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第1章『始まりの村と魔法の薬』編
第6話 激情/Sorrow of the depth
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「海にでも連れてってやろうか?」
今エレリアはソウヤに連れられて、早朝の空気に包まれた海に続く細い小道を歩いている。
昨晩、教会から帰って来た後、エレリアはすぐさま眠りに落ちた。
昨日は、目を覚ましたエレリアにとってコックル村に来て初めての1日。慣れない場所に体力と気力を余分に消耗してしまい、ベットに入ってから眠りに落ちるまでは数秒だった。なので、家に着いて最後にミサとどんな言葉を交わしたのか、はっきりと覚えていない。
しかし、今朝は意外に早く目が覚めた。
目覚めた瞬間は昨日と同様に、部屋は静寂に包まれており、窓の外から朝を告げる小鳥の声だけがエレリアの耳に伝わってきていた。
「もう、朝か…」
何の気もなくエレリアは仰向けになったまま、正面を見つめた。
そこに見えるのは、古い木造の天井だけ。
昨日だったらまったく見覚えのなかったその天井も、今ははっきりと確かな記憶としてエレリアの頭の中にある。
ここは、ミサの家の二階にある小さな部屋。
大丈夫、忘れていないようだ。
こうして、エレリアは自身の記憶が無事に保持されているのを確認して、ほっと安堵の息を漏らした。
眠りから目覚める時が、エレリアは一番気がかりだった。
目が覚めて、また記憶を失っていたらどうしようか。
昨日の朝のように、見慣れない風景と共に目覚めを迎えることが、エレリアはトラウマになっていた。
記憶を失うということは、彼女にとって孤独になることと同義だった。そして、それは耐えうることのできない無情で残酷な現象だ。
現にエレリアは昨日の朝に加えて、夕方に見た夢の記憶も失っている。
自分がそういう記憶を失いやすい体質なのか、はたまた誰かが自分に仕組んだことなのか、真実は今のところ分からない。
だからこそ、目覚めた瞬間に過去の出来事を思い出せることがエレリアにはとても嬉しいことだった。それだけで、胸の内に希望が満ちる。確かな「今日」を生きていける。
そうして、快い気分でエレリアは今朝を迎えることができたのだった。
今さら二度寝するわけにもいかず、エレリアはベットから身体を起こした。
昨朝は身体が謎の倦怠感に包まれていたが、今日は特に異常はなかった。
「んんー」
エレリアは眠気を断つ意味も込めて、思いっきり背伸びをした。寝ぼけたままの全身の筋肉が締め上げられ、喉から声が漏れる。
そして、そのままベッドの外へ立ち上がり、すぐ側のカーテンを開き、窓の戸を開けた。
すると窓の外から、朝の冷気がゆっくりと部屋へ流れ込んで来た。
「はぁ、涼しい…」
エレリアは目を閉じて、その澄んだ冷たい空気を鼻で吸い込んだ。
木々と土壌を含んだ豊かな自然が生み出した匂い。
そして、この時エレリアは悟った。
どうやら今の時刻は朝は朝と言っても、早朝のようだ。
その証拠に目の前に広がる田園風景の中に人影はあまり見つけることはできず、太陽が昨日の夕方に沈んでいった反対の方向からうっすら頭を覗かせて、白い光を放っていた。
大地には薄い白い霧もかかっており、村は完全に「早朝」の世界に包まれていた。
しかしそんな時間帯でも、ちらほら農具を手に道を行く人も見受けられ、その熱心な仕事ぶりに感心させられた。
すると、エレリアの今いる家の一階の方から、何やら男女の仲睦まじい談笑が聞こえて来た。
恐らく、ミサとソウヤだろう。
もしかしたら二人より早く起きてしまったかもしれないとエレリアは先まで思っていたのだが、その心配は無用のようだった。
早起きなミサとソウヤ。昨日の朝も、二人はお互い仲の良い友のようにしゃべっていた。
「友達、か…」
昨日の朝、ミサが友達になってほしいと懇願してきた様子が目に浮かぶ。
友達、とは何なのか。エレリアは頭の中で、その二文字を反芻する。
お互いに信頼し合うことができる、それが友達。
共に笑い合うことができる、それが友達。
話題を共有することができる、それが友達。
言えない過去を打ち明けることができる、それが友達。
ミサはエレリアのことを完全に信頼しているようだが、対してエレリアはミサのことをどこまで信じているのだろうか。そんなことを、ふとエレリアは思ってしまった。
まだ、お互いが出会って日は浅い。
故に、まだ心のどこかでミサを信じきれていない自分をエレリアは感じていた。
もちろん、エレリアにはミサに対して伝えきれないほどの感謝の気持ちがあったし、返さなくてはならない借りもあった。
ただ、心のすべてを彼女と共有するには、もう少し時間が必要な気がした。出会ってからまだ1日しか経っていないので、当然のことではあるのだが。
とにかく、目覚めてずっとここにいても仕方なかったので、エレリアは二人のいる一階に下りることを決意した。
エレリアはゆっくりとした歩調で部屋を出て、階段を下りる。服は昨日と同じ、白いローブのままだ。
そして、階段を下りきり一階にたどり着くと、そこには昨日と似たような光景があった。
キッチンで作業しているミサと、食卓で何やら読書をしているソウヤ。今までと違う点で言えば、まだ食卓に料理が添えられていないところだ。
「…おはよう」
二人に気づいてもらうために、エレリアが二人に朝の挨拶を送る。
すると、最初に気がついたのは例のごとくソウヤだった。
「おう、もう起きてたのか」
ソウヤは読んでいた本を閉じて、エレリアに反応を示す。一体何の本を読んでいたのか、その時いたエレリアの位置からは判断できなかった。
「あっ、リアちゃん、おはよう」
続いてミサが作業する手を止めエレリアに向き直る。
「昨日はよく眠れた?」
「うん」
ミサの問いかけにエレリアはうなずいた。
「そっか、そっか、良かった。昨日は色々と大変だったもんねぇ」
ミサは笑みをこぼして、昨晩の寄合の様子を思い浮かべているようだ。
彼女につられて、エレリアも昨日の夜の様子を思い返す。
浮かんでくるのは夜の教会。
激しい討論の末、エレリアは何とかこの村で暮らすことを村長から正式に承認された。まだ村人が自分のことをどう思っているのか詳しいことは分からないが、とにかくエレリアはこの村で生活していくことができる。
すると、ソウヤも何かを思い出し様子でエレリアに話しかけた。
「おっ、そいえば聞いたぞエレリア。おまえ、あのカタブツじいさんたちからOKサインもらったんだってな」
「ちょっと、『カタブツじいさん』は言い過ぎでしょ」
すかさずミサがソウヤの発言に指摘を入れる。
「事実なんだから別にいいじゃねぇか。にしてもよ、良かったなエレリア。あのじいさんたちを説得させたなんてすごいことだぞ」
ソウヤが謎の称賛をエレリアに与えた。
一方的にソウヤから称えられエレリアはどうすることもできず、
「べつに私は何も説得はしてないんだけど…」
と低い小声で呟いた。
そして、ミサが口を開く。
「まぁ確かに、普通に考えたらすごいことだよね。でも、リアちゃんには特別な理由があったから許してもらえたんだよね」
「うん」
「おいおい、なんだよ、その特別な理由って。おまえ、何かやったのか?」
ソウヤが眉を寄せて、エレリアにその「特別な理由」とやらの真意を問いかける。
「えっと…」
突然のソウヤから問い詰められ、エレリアは一瞬声を詰まらせた。
「何だよ。もったいぶらずに教えてくれよ」
エレリアが困惑する間にも、興味津々な顔つきでソウヤは会話の距離を詰めてくる。
ちらとミサを見ると、彼女は再び調理場に向かい作業を再開しているようだった。
そんなミサに助けを認めるわけにもいかなかったので、エレリアは自分が彼に説明することを決心した。
「その…、これは村長さんから聞いた話なんだけど…」
エレリアが語り出すと、ソウヤも前のめりになって耳を向けた。
「私がこの村に来る前に、私に似た姿の人がこの近くの山にいたらしくて。それで、村長さんが山で怪我をして身動きが取れなくなっていた時に、その私に似た人が村長さんを助けてあげたらしいの。その時に村長さんは心変わりをして、私にだけ優しくしてくれたってこと」
あの晩、村長自身が語ってくれた真実を不器用ながらもエレリアは自分の口でソウヤに伝えた。
「…ふーん。なんかややこしい話だけど、そんなことがあったんだな」
エレリアからの説明を最後まで聞き終え、ソウヤが納得の意を込めて首を小さく振る。
「これで、分かった?」
「おう、大まかな内容は分かったよ。でもよ、一つ思ったんだけどよ、その『私に似た誰か』ってやつさ、本当はおまえのことを言ってるんじゃねぇのか?」
昨夜のミサと同等の発言がソウヤの口から飛び出る。
やはり、誰がこの話を聞いても同じ結論に至ってしまうのかとこの時エレリアは思った。
誤解されないために、村長と同じ言葉を用いてエレリアは反論する。
「いやでも、私とその人とは目の色が違うらしいの」
「目の色?なんだそれ」
ソウヤはエレリアの発した言葉を耳にして、怪訝そうに声を漏らす。
「村長さんが言うには、その私に似ていた人は青色の目をしていたんだって」
「青色の目、か…」
ソウヤは口に手を当てて、その謎の人物について心当たりを探っているようだった。
「私は赤い目をしてるみたいだから、その人とはまったくの別人ってわけ」
エレリアは村長の語った同様の理論でソウヤに説得を促した。これで納得してもらえるだろう。
しかし、次にソウヤから飛び出た言葉は意外なものだった。
「うーん。そいつがだれだが俺は知らないけど。でもやっぱり俺は、村長を助けた人っていうのはおまえなんじゃないかと思うぞ」
「え?」
話題の当人が自分だとソウヤから指摘され、エレリアは眉を寄せた。
ふざけて言っているのだろうか?
