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第1章『始まりの村と魔法の薬』編
第7話 波/Wavement
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一足先に家を出たソウヤの痕をエレリアが小走りで追いかける。
辺りは冷たい朝霧に包まれており、一寸先の景色さえ霞んでいてよく見えない。
まるで別世界に迷いこんだかのような朝の光景。
道行く人はあまり見当たらず、見えるのはただ霧の向こうへ消えていく道だけだ。
ソウヤはエレリアの歩調など構わず、自分のペースでどんどん先へ進んでいく。ずっとこの村に住んでるだけあって、見通しの悪い道でも彼は少しも歩調を乱すことはなかった。ただ黙々と目的地に向かって、歩を進めていた。
エレリアはこの村に来てまだ日は浅いものの、寄合へ向かう時の道のりとミサの解説で、だいたいの村の地理や経路は把握していた。なので、今自分がどこを歩いているのかは大雑把に予想ができた。
現在、自分が歩いているのは教会へ向かう道とは反対側の方向だろう。
つまり、まだ通ったことのない道。地図がないので詳しく確認はできないが、間違いはないはずだ。
すると、しばらく歩き続けると霧の向こうからうっそうと繁った林が現れてきた。道はさらに林の奥へ進んでいる。
まさか、この林を抜けて行くのだろうか。
いくら村の中の林とは言え、人気の多い場所からだいぶ離れた村の端の林だ。
そこに霧という現象も相まって、目の前には不気味で近寄り難い舞台がキレイに完成されていた。
しかし、ソウヤは躊躇することなく林の奥へ足を踏み入れようとする。
そこで思わずエレリアは彼の背中に向かって尋ねた。
「ねぇ、こっちの道で本当に合ってるの…?」
ソウヤの耳に、エレリアの不安の情をはらんだ呟きが聞こえてくる。
「大丈夫だって。おまえは黙って俺についてくればいいんだよ」
ソウヤは後ろにいるエレリアに振り返りもせず、ただ前を見据えてそう言った。
そして、彼の発言に納得できていないエレリアに構うことなく、ソウヤは歩を林の奥へ進めた。
「ちょっと、待ってよ!」
置いてきぼりにせれそうになったエレリアは腑に落ちないまま、ソウヤを信じて彼の後を追いかけて行った。
うっそうと茂る植物たちの間を、さらに奥へと進んでいく二人。
気がつけば、さっきまで歩いていた道はいつの間にか獣道のように荒く舗装された小道に変わっており、道の両脇から溢れる出るように雑多な植物が行く手をさえぎっていた。
「はぁ…」
朝露に濡れた植物の葉や、最近降った雨でぐちゃぐちゃになった地面の泥が容赦なくエレリアの服やブーツに付着する。そして、顔の周りには小さな謎の羽虫が無数に飛び回っており、エレリアの気分はすでにどん底に達していた。
こんなことになるなら、早く起きてくるんじゃなかった。
エレリアは自分の行った行動に軽く後悔しつつ、それでも仕方ないと自身を納得させて茂みの中をかき分けて進んで行った。
「…」
草の覆い茂る道を進んでいる間、ソウヤは一言も言葉を口にしていなかった。
エレリアはソウヤの後ろ姿しか見ていなかったため彼の表情は詳しくは分からなかったが、彼の気持ちを推測するにあたって、エレリアにとってそれは難しいことではなかった。
数分前に食卓で起こった、ミサの激怒。
ミサの「怒り」と言う名の火に図らずも油を注いだのは紛れもなくソウヤだ。結果としてその火は盛大に燃え盛ってしまい、彼は彼女に傷を負わせてしまった。
きっと今はその事について、反省しているに違いない。
今こうして海に向かっているのも、表向きはエレリアに海を紹介したいからとしていたが、実際はミサから離れて落ち着いて考え直したかったからであろう。
だから、エレリアも今の不満は口にせず、黙って彼の背中に続いて歩いていた。
しかしここへ来て、エレリアの頭の中に押さえ込んでいた一つの疑問が浮かび上がった。
なぜ、ミサはあれほど気を荒くしたのだろう。
最終的にミサは気持ちを落ち着かせたが、現在に至るまでエレリアには彼女の怒りの起因が分からなかった。
ソウヤがあの時エレリアに言った「俺たちは何度も旅人を見送ってきた」という趣旨の言葉が原因だと言うことは、エレリアには察しがついていた。実際に、彼がその言葉を口にした瞬間、ミサの態度が急変した。
しかし、だからと言って、わざわざ怒りの理由をミサ本人に問いただす勇気と度胸をエレリアは持ち合わせていなかった。
せっかく彼女は自身で心の傷を修復したのに、再度その件について話を持ち込むのはあまりにも非情だ。さすがにエレリアもそんなことはできない。
だがそれでも、できるならエレリアは彼女の隠された真実が知りたかった。それは今後、友として長く付き合っていくために必要なことだとエレリアは考えていた。
