浄霊屋

猫じゃらし

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湖3

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   一楓いちかの言葉を受けて、たけるはスマホから顔をあげた。
   目を閉じて、深く息を吸う。そして吐き出す。
 いきなり深呼吸をしだしたことに、俺は戸惑いを隠せなかった。健に掛ける声が震えた。

「健……?」

大智たいち、怖かったら車戻ってていいぞ」

   健は来た道を振り返って見ている。
   何かを感じ取ったのだろうか。
   俺にはわからない。

「つ、付き合うよ」

 正直、怖い。
 でも、もっと怖いのは健を1人で戻らせることだ。

「なんかあったらすぐ逃げろよ」

   ニッと健が笑った。
   そして踵を返して歩き始めたので、俺も震える足をぎこちなく動かしてそれに従う。

『健くん、ありがとう』

「礼はちゃんと終わったらでいいっす」

   健はいまだ頰に汗を伝せているが、先程までの表情とは打って変わっていた。
   読み取ることは難しいが、これは何か決意を固めた時の顔だ。俺にだけわかる。

   ギシッギシッと相変わらず板張りの道はうるさい。
   健はもう懐中電灯など当てにせず歩いていた。
   ずんずん進んでいく健に置いていかれないよう、俺も気にしている余裕もなくついていく。
 そういえば、いつの間にか懐中電灯に光が戻っていた。




 ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎




「ここか……?」

   ふと健が止まった。
   ここ、と言っても特に何もない。街灯から少し外れた薄暗闇の中にベンチがあるだけだ。

「どこだ」

   健が辺りを見回す。
   俺も恐る恐る辺りを見回す。
   湖を懐中電灯で照らしてみたりしたが、何も変化は見られない。

「出てこい」

   静かに通る健の声に、俺の心臓はばくばくと音を立てている。
   スマホの一楓も何も言わない。




   ぽちゃんっ




   湖で何かが跳ねた。
   健が懐中電灯で湖面を照らす。水面には波紋が広がっていた。

   そういえば、先程何かが跳ねたのもこの辺りじゃなかっただろうか。
   健が裾を引っ張られたのも、ここだった気がする。

   健は湖面を照らし続けている。
   波紋は大きく広がり、少しずつ消えかけていた。


   その波紋の中心に、何か黒い影が見え始めた。


「健、なに、あれ……」

   黒い影がだんだんと大きくなってくる。
   大きく、というより、水面に向かって浮いてきているような。

「た、健……健っ……!」

「俺の後ろにいろ」

   大きくなった黒い影は水面に近づくにつれて細かく枝分かれし始めた。


   あれは——髪の毛だ。


   長い髪の毛が弧を描くように水面を泳いでいる。
   だんだんと、浮いてきている。

   俺は恐怖のあまり健の背中にしがみついた。
   健は動じることなく湖面を見続けている。懐中電灯の光が影を捉えて離さない。
   健の背中は汗で濡れていた。

   ついに、水面から頭が出てきた。
   ゆっくりと、恐怖心を煽っているかのように。
   髪の毛の隙間から見えた肌の色は、人間のものとは思えないほど灰色がかっていた。

   鼻筋まで出てきたところで閉じていた瞼がゆっくりと開き、こちらを捉えた。

「ひっ……!!!」

   眼窩がんかは窪み、その双眸そうぼうは暗くよどんでいた。焦点が合っていない。

   ゆっくりと出てきた影であったそいつは、もう肩まで水面から出てきていた。
   髪の毛を顔中に張り付かせ、口をぱくぱくとさせながら手をこちらに伸ばしている。

「に、逃げよう、健……!」

   そいつはもう柵に手が届く勢いでこちらに近づいていた。
   だんだんと露わになるそいつの姿から目が離せない。
   目をそらしてしまったら最後、その手に捕まって湖に引きずりこまれてしまいそうだ。
   早く逃げなければ。

   俺は健を無理矢理引っ張って逃げようとした。
   だが、健は俺の手を振り払い、あろうことか手を伸ばすそいつに手を差し伸べたのだ。

「こっちに来い」

   健の手にそいつが手を伸ばした。
   腰が抜けた俺は、もう見ていることしかできなかった。
 伸ばしあった手が近づく。

   そして、健がそいつの手を握った。

   その瞬間に、ぱくぱくとさせていたそいつの口から声が漏れ出したのだ。



「たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて」



   念仏のようにつぶやき続ける声に抑揚はなく、しわがれた老婆のような声だった。
   健を湖に引きずり込む様子はない。
   健がそいつを引っ張ると抵抗もなく、ずるり、と水中から出てきた。
   
   そいつはセーラー服を着ていた。
   セーラー服から見える肌は相変わらず灰色がかっており、生きている人間にはないものだった。
   「たすけて」とつぶやき続けている。

   そいつを柵の内側まで引っ張り上げたところで、手を握ったまま健はそいつに向き合ってしゃがんだ。

「見つけたぞ」

   その言葉を聞いたそいつは、焦点の合わない瞳をぐるんと回し、まっすぐ健を見た。
   焦点が合ったようだ。暗く淀んだ双眸に光が射している。
   健を見据えるそいつはぼろぼろと涙を流し始めた。
   先程までのおぞましい姿をした化け物ではなくなり、あどけなさの残る、中学生くらいの女の子になっていた。
   女の子は顔を歪めてわんわんと泣き始めた。

「苦しいことは終わりだ。帰ろう」

「ゔんっ……」

   女の子は何度も頷いた。
   しわがれた老婆のような声も、年端のいかない女の子のものになっていた。
   拭っても拭っても、涙は収まることなく溢れている。

   どれだけ悲しく、寂しかったんだろう。こんなに小さな女の子を思い詰めるほどの苦しみは、どれだけ深かったんだろう。
   たくさんの思いが交差したが、俺は何もしてあげられない。

   せめてこれくらいだけでも、と俺はポケットに入ってたハンカチを女の子に渡した。

   女の子はびっくりした顔をしたが、涙の溢れた顔のまま微笑んで「ありがとう」と言った。
   そして、またわんわんと泣き始めた。
   健の握った手を自分に引き寄せ、大事に抱え込むように、その手に縋るように泣いた。
   



 ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎




   しばらく泣き続けた後、女の子は健の手を離し、俺の渡したハンカチで最後の涙を拭った。

「私、行かなきゃ」

   女の子は立ち上がった。

「帰り道はわかるか?」

   健が問う。

「うん、光の道が見える。私の家まで続いてると思う」

「そうか」

   気をつけてな、と健が女の子の頭をポンと撫でた。
   女の子は気恥ずかしそうに頭を手で押さえはにかむ。

「お兄ちゃん達、ありがとう」

   手を振り、女の子は何もない遊歩道の薄暗闇に向けて歩き出した。
   だんだんと姿が透けていく。
   ひらひらとセーラー服のスカートを揺らして歩く姿は本当に幼い。

   完全に消えてしまう少し手前、女の子が振り返り健を見た。


「お兄ちゃんのその光、あったかくて心地よくて大好き」


   女の子は完全に消えた。
   ざわざわと草木が揺れている。
   何もない、湖がただあるだけだ。

   はー、と健が息をついた。

   「帰ろう」
   
   俺も詰まっていた息を吐き出した。
   スマホからは『お疲れさま』と一言だけもらい、切れた。



   帰ろう。



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