよ」
いつも心配してくれてありがとう、と笑うさくらに男のことを教えようか迷ったが、この時は伏せておいた。
もし男がこれでさくらから離れたとしても、さくらに恐怖が残ってしまっては意味がない。
「なんかあったらすぐ言えよ」
「そうするね」
このやり取りからの、あの電話だった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
さくらの家までは電車を介した距離。
駅を出て、教えられた道を一直線に走った。
家の前に到着した頃には、傘など意味がなかったほどにずぶ濡れになっていた。
顔に滴る雨水を払い、健は呼び鈴を押す。
静寂の一軒家に「ピンポーン」と音が響いた。
「健くんっ!!」
間髪入れずに玄関の扉が開き、さくらは飛び出してきた。
ずぶ濡れの健にしがみついてくるので、慌てて傘を傾ける。
「っと……大丈夫か?」
「うぅぅ~……っ」
しがみつくさくらは小刻みに震え、首を大きく横に振った。
堪えられずに嗚咽が漏れている。
「ひとまず、中に入っていいか? さくらも濡れちゃうぞ」
「家の中は嫌っ……」
「俺がいるから。大丈夫だから、な?」
「…………うん」
さくらの肩を支えたまま、中に。
家の中は電気が付いておらず、たまに明滅の素振りを見せる。
停電か? と思ったが、他の家や街灯は消えていないのだ。
けたたましい吠え声の聞こえる二階に健は目線をやり、いまだにしがみついているさくらに声をかけた。
「二階を見てくる。階段どこだ?」
「リビング……」
「勝手に入るけど、さくらはここで——」
しがみつく手に、さらに力が込められた。
見上げてくるさくらと目が合った健は、これは振り解けないなと息を吐く。
「……俺のどこでもいいから、掴んでて。絶対に離れるなよ」
「うん」
健の服の裾を掴んださくらは、少し安心したようだった。
リビングにある階段を上がる。
電気はやはりつかないらしいので、スマホのライトで足下を照らした。
上がりきると、部屋の扉が3つあった。
吠え声は奥の部屋から聞こえる。
「あの部屋は?」
「私の部屋……」
「入っても大丈夫か?」
「う、うん」
扉を静かに開ける。
仕切りがなくなったことで吠え声はさらに大きく、唸り声もまじる。
小柄な柴犬が目いっぱいに毛を逆立てて、牙を剥いて窓の外に敵意を向けていた。
強い雨音。
稲光が真っ暗な部屋を照らし、遅れて低く轟く。
カーテン越しに佇む人の影は、びくともしない。
健はさくらの手を裾から離し、部屋に入ると勢いよくカーテンを開けた。
「…………ちっ。逃げたか」
大粒の雨が窓を叩きつける。
窓の外は通りに面しており、人が立てる場所はなかった。
隣家からも離れているので人影が写るはずもない。
文字通り、逃げた。
チカ、チカ、と部屋の電気が明滅し、今度は消えることなく明かりを灯した。
廊下も、おそらくリビングも。家中の電気が平時に戻る。
小柄な柴犬が小さく「ぐぅぅっ」と唸り、収まらない怒りでしばらく毛を逆立てていた。
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