とにかく、焦る必要はない。
時間はいくらでもある。
今は余計なことは考えず、ただソウヤにはついていくことだけにエレリアは集中することにした。
「エレリア、もうすぐで着くぞ」
しばらく、道と言っていいのかも定かではない道を歩き続け、二人はようやくその目的地に近づいていた。
ずっと下を向いていたエレリアは顔を上げる。すると、前方の木々の隙間から白くまばゆい光が漏れているのが分かった。きっと、その向こうにソウヤが言っていた海が広がっているのだろう。
ゴールは目前に迫っている。
エレリアは気を引き締めて、光が溢れる林の奥を目指して歩き続けた。
「よし、到着だ」
薄暗い湿った林を抜けて、二人はついに目的地の海へたどり着いた。
どこからともなく、潮の匂いが朝凪に誘われてエレリアの鼻腔に流れ込んでくる。
ソウヤの背に続いていたエレリアは、海の景色をもっと見たいと彼の横に並び、前方を見渡した。
するとそこには、エレリアの想像を絶する大海原が広がっていた。
「す、すごい…!」
目が覚めてしまうほどの見渡す限りの青い海。
そんな広大な景色にエレリアは思わず感嘆の息を漏らしてしまった。
水平線がくっきり丸く曲線を描いているのが分かるくらいの広大な大海原で、その向こうには何も見えず、ただ青い空が広がっているだけだ。
「すげぇだろ、俺のプライベートビーチ。俺が見つけたんだぜ」
あまりに壮大な海のスケールに息を呑むエレリアを尻目に、ソウヤは自慢げな表情で口を動かしている。
「どうやら昔はここで魚とか捕ってたらしいんだけど、今は誰も使ってないみたいでな。だから、俺はここを俺専用の秘密のアジドにしたんだ。誰もいないから泳ぎ放題だし、とにかく最高の場所なんだぜ」
ソウヤは愉快そうに、満悦の表情をその顔に浮かべている。
確かに彼の言うとおり、海岸にはフジツボや無数の植物に侵食された小舟が打ち上げられているのが目についた。状態は見ての通り劣悪で、二度と海に出ることは叶わずに死んだ悲しきしかばねのように波に打たれていた。
そして小舟だけにとどまらず、この浜辺自体がすでに死んだ場所のようにエレリアには思えた。青く輝く美しい海とは対称的に、波際には朽ち果てた桟橋や漁船、浜辺には流れ着いた無数の木の欠片と生え散らかった雑草が広がっており、その光景はエレリアに死を連想させた。
本当にここは忘れ去られた地のようだった。
「んでだな、あの時、おまえはそこに倒れてたんだ」
エレリアが目の前に広がる渚に思いを巡らせていると、ソウヤが波打ち際のある地点に指を指して呟いた。どうやら、そこで自分が倒れていたらしい。
遠くからだと分かりづらかったので、実際に二人はエレリアが打ち上げられていた地点へ歩を進めた。
ソウヤがリードする形で、エレリアも後を追う。
「ここで、私が…」
ついに、たどり着いた真の目的地。
エレリアはソウヤの語る証言をもとに、自分の倒れていた場所に視線を巡らす。
白波が引いては返している波際。
しかし、一つそこには不自然な光景があった。
「なんで、花が…?」
エレリアは視界に映る光景に目を丸くした。
なんと、波打ち際に白い花が咲き乱れていたのだ。それはエレリアの身にまとっている衣服に似た神秘的な純白に包まれた謎の花で、なぜか汚れきった砂浜の一部分だけに咲きほこっていたのだ。
「本当に、ここで私が倒れてたの?」
「あぁそうだ、間違いない。そう言い切れる証拠が、この花だ」
念を押すエレリアの言葉に、ソウヤが胸を張って答える。
「なんでか知らんけど、おまえはこの花に囲まれて、ここで倒れてたんだ」
ソウヤは当時の状況をエレリアに詳しく語った。
「でも、これ何の花なの?」
朝凪でさわさわと揺れる謎の花を見下ろして、エレリアは眉を寄せた。海岸の、それも波打ち際に咲く花なんてあまりにも不自然だ。
「それがだな、俺たちにはちっとも分からないんだ」
ソウヤはそう言い、さらに話を続ける。
「あの日、おまえを家に連れて帰った後、この白い花が何なのか気になった俺とミサは図鑑で色々調べたんだけどよ。この花についての情報はどこにも載ってなかったんだよ」
ソウヤの語った状況に、エレリアは耳を疑った。
「図鑑に載ってないって、どういうこと?」
「それは、こっちが聞きてぇよ…」
エレリアの疑問に、ソウヤが渇いた笑いを漏らす。
何の情報もない花なんて、一体どういうことなのか。そして、この花と自分との因果関係はどういったものなのか。
すると、ソウヤが口を開いた。
「ただな、俺から一つ言えることがある」
その言葉に、エレリアは彼の顔を見つめた。
「それは、おまえがそこで倒れる前に、この花は存在していなかったってことだ。俺は暇があればここに来てバカンスを楽しんでるんだが、こんな花はおまえが来るまで咲いてなかった」
彼の口から出た言葉を聞き、エレリアは息を呑んだ。
