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嫗5
しおりを挟む父と母と私、弟は幼くして時を止めてしまったが、貧しいながらも決して苦しい生活ではなかった。
父は朝から晩まで働き通し、母は食い扶持を補うために畑を耕した。
私は母を手伝いながら学校へ通い、中学を卒業すると働き始めた。
18歳になる頃、父が縁談を持ってきた。父の取引先の息子だという。
取引先の家柄はとても良く、願ってもない話だと父は力説した。
無論、断れば父の立場が悪くなるので私は了承した。
断る理由も特になかった。
幾度かのお見合いを重ね、私は和夫さんと結婚した。
和夫さんは穏やかで、私のことをよく見て気遣ってくれる優しい人だった。
私にはもったいないくらいの人。
翌年には子宝を授かり、可愛らしい女の子が家族に加わった。名前を和子とつけた。
和夫さんは娘を溺愛した。よく娘の面倒を見、世話を率先してやってくれた。
とても幸せな日々だった。
娘は成長して2歳になった。
和夫さんに似て穏やかな子だった。
発育も問題なく、健やかそのもの。
それとは逆に、和夫さんの顔色が優れない日が増えた。どうも体調が悪いらしい。
病院にかかったあとの和夫さんは更に顔色を悪くしていた。
それから数日後、和夫さんは私に家を出て行くようにと告げた。
なぜ、と驚く私に、和夫さんは思い詰めた顔で話し始めた。
「生まれつき心臓が弱い。いくつまで生きられるか、幼いうちに亡くなるだろうと言われて生きてきた。
そんな僕が、20年も生きることができた。妻子を持ち、幸せな家庭を築けた。だが、それももう終わりだ。
君は若い。まだやり直しがきく。
僕のことは忘れ、新しい人生を歩んでほしい。
和子はこちらで引き取る。子がいない方が、相手を見つけやすいだろう。
さぁ、実家に帰りなさい」
生活には困らないほどの金と、荷物をまとめて家を出された。
縋る私に、優しい手はもう差し伸べられなかった。
和子に別れも言えていない。
いきなり母がいなくなって泣いているかもしれない。
何度も戸を叩いたが、実家に帰りなさいという無情な言葉だけだった。
日を改めて、毎日戸を叩いた。
開けられずとも、諦めなかった。
そのうちに和夫さんも実家へ戻り、私達家族の家はなくなってしまった。
それでも私は諦められなかった。
今度は和夫さんの実家へ向かった。
毎度、門前払いをされた。
立派な家で、私を追い払うのはいつも気の強そうな家政婦だった。
「和夫様は伏せられています。お会いすることはできません」
表情を変えず、これが決まり文句だった。
和子のことを問い詰めても、家政婦はこう言う。
「お嬢様は母親のいない生活にすっかり慣れました。お会いにならないほうが、双方のためです」
ある日、家政婦を下がらせて和夫さんが出てきた。
土気色の頰はこけ、見違えるほどに弱っていた。
和夫さんは声を出すのもやっとのようで、私は大人しく言葉を待った。
「和子は、縁があって里子に出した。いい方達だ。きっと幸せになれる」
自分の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
愛しくて仕方なかったはずの、目の前にある土気色の顔が憎くて仕方なくなった。
でも、それも一瞬だった。
それより大きな喪失感と悲しみは、私をいとも簡単に押し潰した。
和夫さんに会ったのはそれっきりだった。
和子がいない。
和夫さんも、私が愛していたあの人はもういない。
実家に帰ったところで一体どうしろというの。
私にはもう、何もないのに。
悲しみから逃れたい。
苦しみから逃れたい。
この世に私がいる必要はもうない。
梁からだらんと垂れたロープに首をかける。
踏み台を蹴れば、すべてが終わる。
何も怖くない。大事なものはすべて失った。
ひとつ、心残りがあるとすれば。
「もう一度、お母さんって呼ぶ声を聞きたかった……」
枯れたはずの涙が頬を伝う。
娘の可愛らしい、拙い声を思い出しながら、私は踏み台を蹴った。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
健の部屋で、老婆は静かにその話を聞いていた。
相槌も、頷くこともなく、表情も変わらなかった。
大智が倒れた時に見たという誰かの記憶。
それは恐らく、この写真の女性のものだ。
「じいちゃんの古い本からこれが出てきた」
健は写真を老婆に見せた。
「裏には日付けと、弘子と書いてある。これ、ばあちゃんだろ?」
どんなに老けようとも、面影は変わらず残っている。
写真の女性は老婆によく似ていた。
老婆は健の手から写真を取ると、写っている女性を懐かしそうに指でなぞった。
「こんな写真をまだ残していたなんてね……」
老婆は健を見ると、いつも通りの優しい笑みを見せた。
「健ちゃんは本当に聡い子だね」
「ばあちゃん、大智が見たっていう話は本当なのか?」
老婆は再び写真に目を落とすと、ゆっくりと頷いた。
弘子はこの老婆。和夫は健の祖父。そして、和子は健の母の名だ。
健の本当の祖母は、この老婆だったのだ。
嬉しくもあり、半分悲しくもある。
あの優しい祖母は、血の繋がった祖母ではなかった。
「ごめんね、大智ちゃん。嫌なものを見ただろう」
「い、いえ、俺は……俺は、ただ見てただけですから。ただ見てることしかできなかったです……」
写真をなぞる老婆の姿を見ながら、大智は拳を握りこんだ。
「大智ちゃんは優しいのね。もう終わったことだから、あなたが気負うことはないのよ」
老婆の声はどこまでも穏やかだ。