しかし彼の顔を見る限り、自分をからかっているような表情には見えない。至って真面目な面構えでエレリアを見つめている。
「目の色が違うとか今おまえは言ってたけど、それこそ目の色なんてアテになんねぇだろ」
「それって、どういう意味?」
ソウヤは雄弁とした物言いで口を動かす。
そんな彼の語る発言の真意を探るべく、エレリアは真剣にソウヤの主張に耳を傾けた。
「だってよ、おまえは海で気絶してたところを俺たちに拾われた後、何日もずっと眠ったまま起きなかったんだぞ。あんだけ寝たら、おまえの目もそりゃ赤くなるんじゃないのか?」
「何それ…」
ソウヤは至極真面目な顔つきでエレリアを見据えている。それもまるで、名推理を働いた後の探偵の如く、達成感に満ちた態度で。
しかし、彼の語る理論はあまりにも突飛で、とてもエレリアの瞳の色に関する真実には至っていない。
「じゃあ、私の目が赤いのは、寝すぎて充血したせいだって言いたいの?」
「まぁ、そういうことになるな」
自分が聞き間違えた可能性も考慮に入れエレリアはソウヤに彼の語った主張を聞き返したが、ソウヤの反応は何も変わらなかった。
そんな彼の態度に思わずエレリアは呆れてため息を吐いてしまった。
「おいおい、そんなに俺の意見が信じられねぇのか?」
落胆するエレリアの様子にソウヤが気づき、悪意のない純粋な表情を見せる。どうやら本当に彼は悪気はないようだ。だとしたらなんて常識観が欠落した人なんだ、とエレリアは心の中で独り言を吐いてしまった。
「まぁ、とにもかくにも、おまえがこのタイミングでこの村にやって来たのは、運が良かったってことだな」
気まずくなった空気を察して、ソウヤが話題を変えようと試みる。
「運が良かった…」
エレリアも彼の言葉を反芻し、改めて自分の所在について考え込んだ。
確かに彼の言うとおり、自分は運に恵まれている。自分と縁のない所で起きた出来事が結果として巡りめぐって今の自分に結び付いている。
これは失われた記憶と何か関係があるのだろうか。
エレリアはこの因果とも捉えることのできる不思議な運命に、ただ頭を抱えることしか選択肢は無かった。
「おまえはツイていた。もうこれしか言い様がねぇ」
ソウヤはイスの背もたれにふんぞり返り、尊大な態度を示して話を続ける。
「だってよ、もし青い目のやつが村長を助けるより早くおまえがこの村の来たと考えてみろ。
おまえに何の情けもない村長は問答無用でおまえを追い出すだろうな」
腕を組むソウヤはエレリアの私情に配慮する様子もないまま、さらに話を続ける。
「おまえは知らないと思うけどな、俺たちは何度も見てきたんだ。実際に、村から追い返された旅人たちを。そして俺たちは何度もそいつらを見送ってきた。もちろん、止めたい気持ちはあった。だけど、俺たちではどうすることもできなかった。個人の力ではあまりに無力だったんた。だから…」
ソウヤの顔つきが、神妙な表情になっていく。
きっと彼は最後の結論で「おまえは運が良かったんだ」と繰り返し言ってきた言葉を再び述べるつもりだったのだろう。
しかし、彼の最後の言葉は突然放たれた怒号によって中断された。
「ちょっと、止めてよ!その話!!」
いきなり誰かが声を荒らげて、近くにあったまな板に拳を思いっきり叩きつけた音が聞こえた。渇いた衝撃音が一瞬だけ部屋に響きわたる。
「え!?」
突然響きわたった叫び声と衝撃音に、エレリアは肩を跳ね上がらせた。
ソウヤも同じように驚いて腰を抜かしているような様子だ。
一体何が起こったのだろうか。
エレリアは急いで状況を把握しようと努める。分かっていることは、いきなり耳をつんざいた叫び声と謎の衝撃音だけ。
そして、エレリアは反射的に声のした方向へ視線を向けて、その怒号の張本人の正体が誰かを悟った。
ミサだ。
驚愕の表情を張り付けているエレリアとソウヤに対して、ミサは額に青筋を立ててソウヤを鋭い視線でにらみつけていた。
「ねぇ…、その話はもう二度としないでって言ったよね…!!」
「ち、ち、違うんだ、ミサ!!誤解だよ!!」
ミサの声が怒りで震えているのが分かった。
激情に濡れた鋭い視線がソウヤを刺し、口から荒い呼吸が漏れている。
そして、敵意むき出しのミサに、急いでまくしたてるようにソウヤが謝罪の言葉をかける。
「悪気はなかったんだ!!信じてくれ!!」
瞬く間に険悪な雰囲気に包まれる食卓。数秒前の穏やかな朝の食卓はもうどこかへ行ってしまったようだ。
「…」
この時のエレリアには、なぜミサがあれほど態度を荒くしたのか理由が分からなかった。
昨日は優しく慈母のように自分に接してくれていたミサ。
しかし、今の彼女の様子は明らかに激怒という名の感情に飲まれていた。彼女と出会ってまだ1日だが、こんな姿エレリアは見たことなかった。
何かソウヤの発した言葉が彼女の逆鱗に触れた。これくらいしか、彼女を豹変させた理由は見つからない。
とにかく突然のミサの怒号にエレリアは戸惑うばかりだった。
「本当にごめんよ、ミサ。そんなつもりで、言ったんじゃなかったんだ…」
ミサをなだめるため、ソウヤは慎重に言葉を選び口を動かす。
「せっかく…、せっかく、忘れかけてたのに…。なんで、また掘り起こすようなことするの!?」
ミサが再び、怒号を放つ。
よく見ると、彼女の目にはうっすらと光るものが浮かんでいた。それは、押さえきれなかった怒りと悲しみの涙のようにも見えた。
エレリアはこの時、ミサに辛い過去があるという事実を悟った。今の状況から推測して、間違いのないことだろう。
しかし、彼女の過去がどのようなものであるのかはまだ分からない。
焦りに背中を押されたソウヤが、そのまま席を立ち上がり、ミサのもとへ向かう。
そして、無言で彼女を抱き締めた。
その光景を前に、エレリアは少し疎外感を感じてしまった。自分がやってくる前、この二人はずっと共に暮らしてきたのだ。
エレリアには分からない、二人だけの絆。
こうして二人が寄り添いあっている姿を見ると、それが顕著に感じられる。
ソウヤから優しく腕を巻かれ、ミサは少しも抵抗することなく、しばらく言葉を失っていた。
「本当にごめん、心の底から謝るよミサ。俺としたことが、調子に乗っちまってた」
「…」
ソウヤはミサにだけ聞こえるような小さな声で、偽りなのない誠心誠意の謝罪の言葉をかけた。しかし、依然としてミサは表情を変えず唇を固く閉ざしたままだ。
「ミサ…」
閉じたまぶたから涙をこぼしているミサはどこか悲しみをこらえているようだった。その姿を遠くから見て、エレリアは心を痛めた。
昨日、友達になってほしいと笑顔で言ってきたミサ。そんな彼女は明るい性格の持ち主で、悩み事なんか微塵もないようにエレリアには感じられた。
しかし、それは間違いだと今気づかされた。
実際に、ミサは心に深い傷を負っていた。その傷が何の傷で、いつできたのか、今のエレリアには理解する術はない。
ただ、彼女は誰にも言えない傷を隠して、無理にふるまっていた。
自分に何かできることはないか。
昨日は自分が救われた。身寄りのない自分を家族のように温かく迎え入れてくれた。
だから、今度はこっちの番だ。借りた恩は返さなくてはならない。それがどんなに小さな形でもいい。相応の価値に見合わなくても、とにかく今は声をかけてあげることが最優先だ。
そして、いても立ってもいられなくなったエレリアは、気づけばミサの側に駆け寄っていた。
「ミサ、元気だして…」
