愛さずにはいられない

松澤 康廣

文字の大きさ
上 下
48 / 67
マイ ファニー 

1(2)

しおりを挟む
 三増みませ峠に通じる愛川村の比較的まとまった集落のある道で、忠勝は青根隊と出会った。武田軍に加わるということだった。
 すでに10人ほどが加わっている。それに加勢するため、来たということだった。全部で8人だった。
「青根を必ず武田は通過する。だから、味方しないわけにはいかない」と隊の最後尾を歩く若者は言った。
 忠勝はその若者に事情を話した。どうしても甲斐に行きたい。そのために、青根隊の一員として武田軍に加わらせてもらえないか。
 若者は青根隊の中心と思われる、色の黒い、精悍せいかんな髭面の男に話を通してくれた。
「かまわない、と言っている。が、甲斐に行かれるかどうか。行きたい事情は分かるが、その理屈が武田に通用するかは分からない。それに……」と言って、間が空いた。言うのに戸惑いがあるのか、言いにくそうに男はそのあとの言葉を継いだ。「甲斐に行ったって、まともな生活はできない」

 その日は愛川村で野営をした。事情を話した若者と親しくなった。
 若者は青根の話をした。
 甲斐の兵が青根に侵入することはよくある。甲斐が飢饉だとね。村は焼かれ、女や子どもがさらわれた。村は話し合って、連れ去られた者たちを返してもらうよう、甲斐の殿様に頼みにいく。命に代えられないということで、銭や食糧、ありったけの財と交換をするという内容の書を使者に持たせてね。連れ去られたものの命には代えられないからね。使者の中には村を裏切って、甲斐の小山田様に仕えた者もいる。悲しい話だ」
「使者の家族、係累けいるいを殺せという者もいたが、殺さなかった。仲間だからな」
 忠勝も幸田村の話をした。小林大悟のこと、いとのこと。それが村を捨てる理由となったこと……。
 忠勝の話が終わると、
「大事なことは……」と若者は言った。
「何をするにしても、犠牲者は出さない、ということだ。お前の村は非情だな。お前の話を聞いて、大いに同情する」
 更に若者は思い出したように、微笑を浮かべて言った。
「さっきの話だがその使者は内紛に巻き込まれて甲斐を追放されたそうだ。裏切り者の末路はみじめなものだ」
「そいつは甲斐を追われる際にわけの分からないことを言ったそうだ。あらざらむことのみ多かりき」

 小田原に向かう武田軍を相模川で見てから8日後、青根隊にめぐり合ったその日に再び武田軍が現れた。
 忠勝と青根隊は三増峠に向かう箕輪みのわという場所で、武田軍を待った。
 赤い甲冑かっちゅうの騎馬隊が先頭だった。
 青根隊は、道に土下座して、隊の到着を待った。そして、髭面の男が「青根から来ました。何卒なにとぞ、部隊に参加させてください」と言った。
「ご苦労。誰か、この者たちを仲間のところに案内せい」と馬上の侍は言った。
 先に加わった青根隊は、山県軍が率いる小荷駄こにだ隊の中にいた。
 後から加わる、この青根隊もそこに編入された。
 一通り、再会を喜び合った末に、漸く忠勝は紹介された。小声で。
 そして、意外なことを知らされた。
「これから合戦が始まる」

 峠に向かう道から離れ、左手の沢伝いに歩き始めた。
 沢を越えると、そこは一面、背丈の低い枯れ草の続く、芝山だった。緩やかな傾斜の、その頂上付近のみ、数本の松があるだけだった。
 山県隊は左翼に布陣した。続々と武田軍が頂上付近に陣を構える。
 頂上の松のあたりに幟がたなびいた。大きな赤い幟だった。何本かの幟の中で、一際大きな、幅広の幟だけが黒だった。金糸で字が書かれているが、強い風に激しくなびき、読むことは困難だった。
 山県隊が運んでいた小荷駄は、浅利隊に廻された。そのため、青根隊は浅利隊に編入された。任務は荷駄と、荷駄を運ぶ馬群を守ることだった。小荷駄の守備隊は大所帯となった。その多くが青根隊と同じくこの近辺の部隊だった。
 一人でも戦闘に参加させたいのだろう、浅利隊はこの部隊にも長槍を持たせた。
 忠勝は周囲を見渡した。目の前は武田の兵が埋め尽くしている。見上げた後方の山の天辺てっぺん左翼に空間があった。そこは真紅の旗が立ち並んでいた。そこに信玄がいるにちがいない、と忠勝は思った。
 空には黒鳥が舞っていた。その数が少しずつ増えていった。
「陣を張ったからといって、合戦が始まるわけではないが、準備だけは怠るな」と小荷駄隊を率いる馬上の男が言った。

