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◆新たな目標としばしの別れ
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中学生になって初めての体育祭が、気持ちのいい秋晴れの下で開催された。パパとママも応援に駆けつけてくれて、私と未来君のクラスは、一年生のクラス優勝という最高の結果で幕を閉じた。
馬跳びのリレーに限って言えば、私の跳躍の遅さに加え、私に合わせて高さを調節したりといったタイムロスが響いて最下位だった。だけど、ゴールした後には、みんなで輪になって完走を喜び合った。そんな私たちに、同じクラスのみならず、別のクラスや学年からも拍手や健闘をたたえる声が上がった。成績はふるわなかったけれど、最後までやり切ったことは私にとって自信となったし、結果では測りきれない成功体験として胸に刻まれた。
これまで、いい思い出のなかった体育祭。それがはじめて、楽しい記憶になった。
私は体育祭の最後に未来君とハイタッチをしながら、湧き上がる喜びを噛みしめた。
そうして、季節は巡る。秋が終わり冬が来て、その冬の寒さも徐々に和らいで春の温かな日差しに変わる。
満開の桜を見上げながら、私と未来君は一緒にひとつ学年を上げた。幸運なことに、新学年でも私たちは同じクラスだった。もちろん、席はもう前後ではなかったけれど、同じ教室内に視線を巡らせれば未来君の姿があって、ふとした折に声が聞こえる。そのことが、とても嬉しかった。
そんなうららかな四月の休日。
「ずいぶんと精が出るね」
「パパ」
私が珍しくリビングで勉強していたら、パパが声をかけてきた。
「数学と化学か。里桜ちゃんは、理数分野が好きなのかい?」
私の手もとを覗き込んで、パパが尋ねる。
「ううん。好きどころか、むしろ苦手。だけど、将来やってみたいなってことがあって、それには避けて通れなそうだから」
「へー。初耳だな、里桜ちゃんは将来の夢があるのか。なにをやってみたいんだい?」
「夢ってほど、まだ明確じゃないんだけど……。ハーブを研究したいなって」
これを誰かに打ち明けたのははじめてだった。
「未来君がうちにきてすぐの頃、私が料理に入っていたハーブを言い当てて、それに対して『里桜ちゃんは感覚が鋭い』って言ってくれたのを覚えてる?」
「覚えてるよ。そこから、里桜ちゃんは小さい頃から味覚が鋭いって話題になったよね」
「そうそう。その時はまだ、ハーブって面白いなってくらいだったんだ。だけど、ダイエットをしている中でハーブの香りで安らいだり、癒されたことが何度もあった。成分や効果・効能、その活用法を突き詰めてみたいなって思うようになったの」
私の話をパパはうんうんと頷いて聞いていた。
「色々調べたら、そういうのを学ぶには農学部がいいみたいなんだ。それで今から、数学と化学を絶賛勉強中……わわわっ!?」
言葉の途中、突然パパに後ろからすっぽりと抱きしめられる。
「ちょっとパパ!? 急にどうしちゃったの!?」
小学校まではよく、こんなふうにパパとじゃれ合っていたけれど、中学校に入ってからは頭や肩を撫でられるのがせいぜいだった。気恥ずかしさから、咄嗟に出た声は少しだけトゲトゲしかった。
「いつまでも小さいつもりでいたけど、里桜ちゃんはもうこんなに大人なんだね」
「パパ……?」
パパの少し寂しそうな声に戸惑いが浮かぶ。
その時、後ろからツカツカと足音が近づいてくる。次の瞬間、パパがベリッと音がしそうな勢いで引き離された。
「そうよ、パパ! 里桜ちゃんはもう、ちっちゃな子供じゃないのよ! いい年して、いつまでも引っ付いてるんじゃありません」
見上げると、ママに首根っこを掴まれて、パパが猫の子のようになっているではないか。
「ママ! 未来君!」
ママの隣には、気まずそうに苦い笑みを浮かべて立つ未来君の姿もあった。
「いいかね、未来君。君にひとつ言っておくよ」
「は、はい?」
ママに解放されると、パパは真っ直ぐに未来君に向き直る。高圧的に迫られて、未来君はやや腰が引けぎみで返事をした。
「里桜ちゃんはうちのお姫さまだ。そしてここの家長、要するに王さまは私だ。私はまだまだ、里桜ちゃんをどこにもやる気はないからそのつもりでいてくれ」
パパは言うだけ言えば、未来君の答えも聞かずに踵を返して行ってしまう。
なぞのマウンティングに、目が点になる。隣の未来君も呆気に取られた様子で、パチパチと目をしばたたいて立ち竦んでいた。
「パパったら、どんだけ子離れできてないのよ」
ママがぼそりとつぶやいた台詞が、一番真に迫っていると思った。
「……とはいえ、里桜ちゃんの急成長にはママだって驚かされてる。その成長ぶりに戸惑うパパの気持ちも分かるわ。しかも、きっかけが全部未来君となれば、男親としてはきっと複雑なんでしょう。……まぁ、だからといって未来君に妙な対抗心を燃やしているのはアレなんだけど」
ママは肩をそびやかし、ヤレヤレとため息をつく。私と未来君は顔を見合わせて苦笑した。
「ま、しょうがないわね。書斎にこもったパパに、お茶でも運んであげるとしましょ」
なんだかんだで、ママはパパの一番の理解者なのだ。ついでに、パパが絶対に頭が上がらない女王さまでもあるのだが。
