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黒猫3
しおりを挟む「すごい家でしょう。私も最初は驚きました」
家に上がると、狭い玄関を入ってすぐにこじんまりとした台所がある。
トイレは台所から繋がり、風呂はない。
台所から続くもう1つの部屋へ、珠のれんを避けてジャラジャラと音を立てながら入る。
パイプベッドが置かれ、ボロボロな円卓とくたびれた座布団、小さなテレビ。エアコンはない。羽根が緑色の、古めかしい扇風機が置かれている。
押入れに収納ケースが置かれ、中には服が入っているようだ。
男3人が入ると、非常に狭い部屋だった。
それと、顔をしかめたくなる臭いがある。
「母が入院してしばらく、この部屋は放置されていたもので、出してあった食べ物なんかが腐っていたんです。捨てたんですけど、まだ臭いますね」
秋山は、立て付けの悪い窓をガタガタと開け、玄関の扉も少し開けた。風が通り、臭いが薄れた気がした。
「それで、どうでしょう? 何かわかりますか? 私も部屋の中はいろいろと探してみたんですが、それらしいものは何も見つけられなくて」
健は玄関から部屋まで、と言っても狭いのでざっと見回しただけだが、女性がここにはいないことを秋山に伝える。
秋山が落胆したのが、目に見えてわかった。
「秋山さんは、本当にその女性のことを何も知らないんですか?」
健が問う。
「何も知りません。母がバツイチだったことも、なんなら、自分の父の顔すら。私は何も知りません」
「えっ、お父さんの顔覚えてないんですか?」
寂しげな表情をした秋山は大智を見て、首を縦に振った。
「覚えてないというより、私の物心がつく前に亡くなったので、知らないんです。写真もありません」
秋山の祖父母は戦争で亡くなったらしい。わずかに残った親戚も、あまり頼りにはならなかったという。
夫とは死別し、親戚に頼ることもなく、女手一つで秋山は育てられた。
そのため、親類関係の話にはとんと縁がなかった。
秋山の世界の中心は母親であり、母親が絶対だった。
「育ててもらって、感謝はしているんです。ただ、過干渉というか……よく言えば過保護、悪く言えば束縛や依存、でしょうか」
母親の愛情は、秋山のみに向いた。
それはだんだんと屈折し、秋山のやる事なす事、考えることにまで干渉するようになってきた。暴力の類はないが、お前は違う、母が正しいのだと押し付けられた。秋山の自尊心は、母親によって押さえつけられた。
「それがたまらなく嫌で、私の結婚を機に、疎遠になったんです。猛反対されましたし」
それっきりだという。
住所も、孫の誕生も教えなかった。電話すら着信拒否にした。
「わずかですが、仕送りだけはしていました。でも、まさか、こんな家に住んでいるなんて……」
母親が家で倒れており、病院に搬送されたと、大家から連絡がきた。
医者から受けた説明では、末期ガンだという。半年はもたないと。
数十年ぶりに目にした母親は、母親だと言われなければわからないくらいの老婆になっていた。
白髪混じりの髪は長短不揃いで、皺とシミだらけの頰は落ち窪んでいた。
あんなに嫌っていた母親なのに、なぜだか涙が溢れた。
「痛み止めを投与し、ほとんど眠っている状態です。目を覚ましても、心ここに在らずという感じで『ゆきちゃん、ゆきちゃん』と言っているんです」
秋山はホッとしつつも、なんとも言えない感情を抱いた。
あれだけ自分に依存し、束縛してきたのに、それ以上の存在とは一体なんなのか?
この感情は嫉妬かもしれない。しかし、それ以上にその存在が気になった。
「興味本位でした。手がかりはないかと、少ない親戚に聞いて回り、この家の中もずいぶんと探しました」
でも、何も見つからなかった。
見つかったものといえば、母親がどれだけ質素に暮らしていたかという現実だ。
「仕送りは、すべて残されていました。わざわざ母の口座から、私名義の口座に移してです」
ははっ、と秋山は乾いた笑いを漏らす。
「ああ、他にもいろいろ見つかりました。私が幼い頃、母に描いた絵やプレゼント、全部取ってありました。それから……」
秋山は目を伏せて一呼吸おいた。
ぐっ、と何かを堪えている。
「親戚の連絡先を調べるために、電話帳や通話履歴を見たんです。発信履歴、私の名前で埋まってました。毎年、誕生日に。繋がらないのに……」
秋山が堪えていたのは涙だった。
堰を切ったように泣き出した秋山の背後から、どこからともなく黒猫が現れた。気遣うように見上げ、手に擦り寄る。首には赤いリボンをつけていた。
「最初で最後の親孝行です。どうか、どうか、助けてください」
「にゃあ」
秋山が頭を下げると、黒猫が健をジッと見た。何かを訴えるような目をしているが、健には猫の考えはわからない。
黒猫は、秋山にもう一度擦り寄ると、台所へ姿を消した。
「俺たちでよければ、力になります」
もらい泣きしている大智が秋山を宥める。
秋山が落ち着くまで少し時間がいりそうで、手持ちぶたさな健は黒猫を構おうかと台所へ移動した。
「あれ?」
狭い台所なのだが、黒猫の姿が見当たらない。
風を通すために玄関の扉を開けたままだったので、そこから出入りしてきたのか。
玄関から顔を出して外を見回すと、黒猫がこちらを見ていた。
「にゃあ」
黒猫は背を向け、長屋の裏手に入っていく。健もその後を追う。
裏には物干しが置いてあり、植木鉢もいくつかあった。物干し竿にはタオルが干したままだった。
昨晩訪れた際、大智が「人が住んでる」と言ったのはこれを見たからだろう。
「にゃん」
また黒猫の姿が見えないと探していると、無造作に伸びた茂みの中にいたようだ。
健が黒猫を見つけると、待ってましたとばかりにしっぽの先をうねうねと動かした。
そして、長屋の床下の換気口の中へ入っていった。
「えっ、おい」
出てこい、と換気口を覗き込むがそこに黒猫はもう見えなかった。
換気口の網は壊れ、体の柔らかい猫ならば簡単に出入りできるようになっていた。
そこから、家の中と同じような臭いが微かに漂っている。
「何やってんの?」
四つん這いになって換気口を除いている健に、大智が訝しげに声をかけた。
あまり見られたくはない姿だ。
健は無言で立ち上がり、膝の土を払った。
「黒猫がこの下に入り込んだんだ」
「黒猫がいたの!?」
ん? と健は思う。
「いたのって、さっきもいただろ。秋山さんに擦り寄ってただろ」
「え? いつ?」
健と大智は顔を見合わせたまま、首を傾げた。
「あの……」
さらにもう1人、首を傾げている。
「秋山さん、黒猫なんて見ました?」
大智に問われると、秋山は「いいえ」と否定した。
では、先ほどの光景はなんなんだ、と健は思う。思うが、そういうことなのだと理解した。
「秋山さん、お母さんは猫を飼っていましたか?」
「猫ですか? いや、飼ってはいないと……。ですが、大家さんに聞いた話ですと、野良猫は可愛がっていたようです」
「黒猫ですか?」
「色まではわからないですが……。黒猫がなんなんでしょうか?」
健は考える。
おそらく、秋山の母親が可愛がっていたのは黒猫で間違いないだろう。
可能性としてはある。確かめるべきだ。
「秋山さん、お母さんの部屋の床下を調べたいのですが。大家さんと連絡は取れますか」
健の突然の申し出だったが、秋山はすぐ大家に取り次いでくれた。
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