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散歩2
しおりを挟む週末、依頼主との待ち合わせに指定されたのはとある病院の一室だった。
部屋は個室で、窓から入る太陽の光が白い壁を反射する。
個室の中で待っていたのはベッドに横たわる男性と、30代半ばほどの女性、男の子が2人。初老よりやや年老いている男性、そして男性と同じ年齢に見える、刺々しいオーラを放っている女性の計6名だ。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げて迎えてくれたのは、30代半ばほどの女性だった。
「松野 由美といいます。ベッドに寝ているのは、夫の順一です」
由美は、男の子2人に手招きし、自分の前に立たせた。
「長男の翔太、次男の秀太です」
翔太は小学生、秀太は幼稚園児ほどのようだ。秀太は、健と大智を見て人見知りしたのか、由美に抱っこをせがむ。
「それと……」
由美は残りの2人を振り返ると、刺々しいオーラを放った女性がフンっと鼻を鳴らした。
「胡散臭いったらないねぇ! こんな若造達に何を依頼したって言うんだい? 詐欺じゃないのか? え?」
「お義母さん!」
由美が、女性を牽制するように声を荒げる。
順一とは違う男性は女性の隣で俯き、小さくなっていた。
「順一がこんなことになっているっていうのに、くだらないことしやがって。全部お前のせいじゃないか! お前と、あの犬っころのせいだ!」
由美はぐっと唇を噛み、女性を睨みつける。
女性はまたフンっと鼻を鳴らした。
「ばあちゃんやめてよ、ママを悪く言うな!」
瞳に涙をためた翔太が、顔を真っ赤にしながら由美と女性の間に入った。
ばあちゃんと呼ばれた女性は、翔太の言葉に、吊り上げていた眉を八の字に下げた。
「で、でもね翔ちゃん……」
「悪いのは、車を運転していたやつだ! ま、……うぅっ……まっ、……ろ、だって、うっ……悪ぐないっ……!!」
翔太はボロボロと涙を流した。握り込んだ小さな拳が震える。
女性がおろおろと言葉を探していると、小さくなっていた男性が、これまた小さな声で「帰ろう」と女性の肩を叩いた。
「家内が、失礼を申し上げました」
健と大智にそう告げた男性は、女性の背を押して病室から出て行った。
まるで嵐が去ったかのような病室に、すすり泣く2つの声が残った。
涙を流す由美と、翔太の顔を、秀太は交互に見る。
「まま、にいに、だいじょぶだよ。しゅうが、いるよ」
紅葉のような手は、涙の伝う由美の頰を優しく包み込んだ。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「お恥ずかしいところを見せてしまいました」
瞼を赤く腫らした由美は、まだしゃくりあげている翔太の頭を優しく撫でた。
「こちらこそ、若輩者で信頼するに足りない見た目です。おばあさんの気分を害してしまったようで、すみません……」
女性のオーラに気圧された大智は、ずいぶんと萎縮していた。
「いえ、義母は……」
「ばあちゃんはいつも、ママにだけいじわるするんだ」
ずずっ、と鼻水をすすった翔太が呟く。
「ママが兄ちゃん達を呼んだんだ。だから、気にくわないんだ」
「翔太、やめなさい。すみません。義母はいつもああなんです」
叱られた翔太は、むすっと唇を尖らせた。
祖母の嫌がらせから母親を守ったはずなのに、それを咎められるのは腑に落ちないに決まっている。由美も、親である手前、それを叱らなければいけないのは心苦しいだろう。
健と大智にできることは、深く掘り下げず、与えられた仕事をこなすのみだ。時には、深入りしてはいけないこともたくさんある。
「おばあさんも納得できるよう、必ず解決します。詳しく、聞かせてもらえますか?」
大智が申し出ると、由美はパイプ椅子を2脚出し、健と大智に座るように促した。
由美も座り、依頼するまでの経緯を話し始めた。
「夫が事故に遭ったのは2週間……いえ、もう3週間前になります。犬の散歩中、横断歩道を渡っていると、赤信号なのにブレーキもかけず車がぶつかってきたそうです。わき見運転でした。夫は腕の骨折と打撲、一番は頭を打ったことで、まだ意識が戻りません。ですが、担当の先生からは命に関わる怪我ではないと言われています」