ママがパパの後を追うように出て行くと、リビングには私と未来君が残った。
「……さっき、ハーブの研究がしたいって言っていたね」
「やだ、聞こえてた? ……まだ、ふわっとした希望なんだけど、将来の仕事に繋げられたらいいなって思ってる」
未来君に水を向けられて、私は照れながらも正直に答えた。
「素敵な夢だね」
「これも全部、未来君が最初に『感覚が鋭い』って、それを『特技』だって言ってくれたおかげよ。ありがとう」
微笑んで伝えると、未来君はやわらかに目を細め、私を見つめる。
「僕はただ、気づいたことを口にしただけだ。里桜ちゃんがそこに関心を持ったのは結果論で、『僕のおかげ』だなんて言われると、ちょと悩ましい気がするな」
……未来君は、分かっていない。あの時、未来君に『感覚が鋭い』と、そしてそれを『特技』だと言ってもらって、私がどんなに嬉しかったか。少なくとも、体の重さに引きずられるように重く後ろ向きだった私の心を明るくし、前向きにするには十分だった。
おそらく、気づいたことをただ口にするだけでは、人の心には響かない。相手を思う心がなければ、こんなにも心動かされはしないのだ。
「ねぇ未来君、私、未来君の夢もきっと叶うと思うんだ。将来、未来君が社長さんになったら、絶対に会社はもっと成長するよ!」
「なんだか、ずいぶんと唐突だね」
突然話の矛先を向けられて、未来君はパチパチとまばたきした。
「ここまで八カ月、間近でダイエットを支えてもらっているからこそ分かるの。未来君は、お父さまの会社の『女性の美しく健やかな暮らしをプロデュースする』って企業理念を地でいってる。調子がいい時はもちろん、体重が減り悩んで苦しい時こそ、しっかり寄り添って励ましてくれる。どうしても食べちゃいたいなって時だって否定しないで、美味しくってヘルシーなお菓子やスイーツで、ちゃんと心に栄養補給させてくれる」
私のダイエットは、ほぼ未来君が当初に立てたプラン通りに順調な経過を辿っていた。見た目にもだいぶスリムになってきて、ゆるくなった制服は途中で一度サイズ直しをしたが、また夏前には直しが必要になるだろう。
「こんなにダイエットが無理なく楽しく進められてるのは、全部全部、未来君のおかげ。痩身サロンの件にとどまらず、女性を多方向からプロデュースする、これって未来君にピッタリだと思うもの!」
後三カ月と少し。私と未来君が二人三脚で挑むダイエットのゴールは目前だった。だけど私は、ゴールした後も今の生活習慣を続けていくつもりだ。
規則正しい三食を取り、夜にはジョギングをして、お風呂でゆったり半身浴をして気分をリフレッシュする。たまの休日にはお菓子を手作りして、パパやママと一緒にお茶を飲む。肩肘張って頑張るまでもなく、これらは私の日常として無理なく定着していた。
「……僕も本腰を入れなきゃな」
「え?」
「里桜ちゃんに負けてられないよ。僕にとってお菓子作りや料理は趣味の延長で、作って楽しむことが目的だった。だから、食材選びも調理方法もこれまでは全部自己流だった。だけど、これからは管理栄養に運動理念、企業経営や語学も、ちゃんと将来を見据えて勉強していく」
もしかすると、私が伝えたなにかが、彼の心の琴線に触れたのだろうか。こんなに熱のこもった目をした未来君を見たのは初めてだった。
「里桜ちゃん、感謝を伝えるのは僕の方だ。敷かれたレールの上を歩いていても、僕は父さんの跡を継いでいつか社長になっていただろう。周囲の大人たちの評価も同じだった。成績もまずまずで、なんとなく型にはまった長男の僕を見て、『これで会社の将来も安泰ですね』って挨拶がわりに口を揃えられるのがずっと面白くなかった。でも、その理由については、いまひとつピンときていなかったんだ。それを君が、気づかせてくれた」
未来君は、真っ直ぐに私を見つめて続ける。
「僕にとって『安泰』は、誉め言葉じゃない。もし自分が違うと思えば、レールの外を進んでみたっていいんだ。そうやって色んな知識と経験を積んで、僕は実力で社長になる。そうして、会社をもっと成長させて、僕あっての会社だと言われるようにしてみせる。僕は父さんの会社を無事安全に繋いでいくだけでなんて、終わらない!」
……ダイエットを始める時、私は痩せた先に待つ明るい未来を見てみたいと思った。
だけど、目標体重を達成した瞬間に一気に世界が拓けるわけではないのだ。当然のことながら、その先にも、いくらだって新しい未来は続いていく。
なにより私は、痩せていく過程の今が楽しい。そして楽しい今の時間は、他ならぬ私自身が作っている。ならば、痩せた先の未来を作るのも、私なのだ。
それは、未来君にとっても同じ――。
「未来君ならきっと立派な社長さんになれるよ」
「ありがとう。それから里桜ちゃん、僕はまだずぶの素人だけど、そんな僕の目にもダイエットにハーブを取り入れるのは面白いと思うんだ。将来、里桜ちゃんの研究とその活用法が有益だと判断したその時は、声をかけてもいい? 二人で一緒に事業展開したい」
「素敵! 私、ますます頑張るよ。それで将来は、身内びいきって言われないくらい、ちゃんとした研究成果を持って未来君の会社に乗り込んじゃうんだから!」
「いいね。きっとその事業は、会社の柱になるさ」
目指す夢は違う。だけど私と未来君が見つめる方向は同じ。そしてその先には、共通の目標――夢がある!