肩を震わせ小さく泣き声を漏らしているミサに向かって、エレリアは優しく彼女の背中をさする。
前髪が目元を覆っていたので詳しく表情は分からなかったが、頬を涙が伝うのが見てとれた。
ソウヤに優しく抱擁され、ミサは怒りの感情を通り越し、悲しみの感情に沈んでいるようだった。
何も語ることなく、ただ悲しみに急き立てられるように嗚咽を漏らしている。
そして、抱き締めるソウヤの身体を、力強くミサも抱き締め返している。それは、孤独を経験した迷子の子供が二度と手放さまいと力強く母の身体を抱き締めるような図だった。
二人にしか分からない感情共有。
そこにエレリアの入り込む余地はなかったが、エレリアは何の気もなく少し後ろへ下がって、二人の様子を眺めていた。
ミサを抱きしめていたソウヤが、ふいに彼女の身体を少し解放する。
「ミサ。…本当に悪かった。これだけは何度謝っても許してもらえないかもしれない…」
ソウヤが再三の謝罪の態度を示した。そこから、彼の純粋な反省の意が伝わってくる。
「ただ、これだけは言わせてくれ。俺はおまえのことが好きだ。大好きだ。だから、愛する気持ちはずっと変わっていない」
ソウヤが気兼ねすることなく心中のすべてをさらけ出す。
はたから見ると男女の告白の場面みたいでエレリアは少し頬を熱くしてしまったが、そんな不純な考えを表情に出してしまうわけにもいかないので、必死に平静を装うのに努めた。
彼が口にしたのは、異性への好意を伝える言葉ではなく、家族としての親愛を示す言葉だ。決して他人が笑うことのできない、大切な愛の言葉。
たった二人だけだが、ミサとソウヤは紛れもなく家族だ。自分は偶然そこに居候させてもらっている同居人に過ぎない。
昨日の朝ミサが自身の過去を語ってくれていた時に、彼女はソウヤのことを「大切な家族の一員」と語っていた。実際に、二人の保護者でもあったおばあちゃんがいなくなった後は、二人だけで暮らしを共有してきたわけだ。
だから、たった一言の彼の失言で関係が崩れてしまうようには思えなかった。
長く生活を共にしていく中で、時折のいざこざは当然のことだろう。
今回は完全にソウヤが主犯ではあるが、彼の性格も人となりもミサは分かっているはずだ。
「本当に、ごめん…」
ソウヤが間を置いて、再び反省と謝罪の意を示す。ただ言葉の数は少ないものの、今までとは違う彼の誠心誠意の気持ちが重く凝縮して含まれていた。
しかし、まだミサからの言葉はない。
再び、気が重くなる空気が部屋に張り詰める。
エレリアはミサを見ると、彼女は静かに目を閉じて、悲しみを心の底へ沈み込ませるように深い呼吸をしていた。その姿は、自身で心の傷を修復しているようにも見えた。
本当に彼女の過去に何があったのだろうか。
これほどまでして彼女が泣き崩れさせる要因を、エレリアは想像することができなかった。
すると、ミサが
「…ふふ」
と、いきなり口から小さな笑い声をこぼした。
突然の彼女の笑みに、エレリアは思わず固唾を飲んだ。ソウヤも同じく、額に一筋の冷や汗を浮かべる。
彼女の表情は前髪が作り出した影でよく見えないが、口の端が少し緩んでいるのが分かった。
感情のゲージが振り切って、とうとう気がおかしくなってしまったのか。
予測不能の彼女の反応に、エレリアは少しだけ身構えてしまう。
そして、異様な空気に身体が固まっているソウヤとエレリアに対して、ついにミサが口を開いた。
「二人とも、ごめんなさい…」
これが、平常心を取り戻したミサの最初の言葉だった。
「なに感情的になっちゃってんだろ、私…。バカみたい」
悲しみで濡れた鼻の奥をすすりながら、ミサが渇いた笑みを漏らしている。
気づけば、ミサはいつもの彼女らしい笑顔を取り戻していた。涙で潤った目はまだ赤いままだったが、それでもミサは手で拭って気さくな表情を保とうとしていた。
「もう昔のことなのに、まだ引きずってた。やっぱり、忘れたくない思い出ほど忘れることはできないのかもね」
ミサは自嘲気味に笑い、片方の手を胸に添え、もう片方の手で潤った瞳を再び拭った。
今、ミサの口から飛び出した独白にも似た言葉。彼女が何か壮絶な過去を抱えていることはすでに間違いのないことなのだが、ただ詳しい真相はこの発言からは掴めなかった。
「だ、大丈夫なのか?ミサ」
ソウヤが機嫌を損なわないように恐る恐るミサに話しかける。
「うん。つい、あなたのあの言葉に反応しちゃって…」
ミサはいつもの彼女らしい笑顔を取り戻し、恥ずかしさ半分で呟く。
「そ、そうか…。その件に関しては本当に俺が悪かった。もう二度とあの言葉は言わないようにする」
彼女の心中を耳にし、ソウヤは発言の不注意を犯さない決意をその場で表明した。
「もう、びっくりしたよ、ミサ…」
次に、エレリアもミサの感情が落ち着いたのを確認して、体の中で張り詰めていた感情を吐き出すように口を開いた。
「リアちゃんも、ごめんね。なんだか、恥ずかしい姿見せちゃったな」
ミサが頬を赤くして、エレリアに向き直る。
その彼女の目には先ほどまでの怒りや悲しみの色は消え去っており、すでに感情の峠を通り越したようだった。これまでの気さくな彼女の姿が、今、目の前にいる。
しかし、それでもエレリアはミサに肝心の理由を聞くことができなかった。否、聞いてはならないと、本能が阻止していた。
それほどミサには、触れてはならない危ない空気のようなものが渦巻いているようにエレリアには感じられた。ミサは笑顔でそれを隠しているが、逆に触れないでほしいと二人から遠ざけているようにも見えた。
「いつまでも過去を見続けていても、結局キズを広げるだけだし、答えなんてどこにもなかった。だから、もう、こんなくだらないことで怒らないって約束する。二人とも、本当にごめんなさい」
反省の言葉と共に、ミサが二人に向かって頭を下げる。
彼女の過去がどんなものかはエレリアには分からない。
そして、人は過去から逃れることはできない。人は己の過去と一生付き合って生きていかなければならない。
先ほど言ったミサの言い分からすると、きっと彼女は自身の辛い過去に自力で折り合いをつけようとしていたようだ。他人の手を借りず、一人で解決しようとしていたようだ。
しかし、自身で悲壮の過去を認めきることはできず、結果として現在までその悲しみと後悔を引きずってしまっていた。
ただ、今ミサはここで過去への執着を断ち切ることを宣言した。長らく自身の意識に作用していた記憶から、思いを断つのは安易なことではないだろう。
それでも、ミサは確固とした決意を胸に、決断を下したのだ。
「ミサ、顔上げて」
すると、エレリアは頭を下げるミサの正面に立ち、優しく手を差し出した。
「リアちゃん…?」
エレリアから言われた通り、ミサは下げていた頭を上げた。目の前には、まっすぐな視線でこちらを見つめるエレリアの姿がある。
視線を合わせるだけで、思わず意識を奪われそうになるエレリアの赤い瞳。
ただ、ミサにはエレリアの考えていることが読み取れず、困惑の表情を顔に宿した。
「ミサが謝ることなんてないよ。ミサは何も悪くないし、一人で悲しむ必要も何もない。そうだよね?ソウヤ」
「お?う、うん、そうだな。ミサは何も悪くない」
いきなりエレリアから話を振られ、完全に油断していたソウヤは慌てて首を縦に振り、舌をまくしたてる。
「ミサの過去に何があったのかは、私には分からない。もしかしたらそれは、私が想像できないほどに悲しいものなのかもしれない。でもミサ、あなたはもう一人じゃないんだよ?ミサには、私とソウヤがいる」