由美がベッドに横たわる夫、順一に目を向けた。
順一の肌には、掛け布団から出ている部分だけでも、かすり傷が多いのが見て取れた。
「夫が入院して1週間が経った頃です。事故後の対応や、見舞いに通うこと、この子達の生活、私1人でやらねばならず、くたくたでした。慌ただしく1日を過ごし、この子達に夜ご飯を食べさせながら、つい、ボーッとしていたんです。そうしたら秀太……下の子が、入り口を指差して『パパがいるよ』と言ったんです」
「ぱぱ、いたんだよ」
由美の膝に座った秀太が、由美を見上げて言う。少し怒っているような、訴えるような言い方だ。
「ぱぱ、お家にいるんだもん」
「……こう言うんです。ですが、現に夫はまだ目覚めずここにいますし、私と上の子も家で夫の姿を見たことはありません。この子だけが見てるんです。このまま夫が目覚めず……とか、秀太に何かあるんじゃないかとか、怖くなってしまって」
膝に乗せた秀太を抱きしめた由美は、健と大智を見る。その眼差しは、戸惑いと怯えの混じったものだった。
「秀太君に、質問しても大丈夫でしょうか」
健が由美を見ると、由美はこくりと頷いた。
「秀太君、パパはまだお家にいるか?」
「……いるよ」
健に話しかけられた秀太は、警戒心をあらわにしながら小さく答えた。
「いつも?」
「……いっつもいるよ」
「パパは見てるだけ? 何か言ってる?」
「ましろって言ってる」
「ましろ?」
「僕んちの犬だよ」
首を傾げた健に答えたのは、翔太だった。
すっかり泣き止んでいた翔太だが、また眉尻が下がり、泣き出しそうな顔をする。
「ましろ、死んじゃったんだ」
「夫が散歩をしていた犬の名前です。その子は、夫と一緒に轢かれて亡くなりました」
由美は翔太にティッシュを渡し、自身も目尻に浮かんだ涙を拭った。
「さっき、おばあさんが言っていたわんちゃんは、その子のことですか?」
「はい」
大智の問いに由美は頷いた。
「結婚前から、私が飼っていた犬です。人見知りな子でしたが、夫にもよく懐いて、可愛がっていました」
「おばあさんは、なぜそのわんちゃんのせいだと?」
「義母は犬が嫌いなんです。それだけでなく、私の飼い犬でしたから、特に嫌っていました。ましろも、義母に近寄ることはありませんでした。叩かれたり、嫌がらせもされていたようですから。その嫌っている犬の散歩で夫が事故に遭ったから、そう言うのでしょう」
「そういうことですか……」
大智の顔がわずかに歪んだ。
お人好しで動物好きなこの男は、この短い間での出来事で由美に同情し始めているのだろう。
健は、大智を肘で小突いた。
「お話はわかりました。今、俺から言えることは、ご主人の幽体……つまり秀太君の言っているご主人の姿は、この病室には視えないということだけです。ご自宅に現れるということですので、そちらを視たいと思うのですが」
「わかりました。ええと、お2人は学生さん……ですよね? 急ですが、明日はどうでしょう? 平日だと学校がありますよね」
由美の提案に、大智は「あっ」と声を出した。
健が大智を見ると、気まずそうに頭を掻いている。
「すみません、俺たち、名乗りもせずに……」
「いいえ、いいんです。こちらの対応が無礼だったので」
「改めまして、長谷 一楓の代役で参りました。長谷 大智です。こっちは」
大智が健をちらりと見た。
「仁科 健です」
健は軽く会釈をして、名前を告げる。
「長谷さんと、仁科さんですね。よろしくお願いします。では明日、14時にまたこの病室に来ていただけますか。それから自宅へご案内します」
「わかりました。お願いします」
健と大智は頭を下げ、これ以上の用はないので早々に切り上げることにした。
病室を出て振り返ると、翔太が手を振ってくれた。大智が手を振り返すと、秀太も小さく手を振ってくれた。
ナースステーションを通り過ぎ、エレベーターに乗り込む。
「おい」
「え?」
一階のボタンを押した大智が振り返る。
「深入りするなよ」
いくら由美と、その愛犬の境遇が不幸だといっても、踏み込んではいけないラインがある。
それは健と大智の仕事ではない。
「……わかってるよ」
ボタンの羅列をじっと見つめたまま、大智が答えた。
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