私たちは見つめ合い、決意を共有した。
「……ふふふっ、嬉しいなぁ」
「嬉しい?」
頬を緩ませる私に、未来君は首をかしげた。
「うん! ダイエットっていう目標達成の先に、また新しい目標ができたんだもの。これって、すっごくワクワクしない?」
未来君は目を見張り、次いでスッと表情を引きしめた。
「……どこまで可愛いんだ」
「え? なぁに?」
聞き返すが、未来君は口を噤んだまま答えない。そんな彼を前にして今度は、私が首をかしげた。
次の瞬間、彼の腕が伸びてきて、その手がトンッと肩に置かれる。力強い感触と温もりにドクンと鼓動が跳ね、彼が触れる肩に熱が集まってくる。
ドキドキとさわぐ胸を抑えながら、息をのんで形のいい唇が開かれるのを見つめた。
「本当は、ダイエットが成功した後に伝えるつもりだった。だけど、こんなに可愛い君を前にして、もうこれ以上胸にとどめてなんておけない」
つばを飲む音が妙に大きく響く。
「里桜ちゃん、聞いてくれ。僕は――」
その時、パパとママの足音が響き渡る。未来君は言葉を途切れさせ、スッと肩から手を引いた。
二人はとても焦った様子で、二階から慌ただしく駆け下りてくる。
尋常ではない空気を感じながら、私と未来君は揃って扉に視線を向けた。
直後、パパの手で勢いよくリビングの扉が引き開けられた。
「未来君! 旅先でお母さんが……!」
「えっ?」
未来君が弾かれたようにパパのもとに駆け寄る。そのまま二、三言葉を交わし、未来君はパパから受け取ったスマートフォンを耳にあてた。
通話の相手はお父さんのようで、未来君は真剣な様子で話し始めた。
「里桜ちゃん、こっちに」
私はママにそっと促され、未来君の通話の邪魔にならないように奥のダイニングに場所を移った。
「ママ、いったいなにがあったの!?」
声をひそめ、逸る心のまま尋ねる。
「未来君のお母さんが、大きなお怪我をされたらしいの」
「具合は!? どんな状態なの!?」
「まだ詳しいことは分からないけれど、現地の病院で治療を受けているみたい」
聞かされた状況に、胸が締めつけられる。未来君のお母さんが心配なのはもちろん、枕辺にすぐに駆けつけることがかなわない未来君の心の内を思うと、苦しくて仕方なかった。
私もママもそれきり口を閉ざし、続き間のリビング・ダイニングには、通話する未来君の声だけが響いていた。
「――分かった、いったん切るね。手術が終わったら、またすぐに連絡して。うん、それじゃあ」
通話を終え、未来君が耳にあてていたスマートフォンを外す。
「細井さん、ありがとうございました。母は寄港地の南アフリカで骨盤を複雑骨折をして、これからヨハネスブルグの私立病院で緊急手術になるそうです。術後しばらくは、そのまま入院になるでしょう。父とも話したんですが、僕も航空券が取れ次第、すぐに現地に向かいます」
未来君はパパにスマートフォンを返しながら、はっきりとした声音で告げる。だけどその顔に色は無く、彼が心に受けた衝撃の大きさが知れた。
「そうか。ヨハネスブルグだと直行便がないから、乗り換えだな。いくつか経由地があるけど、まずはオンラインで空き状況を確認しよう」
「はい」
パパと未来君はスマホを覗き込み、慌ただしく航空券を探しはじめる。
彼のために、なにもしてあげられないことが歯がゆい。ギリリと両手を握りしめ、もどかしい思いで未来君の背中を眺めていた。
すると、未来君がスマホから目線を外し、後ろの私を振り返った。彼は力強くひとつ頷いて、またすぐに視線を前に戻した。
目が合ったのはほんの一瞬。だけど真っ直ぐな瞳が、私に向かって「大丈夫だよ」とそう言っているように聞こえた。
この場にあって、誰よりも辛い思い抱えているはずの彼が私に示した気遣いが胸に切なく、一層の苦しさを呼んだ。
その日の夕方。
深夜便での出発が決まり、家を出る直前の未来君が、私の部屋を訪ねてきた。
「未来君! 準備はもう、大丈夫なの!?」
扉を引き開けて、中に招き入れながら問う。
「全部済んだよ。今、里桜ちゃんのお父さんがタクシーを呼んでくれてる」
「そっか」
私の部屋に入ると、未来君は初めて扉を閉めきった。彼はこれまで私の部屋に来ても、紳士的な配慮を忘れず、必ず扉に隙間を残していた。
明確な意図をもってされた行動に、ドクンと胸が跳ねた。
「出発の前に、どうしても里桜ちゃんに伝えておきたかったんだ」
「……未来君?」
ふたりの目線が間近に絡む。熱のこもった彼の瞳に、焼かれてしまいそうな錯覚がした。
「僕は、君が好きだ」
未来君の告白に、喜びが湧きあがる。今にも足が浮き上がり、宙に飛んでいってしまいそうに、心と体がふわふわしていた。
「子供の時のキャンプで、僕を守って犬の前に立ちはだかった勇敢な背中に心奪われた。八年振りに再会して、君のまぶしい笑顔を見て、僕は二度目の恋に落ちた。そうして一緒に過ごす中で、君への想いは苦しいくらいにふくらんだ。……ずっと君を、僕だけのものにしたかった」
「あっ!?」
未来君がスッと腕を伸ばし、私の後頭部に手をあてる。そのまま彼がトンッと一歩を踏み出し、二人の距離をうめる。
「他の誰にもやらない。太陽みたいな笑顔も、……この唇も、全部僕のものだ」