その「もう終わったこと」がどれだけ重たい言葉だろうと、本人にとっては本当に過去に終わったことなのだ。
今さら掘り返しても、何も意味をなさない。
「大智、ありがとうな」
健が大智の気持ちを汲み取って言えるのはこれだけだ。
このお人好しの友人は、どこまでお人好しなのか。
老婆の過去の記憶に引きずり込まれ、生を終える瞬間を見せられたのに……それを気味悪がることなく、何もできなかったと嘆いているのだ。
優しすぎる。
「ばあちゃん、大智もこんなに心配してくれてるんだ。ここに留まる理由があるなら、教えてくれないか」
「理由ね……」
老婆は顔を上げると、少し考える。
「理由、そうね。最初のうちはあったんだけれど……」
老婆は健を見た。
続きを言いかけて、首を振った。
「なに? どんなことでもいいから、教えてくれよ」
「そうね……」
それからまた少し、老婆は黙ったままだった。
過去のことを思い出しているのか、健に話すべきか迷っているのか。
大智から聞いた老婆の生前の話。
自ら命を絶ったとは思えないほど、老婆はいつも笑顔を見せてくれていた。
恨みつらみなど無縁だと思っていた。悲しみに溢れる終わり方をしただなんて。
健の気持ちはもう揺らがなかった。
老婆を導いてあげたい。
ただ、純粋にそう思った。
「ばあちゃん、教えてくれ」
健の2度目の言葉に、老婆はやっと口を開いた。
写真を持つ両手に少し力が入ったように見えた。
「最初はやっぱり、和夫さんのことを恨んでいたわ。死んだ後、気づいたらあの人にくっついていたもの。里子に出したって言っていた和子も手放していなくて、騙されたってわかったら余計にね」
老婆の顔にわずかに憂いが含まれる。
その機微は恐らく、ずっと一緒にいた健だからこそわかるものだった。
「毎晩枕元に立って苦めてやろうと思ったわ。……でも、あの人ったらね、布団に入ると泣くのよ。声を押し殺して泣くの。私の名前を呼んで、謝るの」
弘子、弘子。
自害するほどに苦しめて悪かった。
何も振り返らず、幸せになれば良かったのに。
俺と出会わなければよかったのか。
俺が見初めなければよかったんだ。
「全部あの人の優しさだったのよね。間違っていたけど、優しさなの。全部私を想ってのことだった。あの人との縁談も、本人が希望したなんて知らなかった。それほど私のことを好いてくれていたなんて……」
穏やかで、気遣い上手で、優しい。
それはちゃんと、老婆に向けられた特別な愛情の1つだった。
孫である健には、よく分かる。
ただ、老婆を幸せにしたいというまっすぐな強い想いは、老婆の気持ちを顧みる余裕をなくした。
「日々弱っていくあの人を見ていると、なんとかしてあげたいと思うようになった。死んでるから、何もしてあげられないのにね。そんな時にたまたまラジオから、心臓に詳しい先生の話が流れてきたの。あの人は寝ていて気づかなかったから、すぐに紙に病院名を書いて残したわ」
祖父は就寝する時に、テレビをつけっぱなしにする癖がある。
その当時はラジオだったのだろう。
「あの人はその紙を見て、たぶん、私の字だってわかってくれたのね。戸惑うことなくその病院へ向かったわ。東京だったから、ずいぶんと大変だったけど……手術を受けて、生き長らえた。本当に良かった」
本に挟まっていた写真と、もう1枚の紙。
病院名の書かれた紙は、老婆が記したものだとわかって残してあったのか。
健は老婆にその紙を渡した。
老婆は目を丸くして驚くと、目尻に皺を集めて顔を崩した。
「あの人は、後妻を取るつもりなんかないってずっと見合い話を断っていたけど、和子には母親が必要だと説得されてとうとう折れた。それが、今の健ちゃんのおばあちゃんよ。とても出来た女性。和子のことを、本当の娘のように愛して育ててくれた」
健から見ても、祖母が母を大事に想っているのがわかる。
ぎこちなさなど少しもない。本当の母娘にしか見えなかった。
そして、健のことも変わらず大事にしてくれている。
「和子も嫁いだし、それでおしまいにしようと思ってたわ。でも健ちゃんが私を慕ってくれて、ついつい長居をしすぎてしまった。心残りはなかったはずなのに……」
言うまでもなく、幽霊が視えるなどという奇異な力を持った健のことを心配していたのだ。
健が老婆を留める時間を長くしていた。
そんなことはわかりきっていた。
だが、自分が老婆を繋ぎ止める枷になっていたなど思いたくなかった。
「健ちゃんのせいじゃないのよ。私の問題だから」
健の表情が曇ったことに気がついた老婆は、健の頭を撫でる。
幼い頃によくそうしてもらった。
その手が小さくなったように感じるのは、健が成長したからだ。
「もう、おしまいにしないとね。今がその時なのね。…………でも、もう少しだけ、健ちゃんといてもいい?」
老婆の手は健の頭を優しく撫で続ける。
「成人式だけ、おばあちゃんに見せてちょうだい」
「……うん」
健には、老婆の手の感触は得られない。温かさも感じない。
それでも、その存在を求めて探してしまう。
ずっと一緒にいたのだから。
人生の門出、1つの区切り。
健も老婆に見てほしい。
もう心配される子供ではないのだと、安心させてあげたかった。
「それまで一緒にいてよ、ばあちゃん。昔みたいにさ」
健が顔を上げると、老婆は嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みに、写真の女性の顔が重なる。
やっぱり面影はそのままで、写真の中の女性も笑ったような気がした。
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