エレリアの口から呟かれる一言一言が、静かに心に溶け込んでいくのがミサには分かった。
長い間抱え込んでいた心の傷が、エレリアの言葉で一瞬のうちに修復されていく。
これが友情の力なのか。
はたまた、愛の力なのか。
エレリアからの温もりを帯びた言葉で、ミサは再び自身の涙腺に熱いものを感じていた。それはさきほどまでの怒りや悲しみではない、別の何かの感情を宿していた。
「だからさ、あんなに泣かなくてもいいんだよ、ミサ」
エレリアがいまにも泣き出しそうなミサに向かって、口の両端を緩める。
微笑みを見せるエレリア、その表情にミサは毒気を抜かれた気分になった。
エレリアの性分は、恥ずかしがりやで人見知りだ。少なくとも、ミサはそう認識している。
だから、まだ出会って1日だけではあるのだが、彼女が笑顔を見せる姿をミサはあまり見かけなかった。
しかし、今ミサは正面から初めてエレリアの笑顔を目にすることができた。
そこに、照れや気後れは感じられない。
慰めの笑顔。
その整った顔立ちに浮かぶエレリアの微笑は、まるで天使の微笑みのようにミサには尊く感じられた。
「ミサだって、友達がずっと泣いてる姿を見るのは嫌でしょ?」
さらにエレリアから慈愛の眼差しを受けて、ミサは思わず言葉を詰まらせる。
エレリアの言っていることはすべて正論だ。だからこそ、何の疑いの余地もなく自然と受け入れることができる。
そしてこの時、ミサは自分が独りよがりの振る舞いをエレリアたちに押し付けていたことに気づかされた。
怒りのまま怒鳴り散らして、頭ごなしに泣きわめいて。
エレリアからの指摘を前に、ミサは初めて自らの愚行を反省した。
「そう、そうだよね…。全部、リアちゃんの言うとおりだよ…」
自身への情けなさと共に、ミサは思いのまま心中を吐き出した。
エレリアはすごい。
この時、ミサの脳裏にこんな言葉が浮かんだ。
そうエレリアは、たった数個の言葉だけで束縛されていた過去から自分を解放してくれた。自分を立ち直らせてくれた。
実際に、自身の顔に笑顔が戻っていることにミサは気がついた。
それは先ほどまでの愛想で偽っていたぎこちない笑顔とは違う。
心の底から作り出すことができる笑顔だ。
「それに、今回の件に関しては悪いのは全部ソウヤなんだから。嫌なことあったら全部、ソウヤにぶつければいいじゃん」
「おいおいおい、急に辛辣だな、エレリア!?」
いたずらな微笑と共に目を細めて、エレリアをソウヤを見やる。
「いや、でも、待てよ…。確かに、俺が悪いってのは事実だな…」
エレリアから視線を送られ、ソウヤはあごに手を添えた。
そして、
「よし、分かった!!ミサ、俺を殴れ!!」
しばし熟考する素振りを見せた後、覚悟を決めた様子でミサに立ち向かう。
きっと、彼は自身が殴られることでけじめをつけようとしたのだろう。
突然言い出された彼の決意に、ミサは少し気を呑まれながらも、
「いいよ、いいよ、ソウくん。その気持ちだけで私は嬉しい」
と、優しい口調で受け入れを断った。
そして、そのままミサはエレリアに向き直り、
「…ありがとう、リアちゃん」
と、固まりきっていた表情を崩し、感謝の意を口からこぼした。
「そうだ、ミサ。朝メシっていつできるのか?」
ふとソウヤが思い付いたような様子で口を開いた。
「まだ、できてはいないけど…」
「そうか。だったらさ、エレリア。朝メシを待つついでに、海にでも連れてってやろうか?」
ミサの返答を確認して、ソウヤがエレリアに一つの提案を持ちかけた。
「海?海、ってどこに行くつもりなの?」
彼の言葉の真意を掴めないエレリアは眉を寄せる。
「あの日、俺たちがおまえを見つけた海だよ。この村の森の奥の方にある、俺のプライベートビーチ。おまえも一度くらいは行ってみたいだろ?」
ソウヤはエレリアの心情を揺さぶらんと言葉を紡ぐ。
「うーん、どうしようかな…」
それでもエレリアは決断に迷いが生じていた。
ミサと二人ならまだしも、彼と二人きりで一緒に居続けられる気力が持つか、それが気がかりだった。先の彼との会話だけでも、エレリアは少々気疲れしていた。それなのに、二人だけでやっていけるのだろうか。
「もし、その海に行けばおまえの記憶にまつわる何かがあるかもしれないだぞ。なぁ、行ってみようぜ」
そう言われ、エレリアはソウヤを見ると、何やら彼は何か合図のような意味深なウィンクを送っていた。
その意図はエレリアには詳しく分からなかったが、とにかく彼が自分の意見に賛同してほしいということだけは悟ることができた。
「…うん、いいよ」
「よっしゃ。これで決まりだな。そういうわけでミサ、俺たちは海へ行ってくるぜ」
エレリアの賛同の意を込めたうなずきに、ソウヤが反応し、ミサに行き先を告げた。
「いいけど、朝ごはんができるころには帰ってきてね」
「おうおう、分かった分かった。じゃ、エレリア、さっそく出かけるか」
ソウヤがあれこれと勝手に話を進め、気つけば玄関で外出用の靴へ履き替えているところだった。
「まったく…」
エレリアは少々納得いかないため息をこぼし、仕方なく彼の後を追って行った。
「二人とも、気をつけてね」
海岸へ向かうソウヤとエレリアの背に、ミサが見届けるように手を振った。
こうして、二人は朝食ができるまでの間、海へ向かうこととなった。
今エレリアはソウヤに連れられて、早朝の空気に包まれた海に続く細い小道を歩いている。
昨晩、教会から帰って来た後、エレリアはすぐさま眠りに落ちた。
昨日は、目を覚ましたエレリアにとってコックル村に来て初めての1日。慣れない場所に体力と気力を余分に消耗してしまい、ベットに入ってから眠りに落ちるまでは数秒だった。なので、家に着いて最後にミサとどんな言葉を交わしたのか、はっきりと覚えていない。
しかし、今朝は意外に早く目が覚めた。
目覚めた瞬間は昨日と同様に、部屋は静寂に包まれており、窓の外から朝を告げる小鳥の声だけがエレリアの耳に伝わってきていた。
「もう、朝か…」
何の気もなくエレリアは仰向けになったまま、正面を見つめた。
そこに見えるのは、古い木造の天井だけ。
昨日だったらまったく見覚えのなかったその天井も、今ははっきりと確かな記憶としてエレリアの頭の中にある。
ここは、ミサの家の二階にある小さな部屋。
大丈夫、忘れていないようだ。
こうして、エレリアは自身の記憶が無事に保持されているのを確認して、ほっと安堵の息を漏らした。
眠りから目覚める時が、エレリアは一番気がかりだった。
目が覚めて、また記憶を失っていたらどうしようか。
昨日の朝のように、見慣れない風景と共に目覚めを迎えることが、エレリアはトラウマになっていた。
記憶を失うということは、彼女にとって孤独になることと同義だった。そして、それは耐えうることのできない無情で残酷な現象だ。
現にエレリアは昨日の朝に加えて、夕方に見た夢の記憶も失っている。
自分がそういう記憶を失いやすい体質なのか、はたまた誰かが自分に仕組んだことなのか、真実は今のところ分からない。
だからこそ、目覚めた瞬間に過去の出来事を思い出せることがエレリアにはとても嬉しいことだった。それだけで、胸の内に希望が満ちる。確かな「今日」を生きていける。
そうして、快い気分でエレリアは今朝を迎えることができたのだった。
今さら二度寝するわけにもいかず、エレリアはベットから身体を起こした。