では、本当にこの花は何なのか。
ますます、目の前の花に疑問と興味が湧く。
少なくとも彼の言葉から、この花と自分とを切り離して考えることはできそうになかった。
しかし、当然の如くエレリアには心当たりがまったくなかった。記憶を失っているのだから、当たり前だ。
「そうだ…」
そこで、エレリアの頭の中である一つのアイデアを思いついた。
それは、無理矢理に記憶を掘り起こしてみてはどうなるのかというものだ。
エレリアはこの村で目覚める前の記憶を持っていない。
しかし彼女の中では、記憶を失っていると表現するよりかは、記憶に何かヴェールのようなものがかかっていると表現したほうがしっくりきていた。
つまり、失っているのではなくて、何かが想起を邪魔している感覚に近かった。
しかし、その阻害を振りほどくのは容易なことではなかった。実際に、昨日エレリアは過去を回想しようと試みたが、謎の頭痛に阻まれすべて断念した。そこから考えても、やはり何かが真実を知られてはなるまいと記憶を隠しているように感じられた。
そこで今回エレリアは、思いきって想起の阻害に抵抗して、強引に真実に触れてみようと巧むことにした。何が起きるか分からないが、やるだけの価値は見いだすことができる。
まして、ここで記憶を取り戻すことができたら、エレリアの苦悩は一瞬で解決するだろう。そして念願のふるさとに帰ることもできるはずだ。
ただ、もし記憶を取り戻して故郷に戻るようなことになってしまったら、今度はミサに合わせる顔がなかった。せっかくミサと友達になれたのに、すぐに別れるようなことにでもなってしまったら、それはそれでエレリアには辛いことだった。
だが、そんな未来の懸念はすべて忘れて、エレリアは今は記憶の想起に努めようと腹をくくった。
白い波が砂浜に寄せては引いての動きを繰り返している。その動きはまるで海の中へ手招きしているようにも見えた。
思わず我を忘れてしまいそうになるほどの美しい情景。
澄んだ潮風に純白の髪をなびかせながら、エレリアは波際の白い花畑の真ん中で膝を折った。
その様子を、ソウヤが無言でじっと見つめる。エレリアはわざわざ彼に行動の意図を伝えたわけではなかったのだが、ソウヤはエレリアの思索を見透かしたように静かに見守っていた。
そしてエレリアは波に触れてみた。
透き通った海水が彼女の指の隙間をさらさらと流れていく。
掴もうと思っても掴むことができない。
それはまるで、思い出そうとしても思い出せない自分みたいだとエレリアはふと思った。
波と私。
私とは一体、何なのか。
エレリアはゆっくり目を閉じて、再び自分の過去を強く思い起こしてみた。
「…」
隠された記憶を巡って、脳内の深層部へ意識を潜らせていく。しかし、浮かんでくるのは暗闇に塗られた虚構の空間だけ。
すると予想通り、次第に謎の頭痛がエレリアを襲い始めてきた。
そして、その頭痛は容赦なく彼女の頭を締め付ける。
だが、これも予想の範囲内だ。
今までならそこで回想を断念していたが、今回は痛みに耐え、続けてエレリアは記憶の追想に集中する。
「うっ…」
エレリアは痛みに構わず隠された記憶に向かって思考を巡らすが、謎の頭痛が先ほどより激しくエレリアの脳を締め付け始めてきた。
あまりの苦痛に、意識が飛びそうになる。
こうなってしまっては、とても記憶を思い出すどころではない。
「お、おい。大丈夫か、エレリア」
浅い息を繰り返し、苦しそうに冷や汗を浮かべるエレリアを目にし、ソウヤが心配そうな表情で彼女の背中をさする。
そんな彼の気遣いとは別に、頭の中で耳なり大きく響き渡っているのがエレリアには分かった。それは、まるで不協和音のような不愉快な音色だった。
「うぅ…」
次第にその鋭いノイズは波の音と共鳴し、彼女の脳内に盛大に鳴り響いていた。あと少しで脳が割れてしまいそうなほどの騒音に、エレリアはついに耐えきれずに耳を両手で塞ぐが、それでも音は鳴り止まない。
「おい、エレリア!しっかりしろ!!」
ふいにエレリアが力を失ったように地面に横たわり、ソウヤが慌てて大声で彼女を呼び起こそうとする。
しかし、この時すでにソウヤの声はエレリアの脳内に鳴り響く謎の爆音で彼女の意識には届いていなかった。
「まずい…。戻れない…」
苦痛の嵐が頭の中で暴れまわっている中、エレリアはまどろむ意識で自分に迫る危機というものを感じていた。
今の状態は、思わず死を覚悟するほどの状況のように思えた。
すでにこの時、エレリアは回想行為を中心していたのだが、なぜか謎の頭痛と耳なりが止んでいなかった。
それどころか、頭痛は脳を直接えぐるかのように頭を締め付け、耳なりは死に際に悶え苦しむ叫び声の如き音色でエレリアの脳内を駆け巡っていた。
そんな不条理に襲いかかる痛みになんとか耐えている中で、エレリアはずっと自らの愚行を嘆いていた。