頭の後ろに回った手にクイッと力をこめられて、見上げる彼の瞳がにじむくらいに近くなる。
「んっ」
反射的にまぶたを瞑った直後、唇にふわりとした感触が落ちる。ついばむようにそっと重なって、彼の唇はやわらかな温もりを残してすぐに離れていった。後ろ頭を支えていた彼の手もゆるみ、私の髪を指の隙間に滑らせながら遠ざかっていく。
口付けが解かれても、唇はもとより、全身がジンジンと痺れているかのようだった。幾度か小さくまばたいて、睫毛を震わせながらゆっくりと目を開く。
鼻先が触れそうな近さに見る熱っぽい彼の瞳に、のぼせてしまいそうになる。私はどこかふわふわとしたまま、考えるよりも先に口を開いた。
「私もだよ。……私も、未来君が好き」
告げた瞬間、黒茶の瞳がこぼれ落ちそうなくらい見開かれる。
「里桜ちゃん……!」
彼の手が腰に回り、グッと引き寄せられて、気づけばすっぽりと抱きしめられていた。まるで私を胸の中に閉じ込めるようとでもするかのような深い抱擁に、彼が胸の内に抱く不安を垣間見たような思いがした。
「ねぇ、未来君。私はいつまででも待ってるよ」
「え?」
唐突な私の言葉に、未来君は小さく首をかしげた。
実は、未来君が出発の準備をしている間、私はずっと調べていた。
未来君のお母さんの怪我について、「骨盤の複雑骨折」とだけしか情報は持ちえない。だけど、術後数カ月間は寝たきりで、その後も社会復帰までには長期の療養やリハビリを要するケースが多いようだ。さらに重篤な後遺症を残すことも少なくない。
「未来君の全面サポートで始めたダイエットも、今ではすっかり生活の一部として定着してる。もう、私はひとりで……ううん、パパやママと一緒に、これまで通りの規則正しい生活を続ける。それで三カ月後には、必ず目標体重を達成するよ。もちろん、ダイエットだけじゃなくて、夢に向かって勉強も手抜きなしだよ。だから、未来君は安心してお母さんに付き添ってあげて? 一番、未来君のサポートが必要なお母さんの側に」
どちらにせよ、未来君のお母さんは数カ月間はヨハネスブルグから動けない。
未来君が異国の地で不安に過ごすお母さんの傍についていてあげたいと思うのは当然で、ならば私にできるのは彼の背中を押すこと……。現地での滞在をちゅうちょする彼を応援し、気持ちよく出発を見送るのだ。
「僕も母さんに付いていたい思いはある。だけど二カ月も三カ月も学校を休んで、ずっと現地で付き添うのは現実的じゃない」
「学校を休んでお母さんの側にいようとしたら、そうだね。だけど、現地の日本人学校に転入する方法だってあるよ。お母さんの治療にめどがついたら、その時はまた日本に戻ってきたっていいじゃない」
「……母さんが大変な時に、薄情かもしれない。だけど僕は、里桜ちゃんと離れたくない思いもあるんだ」
薄情なのは、私の方だ。未来君のこの告白に、たしかな喜びを感じているのだから。
そうして本心では、未来君と離れたくなんかない。ずっと、一緒にいたい。だけど私が彼に伝えるべき言葉は、それではない――。
「未来君の気持ち、すごく嬉しい。でも、やっぱり今はお母さんのところにいてあげて欲しい。すぐ隣に未来君がいないのは寂しいけど、私たちが見つめる先は同じだから、私はどこまでだって頑張れる。未来君も、きっと同じだと思う。一番未来君のサポートを必要とするお母さんの側に、いてあげて」
「里桜ちゃん……」
未来君はまぶしいものでも見るように、細くした目に私を映していた。そうして長い間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「向こうに行ったらそのまま現地にとどまると思う。たぶん、里桜ちゃんのダイエット達成の瞬間は、見られない」
「うん! 未来君がいないからってダラけないわ。ちゃーんと目標体重にのっけて、すっかり我が家の定番になったガパオ風プレートでパパママと一緒にお祝いするよ。未来君にはスマホで写真を送るから、楽しみにしてて!」
「楽しみだ。だけど里桜ちゃんこそ、楽しみに待ってて」
「え?」
「勉強は卓上でするだけじゃない。僕は現地で色んなことを学んで、どんな経験も全て身にして、一回りも二回りも大きくなって帰って来るから。もちろん、その時は怪我から回復した母さんも一緒だ。だからそれまで、間違ったって君の隣を他の誰かに譲ったりしてはだめだからね。君の隣は、僕の指定席だよ」
未来君が語る一言一句に、彼への「好き」があふれる。
こんなにも大好きと思える人がいる。その人と同じ未来を見つめている。はたしてこんな幸せが、他にあるだろうか。
「未来君の指定席は誰にも座らせないよ。未来君が帰って来るのを、楽しみに待って……あっ!」
抱きしめる腕の力を強くされ、頭上に影がかかる。次の瞬間には、唇同士が隙間なく重なっていた。
全ての思考が、未来君に塗られてゆく。未来君のこと以外なにも考えられなくなって、必死で彼の背中にすがった。
……二度目のキスは、灼熱のように熱い。
階下からパパに声をかけられたことで、長く触れ合わさっていた唇が解かれる。二人とも少しだけ息を荒くして、上気した頬をしていた。
「それじゃあ里桜ちゃん、いってきます!」