昨朝は身体が謎の倦怠感に包まれていたが、今日は特に異常はなかった。
「んんー」
エレリアは眠気を断つ意味も込めて、思いっきり背伸びをした。寝ぼけたままの全身の筋肉が締め上げられ、喉から声が漏れる。
そして、そのままベッドの外へ立ち上がり、すぐ側のカーテンを開き、窓の戸を開けた。
すると窓の外から、朝の冷気がゆっくりと部屋へ流れ込んで来た。
「はぁ、涼しい…」
エレリアは目を閉じて、その澄んだ冷たい空気を鼻で吸い込んだ。
木々と土壌を含んだ豊かな自然が生み出した匂い。
そして、この時エレリアは悟った。
どうやら今の時刻は朝は朝と言っても、早朝のようだ。
その証拠に目の前に広がる田園風景の中に人影はあまり見つけることはできず、太陽が昨日の夕方に沈んでいった反対の方向からうっすら頭を覗かせて、白い光を放っていた。
大地には薄い白い霧もかかっており、村は完全に「早朝」の世界に包まれていた。
しかしそんな時間帯でも、ちらほら農具を手に道を行く人も見受けられ、その熱心な仕事ぶりに感心させられた。
すると、エレリアの今いる家の一階の方から、何やら男女の仲睦まじい談笑が聞こえて来た。
恐らく、ミサとソウヤだろう。
もしかしたら二人より早く起きてしまったかもしれないとエレリアは先まで思っていたのだが、その心配は無用のようだった。
早起きなミサとソウヤ。昨日の朝も、二人はお互い仲の良い友のようにしゃべっていた。
「友達、か…」
昨日の朝、ミサが友達になってほしいと懇願してきた様子が目に浮かぶ。
友達、とは何なのか。エレリアは頭の中で、その二文字を反芻する。
お互いに信頼し合うことができる、それが友達。
共に笑い合うことができる、それが友達。
話題を共有することができる、それが友達。
言えない過去を打ち明けることができる、それが友達。
ミサはエレリアのことを完全に信頼しているようだが、対してエレリアはミサのことをどこまで信じているのだろうか。そんなことを、ふとエレリアは思ってしまった。
まだ、お互いが出会って日は浅い。
故に、まだ心のどこかでミサを信じきれていない自分をエレリアは感じていた。
もちろん、エレリアにはミサに対して伝えきれないほどの感謝の気持ちがあったし、返さなくてはならない借りもあった。
ただ、心のすべてを彼女と共有するには、もう少し時間が必要な気がした。出会ってからまだ1日しか経っていないので、当然のことではあるのだが。
とにかく、目覚めてずっとここにいても仕方なかったので、エレリアは二人のいる一階に下りることを決意した。
エレリアはゆっくりとした歩調で部屋を出て、階段を下りる。服は昨日と同じ、白いローブのままだ。
そして、階段を下りきり一階にたどり着くと、そこには昨日と似たような光景があった。
キッチンで作業しているミサと、食卓で何やら読書をしているソウヤ。今までと違う点で言えば、まだ食卓に料理が添えられていないところだ。
「…おはよう」
二人に気づいてもらうために、エレリアが二人に朝の挨拶を送る。
すると、最初に気がついたのは例のごとくソウヤだった。
「おう、もう起きてたのか」
ソウヤは読んでいた本を閉じて、エレリアに反応を示す。一体何の本を読んでいたのか、その時いたエレリアの位置からは判断できなかった。
「あっ、リアちゃん、おはよう」
続いてミサが作業する手を止めエレリアに向き直る。
「昨日はよく眠れた?」
「うん」
ミサの問いかけにエレリアはうなずいた。
「そっか、そっか、良かった。昨日は色々と大変だったもんねぇ」
ミサは笑みをこぼして、昨晩の寄合の様子を思い浮かべているようだ。
彼女につられて、エレリアも昨日の夜の様子を思い返す。
浮かんでくるのは夜の教会。
激しい討論の末、エレリアは何とかこの村で暮らすことを村長から正式に承認された。まだ村人が自分のことをどう思っているのか詳しいことは分からないが、とにかくエレリアはこの村で生活していくことができる。
すると、ソウヤも何かを思い出し様子でエレリアに話しかけた。
「おっ、そいえば聞いたぞエレリア。おまえ、あのカタブツじいさんたちからOKサインもらったんだってな」
「ちょっと、『カタブツじいさん』は言い過ぎでしょ」
すかさずミサがソウヤの発言に指摘を入れる。
「事実なんだから別にいいじゃねぇか。にしてもよ、良かったなエレリア。あのじいさんたちを説得させたなんてすごいことだぞ」
ソウヤが謎の称賛をエレリアに与えた。
一方的にソウヤから称えられエレリアはどうすることもできず、
「べつに私は何も説得はしてないんだけど…」
と低い小声で呟いた。
そして、ミサが口を開く。
「まぁ確かに、普通に考えたらすごいことだよね。でも、リアちゃんには特別な理由があったから許してもらえたんだよね」
「うん」
「おいおい、なんだよ、その特別な理由って。おまえ、何かやったのか?」
ソウヤが眉を寄せて、エレリアにその「特別な理由」とやらの真意を問いかける。
「えっと…」
突然のソウヤから問い詰められ、エレリアは一瞬声を詰まらせた。
「何だよ。もったいぶらずに教えてくれよ」
エレリアが困惑する間にも、興味津々な顔つきでソウヤは会話の距離を詰めてくる。
ちらとミサを見ると、彼女は再び調理場に向かい作業を再開しているようだった。
そんなミサに助けを認めるわけにもいかなかったので、エレリアは自分が彼に説明することを決心した。
「その…、これは村長さんから聞いた話なんだけど…」
エレリアが語り出すと、ソウヤも前のめりになって耳を向けた。
「私がこの村に来る前に、私に似た姿の人がこの近くの山にいたらしくて。それで、村長さんが山で怪我をして身動きが取れなくなっていた時に、その私に似た人が村長さんを助けてあげたらしいの。その時に村長さんは心変わりをして、私にだけ優しくしてくれたってこと」
あの晩、村長自身が語ってくれた真実を不器用ながらもエレリアは自分の口でソウヤに伝えた。
「…ふーん。なんかややこしい話だけど、そんなことがあったんだな」
エレリアからの説明を最後まで聞き終え、ソウヤが納得の意を込めて首を小さく振る。
「これで、分かった?」
「おう、大まかな内容は分かったよ。でもよ、一つ思ったんだけどよ、その『私に似た誰か』ってやつさ、本当はおまえのことを言ってるんじゃねぇのか?」
昨夜のミサと同等の発言がソウヤの口から飛び出る。
やはり、誰がこの話を聞いても同じ結論に至ってしまうのかとこの時エレリアは思った。
誤解されないために、村長と同じ言葉を用いてエレリアは反論する。
「いやでも、私とその人とは目の色が違うらしいの」
「目の色?なんだそれ」
ソウヤはエレリアの発した言葉を耳にして、怪訝そうに声を漏らす。
「村長さんが言うには、その私に似ていた人は青色の目をしていたんだって」
「青色の目、か…」
ソウヤは口に手を当てて、その謎の人物について心当たりを探っているようだった。
「私は赤い目をしてるみたいだから、その人とはまったくの別人ってわけ」
エレリアは村長の語った同様の理論でソウヤに説得を促した。これで納得してもらえるだろう。
しかし、次にソウヤから飛び出た言葉は意外なものだった。
「うーん。そいつがだれだが俺は知らないけど。でもやっぱり俺は、村長を助けた人っていうのはおまえなんじゃないかと思うぞ」
「え?」
話題の当人が自分だとソウヤから指摘され、エレリアは眉を寄せた。
ふざけて言っているのだろうか?