なぜ、安易に自分は隠された過去を知ろうとしてしまったのか。
そんな風にエレリアは、強引に過去を思い出してみようと提案した自分自身を心の底から呪っていた。あんなことを思っていなければこんなことにはなっていなかったはずなのに。
しかし、とにかく今は後悔するより助けを求めるのが先だ。
エレリアはぼやけた視界の先に浮かぶソウヤに助けを求めるため口を動かそうとした。しかしなぜかうまくろれつが回らず、声を発することができなかった。
「あ、れ?な、んで…?」
言葉を出すことはできるのだが、うまく意思を乗せて発言することができない。
そうして、ついにエレリアは最後の助けの綱も切られ、次第に救いようのない焦りを感じ始めていた。
もう、誰にも救助を求めることができない。
そう思った瞬間、エレリアは思いっきり胸を裂くような絶望を体全体で感じた。
「いやだ!!誰か、助けて!!」
エレリアは必死にソウヤに手を伸ばそうと力をこめる。
ソウヤもそれに呼応するように彼女の手を掴み、必死に何か叫んでいるのがエレリアにも見えた。
しかし、声は聞こえない。ただ切迫した表情だけが見える。
そして、エレリアの最後の努力もむなしく、混濁する意識の中で彼の姿が遠くに消え去っていく。
「待って、ソウヤ!!」
最後の希望を胸に、エレリアは叫んだ。それも、喉が焼き焦げてしまうほど全力で声を張り上げたつもりだった。
しかし、彼女の願いもむなしく、ついに彼の姿が視界から完全に消え去ってしまった。
「ソウヤぁぁぁぁ!!!!」
エレリアは何度も彼の名を呼んだ。
しかし、いくら叫んでも声が彼に届くことはなかった。
そして、エレリアの精神は為す術もないまま、永遠の暗闇に包まれた苦痛の牢獄に閉ざされてしまった。
意識は現実世界からは完全に隔離され、精神世界という場においてはっきりと覚醒していた。
そして、容赦なくエレリアの骨身に耐え難い苦痛が染み渡る。
「 うぅ、く、苦しい…!!!」
五臓六腑が引き裂かれ、直接心臓を手で握りつぶされる感覚。
もしこれが現実世界の話だったらとっくに命の灯が消えてしまうほどの苦しみだろうが、この世界ではなぜか死のうにも死ぬことができない。
それでも、狂乱と激痛の波に溺れながらエレリアはなんとか現実世界へ戻ろうと身じろぎをする。
その時、苦しみの世界から逃げ出そうとするエレリアを、そうはさせまいと引き戻すように無数の手が不気味な笑い声とともに闇から浮かび上がってきた。
そして、暴れる彼女の手足をきつく掴み、苦痛の奥底へ引きずりこもうとしていく。
「何、これ…!!もう、離れてよ!!」
エレリアは拘束をふりほどこうと出せる力を込めて手足を動かすが、次々に現れる闇の手に完膚なきまでに抵抗をすべて押さえ込まれ、無様に体が闇の底へ沈んでいく。
「あぁ…」
無数の闇の手に身の程を思い知らされ、ついにエレリアはこんなことを思ってしまった。
「もう嫌だ。死にたい…」
不条理な苦痛に押し潰され続け、エレリアはすでに生きる活力を削がれていた。
もう、どうでもいい。
誰でもいいから、早くこの苦しみから救って欲しい。
誰でもいいから、早く自分を楽にしてほしい。
もしこの拷問から解放してくれるなら、死ぬことだってエレリアにとっては大歓迎だった。
ただ死を求めると同時に、エレリアの心中にまたしても一つの心残りが生まれた。
それはミサとソウヤに別れを告げることができないというものだった。
知らない世界で初めて人と仲良くなって、そのおかげで生きる希望も湧きつつあった。やっと、前を向くことができる気がしていた。
しかし、今のエレリアにとっては、そんな未来への希望や期待などどうでもよくなっていた。
ただひたすらに、苦しみの嵐から唯一自分を救ってくれる死というものを望んでしまっていた。
「誰か…」
終わりの見えない苦しみに飲まれ続けて、エレリアの意識はほとんど消えかけていた。
やっと、望んでいた死というものが近づいてきたのだろうか。
あっけない終わり方だとエレリアは情けなくなるが、どんなに無様でも死ねるのらそれで良かった。
ただそれでも、エレリアは最後まで助けを求める意思は決して絶やさなかった。死ぬことを望んでいるものの、当然生きることのほうが本望だ。
ここで最後に救助を願って、もしそれがダメならもう全部諦めよう。
「…」
しかし、ついに最後になっても手をさしのべる希望の気配は現れなかった。
つまり、誰も助けてはくれないようだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
なぜ、こんな思いをしなくれてはならないのか。
理由は何も分からない。誰も教えてくれない。
そしてとうとう、何もかもに失望したエレリアはまぶたを閉じて、この世界から自分を遮断しようとする。
これで、やっと楽になれるだろう。
短い間だったけど、ミサ、ソウヤ、ありがとう。
