愛さずにはいられない

松澤 康廣

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マイ ファニー 

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 A4用紙50数枚。河井から受け取った日に読み終えた。
 読み方が間違っているかもしれない。河井の細君の言葉が読み方を変えた。
 どこかに「河井が泣かなければならない」理由が書かれているかもしれないと思った。しかし、それを探るには情報が不足しすぎていた。
 結婚当初にすでに河井は泣く理由があったのだ。当時、河井がどのような生活をしていたのか、まったく知る由もなかった。私と河井の関係はそのころ、絶えていたのだ。
 私はもう一度読み返した。今度は「河井の期待」にこたえるために読んだ。
 私は作品に描かれた「太田一族」について感想を求められているのだろうと思った。
 作品は幸田村に残る姥山伝説に対する疑問を解明する目的で書かれていた。そして、結論は伝説では、狂人「いと」に苦しめられた村人が協議のうえ(当然、草分けだった河井家がその中心だった)、毒殺したとなっているが、小説は、武田と北条の同盟関係が崩れ、相模国内の武田狩りに巻き込まれた幸田村(幸田村には甲斐出身者が多く存在した)の村人が武田側との疑いを晴らすため、やむなく「いと」を殺害するに至ったとされた。実際には、他村の男がいとを襲い、いとが自殺したことになっていたが、幸田村村民が襲うことを依頼したのだから、「幸田村」が殺したと同じだ。
「いと」とわが祖先、忠勝との関係についても、作品の解釈は正当性が十分あると思った。「太田家系譜」の矛盾が意図された矛盾であるとする解釈は同意見である。
 河井が私に求めている個所は最後のシーンであろう。山伏の涙を、大悟の涙と同じだ、と忠勝が思うシーンだ。
加害者を被害者と同じ苦しみを味わっているとして、許した……。間接的にいとを「殺害」した加害者である村民を忠勝は許すことを意味している……。この結論を「これでいいいのか」と河井は私に問いかけているのだろう。

 河井は今も400年以上昔に犯した、「河井家の罪」を負い目に思っているのか。それを「許してくれ」と私に求めているのか。
 そう思わなければならない根拠がどうしても私には理解できなかった。
 誰もが忘れていることだ。それを蒸し返すことで、だれが救われると言うのだ。少なくとも私にはどうでもいいことだ。救われたいのはどう考えても河井自身ということになる。私はどう応えればいいのか。「そんな昔のことは気にするな」そういえばいいのか。

 二度目を読み終えたとき、私はこの作品が前半と後半とで大きな違いがあることに気付いた。
 前半は河井家の一族や幸田村で起きた出来事が詳しく描かれているのに、後半には全く描かれていない。物語の中心が「いと」と忠勝に設定されているからであろうが、河井はなぜ、「いと」を殺害せざるを得なかった村人側の苦悩、その中心となった河井家の苦悩を僅か数行しか描かなかったのか。河井が被害者の側から描くことを選んだため、加害者の側の苦悩が描き切れていない。この小説の最大の山場なのに。加害者の側から描けば、いくらでも苦悩が描けたはずだ。そのほうが作品はより深くなったのに……。
 そのうちに、「若しかしたら河井は私にそれを託しているのでは……」と思うようになった。それは「太田家」が描くべきだと言っているように思えた。
 私は言うべき感想を漸く見つけた。そのとき、私は完全に河井由紀子の言葉を忘れていた。
てい
 約束通り、事前に河井に連絡した。てい10時にお願いします。こちらの準備もあるから、時間厳守でお願いするね。多少遅くなってもいいが、間違っても早く来ないでくれ。其のとき、妻は不在だと思うので、直接書斎にきてくれ」というのが、河井の返事だった。

 自転車の前かごに、河井の作品が入った封筒を投げ入れると、私はサンダルに力を込めた。白い無地のTシャツに短パンというラフな格好で河井家に向かった。
 
 蒼褪(あおざ)めた表情で書斎の前に由紀子は立っていた。手には封筒が握られていた。
「だめでした」と細君は言った。
「何が?」と私は言った。
「主人のことです。主人は死にました」と細君は言った。
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