しかし彼の顔を見る限り、自分をからかっているような表情には見えない。至って真面目な面構えでエレリアを見つめている。
「目の色が違うとか今おまえは言ってたけど、それこそ目の色なんてアテになんねぇだろ」
「それって、どういう意味?」
ソウヤは雄弁とした物言いで口を動かす。
そんな彼の語る発言の真意を探るべく、エレリアは真剣にソウヤの主張に耳を傾けた。
「だってよ、おまえは海で気絶してたところを俺たちに拾われた後、何日もずっと眠ったまま起きなかったんだぞ。あんだけ寝たら、おまえの目もそりゃ赤くなるんじゃないのか?」
「何それ…」
ソウヤは至極真面目な顔つきでエレリアを見据えている。それもまるで、名推理を働いた後の探偵の如く、達成感に満ちた態度で。
しかし、彼の語る理論はあまりにも突飛で、とてもエレリアの瞳の色に関する真実には至っていない。
「じゃあ、私の目が赤いのは、寝すぎて充血したせいだって言いたいの?」
「まぁ、そういうことになるな」
自分が聞き間違えた可能性も考慮に入れエレリアはソウヤに彼の語った主張を聞き返したが、ソウヤの反応は何も変わらなかった。
そんな彼の態度に思わずエレリアは呆れてため息を吐いてしまった。
「おいおい、そんなに俺の意見が信じられねぇのか?」
落胆するエレリアの様子にソウヤが気づき、悪意のない純粋な表情を見せる。どうやら本当に彼は悪気はないようだ。だとしたらなんて常識観が欠落した人なんだ、とエレリアは心の中で独り言を吐いてしまった。
「まぁ、とにもかくにも、おまえがこのタイミングでこの村にやって来たのは、運が良かったってことだな」
気まずくなった空気を察して、ソウヤが話題を変えようと試みる。
「運が良かった…」
エレリアも彼の言葉を反芻し、改めて自分の所在について考え込んだ。
確かに彼の言うとおり、自分は運に恵まれている。自分と縁のない所で起きた出来事が結果として巡りめぐって今の自分に結び付いている。
これは失われた記憶と何か関係があるのだろうか。
エレリアはこの因果とも捉えることのできる不思議な運命に、ただ頭を抱えることしか選択肢は無かった。
「おまえはツイていた。もうこれしか言い様がねぇ」
ソウヤはイスの背もたれにふんぞり返り、尊大な態度を示して話を続ける。
「だってよ、もし青い目のやつが村長を助けるより早くおまえがこの村の来たと考えてみろ。
おまえに何の情けもない村長は問答無用でおまえを追い出すだろうな」
腕を組むソウヤはエレリアの私情に配慮する様子もないまま、さらに話を続ける。
「おまえは知らないと思うけどな、俺たちは何度も見てきたんだ。実際に、村から追い返された旅人たちを。そして俺たちは何度もそいつらを見送ってきた。もちろん、止めたい気持ちはあった。だけど、俺たちではどうすることもできなかった。個人の力ではあまりに無力だったんた。だから…」
ソウヤの顔つきが、神妙な表情になっていく。
きっと彼は最後の結論で「おまえは運が良かったんだ」と繰り返し言ってきた言葉を再び述べるつもりだったのだろう。
しかし、彼の最後の言葉は突然放たれた怒号によって中断された。
「ちょっと、止めてよ!その話!!」
いきなり誰かが声を荒らげて、近くにあったまな板に拳を思いっきり叩きつけた音が聞こえた。渇いた衝撃音が一瞬だけ部屋に響きわたる。
「え!?」
突然響きわたった叫び声と衝撃音に、エレリアは肩を跳ね上がらせた。
ソウヤも同じように驚いて腰を抜かしているような様子だ。
一体何が起こったのだろうか。
エレリアは急いで状況を把握しようと努める。分かっていることは、いきなり耳をつんざいた叫び声と謎の衝撃音だけ。
そして、エレリアは反射的に声のした方向へ視線を向けて、その怒号の張本人の正体が誰かを悟った。
ミサだ。
驚愕の表情を張り付けているエレリアとソウヤに対して、ミサは額に青筋を立ててソウヤを鋭い視線でにらみつけていた。
「ねぇ…、その話はもう二度としないでって言ったよね…!!」
「ち、ち、違うんだ、ミサ!!誤解だよ!!」
ミサの声が怒りで震えているのが分かった。
激情に濡れた鋭い視線がソウヤを刺し、口から荒い呼吸が漏れている。
そして、敵意むき出しのミサに、急いでまくしたてるようにソウヤが謝罪の言葉をかける。
「悪気はなかったんだ!!信じてくれ!!」
瞬く間に険悪な雰囲気に包まれる食卓。数秒前の穏やかな朝の食卓はもうどこかへ行ってしまったようだ。
「…」
この時のエレリアには、なぜミサがあれほど態度を荒くしたのか理由が分からなかった。
昨日は優しく慈母のように自分に接してくれていたミサ。
しかし、今の彼女の様子は明らかに激怒という名の感情に飲まれていた。彼女と出会ってまだ1日だが、こんな姿エレリアは見たことなかった。
何かソウヤの発した言葉が彼女の逆鱗に触れた。これくらいしか、彼女を豹変させた理由は見つからない。
とにかく突然のミサの怒号にエレリアは戸惑うばかりだった。
「本当にごめんよ、ミサ。そんなつもりで、言ったんじゃなかったんだ…」
ミサをなだめるため、ソウヤは慎重に言葉を選び口を動かす。
「せっかく…、せっかく、忘れかけてたのに…。なんで、また掘り起こすようなことするの!?」
ミサが再び、怒号を放つ。
よく見ると、彼女の目にはうっすらと光るものが浮かんでいた。それは、押さえきれなかった怒りと悲しみの涙のようにも見えた。
エレリアはこの時、ミサに辛い過去があるという事実を悟った。今の状況から推測して、間違いのないことだろう。
しかし、彼女の過去がどのようなものであるのかはまだ分からない。
焦りに背中を押されたソウヤが、そのまま席を立ち上がり、ミサのもとへ向かう。
そして、無言で彼女を抱き締めた。
その光景を前に、エレリアは少し疎外感を感じてしまった。自分がやってくる前、この二人はずっと共に暮らしてきたのだ。
エレリアには分からない、二人だけの絆。
こうして二人が寄り添いあっている姿を見ると、それが顕著に感じられる。
ソウヤから優しく腕を巻かれ、ミサは少しも抵抗することなく、しばらく言葉を失っていた。
「本当にごめん、心の底から謝るよミサ。俺としたことが、調子に乗っちまってた」
「…」
ソウヤはミサにだけ聞こえるような小さな声で、偽りなのない誠心誠意の謝罪の言葉をかけた。しかし、依然としてミサは表情を変えず唇を固く閉ざしたままだ。
「ミサ…」
閉じたまぶたから涙をこぼしているミサはどこか悲しみをこらえているようだった。その姿を遠くから見て、エレリアは心を痛めた。
昨日、友達になってほしいと笑顔で言ってきたミサ。そんな彼女は明るい性格の持ち主で、悩み事なんか微塵もないようにエレリアには感じられた。
しかし、それは間違いだと今気づかされた。
実際に、ミサは心に深い傷を負っていた。その傷が何の傷で、いつできたのか、今のエレリアには理解する術はない。
ただ、彼女は誰にも言えない傷を隠して、無理にふるまっていた。
自分に何かできることはないか。