私はもう限界です。
さよなら、みんな。
そうして、エレリアの意識は次第に世界から隔絶されていった。
辺りは冷たい朝霧に包まれており、一寸先の景色さえ霞んでいてよく見えない。
まるで別世界に迷いこんだかのような朝の光景。
道行く人はあまり見当たらず、見えるのはただ霧の向こうへ消えていく道だけだ。
ソウヤはエレリアの歩調など構わず、自分のペースでどんどん先へ進んでいく。ずっとこの村に住んでるだけあって、見通しの悪い道でも彼は少しも歩調を乱すことはなかった。ただ黙々と目的地に向かって、歩を進めていた。
エレリアはこの村に来てまだ日は浅いものの、寄合へ向かう時の道のりとミサの解説で、だいたいの村の地理や経路は把握していた。なので、今自分がどこを歩いているのかは大雑把に予想ができた。
現在、自分が歩いているのは教会へ向かう道とは反対側の方向だろう。
つまり、まだ通ったことのない道。地図がないので詳しく確認はできないが、間違いはないはずだ。
すると、しばらく歩き続けると霧の向こうからうっそうと繁った林が現れてきた。道はさらに林の奥へ進んでいる。
まさか、この林を抜けて行くのだろうか。
いくら村の中の林とは言え、人気の多い場所からだいぶ離れた村の端の林だ。
そこに霧という現象も相まって、目の前には不気味で近寄り難い舞台がキレイに完成されていた。
しかし、ソウヤは躊躇することなく林の奥へ足を踏み入れようとする。
そこで思わずエレリアは彼の背中に向かって尋ねた。
「ねぇ、こっちの道で本当に合ってるの…?」
ソウヤの耳に、エレリアの不安の情をはらんだ呟きが聞こえてくる。
「大丈夫だって。おまえは黙って俺についてくればいいんだよ」
ソウヤは後ろにいるエレリアに振り返りもせず、ただ前を見据えてそう言った。
そして、彼の発言に納得できていないエレリアに構うことなく、ソウヤは歩を林の奥へ進めた。
「ちょっと、待ってよ!」
置いてきぼりにせれそうになったエレリアは腑に落ちないまま、ソウヤを信じて彼の後を追いかけて行った。
うっそうと茂る植物たちの間を、さらに奥へと進んでいく二人。
気がつけば、さっきまで歩いていた道はいつの間にか獣道のように荒く舗装された小道に変わっており、道の両脇から溢れる出るように雑多な植物が行く手をさえぎっていた。
「はぁ…」
朝露に濡れた植物の葉や、最近降った雨でぐちゃぐちゃになった地面の泥が容赦なくエレリアの服やブーツに付着する。そして、顔の周りには小さな謎の羽虫が無数に飛び回っており、エレリアの気分はすでにどん底に達していた。
こんなことになるなら、早く起きてくるんじゃなかった。
エレリアは自分の行った行動に軽く後悔しつつ、それでも仕方ないと自身を納得させて茂みの中をかき分けて進んで行った。
「…」
草の覆い茂る道を進んでいる間、ソウヤは一言も言葉を口にしていなかった。
エレリアはソウヤの後ろ姿しか見ていなかったため彼の表情は詳しくは分からなかったが、彼の気持ちを推測するにあたって、エレリアにとってそれは難しいことではなかった。
数分前に食卓で起こった、ミサの激怒。
ミサの「怒り」と言う名の火に図らずも油を注いだのは紛れもなくソウヤだ。結果としてその火は盛大に燃え盛ってしまい、彼は彼女に傷を負わせてしまった。
きっと今はその事について、反省しているに違いない。
今こうして海に向かっているのも、表向きはエレリアに海を紹介したいからとしていたが、実際はミサから離れて落ち着いて考え直したかったからであろう。
だから、エレリアも今の不満は口にせず、黙って彼の背中に続いて歩いていた。
しかしここへ来て、エレリアの頭の中に押さえ込んでいた一つの疑問が浮かび上がった。
なぜ、ミサはあれほど気を荒くしたのだろう。
最終的にミサは気持ちを落ち着かせたが、現在に至るまでエレリアには彼女の怒りの起因が分からなかった。
ソウヤがあの時エレリアに言った「俺たちは何度も旅人を見送ってきた」という趣旨の言葉が原因だと言うことは、エレリアには察しがついていた。実際に、彼がその言葉を口にした瞬間、ミサの態度が急変した。
しかし、だからと言って、わざわざ怒りの理由をミサ本人に問いただす勇気と度胸をエレリアは持ち合わせていなかった。
せっかく彼女は自身で心の傷を修復したのに、再度その件について話を持ち込むのはあまりにも非情だ。さすがにエレリアもそんなことはできない。
だがそれでも、できるならエレリアは彼女の隠された真実が知りたかった。それは今後、友として長く付き合っていくために必要なことだとエレリアは考えていた。
とにかく、焦る必要はない。
時間はいくらでもある。
今は余計なことは考えず、ただソウヤにはついていくことだけにエレリアは集中することにした。
「エレリア、もうすぐで着くぞ」