 静寂が続く。敵はまだ来ていないのだろう。
 来たとしても忠勝ら青根隊からはその姿は見えない。前方には浅利の騎馬隊が、そして目の前には足軽隊の長槍が林立し、視界をぬさいでいた。右も左も同様に兵ばかりである。青根隊を含む守備隊は最後尾に構えた。
 食料である小荷駄を守ることが最終の任務だが、差し当たっての任務は小荷駄を積んだ馬を大人しくさせることだ。戦闘が始まっても、動かず、馬群を囲んで馬が暴れないようにするのだ。
 これだけの兵に守られ、更に最後尾だから命の心配を忠勝はしなかった。

 左翼の赤い装束の一団が動き始めた。
 山県隊だ。先頭を進んでいた隊だ。
 退却が開始された。
 何事も起こらなかった。
 静かな退却だな、と忠勝は思った。
 しかし、不思議なことが起こった。後に続く部隊が一向に動かないのだ。いつまで経っても動かない。
 山県隊の移動は何だったのか。

 突然の発砲だった。
 前方の騎馬隊の何人かが落馬した。
 そのあと、豪華な装飾の甲冑をまとった武将が馬上から大脇差を抜いて高く掲げ、揺れ動く部隊に大声で何かを叫んでいた。それに続いて部隊が喚声で応えた。
「俺のあとに続け」とでも言ったのだろうか。長槍隊は一斉に槍で地面を何度も叩いた。

 火矢が飛んできた。長槍に当たって前方に落下した。
 煙が上がった。またたく間に前方は煙で何も見えなくなった。
 北条の作戦だった。駆け上がらなくてはならない北条隊がその不利を少しでも挽回ばんかいしようとして風上を利用して火を放った。
 馬が激しく動いた。
 敵が襲ってきた。激しく槍がぶつかり合う音が響いた。
 馬が何度も嘶(いなな)き飛び跳ねたので、忠勝は必死だった。他のみんなも同じで長槍を地面において、ひたすら手綱と格闘した。
 浅利隊は波のように動いた。前に押したかと思えば後ろに押し返された。
 日が頭上高くあがってもその状況は変わらなかった。勝っているのかも負けているのかも分からなかった。

 煙がようやく消え始めた。
 背後から馬群の音が聞こえた。小荷駄隊の馬ではない。
 赤い軍団が駆け抜けていった。退却したと思った、あの山県隊だった。
 それが合図だったかのように武田軍の攻勢が一気に広がった。浅利隊も一斉に山を駆け下りた。視界が開けた。
 青根隊は動く必要はない。
 その場に取り残された。兵はあらかた消えた。
 うめき、倒れた兵や馬が目の前にあった。

 戦闘が終わると、まだ息のある、傷ついた兵の治療が始まった。
 敵の兵の鼻を削(そ)ぐ者、くびを斬りとる者もいた。
 多くの兵が倒れた者の武具、衣類をいだ。
 急に闇が迫った。
 日が落ちたのではない。
 空が黒鳥で埋まっていた。
 屍体から人が離れ始めると、明るさが戻ってきた。
 黒鳥は次々と地上に降り、肉をついばみ始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。

四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……? どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、 「私と同棲してください!」 「要求が増えてますよ!」 意味のわからない同棲宣言をされてしまう。 とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。 中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。 無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

将棋部の眼鏡美少女を抱いた

junk
青春
将棋部の青春恋愛ストーリーです

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...