「いってらしゃい! 体に気を付けて! お母さんを励ましてあげてね!」
心をひとつにし、私たちの表情は晴れやかだった。
こうして未来君は私の心と体に鮮烈な存在感を刻みつけ、旅立っていった。
馬跳びのリレーに限って言えば、私の跳躍の遅さに加え、私に合わせて高さを調節したりといったタイムロスが響いて最下位だった。だけど、ゴールした後には、みんなで輪になって完走を喜び合った。そんな私たちに、同じクラスのみならず、別のクラスや学年からも拍手や健闘をたたえる声が上がった。成績はふるわなかったけれど、最後までやり切ったことは私にとって自信となったし、結果では測りきれない成功体験として胸に刻まれた。
これまで、いい思い出のなかった体育祭。それがはじめて、楽しい記憶になった。
私は体育祭の最後に未来君とハイタッチをしながら、湧き上がる喜びを噛みしめた。
そうして、季節は巡る。秋が終わり冬が来て、その冬の寒さも徐々に和らいで春の温かな日差しに変わる。
満開の桜を見上げながら、私と未来君は一緒にひとつ学年を上げた。幸運なことに、新学年でも私たちは同じクラスだった。もちろん、席はもう前後ではなかったけれど、同じ教室内に視線を巡らせれば未来君の姿があって、ふとした折に声が聞こえる。そのことが、とても嬉しかった。
そんなうららかな四月の休日。
「ずいぶんと精が出るね」
「パパ」
私が珍しくリビングで勉強していたら、パパが声をかけてきた。
「数学と化学か。里桜ちゃんは、理数分野が好きなのかい?」
私の手もとを覗き込んで、パパが尋ねる。
「ううん。好きどころか、むしろ苦手。だけど、将来やってみたいなってことがあって、それには避けて通れなそうだから」
「へー。初耳だな、里桜ちゃんは将来の夢があるのか。なにをやってみたいんだい?」
「夢ってほど、まだ明確じゃないんだけど……。ハーブを研究したいなって」
これを誰かに打ち明けたのははじめてだった。
「未来君がうちにきてすぐの頃、私が料理に入っていたハーブを言い当てて、それに対して『里桜ちゃんは感覚が鋭い』って言ってくれたのを覚えてる?」
「覚えてるよ。そこから、里桜ちゃんは小さい頃から味覚が鋭いって話題になったよね」
「そうそう。その時はまだ、ハーブって面白いなってくらいだったんだ。だけど、ダイエットをしている中でハーブの香りで安らいだり、癒されたことが何度もあった。成分や効果・効能、その活用法を突き詰めてみたいなって思うようになったの」
私の話をパパはうんうんと頷いて聞いていた。
「色々調べたら、そういうのを学ぶには農学部がいいみたいなんだ。それで今から、数学と化学を絶賛勉強中……わわわっ!?」
言葉の途中、突然パパに後ろからすっぽりと抱きしめられる。
「ちょっとパパ!? 急にどうしちゃったの!?」
小学校まではよく、こんなふうにパパとじゃれ合っていたけれど、中学校に入ってからは頭や肩を撫でられるのがせいぜいだった。気恥ずかしさから、咄嗟に出た声は少しだけトゲトゲしかった。
「いつまでも小さいつもりでいたけど、里桜ちゃんはもうこんなに大人なんだね」
「パパ……?」
パパの少し寂しそうな声に戸惑いが浮かぶ。
その時、後ろからツカツカと足音が近づいてくる。次の瞬間、パパがベリッと音がしそうな勢いで引き離された。
「そうよ、パパ! 里桜ちゃんはもう、ちっちゃな子供じゃないのよ! いい年して、いつまでも引っ付いてるんじゃありません」
見上げると、ママに首根っこを掴まれて、パパが猫の子のようになっているではないか。
「ママ! 未来君!」
ママの隣には、気まずそうに苦い笑みを浮かべて立つ未来君の姿もあった。
「いいかね、未来君。君にひとつ言っておくよ」
「は、はい?」
ママに解放されると、パパは真っ直ぐに未来君に向き直る。高圧的に迫られて、未来君はやや腰が引けぎみで返事をした。
「里桜ちゃんはうちのお姫さまだ。そしてここの家長、要するに王さまは私だ。私はまだまだ、里桜ちゃんをどこにもやる気はないからそのつもりでいてくれ」
パパは言うだけ言えば、未来君の答えも聞かずに踵を返して行ってしまう。
なぞのマウンティングに、目が点になる。隣の未来君も呆気に取られた様子で、パチパチと目をしばたたいて立ち竦んでいた。
「パパったら、どんだけ子離れできてないのよ」
ママがぼそりとつぶやいた台詞が、一番真に迫っていると思った。
「……とはいえ、里桜ちゃんの急成長にはママだって驚かされてる。その成長ぶりに戸惑うパパの気持ちも分かるわ。しかも、きっかけが全部未来君となれば、男親としてはきっと複雑なんでしょう。……まぁ、だからといって未来君に妙な対抗心を燃やしているのはアレなんだけど」
ママは肩をそびやかし、ヤレヤレとため息をつく。私と未来君は顔を見合わせて苦笑した。
「ま、しょうがないわね。書斎にこもったパパに、お茶でも運んであげるとしましょ」
なんだかんだで、ママはパパの一番の理解者なのだ。ついでに、パパが絶対に頭が上がらない女王さまでもあるのだが。
ママがパパの後を追うように出て行くと、リビングには私と未来君が残った。
「……さっき、ハーブの研究がしたいって言っていたね」