しばらく、道と言っていいのかも定かではない道を歩き続け、二人はようやくその目的地に近づいていた。
ずっと下を向いていたエレリアは顔を上げる。すると、前方の木々の隙間から白くまばゆい光が漏れているのが分かった。きっと、その向こうにソウヤが言っていた海が広がっているのだろう。
ゴールは目前に迫っている。
エレリアは気を引き締めて、光が溢れる林の奥を目指して歩き続けた。
「よし、到着だ」
薄暗い湿った林を抜けて、二人はついに目的地の海へたどり着いた。
どこからともなく、潮の匂いが朝凪に誘われてエレリアの鼻腔に流れ込んでくる。
ソウヤの背に続いていたエレリアは、海の景色をもっと見たいと彼の横に並び、前方を見渡した。
するとそこには、エレリアの想像を絶する大海原が広がっていた。
「す、すごい…!」
目が覚めてしまうほどの見渡す限りの青い海。
そんな広大な景色にエレリアは思わず感嘆の息を漏らしてしまった。
水平線がくっきり丸く曲線を描いているのが分かるくらいの広大な大海原で、その向こうには何も見えず、ただ青い空が広がっているだけだ。
「すげぇだろ、俺のプライベートビーチ。俺が見つけたんだぜ」
あまりに壮大な海のスケールに息を呑むエレリアを尻目に、ソウヤは自慢げな表情で口を動かしている。
「どうやら昔はここで魚とか捕ってたらしいんだけど、今は誰も使ってないみたいでな。だから、俺はここを俺専用の秘密のアジドにしたんだ。誰もいないから泳ぎ放題だし、とにかく最高の場所なんだぜ」
ソウヤは愉快そうに、満悦の表情をその顔に浮かべている。
確かに彼の言うとおり、海岸にはフジツボや無数の植物に侵食された小舟が打ち上げられているのが目についた。状態は見ての通り劣悪で、二度と海に出ることは叶わずに死んだ悲しきしかばねのように波に打たれていた。
そして小舟だけにとどまらず、この浜辺自体がすでに死んだ場所のようにエレリアには思えた。青く輝く美しい海とは対称的に、波際には朽ち果てた桟橋や漁船、浜辺には流れ着いた無数の木の欠片と生え散らかった雑草が広がっており、その光景はエレリアに死を連想させた。
本当にここは忘れ去られた地のようだった。
「んでだな、あの時、おまえはそこに倒れてたんだ」
エレリアが目の前に広がる渚に思いを巡らせていると、ソウヤが波打ち際のある地点に指を指して呟いた。どうやら、そこで自分が倒れていたらしい。
遠くからだと分かりづらかったので、実際に二人はエレリアが打ち上げられていた地点へ歩を進めた。
ソウヤがリードする形で、エレリアも後を追う。
「ここで、私が…」
ついに、たどり着いた真の目的地。
エレリアはソウヤの語る証言をもとに、自分の倒れていた場所に視線を巡らす。
白波が引いては返している波際。
しかし、一つそこには不自然な光景があった。
「なんで、花が…?」
エレリアは視界に映る光景に目を丸くした。
なんと、波打ち際に白い花が咲き乱れていたのだ。それはエレリアの身にまとっている衣服に似た神秘的な純白に包まれた謎の花で、なぜか汚れきった砂浜の一部分だけに咲きほこっていたのだ。
「本当に、ここで私が倒れてたの?」
「あぁそうだ、間違いない。そう言い切れる証拠が、この花だ」
念を押すエレリアの言葉に、ソウヤが胸を張って答える。
「なんでか知らんけど、おまえはこの花に囲まれて、ここで倒れてたんだ」
ソウヤは当時の状況をエレリアに詳しく語った。
「でも、これ何の花なの?」
朝凪でさわさわと揺れる謎の花を見下ろして、エレリアは眉を寄せた。海岸の、それも波打ち際に咲く花なんてあまりにも不自然だ。
「それがだな、俺たちにはちっとも分からないんだ」
ソウヤはそう言い、さらに話を続ける。
「あの日、おまえを家に連れて帰った後、この白い花が何なのか気になった俺とミサは図鑑で色々調べたんだけどよ。この花についての情報はどこにも載ってなかったんだよ」
ソウヤの語った状況に、エレリアは耳を疑った。
「図鑑に載ってないって、どういうこと?」
「それは、こっちが聞きてぇよ…」
エレリアの疑問に、ソウヤが渇いた笑いを漏らす。
何の情報もない花なんて、一体どういうことなのか。そして、この花と自分との因果関係はどういったものなのか。
すると、ソウヤが口を開いた。
「ただな、俺から一つ言えることがある」
その言葉に、エレリアは彼の顔を見つめた。
「それは、おまえがそこで倒れる前に、この花は存在していなかったってことだ。俺は暇があればここに来てバカンスを楽しんでるんだが、こんな花はおまえが来るまで咲いてなかった」
彼の口から出た言葉を聞き、エレリアは息を呑んだ。
では、本当にこの花は何なのか。
ますます、目の前の花に疑問と興味が湧く。
少なくとも彼の言葉から、この花と自分とを切り離して考えることはできそうになかった。
しかし、当然の如くエレリアには心当たりがまったくなかった。記憶を失っているのだから、当たり前だ。