昨日は自分が救われた。身寄りのない自分を家族のように温かく迎え入れてくれた。
だから、今度はこっちの番だ。借りた恩は返さなくてはならない。それがどんなに小さな形でもいい。相応の価値に見合わなくても、とにかく今は声をかけてあげることが最優先だ。
そして、いても立ってもいられなくなったエレリアは、気づけばミサの側に駆け寄っていた。
「ミサ、元気だして…」
肩を震わせ小さく泣き声を漏らしているミサに向かって、エレリアは優しく彼女の背中をさする。
前髪が目元を覆っていたので詳しく表情は分からなかったが、頬を涙が伝うのが見てとれた。
ソウヤに優しく抱擁され、ミサは怒りの感情を通り越し、悲しみの感情に沈んでいるようだった。
何も語ることなく、ただ悲しみに急き立てられるように嗚咽を漏らしている。
そして、抱き締めるソウヤの身体を、力強くミサも抱き締め返している。それは、孤独を経験した迷子の子供が二度と手放さまいと力強く母の身体を抱き締めるような図だった。
二人にしか分からない感情共有。
そこにエレリアの入り込む余地はなかったが、エレリアは何の気もなく少し後ろへ下がって、二人の様子を眺めていた。
ミサを抱きしめていたソウヤが、ふいに彼女の身体を少し解放する。
「ミサ。…本当に悪かった。これだけは何度謝っても許してもらえないかもしれない…」
ソウヤが再三の謝罪の態度を示した。そこから、彼の純粋な反省の意が伝わってくる。
「ただ、これだけは言わせてくれ。俺はおまえのことが好きだ。大好きだ。だから、愛する気持ちはずっと変わっていない」
ソウヤが気兼ねすることなく心中のすべてをさらけ出す。
はたから見ると男女の告白の場面みたいでエレリアは少し頬を熱くしてしまったが、そんな不純な考えを表情に出してしまうわけにもいかないので、必死に平静を装うのに努めた。
彼が口にしたのは、異性への好意を伝える言葉ではなく、家族としての親愛を示す言葉だ。決して他人が笑うことのできない、大切な愛の言葉。
たった二人だけだが、ミサとソウヤは紛れもなく家族だ。自分は偶然そこに居候させてもらっている同居人に過ぎない。
昨日の朝ミサが自身の過去を語ってくれていた時に、彼女はソウヤのことを「大切な家族の一員」と語っていた。実際に、二人の保護者でもあったおばあちゃんがいなくなった後は、二人だけで暮らしを共有してきたわけだ。
だから、たった一言の彼の失言で関係が崩れてしまうようには思えなかった。
長く生活を共にしていく中で、時折のいざこざは当然のことだろう。
今回は完全にソウヤが主犯ではあるが、彼の性格も人となりもミサは分かっているはずだ。
「本当に、ごめん…」
ソウヤが間を置いて、再び反省と謝罪の意を示す。ただ言葉の数は少ないものの、今までとは違う彼の誠心誠意の気持ちが重く凝縮して含まれていた。
しかし、まだミサからの言葉はない。
再び、気が重くなる空気が部屋に張り詰める。
エレリアはミサを見ると、彼女は静かに目を閉じて、悲しみを心の底へ沈み込ませるように深い呼吸をしていた。その姿は、自身で心の傷を修復しているようにも見えた。
本当に彼女の過去に何があったのだろうか。
これほどまでして彼女が泣き崩れさせる要因を、エレリアは想像することができなかった。
すると、ミサが
「…ふふ」
と、いきなり口から小さな笑い声をこぼした。
突然の彼女の笑みに、エレリアは思わず固唾を飲んだ。ソウヤも同じく、額に一筋の冷や汗を浮かべる。
彼女の表情は前髪が作り出した影でよく見えないが、口の端が少し緩んでいるのが分かった。
感情のゲージが振り切って、とうとう気がおかしくなってしまったのか。
予測不能の彼女の反応に、エレリアは少しだけ身構えてしまう。
そして、異様な空気に身体が固まっているソウヤとエレリアに対して、ついにミサが口を開いた。
「二人とも、ごめんなさい…」
これが、平常心を取り戻したミサの最初の言葉だった。
「なに感情的になっちゃってんだろ、私…。バカみたい」
悲しみで濡れた鼻の奥をすすりながら、ミサが渇いた笑みを漏らしている。
気づけば、ミサはいつもの彼女らしい笑顔を取り戻していた。涙で潤った目はまだ赤いままだったが、それでもミサは手で拭って気さくな表情を保とうとしていた。
「もう昔のことなのに、まだ引きずってた。やっぱり、忘れたくない思い出ほど忘れることはできないのかもね」
ミサは自嘲気味に笑い、片方の手を胸に添え、もう片方の手で潤った瞳を再び拭った。
今、ミサの口から飛び出した独白にも似た言葉。彼女が何か壮絶な過去を抱えていることはすでに間違いのないことなのだが、ただ詳しい真相はこの発言からは掴めなかった。
「だ、大丈夫なのか?ミサ」
ソウヤが機嫌を損なわないように恐る恐るミサに話しかける。
「うん。つい、あなたのあの言葉に反応しちゃって…」
ミサはいつもの彼女らしい笑顔を取り戻し、恥ずかしさ半分で呟く。
「そ、そうか…。その件に関しては本当に俺が悪かった。もう二度とあの言葉は言わないようにする」
彼女の心中を耳にし、ソウヤは発言の不注意を犯さない決意をその場で表明した。
「もう、びっくりしたよ、ミサ…」
次に、エレリアもミサの感情が落ち着いたのを確認して、体の中で張り詰めていた感情を吐き出すように口を開いた。
「リアちゃんも、ごめんね。なんだか、恥ずかしい姿見せちゃったな」
ミサが頬を赤くして、エレリアに向き直る。
その彼女の目には先ほどまでの怒りや悲しみの色は消え去っており、すでに感情の峠を通り越したようだった。これまでの気さくな彼女の姿が、今、目の前にいる。
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それほどミサには、触れてはならない危ない空気のようなものが渦巻いているようにエレリアには感じられた。ミサは笑顔でそれを隠しているが、逆に触れないでほしいと二人から遠ざけているようにも見えた。
「いつまでも過去を見続けていても、結局キズを広げるだけだし、答えなんてどこにもなかった。だから、もう、こんなくだらないことで怒らないって約束する。二人とも、本当にごめんなさい」
反省の言葉と共に、ミサが二人に向かって頭を下げる。
彼女の過去がどんなものかはエレリアには分からない。
そして、人は過去から逃れることはできない。人は己の過去と一生付き合って生きていかなければならない。
先ほど言ったミサの言い分からすると、きっと彼女は自身の辛い過去に自力で折り合いをつけようとしていたようだ。他人の手を借りず、一人で解決しようとしていたようだ。
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ただ、今ミサはここで過去への執着を断ち切ることを宣言した。長らく自身の意識に作用していた記憶から、思いを断つのは安易なことではないだろう。
それでも、ミサは確固とした決意を胸に、決断を下したのだ。
「ミサ、顔上げて」
すると、エレリアは頭を下げるミサの正面に立ち、優しく手を差し出した。