「やだ、聞こえてた? ……まだ、ふわっとした希望なんだけど、将来の仕事に繋げられたらいいなって思ってる」
未来君に水を向けられて、私は照れながらも正直に答えた。
「素敵な夢だね」
「これも全部、未来君が最初に『感覚が鋭い』って、それを『特技』だって言ってくれたおかげよ。ありがとう」
微笑んで伝えると、未来君はやわらかに目を細め、私を見つめる。
「僕はただ、気づいたことを口にしただけだ。里桜ちゃんがそこに関心を持ったのは結果論で、『僕のおかげ』だなんて言われると、ちょと悩ましい気がするな」
……未来君は、分かっていない。あの時、未来君に『感覚が鋭い』と、そしてそれを『特技』だと言ってもらって、私がどんなに嬉しかったか。少なくとも、体の重さに引きずられるように重く後ろ向きだった私の心を明るくし、前向きにするには十分だった。
おそらく、気づいたことをただ口にするだけでは、人の心には響かない。相手を思う心がなければ、こんなにも心動かされはしないのだ。
「ねぇ未来君、私、未来君の夢もきっと叶うと思うんだ。将来、未来君が社長さんになったら、絶対に会社はもっと成長するよ!」
「なんだか、ずいぶんと唐突だね」
突然話の矛先を向けられて、未来君はパチパチとまばたきした。
「ここまで八カ月、間近でダイエットを支えてもらっているからこそ分かるの。未来君は、お父さまの会社の『女性の美しく健やかな暮らしをプロデュースする』って企業理念を地でいってる。調子がいい時はもちろん、体重が減り悩んで苦しい時こそ、しっかり寄り添って励ましてくれる。どうしても食べちゃいたいなって時だって否定しないで、美味しくってヘルシーなお菓子やスイーツで、ちゃんと心に栄養補給させてくれる」
私のダイエットは、ほぼ未来君が当初に立てたプラン通りに順調な経過を辿っていた。見た目にもだいぶスリムになってきて、ゆるくなった制服は途中で一度サイズ直しをしたが、また夏前には直しが必要になるだろう。
「こんなにダイエットが無理なく楽しく進められてるのは、全部全部、未来君のおかげ。痩身サロンの件にとどまらず、女性を多方向からプロデュースする、これって未来君にピッタリだと思うもの!」
後三カ月と少し。私と未来君が二人三脚で挑むダイエットのゴールは目前だった。だけど私は、ゴールした後も今の生活習慣を続けていくつもりだ。
規則正しい三食を取り、夜にはジョギングをして、お風呂でゆったり半身浴をして気分をリフレッシュする。たまの休日にはお菓子を手作りして、パパやママと一緒にお茶を飲む。肩肘張って頑張るまでもなく、これらは私の日常として無理なく定着していた。
「……僕も本腰を入れなきゃな」
「え?」
「里桜ちゃんに負けてられないよ。僕にとってお菓子作りや料理は趣味の延長で、作って楽しむことが目的だった。だから、食材選びも調理方法もこれまでは全部自己流だった。だけど、これからは管理栄養に運動理念、企業経営や語学も、ちゃんと将来を見据えて勉強していく」
もしかすると、私が伝えたなにかが、彼の心の琴線に触れたのだろうか。こんなに熱のこもった目をした未来君を見たのは初めてだった。
「里桜ちゃん、感謝を伝えるのは僕の方だ。敷かれたレールの上を歩いていても、僕は父さんの跡を継いでいつか社長になっていただろう。周囲の大人たちの評価も同じだった。成績もまずまずで、なんとなく型にはまった長男の僕を見て、『これで会社の将来も安泰ですね』って挨拶がわりに口を揃えられるのがずっと面白くなかった。でも、その理由については、いまひとつピンときていなかったんだ。それを君が、気づかせてくれた」
未来君は、真っ直ぐに私を見つめて続ける。
「僕にとって『安泰』は、誉め言葉じゃない。もし自分が違うと思えば、レールの外を進んでみたっていいんだ。そうやって色んな知識と経験を積んで、僕は実力で社長になる。そうして、会社をもっと成長させて、僕あっての会社だと言われるようにしてみせる。僕は父さんの会社を無事安全に繋いでいくだけでなんて、終わらない!」
……ダイエットを始める時、私は痩せた先に待つ明るい未来を見てみたいと思った。
だけど、目標体重を達成した瞬間に一気に世界が拓けるわけではないのだ。当然のことながら、その先にも、いくらだって新しい未来は続いていく。
なにより私は、痩せていく過程の今が楽しい。そして楽しい今の時間は、他ならぬ私自身が作っている。ならば、痩せた先の未来を作るのも、私なのだ。
それは、未来君にとっても同じ――。
「未来君ならきっと立派な社長さんになれるよ」
「ありがとう。それから里桜ちゃん、僕はまだずぶの素人だけど、そんな僕の目にもダイエットにハーブを取り入れるのは面白いと思うんだ。将来、里桜ちゃんの研究とその活用法が有益だと判断したその時は、声をかけてもいい? 二人で一緒に事業展開したい」
「素敵! 私、ますます頑張るよ。それで将来は、身内びいきって言われないくらい、ちゃんとした研究成果を持って未来君の会社に乗り込んじゃうんだから!」
「いいね。きっとその事業は、会社の柱になるさ」
目指す夢は違う。だけど私と未来君が見つめる方向は同じ。そしてその先には、共通の目標――夢がある!