「そうだ…」
そこで、エレリアの頭の中である一つのアイデアを思いついた。
それは、無理矢理に記憶を掘り起こしてみてはどうなるのかというものだ。
エレリアはこの村で目覚める前の記憶を持っていない。
しかし彼女の中では、記憶を失っていると表現するよりかは、記憶に何かヴェールのようなものがかかっていると表現したほうがしっくりきていた。
つまり、失っているのではなくて、何かが想起を邪魔している感覚に近かった。
しかし、その阻害を振りほどくのは容易なことではなかった。実際に、昨日エレリアは過去を回想しようと試みたが、謎の頭痛に阻まれすべて断念した。そこから考えても、やはり何かが真実を知られてはなるまいと記憶を隠しているように感じられた。
そこで今回エレリアは、思いきって想起の阻害に抵抗して、強引に真実に触れてみようと巧むことにした。何が起きるか分からないが、やるだけの価値は見いだすことができる。
まして、ここで記憶を取り戻すことができたら、エレリアの苦悩は一瞬で解決するだろう。そして念願のふるさとに帰ることもできるはずだ。
ただ、もし記憶を取り戻して故郷に戻るようなことになってしまったら、今度はミサに合わせる顔がなかった。せっかくミサと友達になれたのに、すぐに別れるようなことにでもなってしまったら、それはそれでエレリアには辛いことだった。
だが、そんな未来の懸念はすべて忘れて、エレリアは今は記憶の想起に努めようと腹をくくった。
白い波が砂浜に寄せては引いての動きを繰り返している。その動きはまるで海の中へ手招きしているようにも見えた。
思わず我を忘れてしまいそうになるほどの美しい情景。
澄んだ潮風に純白の髪をなびかせながら、エレリアは波際の白い花畑の真ん中で膝を折った。
その様子を、ソウヤが無言でじっと見つめる。エレリアはわざわざ彼に行動の意図を伝えたわけではなかったのだが、ソウヤはエレリアの思索を見透かしたように静かに見守っていた。
そしてエレリアは波に触れてみた。
透き通った海水が彼女の指の隙間をさらさらと流れていく。
掴もうと思っても掴むことができない。
それはまるで、思い出そうとしても思い出せない自分みたいだとエレリアはふと思った。
波と私。
私とは一体、何なのか。
エレリアはゆっくり目を閉じて、再び自分の過去を強く思い起こしてみた。
「…」
隠された記憶を巡って、脳内の深層部へ意識を潜らせていく。しかし、浮かんでくるのは暗闇に塗られた虚構の空間だけ。
すると予想通り、次第に謎の頭痛がエレリアを襲い始めてきた。
そして、その頭痛は容赦なく彼女の頭を締め付ける。
だが、これも予想の範囲内だ。
今までならそこで回想を断念していたが、今回は痛みに耐え、続けてエレリアは記憶の追想に集中する。
「うっ…」
エレリアは痛みに構わず隠された記憶に向かって思考を巡らすが、謎の頭痛が先ほどより激しくエレリアの脳を締め付け始めてきた。
あまりの苦痛に、意識が飛びそうになる。
こうなってしまっては、とても記憶を思い出すどころではない。
「お、おい。大丈夫か、エレリア」
浅い息を繰り返し、苦しそうに冷や汗を浮かべるエレリアを目にし、ソウヤが心配そうな表情で彼女の背中をさする。
そんな彼の気遣いとは別に、頭の中で耳なり大きく響き渡っているのがエレリアには分かった。それは、まるで不協和音のような不愉快な音色だった。
「うぅ…」
次第にその鋭いノイズは波の音と共鳴し、彼女の脳内に盛大に鳴り響いていた。あと少しで脳が割れてしまいそうなほどの騒音に、エレリアはついに耐えきれずに耳を両手で塞ぐが、それでも音は鳴り止まない。
「おい、エレリア!しっかりしろ!!」
ふいにエレリアが力を失ったように地面に横たわり、ソウヤが慌てて大声で彼女を呼び起こそうとする。
しかし、この時すでにソウヤの声はエレリアの脳内に鳴り響く謎の爆音で彼女の意識には届いていなかった。
「まずい…。戻れない…」
苦痛の嵐が頭の中で暴れまわっている中、エレリアはまどろむ意識で自分に迫る危機というものを感じていた。
今の状態は、思わず死を覚悟するほどの状況のように思えた。
すでにこの時、エレリアは回想行為を中心していたのだが、なぜか謎の頭痛と耳なりが止んでいなかった。
それどころか、頭痛は脳を直接えぐるかのように頭を締め付け、耳なりは死に際に悶え苦しむ叫び声の如き音色でエレリアの脳内を駆け巡っていた。
そんな不条理に襲いかかる痛みになんとか耐えている中で、エレリアはずっと自らの愚行を嘆いていた。
なぜ、安易に自分は隠された過去を知ろうとしてしまったのか。
そんな風にエレリアは、強引に過去を思い出してみようと提案した自分自身を心の底から呪っていた。あんなことを思っていなければこんなことにはなっていなかったはずなのに。
