愛さずにはいられない

松澤 康廣

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この素晴らしき世界

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「武田は敵ではない」
 白髪交じりの、立派な顎鬚を生やした老人だった。偶然、通りかかっただけなのだろうが、私の言葉は捨て置けないと思ったに違いない。
「愛川村で武田側に加わった者もいたんだよ。ここには甲斐から来たものも甲斐へ行った者もたくさんいたんだ。だから、ここの人にとっては武田は敵ではないんだよ。北条と武田はずっと同盟を結んでいた。それが急に敵同士になった。愛川村にとっては理解できないことで、敵として戦うなどということはとても納得できないことだったろうと思う」
 老人は悲しげな顔になった。
「どういうことなんでしょうか。村は分裂して、仲間同士戦ったということなんでしょうか」
 私は努めて冷静に、ゆっくり言葉を継いだ。
  
「結果的にはそういうことになるが……。こんな話が残っている。戦いが終わって、武田の捕虜が処刑されることになるんだが、その中に何人か、あるいは十数人かの愛川村の者がいた。村人はこぞって助命を求めたそうだ。最終的には願いは叶わなかったが、処刑までには随分と時間がかかった。北条も今後のことを考え、随分と迷ったのかもしれない」
 長い会話となり、老人は私の隣の瓶箱に座った。私は少し腰を浮かせて、隣の武者に近づいた。武者も同様に動いた。
「たとえ敵同士になっても、愛川は一つだったということですね」武者がため息をつきながら、言った。私は仲間同士が戦うという、その悲惨さに思いは向かった。
「何しろ、この狭い平地に何千という死者が残されたんだ。北条側の死者は北条側が何とかしただろうが、武田側は無理だ。置いていくしかない。全て村が処理しなければならなかった。一体、どこに埋めたのだろう。どれだけ大変だったろう。その大変な作業を村にさせた責任を北条も無視できなかったのだろう。しかし、処刑はくつがえられなかった。北条としても、生かしておくわけにはいかなかったのが実際だったのだろうね。示しがつかないからね」
 私はこくりと頷いた。老人は満足そうに笑顔を見せた。しかし、すぐに再び悲しそうな顔で、言った。
「そのあと、再び武田と同盟関係が復活したのは知っているかい?」
「知っています。確か、数年で復活したんですよね。北条氏康が武田と再び同盟をするようにと遺言を残し、死後すぐに同盟が復活した」
「では、その期間、すなわち、武田との敵対関係は何年だったか知っているか?」
「正確には分かりませんが、ほんの数年だと思います……」と私は言った。
「たった3年だよ。納得できるかい。そのために、甲斐とずっと仲良くして、この地は甲斐と自由に行き来し、この地に甲斐の者が沢山移住しただけじゃない、この地の者も、特に女は甲斐に嫁に行った。甲斐の者、相模の者がお互いに助け合って、この地の人々は生きてきたのだ。それが突然、敵同士になる。果ては殺し合いまで起きた。この地の人は全く納得が出来なかったと思うよ。それに巻き込まれて、随分と辛いことがあったと思う。それがだよ、それが、たった3年で、仲直りだ。死んでいった人間は何のために死んだんだ。なんのために、みんな苦しんだんだ」
 隣から、嗚咽が漏れた。武者が泣いていた。
「あなたは、どこから来たんだい。君の村がこの近くだったら、君の村でもきっと同じか、それに近いことが起きていたと思うよ」
「私の村にも、戦国時代の古文書が残っていて、甲斐出身者が多い村ということが分かっています。そのことがどういう意味をもっていたのか、考えてもみませんでした。ありがとうございました」と私は言った。嘘だった。分かっていることを説明することに時間をとりたいとは思わなかった。
「そう。ぜひ、その古文書を見たいものだね。いやあ、実は私はこういう者でね」
 老人はそう言って、紺のジャージのズボンの右ポケットから、財布を取り出し、そこから名刺を1枚抜いた。そこには