私たちは見つめ合い、決意を共有した。
「……ふふふっ、嬉しいなぁ」
「嬉しい?」
頬を緩ませる私に、未来君は首をかしげた。
「うん! ダイエットっていう目標達成の先に、また新しい目標ができたんだもの。これって、すっごくワクワクしない?」
未来君は目を見張り、次いでスッと表情を引きしめた。
「……どこまで可愛いんだ」
「え? なぁに?」
聞き返すが、未来君は口を噤んだまま答えない。そんな彼を前にして今度は、私が首をかしげた。
次の瞬間、彼の腕が伸びてきて、その手がトンッと肩に置かれる。力強い感触と温もりにドクンと鼓動が跳ね、彼が触れる肩に熱が集まってくる。
ドキドキとさわぐ胸を抑えながら、息をのんで形のいい唇が開かれるのを見つめた。
「本当は、ダイエットが成功した後に伝えるつもりだった。だけど、こんなに可愛い君を前にして、もうこれ以上胸にとどめてなんておけない」
つばを飲む音が妙に大きく響く。
「里桜ちゃん、聞いてくれ。僕は――」
その時、パパとママの足音が響き渡る。未来君は言葉を途切れさせ、スッと肩から手を引いた。
二人はとても焦った様子で、二階から慌ただしく駆け下りてくる。
尋常ではない空気を感じながら、私と未来君は揃って扉に視線を向けた。
直後、パパの手で勢いよくリビングの扉が引き開けられた。
「未来君! 旅先でお母さんが……!」
「えっ?」
未来君が弾かれたようにパパのもとに駆け寄る。そのまま二、三言葉を交わし、未来君はパパから受け取ったスマートフォンを耳にあてた。
通話の相手はお父さんのようで、未来君は真剣な様子で話し始めた。
「里桜ちゃん、こっちに」
私はママにそっと促され、未来君の通話の邪魔にならないように奥のダイニングに場所を移った。
「ママ、いったいなにがあったの!?」
声をひそめ、逸る心のまま尋ねる。
「未来君のお母さんが、大きなお怪我をされたらしいの」
「具合は!? どんな状態なの!?」
「まだ詳しいことは分からないけれど、現地の病院で治療を受けているみたい」
聞かされた状況に、胸が締めつけられる。未来君のお母さんが心配なのはもちろん、枕辺にすぐに駆けつけることがかなわない未来君の心の内を思うと、苦しくて仕方なかった。
私もママもそれきり口を閉ざし、続き間のリビング・ダイニングには、通話する未来君の声だけが響いていた。
「――分かった、いったん切るね。手術が終わったら、またすぐに連絡して。うん、それじゃあ」
通話を終え、未来君が耳にあてていたスマートフォンを外す。
「細井さん、ありがとうございました。母は寄港地の南アフリカで骨盤を複雑骨折をして、これからヨハネスブルグの私立病院で緊急手術になるそうです。術後しばらくは、そのまま入院になるでしょう。父とも話したんですが、僕も航空券が取れ次第、すぐに現地に向かいます」
未来君はパパにスマートフォンを返しながら、はっきりとした声音で告げる。だけどその顔に色は無く、彼が心に受けた衝撃の大きさが知れた。
「そうか。ヨハネスブルグだと直行便がないから、乗り換えだな。いくつか経由地があるけど、まずはオンラインで空き状況を確認しよう」
「はい」
パパと未来君はスマホを覗き込み、慌ただしく航空券を探しはじめる。
彼のために、なにもしてあげられないことが歯がゆい。ギリリと両手を握りしめ、もどかしい思いで未来君の背中を眺めていた。
すると、未来君がスマホから目線を外し、後ろの私を振り返った。彼は力強くひとつ頷いて、またすぐに視線を前に戻した。
目が合ったのはほんの一瞬。だけど真っ直ぐな瞳が、私に向かって「大丈夫だよ」とそう言っているように聞こえた。
この場にあって、誰よりも辛い思い抱えているはずの彼が私に示した気遣いが胸に切なく、一層の苦しさを呼んだ。
その日の夕方。
深夜便での出発が決まり、家を出る直前の未来君が、私の部屋を訪ねてきた。
「未来君! 準備はもう、大丈夫なの!?」
扉を引き開けて、中に招き入れながら問う。
「全部済んだよ。今、里桜ちゃんのお父さんがタクシーを呼んでくれてる」
「そっか」
私の部屋に入ると、未来君は初めて扉を閉めきった。彼はこれまで私の部屋に来ても、紳士的な配慮を忘れず、必ず扉に隙間を残していた。
明確な意図をもってされた行動に、ドクンと胸が跳ねた。
「出発の前に、どうしても里桜ちゃんに伝えておきたかったんだ」
「……未来君?」
ふたりの目線が間近に絡む。熱のこもった彼の瞳に、焼かれてしまいそうな錯覚がした。
「僕は、君が好きだ」
未来君の告白に、喜びが湧きあがる。今にも足が浮き上がり、宙に飛んでいってしまいそうに、心と体がふわふわしていた。
「子供の時のキャンプで、僕を守って犬の前に立ちはだかった勇敢な背中に心奪われた。八年振りに再会して、君のまぶしい笑顔を見て、僕は二度目の恋に落ちた。そうして一緒に過ごす中で、君への想いは苦しいくらいにふくらんだ。……ずっと君を、僕だけのものにしたかった」
「あっ!?」
未来君がスッと腕を伸ばし、私の後頭部に手をあてる。そのまま彼がトンッと一歩を踏み出し、二人の距離をうめる。
「他の誰にもやらない。太陽みたいな笑顔も、……この唇も、全部僕のものだ」
頭の後ろに回った手にクイッと力をこめられて、見上げる彼の瞳がにじむくらいに近くなる。
「んっ」