しかし、とにかく今は後悔するより助けを求めるのが先だ。
エレリアはぼやけた視界の先に浮かぶソウヤに助けを求めるため口を動かそうとした。しかしなぜかうまくろれつが回らず、声を発することができなかった。
「あ、れ?な、んで…?」
言葉を出すことはできるのだが、うまく意思を乗せて発言することができない。
そうして、ついにエレリアは最後の助けの綱も切られ、次第に救いようのない焦りを感じ始めていた。
もう、誰にも救助を求めることができない。
そう思った瞬間、エレリアは思いっきり胸を裂くような絶望を体全体で感じた。
「いやだ!!誰か、助けて!!」
エレリアは必死にソウヤに手を伸ばそうと力をこめる。
ソウヤもそれに呼応するように彼女の手を掴み、必死に何か叫んでいるのがエレリアにも見えた。
しかし、声は聞こえない。ただ切迫した表情だけが見える。
そして、エレリアの最後の努力もむなしく、混濁する意識の中で彼の姿が遠くに消え去っていく。
「待って、ソウヤ!!」
最後の希望を胸に、エレリアは叫んだ。それも、喉が焼き焦げてしまうほど全力で声を張り上げたつもりだった。
しかし、彼女の願いもむなしく、ついに彼の姿が視界から完全に消え去ってしまった。
「ソウヤぁぁぁぁ!!!!」
エレリアは何度も彼の名を呼んだ。
しかし、いくら叫んでも声が彼に届くことはなかった。
そして、エレリアの精神は為す術もないまま、永遠の暗闇に包まれた苦痛の牢獄に閉ざされてしまった。
意識は現実世界からは完全に隔離され、精神世界という場においてはっきりと覚醒していた。
そして、容赦なくエレリアの骨身に耐え難い苦痛が染み渡る。
「 うぅ、く、苦しい…!!!」
五臓六腑が引き裂かれ、直接心臓を手で握りつぶされる感覚。
もしこれが現実世界の話だったらとっくに命の灯が消えてしまうほどの苦しみだろうが、この世界ではなぜか死のうにも死ぬことができない。
それでも、狂乱と激痛の波に溺れながらエレリアはなんとか現実世界へ戻ろうと身じろぎをする。
その時、苦しみの世界から逃げ出そうとするエレリアを、そうはさせまいと引き戻すように無数の手が不気味な笑い声とともに闇から浮かび上がってきた。
そして、暴れる彼女の手足をきつく掴み、苦痛の奥底へ引きずりこもうとしていく。
「何、これ…!!もう、離れてよ!!」
エレリアは拘束をふりほどこうと出せる力を込めて手足を動かすが、次々に現れる闇の手に完膚なきまでに抵抗をすべて押さえ込まれ、無様に体が闇の底へ沈んでいく。
「あぁ…」
無数の闇の手に身の程を思い知らされ、ついにエレリアはこんなことを思ってしまった。
「もう嫌だ。死にたい…」
不条理な苦痛に押し潰され続け、エレリアはすでに生きる活力を削がれていた。
もう、どうでもいい。
誰でもいいから、早くこの苦しみから救って欲しい。
誰でもいいから、早く自分を楽にしてほしい。
もしこの拷問から解放してくれるなら、死ぬことだってエレリアにとっては大歓迎だった。
ただ死を求めると同時に、エレリアの心中にまたしても一つの心残りが生まれた。
それはミサとソウヤに別れを告げることができないというものだった。
知らない世界で初めて人と仲良くなって、そのおかげで生きる希望も湧きつつあった。やっと、前を向くことができる気がしていた。
しかし、今のエレリアにとっては、そんな未来への希望や期待などどうでもよくなっていた。
ただひたすらに、苦しみの嵐から唯一自分を救ってくれる死というものを望んでしまっていた。
「誰か…」
終わりの見えない苦しみに飲まれ続けて、エレリアの意識はほとんど消えかけていた。
やっと、望んでいた死というものが近づいてきたのだろうか。
あっけない終わり方だとエレリアは情けなくなるが、どんなに無様でも死ねるのらそれで良かった。
ただそれでも、エレリアは最後まで助けを求める意思は決して絶やさなかった。死ぬことを望んでいるものの、当然生きることのほうが本望だ。
ここで最後に救助を願って、もしそれがダメならもう全部諦めよう。
「…」
しかし、ついに最後になっても手をさしのべる希望の気配は現れなかった。
つまり、誰も助けてはくれないようだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
なぜ、こんな思いをしなくれてはならないのか。
理由は何も分からない。誰も教えてくれない。
そしてとうとう、何もかもに失望したエレリアはまぶたを閉じて、この世界から自分を遮断しようとする。
これで、やっと楽になれるだろう。
短い間だったけど、ミサ、ソウヤ、ありがとう。
私はもう限界です。
さよなら、みんな。
そうして、エレリアの意識は次第に世界から隔絶されていった。
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