 県央歴史研究会 理事  岩井 茂 と書かれていた。
 ありがとうございます、と言って受け取ると、私は「古文書については本市の市史に書かれているので、知っているだけで、本物を見たことはありません。本物が残っているのかどうか……。すみません、お役にたてなくて」と言った。嘘を重ねた。
「そうですか」そういうと、老人は立ち上がった。そして武者に声をかけた。
「立派に浅利を演じてください」
「ありがとうございます」と武者は言った。私もありがとうございますと言った。老人は、満足そうに何度も頷いて、そして、きびすを返した。が、すぐに振り返った。
「実はこの三増合戦のあとに、もう一つ合戦があったのだ。それも悲しい歴史だ。規模の小さい合戦だけど、それも知っておいた方がいいな」
「本当ですか。それを教えてください。私は甲斐との合戦を調べているんです。それで、ここに来たんです」私は間をおかず、一気に言った。早口になった。
 もう一つの合戦。若しかしたら、それが忠勝が参加した合戦かもしれないのだ。
日向薬師ひなたやくしの山伏たちが、退却する武田軍と津久井の青根というところで戦ったのだ。青根には、その合戦で戦死した法印(ほういん)の首塚が残っているよ。相模の修験者は皆北条の庇護(ひご)の下、神社の再建など、相当な援助を受けていたから、この北条の戦いに参加しないわけにはいかなかったのだろうね。そのうえ、山伏の中に武田の忍が入り込んでいて、北条に不信をかっていたから、戦果もあげる必要があったのだろう。だから、これも甲斐と相模の敵対が招いた憐(あわ)れな戦いだったと言えるね。でも、その戦いが津久井というのは、どういうことなのかね。いくらなんでも、遠すぎるというか……」
「その合戦には、山伏以外は参加していないのですか」山伏だけなら、忠勝が参加する可能性は無い。
「そうだと思うよ」と老人は言った。私は少しがっかりした。
「法印の首塚はここから遠いのですか」
「近くは無いが……。何度も山を越えていかなければならないからね」
「自転車なんですが……」と私は言った。
「自転車では無理だろう。若者だって、厳しいと思うよ」私の白髪交じりの頭を見ながら、老人は言った。
「どのくらいかかりますか」
「そうだな。がんばったとして」と、言って、老人は無言で私を暫く見た。そして言った。「2時間はかかるな」
「そうですか」私は落胆した表情で言った。が、気持ちは行くつもりになっていた。
「一応、そこに行く道を教えていただけませんか」と私は言って、四つ折にして無造作に突っ込んでいた「愛川町 観光マップ」をズボンのポケットから取り出した。ここに来る途中、立ち寄ったスーパーで、手に入れたものだ。
 老人は、無理だと思うけどねえ、と言いながら、手で、道をなぞった。しかし、その手はすぐに止まった。マップは三増峠を越えたあたりで尽きていた。老人は呆れた顔をして「ちょっと、待ってくれ」と言って、踵を返して受付に行った。そして、ボールペンのノックボタンをカシャカシャ押しながらすぐに戻ってきた。老人は三増峠からの道をマップにボールペンで書きながら説明した。
「65号線から412号に出て、そこから、ずっと国道413号線だ」
 そう言いながら、串川、青山、青野原と国道を表した黒い線の横に町の名前を書き込んだ。そして最後に「青根草木館」と老人は記した。
「アオネソウモクカンを越えたら、左へ行く道がある。そこからの道は、住民に聞いて行けばよい。法印の首塚はそこからそんなに遠くない。諏訪すわ神社の近くだ。でも、首塚と言っても説明の看板があるだけだよ」と、あきらかに止めたほうがいいと言いたそうな顔をして老人は言った。老人の書いた地図では、距離は不明確だが町の数から想像するとそれほど遠くないと私は思った。私は老人の思惑に反して一層前向きになった。
 もう一度、ここに来ることを考えれば、今日、そこに行ったほうがいい、と私は思った。ここに来て新たな有力な情報を得た。まだ、午前11時を少し越えた時刻だ。青根でも何か得られるかもしれない。
 私は老人にお辞儀をし、礼を述べ、三増を後にした。