反射的にまぶたを瞑った直後、唇にふわりとした感触が落ちる。ついばむようにそっと重なって、彼の唇はやわらかな温もりを残してすぐに離れていった。後ろ頭を支えていた彼の手もゆるみ、私の髪を指の隙間に滑らせながら遠ざかっていく。
口付けが解かれても、唇はもとより、全身がジンジンと痺れているかのようだった。幾度か小さくまばたいて、睫毛を震わせながらゆっくりと目を開く。
鼻先が触れそうな近さに見る熱っぽい彼の瞳に、のぼせてしまいそうになる。私はどこかふわふわとしたまま、考えるよりも先に口を開いた。
「私もだよ。……私も、未来君が好き」
告げた瞬間、黒茶の瞳がこぼれ落ちそうなくらい見開かれる。
「里桜ちゃん……!」
彼の手が腰に回り、グッと引き寄せられて、気づけばすっぽりと抱きしめられていた。まるで私を胸の中に閉じ込めるようとでもするかのような深い抱擁に、彼が胸の内に抱く不安を垣間見たような思いがした。
「ねぇ、未来君。私はいつまででも待ってるよ」
「え?」
唐突な私の言葉に、未来君は小さく首をかしげた。
実は、未来君が出発の準備をしている間、私はずっと調べていた。
未来君のお母さんの怪我について、「骨盤の複雑骨折」とだけしか情報は持ちえない。だけど、術後数カ月間は寝たきりで、その後も社会復帰までには長期の療養やリハビリを要するケースが多いようだ。さらに重篤な後遺症を残すことも少なくない。
「未来君の全面サポートで始めたダイエットも、今ではすっかり生活の一部として定着してる。もう、私はひとりで……ううん、パパやママと一緒に、これまで通りの規則正しい生活を続ける。それで三カ月後には、必ず目標体重を達成するよ。もちろん、ダイエットだけじゃなくて、夢に向かって勉強も手抜きなしだよ。だから、未来君は安心してお母さんに付き添ってあげて? 一番、未来君のサポートが必要なお母さんの側に」
どちらにせよ、未来君のお母さんは数カ月間はヨハネスブルグから動けない。
未来君が異国の地で不安に過ごすお母さんの傍についていてあげたいと思うのは当然で、ならば私にできるのは彼の背中を押すこと……。現地での滞在をちゅうちょする彼を応援し、気持ちよく出発を見送るのだ。
「僕も母さんに付いていたい思いはある。だけど二カ月も三カ月も学校を休んで、ずっと現地で付き添うのは現実的じゃない」
「学校を休んでお母さんの側にいようとしたら、そうだね。だけど、現地の日本人学校に転入する方法だってあるよ。お母さんの治療にめどがついたら、その時はまた日本に戻ってきたっていいじゃない」
「……母さんが大変な時に、薄情かもしれない。だけど僕は、里桜ちゃんと離れたくない思いもあるんだ」
薄情なのは、私の方だ。未来君のこの告白に、たしかな喜びを感じているのだから。
そうして本心では、未来君と離れたくなんかない。ずっと、一緒にいたい。だけど私が彼に伝えるべき言葉は、それではない――。
「未来君の気持ち、すごく嬉しい。でも、やっぱり今はお母さんのところにいてあげて欲しい。すぐ隣に未来君がいないのは寂しいけど、私たちが見つめる先は同じだから、私はどこまでだって頑張れる。未来君も、きっと同じだと思う。一番未来君のサポートを必要とするお母さんの側に、いてあげて」
「里桜ちゃん……」
未来君はまぶしいものでも見るように、細くした目に私を映していた。そうして長い間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「向こうに行ったらそのまま現地にとどまると思う。たぶん、里桜ちゃんのダイエット達成の瞬間は、見られない」
「うん! 未来君がいないからってダラけないわ。ちゃーんと目標体重にのっけて、すっかり我が家の定番になったガパオ風プレートでパパママと一緒にお祝いするよ。未来君にはスマホで写真を送るから、楽しみにしてて!」
「楽しみだ。だけど里桜ちゃんこそ、楽しみに待ってて」
「え?」
「勉強は卓上でするだけじゃない。僕は現地で色んなことを学んで、どんな経験も全て身にして、一回りも二回りも大きくなって帰って来るから。もちろん、その時は怪我から回復した母さんも一緒だ。だからそれまで、間違ったって君の隣を他の誰かに譲ったりしてはだめだからね。君の隣は、僕の指定席だよ」
未来君が語る一言一句に、彼への「好き」があふれる。
こんなにも大好きと思える人がいる。その人と同じ未来を見つめている。はたしてこんな幸せが、他にあるだろうか。
「未来君の指定席は誰にも座らせないよ。未来君が帰って来るのを、楽しみに待って……あっ!」
抱きしめる腕の力を強くされ、頭上に影がかかる。次の瞬間には、唇同士が隙間なく重なっていた。
全ての思考が、未来君に塗られてゆく。未来君のこと以外なにも考えられなくなって、必死で彼の背中にすがった。
……二度目のキスは、灼熱のように熱い。
階下からパパに声をかけられたことで、長く触れ合わさっていた唇が解かれる。二人とも少しだけ息を荒くして、上気した頬をしていた。
「それじゃあ里桜ちゃん、いってきます!」
「いってらしゃい! 体に気を付けて! お母さんを励ましてあげてね!」
心をひとつにし、私たちの表情は晴れやかだった。
こうして未来君は私の心と体に鮮烈な存在感を刻みつけ、旅立っていった。
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