「リアちゃん…?」
エレリアから言われた通り、ミサは下げていた頭を上げた。目の前には、まっすぐな視線でこちらを見つめるエレリアの姿がある。
視線を合わせるだけで、思わず意識を奪われそうになるエレリアの赤い瞳。
ただ、ミサにはエレリアの考えていることが読み取れず、困惑の表情を顔に宿した。
「ミサが謝ることなんてないよ。ミサは何も悪くないし、一人で悲しむ必要も何もない。そうだよね?ソウヤ」
「お?う、うん、そうだな。ミサは何も悪くない」
いきなりエレリアから話を振られ、完全に油断していたソウヤは慌てて首を縦に振り、舌をまくしたてる。
「ミサの過去に何があったのかは、私には分からない。もしかしたらそれは、私が想像できないほどに悲しいものなのかもしれない。でもミサ、あなたはもう一人じゃないんだよ?ミサには、私とソウヤがいる」
エレリアの口から呟かれる一言一言が、静かに心に溶け込んでいくのがミサには分かった。
長い間抱え込んでいた心の傷が、エレリアの言葉で一瞬のうちに修復されていく。
これが友情の力なのか。
はたまた、愛の力なのか。
エレリアからの温もりを帯びた言葉で、ミサは再び自身の涙腺に熱いものを感じていた。それはさきほどまでの怒りや悲しみではない、別の何かの感情を宿していた。
「だからさ、あんなに泣かなくてもいいんだよ、ミサ」
エレリアがいまにも泣き出しそうなミサに向かって、口の両端を緩める。
微笑みを見せるエレリア、その表情にミサは毒気を抜かれた気分になった。
エレリアの性分は、恥ずかしがりやで人見知りだ。少なくとも、ミサはそう認識している。
だから、まだ出会って1日だけではあるのだが、彼女が笑顔を見せる姿をミサはあまり見かけなかった。
しかし、今ミサは正面から初めてエレリアの笑顔を目にすることができた。
そこに、照れや気後れは感じられない。
慰めの笑顔。
その整った顔立ちに浮かぶエレリアの微笑は、まるで天使の微笑みのようにミサには尊く感じられた。
「ミサだって、友達がずっと泣いてる姿を見るのは嫌でしょ?」
さらにエレリアから慈愛の眼差しを受けて、ミサは思わず言葉を詰まらせる。
エレリアの言っていることはすべて正論だ。だからこそ、何の疑いの余地もなく自然と受け入れることができる。
そしてこの時、ミサは自分が独りよがりの振る舞いをエレリアたちに押し付けていたことに気づかされた。
怒りのまま怒鳴り散らして、頭ごなしに泣きわめいて。
エレリアからの指摘を前に、ミサは初めて自らの愚行を反省した。
「そう、そうだよね…。全部、リアちゃんの言うとおりだよ…」
自身への情けなさと共に、ミサは思いのまま心中を吐き出した。
エレリアはすごい。
この時、ミサの脳裏にこんな言葉が浮かんだ。
そうエレリアは、たった数個の言葉だけで束縛されていた過去から自分を解放してくれた。自分を立ち直らせてくれた。
実際に、自身の顔に笑顔が戻っていることにミサは気がついた。
それは先ほどまでの愛想で偽っていたぎこちない笑顔とは違う。
心の底から作り出すことができる笑顔だ。
「それに、今回の件に関しては悪いのは全部ソウヤなんだから。嫌なことあったら全部、ソウヤにぶつければいいじゃん」
「おいおいおい、急に辛辣だな、エレリア!?」
いたずらな微笑と共に目を細めて、エレリアをソウヤを見やる。
「いや、でも、待てよ…。確かに、俺が悪いってのは事実だな…」
エレリアから視線を送られ、ソウヤはあごに手を添えた。
そして、
「よし、分かった!!ミサ、俺を殴れ!!」
しばし熟考する素振りを見せた後、覚悟を決めた様子でミサに立ち向かう。
きっと、彼は自身が殴られることでけじめをつけようとしたのだろう。
突然言い出された彼の決意に、ミサは少し気を呑まれながらも、
「いいよ、いいよ、ソウくん。その気持ちだけで私は嬉しい」
と、優しい口調で受け入れを断った。
そして、そのままミサはエレリアに向き直り、
「…ありがとう、リアちゃん」
と、固まりきっていた表情を崩し、感謝の意を口からこぼした。
「そうだ、ミサ。朝メシっていつできるのか?」
ふとソウヤが思い付いたような様子で口を開いた。
「まだ、できてはいないけど…」
「そうか。だったらさ、エレリア。朝メシを待つついでに、海にでも連れてってやろうか?」
ミサの返答を確認して、ソウヤがエレリアに一つの提案を持ちかけた。
「海?海、ってどこに行くつもりなの?」
彼の言葉の真意を掴めないエレリアは眉を寄せる。
「あの日、俺たちがおまえを見つけた海だよ。この村の森の奥の方にある、俺のプライベートビーチ。おまえも一度くらいは行ってみたいだろ?」
ソウヤはエレリアの心情を揺さぶらんと言葉を紡ぐ。
「うーん、どうしようかな…」
それでもエレリアは決断に迷いが生じていた。
ミサと二人ならまだしも、彼と二人きりで一緒に居続けられる気力が持つか、それが気がかりだった。先の彼との会話だけでも、エレリアは少々気疲れしていた。それなのに、二人だけでやっていけるのだろうか。
「もし、その海に行けばおまえの記憶にまつわる何かがあるかもしれないだぞ。なぁ、行ってみようぜ」
そう言われ、エレリアはソウヤを見ると、何やら彼は何か合図のような意味深なウィンクを送っていた。
その意図はエレリアには詳しく分からなかったが、とにかく彼が自分の意見に賛同してほしいということだけは悟ることができた。
「…うん、いいよ」
「よっしゃ。これで決まりだな。そういうわけでミサ、俺たちは海へ行ってくるぜ」
エレリアの賛同の意を込めたうなずきに、ソウヤが反応し、ミサに行き先を告げた。
「いいけど、朝ごはんができるころには帰ってきてね」
「おうおう、分かった分かった。じゃ、エレリア、さっそく出かけるか」
ソウヤがあれこれと勝手に話を進め、気つけば玄関で外出用の靴へ履き替えているところだった。
「まったく…」
エレリアは少々納得いかないため息をこぼし、仕方なく彼の後を追って行った。
「二人とも、気をつけてね」
海岸へ向かうソウヤとエレリアの背に、ミサが見届けるように手を振った。
こうして、二人は朝食ができるまでの間、海へ向かうこととなった。
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毎日更新していこうと思います
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よりみなさんにお近く
考えやすく
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
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リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
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