 青根までの道は山中湖に通じる幹線道路で、よく整備されていて、交通量もそれなりにあった。坂さえなければ、快適な道だった。
 串川を越え、青山の信号で国道413号線に入った。ここまでは順調だった。
 そこからの道は厳しかった。アップダウンはあるが、大半は上り道だった。ゆるやかな坂だが、あまりにも長かった。
 何度も諦めかけた。どこまでも続く長い登り、短い下り、再びの長い登り。それが何度も繰り返された。
 ここが最高点と書かれた表示板を見て、漸く、諦めなくてよかったと思った。そこからほどなくして、目標の「青根草木館」に着いた。さらに、進むと、首塚に繋がる道との分岐点に、マウンテンバイクを横に置いた、休憩中の若者が二人いた。
「この道の先が青根ですよね」と私は聞いた。
「そうですよ。正確に言うと、ここらへんはみな青根ですが」と口のまわりから顎にかけて、無精ひげを蓄えた若者が答えた。
「法印の首塚がどこか分かりますか?」と私は聞いた。知るはずがないと思ったが、聞いて損はないとも思った。
予想通り、若者は知らないと言った。

「すぐ先を右に回ると諏訪神社に出ます。そこを越えると道が左右に分かれるから、そこを左に曲がってください。すぐに法印の首塚がある。われわれは、その向こうの山から降りてきたんですよ」
 重装備の登山スタイルの中年夫婦だった。
 法印の首塚のありかを尋ねると、即座に男の方が答えた。
「こんなところに看板がある。何だろうと思ってみたんですよ。法印の首塚って確かに書かれていました。注意してみていかないと見落としますよ」と男は続けた。
 若者と別れ、舗装されたばかりのようなアスファルトの道を、自転車を押しながら歩いた。道は再び左右に分かれた。どちらに行くべきか迷っていると、二人が右手の坂道から降りてきた。
 そのあと、首塚まで誰とも出会わなかった。休日だからなのか、商店も全て閉まっていて、これでは、迷っても道を聞くことが出来ない。まさか、誰にも会わないとは思いもしなかった。あの時、質問してよかったと思った。若者と同様にきっと知らないと言われると思ったのに……。
 バス停の先を右折すると、諏訪神社に出た。
 何本もの杉の大木が神社を囲んでいた。
 そこの手水ちょうず場で、首にかけていたタオルを濡らし何度も顔を拭き、また、渇いた喉を潤した。そして、ここに来る途中ですっかり空になった水筒を水で満たした。
 言われたとおり、法印の首塚は、諏訪神社の先の道を左に曲がって、すぐの草むらにあった。塗料が一部欠けた、古い案内板だった。
 戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える甲斐の武田信玄は、諸将に大軍をひきつれ小田原に北条氏を攻めた後、相模川沿いに北上し、三増みませ峠(愛川町と津久井町との境)を突破せんとする時、北条方もこれに大軍を備えて迎え撃ち、激しい戦闘が展開された。時は永禄12年(1569年)10月8日、世に言う「三増合戦」である。山岳戦になれた武田軍は、堅固なる北条方の陣営を突破して山王の瀬を渡り、甲府に無事帰還したのである。
 この日小田原北条氏の配下にあった日向薬師の山伏の一団は、甲州軍の一支隊の退路を遮断しゃだんせんとして、ここ駒入原にて戦闘を交えたが、奮戦も空しく日向薬師八大坊の、前大先達権大僧都勝快法印さきのだいせんだつごんのだいそうずしょうかいほういんを始めとしてこの地において討死をしたのである。村の人達は、討死した人達の霊を弔うべく若宮八幡宮として祭ったと伝えられている。八幡社は以前は離れた山の上にあったが、明治年間に諏訪神社の境内に安置されたと言われている。

 案内板には老人から聞いた以上の話は書かれていなかった。新たな情報としては、戦死した山伏たちを祭った八幡宮が諏訪神社にあるということだけだ。しかし、帰りに諏訪神社でそれを探したが、どの建物も八幡社ではなかった。結局、八幡社を見つけることはできなかった。
 期待した成果は得られないまま、諦めて、自転車にまたがろうとした時、諏訪神社とは道を挟んで真向かいにある商店の硝子戸が開いた。そこから、出てきた初老の男に唖然(あぜん)とした。相手も驚いていた。有り得ないと思った。出てきた男は河井壮夫だった。
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